6―4.狗鬼の子
光に目がくらみ、薄っすらと瞼を開いた。
僅かな時間で目が明るさに慣れるのと同時に、目の前には、またもや襖が現れる。今度は誰も自分の存在には気づいていないようだ。
音も立てずに襖に近づき、襖の間から中を覗く。哭士の目の前を、大柄な男が吹き飛んでいった。
「今、なんて言ったんだ?」
張りのある女の声。その声に視線を寄越すと、そこには先ほど別れを告げたばかりの、自分の母、さくらが、憤怒の形相を浮かべ、肩をいからせ立っていた。
傍らに立っている宗一郎が、さくらを制した。だが、さくらは宗一郎の腕を簡単に振り払う。
狗鬼のさくらと一般人の宗一郎。力の差は歴然だ。
「もう一回言ってみろ。その子が何だって?」
「貴女の子ですよ」
若い桐生だ。笑みは変わらず浮かべているが今の桐生とは全く違う、冷たい印象を受ける。
「私は子供を生んだ覚えはない」
さくらはキッと桐生を見返す。だが、桐生は怯まない。
「不妊治療を受けている貴女の卵子と、狗鬼の精子を受精させた子供です」
さくらの光彩が真っ赤に染まる。
「形だけで結構です。貴女の子供と認めて頂きたいのです」
「……何だって?」
「生まれた狗鬼はすべて本家に知らせなければならない。貴女の産んだ子供……早池峰家の狗鬼ということにして頂ければこの子供は救われるんです。さもなくば、この子供は本家に処分される事となるでしょう」
「勝手なことを言うな!」
宗一郎の制止を降り切り、さくらの手が桐生にのびる。さくらはそのまま桐生を壁に叩きつけ、今にも噛み付きそうな勢いで顔を近づけた。
「いきなり赤ん坊を目の前につれて来られて、生んだ覚えの無い子供を認めろといわれたって、出来るわけが無いだろう! こんな……こんなこと、許されるわけ……!」
その時だった。
赤ん坊の泣き声がその場にいる全員の耳に届いた。
泣くだけで精一杯の弱々しい、赤ん坊独特の柔らかい声だ。
桐生に向けられたさくらの手が止まる。目は見開かれ、赤ん坊を見つめている。
込められた力が抜け、吸い寄せられるようにさくらは赤ん坊の元に向かった。
恐る恐る、子供を抱き上げる。
強張っている顔に、ほんの僅か赤ん坊に対する慈愛の念がこめられた眼差しが向けられる。
さくらに抱き上げられた子供が泣きやんだ。まだ殆どのものを知覚しない、鈍い光を放つ赤ん坊の目とさくらの目が交わった。
「この子……目の色が」
両の目の色が違う。これだけでも、本家の厳しい目に晒される事になるだろう。
何も解らぬ無垢な目がさくらを映し出している。
「狗鬼同士の卵子と精子では通常受精しません。受精の実験過程で副作用が生じたのです。他の子はすべて死にました。生き残りはこれだけです」
さくらの目が鋭く桐生を見据える。殺気が部屋全体を包み込む。その空気を察したのか、さくらの腕の中の子供が再び泣き声をあげる。
しばらくの間、部屋には泣き声だけが響き渡っていた。
「……私の子ということにすれば、この子は助かるの?」
強い口調で釘を刺すさくら。えぇ、と桐生はそれに返す。
「……あんた達の為じゃない。この子の為だ。この子は、私が生んだ、私の子……。それで、いいんだね?」
さくらの目は、鋭く桐生を射抜いていた。
哭士は襖の隙間から目を離した。
この時間に干渉する必要はなさそうだった。
風景が溶けていく。何度目か分からぬ時間の旅は、まだ続けられようとしていた。