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6―2.母

 柔らかな産声が聞こえる。周囲を見渡した。

 明かりが何もない、暗い部屋だ。見覚えのある壁、障子、天井。ここは早池峰家の一室だった。


 突然、見覚えのある場所へと投げ込まれた哭士は狼狽えた。

 その間も絶えることなく、赤ん坊の泣き声が続いている。


 哭士の目の前にある襖の隙間からは、一本の明かりが洩れ、産声はそこから聞こえてくる。

 一歩、また一歩と哭士は吸い寄せられるように光の洩れる襖へと進んでいく。

 隙間から見えるのは、二人の人影だった。その姿を捉えようと襖へと近づいたその時だった。




そうさん、来たようだよ」

 女の声だ。襖に気配が近づいてくる。身を隠そうとした次の瞬間には、目の前の襖が開かれた。

 明かりが洩れている部屋の真ん中には布団が一枚。切れ長の目を持った、気の強そうな女が横たわっている。珠のような汗を額に浮かべながらも、女は静かに微笑み、哭士を見つめている。傍らには生まれたばかりの赤ん坊が柔らかく泣いている。



 開かれた襖の傍らには、男が一人、正座していた。ぴん、と伸びた背筋に、膝の上に綺麗に置かれた拳。一目見ただけで、育ちの良さが垣間見えるようだった。哭士が来ることを分かっていたような女に対し、男の方はというと、目を大きく開いて、驚いている様子が伺えた。

 部屋には、その二十代中ごろの男女と、泣き続けている赤ん坊の三人だけだった。部屋に入れず、哭士はその場に立ち尽くしていた。

「いらっしゃい。哭士」

 汗で張り付いた髪の毛を寄せながら、女は哭士に声をかけた。

 哭士には見覚えの無い女だった。



「何故、俺の名前を知っている」

 哭士の言葉に、女の笑みが深くなる。




「そりゃ、知っているよ。私は貴方の母親だからね」




 その言葉に、哭士は耳を疑う。

「突然の事で驚くだろう。私は、早池峰さくら。そこに座っているのが、早池峰 宗一郎。正真正銘、貴方の母親と父親」

 哭士は暫くの間、無言で二人を見つめ続けた。

「やっぱり、驚いてる」

 楽しそうに笑みを浮かべるさくら。

「でもね、時間が無いの哭士、もっとこっちへ。もっと顔を良く見せて頂戴」

 敷居を跨ぎ、哭士はさくらの傍らへと座り込んだ。



「ああ、こんなに小さな子が、ここまで立派になるんだね」

 さくらの手が哭士の頬へと伸びてくる。

 強張った体の力を抜き、さくらに頬を触れさせた。色把のものとはまた違う温もり、そして優しい手だった。目を細め、さくらを見つめる。


「いい男で安心したよ。流石、私と宗さんの息子だ」

 冗談めかして笑うさくら。その目の奥には、全ての真実を理解している深さが溢れていた。

「私はね、哭士。あんたを生む前に、【神】の中にいる茜から、これから起きること全てを教えられたんだ。あんたがここに来ることも、――この後、私たちが死ぬことも」

 傍らに座り込んでいる宗一郎が、ゆっくりと一度頷いた。自分の運命を全て受け入れているとでも言うようだった。



「自分が死ぬと分かっていて何故俺を……」

 生んだのか。それを聞きたかった。


 さくらから語られた言葉は、予想外で、そして単純だった。

「だって、悔しいじゃん」

「……は」

 哭士が唖然とする。

「【神】だかなんだか訳のわからん生き物に自分の運命を指図されたのが悔しかっただけ」

「……それだけか」

 思わず聞き返す。

「そう、それだけ」

 なんの衒いもなくさくらはにっこりと笑い返した。



 

「あんたは今まで、悔やんだかもしれないね。私達が死んだのは、自分の所為だって。でも、それは違う。私たちは、私たちの意志で、この運命を選んだんだ。むしろわがままを言ったのは私の方。宗さんまで巻き込んでしまった」

「何、振り回されるのはもう慣れてる」

 宗一郎の静かな声が、さくらの言葉に続く。




 ふい、とさくらが顔をあげ、何かに気付いたようだ。

「さあ、時間だ。奴がやってくる。あんたはもう、行きなさい」

 その言葉を聞き、哭士もあの煙草と酒の嫌な臭いのする男の気配が近づいてくるのを感じた。

 哭士の狗石を奪いに、克彦やつがやってくる。

 しかも、洞窟で感じた【神】の影響を受けた克彦の気配だった。

「危険だ。奴は……!」

 【神】の力が適合せず、【神】の時間の中を永遠に彷徨う存在になっていたのだ。この時代の克彦に反応したのだろう。

「あんたに戦う力は無いはずだよ。狗石を握りつぶしちまったんだから。さあ、宗さん」




 宗一郎が立ち上がり、哭士を引き上げた。さくらの言葉は悔しいが本当である。狗鬼ではない宗一郎に安安と力で負けてしまう。人外のものと戦う力は残っていない。

 哭士は宗一郎に向き直る。眉毛が下がった、寂しげな笑みを浮かべ、宗一郎は口を開く。

「父親らしい事は、何一つしてやれなかった。それだけが、心残りだ」

 宗一郎は哭士の肩を、ぽんと叩いた。

「うん、立派な体だ」

 顔には笑みが浮かんでいるが、やはりどこか侘しさが残っている。

「その強い体なら、これから出来る伴侶も、子供も守っていける。幸せに、いきなさい」

 

 宗一郎の言葉に、哭士はどんな表情かおを浮かべてよいのか分からず、「あぁ」と一言頷いた。

「じゃあな、哭士。あとは任せろ」

 背中をとん、と押された。そのまま周囲が黒に溶け込んでゆく。

「待て! 俺は……!」

 言いたい言葉が出てこない。だが、父親はわかっている、とでも言いたげに頷いた。

 硝子で隔たれてでもいるようだ。もう哭士は父と母がいるあの時間に干渉が出来ない。


 さくらは生まれたばかりの我が子を胸に抱き上半身を起こした。宗一郎がさくらの肩を抱え支える。

 二人の視線が交わる。握られている小さな小さな手を父と母の手が優しく包む。





――二人は、俺の狗石を使い、克彦やつを……。

 




 襖が開かれる。黒い靄を纏ったあの男がふらりと一歩踏み出す。【神】の抜け殻となった克彦が、哭士が生まれた時代の克彦と同調しているのだ。

 目は虚ろだが、さくらの胸元に抱かれている子供を捉えている。克彦に憑依した黒い影は石、石……と呟いている。


 宗一郎の妻を支える手に力が込められる。さくらは夫の胸へ頭を凭れかける。

 白くなる部屋、吹き荒れる吹雪。




 見えていた光景は段々とグレーになり、そして遠ざかり見えなくなった。






 あたりは静寂と暗闇に包まれた。

 目の前には、茜が佇んでいる。

「あの男が貴方の狗石に執着していたのは、あの時間に影と同期したからだったのね」

 茜が口を開く。

「影に大きな損傷を残した。でもまだ奴は死んでいない。貴方に関わる時間のどこかに逃げ込んだわ」

 両こぶしを握り締めた哭士は動けなかった。思考が追いつかない。




「……一体、俺はどうすればいい」

「それは誰にも分からない。でも……歩みを止めてはならない。この久遠の世界に囚われたくなければ」

 茜は静かに応える。

 目を伏せていた哭士は茜へと向き直った。

「……次へ」

 茜はゆっくりと頷いた。




 暗闇に発生した白い穴が哭士を飲み込んだ。





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