6―1.時間の歪み
水の中に沈んでゆくような浮遊感。地鳴りのような音が遠くから聞こえ、今までにないような安堵を覚える。
自分が上かも下かも分からない状態でそのまま揺蕩っていたい思いがあったが、目の前に気配を感じ、ゆっくりと瞼を押し上げた。
一人の女性が立っていた。
既視感を覚えたが、頭が働かない。しばらくの時間をかけて、哭士はようやく一言だけ言葉を発した。
「ここは」
言葉をひとつ発したことで、哭士の中に様々な情報が巡り始めた。
トレーラーを襲うGD、嵜ヶ濱村、洞窟、攫われた色把、クオウ、洛叉、能力の暴走
籠女の血、取那、友禅、宿り木、レキ、【神】、克彦、
そして、影。
【神】の能力に囚われ、色把を殺めそうになった哭士は自らの狗石を潰したはずだった。
哭士が漂っているこの場所は、勿論洞窟ではない。周囲は真っ暗でどこまで広がっているのかも分からない。何より、上下左右の概念が無いのだ。
目の前の女性は、哭士に対し逆さまになりながら、落ち着きを取り戻した哭士へ語った。
「ここは、あなたたちが【神】と呼ぶものの世界と、私たちの世界の狭間。私たちが生きている場所とは全く違うもの。だから、貴方の時間も今は止まっている。命を落とすその瞬間に、この空間へと引き寄せられた」
鈴の音のような透き通った声だった。
「私は茜。【神】の身体の媒体となったもの。長い長い時間の中で【神】は人を知り、知恵を身につけた。だから、私が【神】の代わりにお話します」
色把がかつて語った、夢の中の人物だった。仁の姉、茜。
予見の力を持ち、治癒の力を得、やがて最初の【神】となった人物だった。
哭士の思考とは別に、茜は言葉を続けた。
「貴方の身体に入ってきた【神】とよばれる影、それは私たちが「時間」として知覚するものの中に生きているものです。決して私たちが生きている世界とは交わることのないはずだった。この暗闇を見てわかるように、光の下では生きていけないから。でも、あるとき影は私たちの世界へと落ちてしまった」
茜は周囲を目で指した。哭士も茜の視線に合わせて見渡す。
不思議と落ち着くこの空間に、ずいぶんと忘れていた安堵が身体を満たしていくのを感じる。
母親の胎内とは、このような感じなのかもしれない、と僅かに頭によぎった。
茜と哭士は、ゆっくりと空間を回る。
「影に名称はありません。今は貴方たちがそう呼んでいた【神】と、そう言わせてもらいます。
本当はそのまま死ぬはずだった【神】は、元の世界に似ているものを見つけた。それが、生き物の体内だった」
哭士の視線が上がった。絶え間なく続く地響きのような音がやけに大きく聞こえ出した。
「影は生き物の身体に逃げ込むことで、生き延びた。元の世界に戻るには弱り果てた身体を癒すために食事をする必要があった」
食事、おそらく、ヒトの血だったのだろう。
「でも、食事をしても満たされない。だからより効率の良い方法を考えた。……種を蒔き、刈ることを」
【神】によって、より効率の良い血をもつ人間。それが籠女だったのだ。
「……そして、多くの籠女を刈れるように、影は自らの分身を放った。それが影鬼。力の弱い分身もまた、暗闇の中でしか生きられない」
だから、影鬼は籠女の血を求め襲い掛かるのだ。
「しかし、刈られてばかりの籠女は、本能から自分を守る牙をうみだした」
「……」
茜の目が哭士へと向く。
レキも語っていた。籠女から生み出された、嘯く羊。それが狗鬼であると。
こうして、籠女を狩る影鬼、影鬼を狩る狗鬼、狗鬼を癒す籠女の三者の関係が出来上がったのだ。
「影は焦った。籠女を刈れなくなっては元の世界へ帰れなくなる。影は弱った力で、狗鬼に不完全な二つの制約をかけた」
哭士の眉間に小さく皺が寄る。
「二つの制約。『寿命』と『狗石』」
哭士の心中に、言い現し難い感情が渦巻く。
「狗鬼は一八年で命を落とし、狗石により自分の命と身体の自由を常にむき出しにされる危険を負う事になった」
【神】と狗鬼のかかわり。
かけられた制約は水に投げ込まれた石のように波紋を生み、様々な狗鬼の人生に影響を与えてきただろう。
哭士も、またその中の一人だった。
「それきり、影は長い眠りについた。分身に血を集めさせ、籠女を狩った。そして力が戻りつつあったその時、予期せぬ事態が起こった」
予期せぬ事態、に哭士は首を僅かだけ傾げた。
「克彦の事か」
【神】を手中にせんとする者たちの存在。【神】の存在を脅かしに掛かっていたのだ。予期せぬ事態に違いない。
だが、茜の返答は違っていた。
ゆっくりと頭を振る。
「いいえ。違います。予期せぬ事態、それは、時間の歪み」
更なる不可解な返答。哭士は茜の言葉を待つことにした。
「過去から未来へと流れゆく時間に、一箇所の歪みが生じていた。それが邪魔をして、【神】は帰れない。原因はわかっていた。それが、貴方」
思いもよらぬ茜の言葉に、哭士の目が見開かれた。
「……俺、だと?」
――氷の仔を産んだとき、お前は死ぬ
何故かふと、予言の言葉が頭をよぎった。哭士の考えを見透かしたかのように、茜は語り出す。
「本当は貴方は生まれないはずだった。神の言葉に屈し、貴方の母親は子を成すことを辞めるはずだった。でも貴方は生まれ出た。この世界に」
「……」
茜の瞳を見つめ続ける。凛とした表情は、それでも揺るがない。
「時間をすべて掌握しているはずの【神】も、時間の歪みが生じてからはもう先が分からなくなった。時間が歪んだことで【神】も未来が見えなくなった」
「……俺は何もしていない」
「そう、今の貴方は」
茜の言わんとしていることがもう分からない。
「もう、誰にも、どうすることも出来ない。この歪みがすべて過去に流れゆくまでは。だから、【神】は待つことにした」
周囲の空気が変わった。ふわりと、哭士の足に床が生まれた。
「貴方は行かなければならない。この生まれてしまった悲劇を終わらせるために」
足元に白い穴が穿たれる。徐々にそれは広がっていき、哭士の身体をゆっくりと飲み込み始めた。
不思議と恐怖は無い。
「一体、何を……!」
「必ず、貴方に関わるものに答えはあるの」
茜の声が遠ざかる。
「過去を歩み、旅をして、歪みを……」
茜の声はそこで途切れた。