5―29.哭士
「狗鬼の身体に……入り込むだと……!! 馬鹿な……!!」
レキが声を荒らげる。今までに無い乱れた表情だった。
もう数秒で、影は消えていただろう。だが、追い詰められた影は、最も忌み嫌う狗鬼の中へともぐりこんだ。
「こんなこと、有り得ない……! 何が起きるか、分からぬぞ……」
今までに聞いたことも無いような、哭士の喉から響き渡る苦痛の叫びに思わず色把は耳を塞いだ。
黒い影は、哭士の背中まで突き出し、激しくのたうちながら侵食を始めている。
苦しみ悶えながら、わが身に侵入してくる異物を取り払おうとするが、哭士の指は、自身の身体だけを傷付け、爪はただひたすら、身体に線を引く。
狂いたった獣の様に地面に崩れ付し、地面に深く指を突き立てる。硬い岩石で覆われている地面が、音を立てて割れていく。
「哭士!」
菊塵が叫ぶ。だが哭士には誰の言葉も届かない。自身の身を侵食する苦痛に喘ぐのみであった。
永遠のようにも思われた哭士の叫び声が、突如として止んだ。
吐き出される、唸り声にも似た吐息。
ゆっくりと立ち上がる、先ほどまで、苦しんでいた姿が嘘だったかのように。
『哭……士?』
色把の瞳が捉えた一つの人影。
それは、哭士であって、哭士ではなかった。感情が高ぶった時だけ真紅に染まる虹彩が今も燃えるように紅い。
だが、その瞳に強い意志は無く、ただ冷静に色把達を見つめている。
そして、一番に目を引いたのが、哭士の背後に広がっている――
「はは……、早池峰……何だよその姿……」
異常なまでに伸びた髪の毛だった。
哭士が喉を鳴らし大きく息を吸い込む。
周囲に白い欠片が舞い散る事に気づいたのは菊塵だった。
「ユーリ! 全員を空気の壁で囲ってください!」
苑司と取那を自身の近くへ引き寄せた菊塵が鋭く叫ぶ。
「早く!」
菊塵の剣幕に圧倒されながらも、ユーリは全員の周囲を半球で囲い、外気と遮断する。
「いきなりどうしたんだよ!」
珍しく菊塵の表情に焦りが見える。
「見たでしょう。力の暴走時の、あの威力を」
今の哭士は、自制心を失っている状態だ。何が起きても不思議ではない。
「何とか統制しようと抗って、部屋一つ分です。今の哭士が本気を出せば、この空間……いや、洞窟内全てを凍りつかせることが出来るかもしれない」
「だからって今の早池峰が……」
ユーリが口を開いた、その瞬間だった。
「!!」
ユーリが生み出した半球状の壁の外が一瞬にして真っ白に染まる。
「これは……!?」
壁の一部に張り付いていたのは霜だった。ユーリが周囲の空気の壁を解除すると、上から霜が降り注ぐ。
黒い岩石で覆われていた洞窟内は、一瞬にして白い世界へと変わっていた。その中心にただ一人立つ、獣のような人間。
ざらりと、視界の端で白い塊が動いた。
塊が動くと、白い氷の粒が地面へと落ち、中から一人の人間が姿を現す。レキだ。
「まさか【神】の力を与えられた狗が……。まさか、これほどまでの力を持つとは」
いくら不死身といえど、身体の組織が損傷しているのだろう。レキの顔には苦痛の表情が浮かんでいる。
大きな影が目の端で揺れる。鬼神と化した哭士だった。
その場にいて哭士の動きを追えた者は居なかった。
「……!」
レキも同様だったらしい。いとも簡単に地面に突き倒される。次の瞬間には、倒れたレキの上に哭士が覆い被さるような状態になっていた。
哭士の下から逃れようとするレキであったが、哭士は長く爪が伸びた左手で、レキの首を掴み上げた。
レキの左腕を鷲づかみにする。
哭士の口が大きく開かれた。笑った口からは、鋭く伸びた牙が覗く。
次の瞬間、哭士はレキの腕を掴んだ右手を一気に横へ引いた。
繊維の千切れる耳障りな音が同時に響き、レキは悲鳴にも似た声を張り上げた。たまらず色把は耳を塞いだ。
横に伸ばした哭士の手には、レキの左腕が下がっている。無造作に地面に放られた左手は、衝撃でピクピクと蠢いている。
クッと喉の奥が鳴る。口の端が横に引かれ牙が覗く。
「遊んでいやがる……」
本家で見た紅い狗とは比較にならないほど、その場に居る狗鬼達の恐怖の本能を揺さぶった。心臓が激しく波打ち、抑えても身体が震える。
―― 哭士に、殺される。
かつて共に戦った仲間が、自分たちの命を圧倒的な力で握り潰そうとしている。
レキですら、いとも簡単に翻弄されてしまうのだ。
これから向かってくるであろう哭士を止めることなど出来るわけがない。
「なんで……なんでこうなっちまうんだよ……! あのオッサンは自在に【神】の力を操ってたじゃねえか……!」
ユーリの顔面は蒼白だ。
「克彦様は……【神】と身体がなじんでいなかったのだ。【神】を支配しているかのように見せ掛け、内側から喰っていた」
腕が無くなった左肩を押さえ、レキは立ち上がろうとしている。
不死ではあるが痛覚はあるらしい。
「【神】と狗鬼……相反する二つの存在が合わさり、『奴』が、生まれた」
よろよろと立ち上がったレキの身体が横から攫われた。
岩壁が突き崩される。硬い岩盤はいとも簡単にレキと哭士ごと崩れ、空間内をゆるがせた。
岩の瓦礫の中、立ち上がったのは哭士だけだった。
哭士の顔が菊塵へと向いた。見慣れた哭士の目ではない。哭士の身体を乗っ取った神の力だった。
吸い込まれるような深い闇を湛えている。菊塵の身体は小刻みに震えていた。
その瞳に映し出されるだけで、狗鬼は畏れ、身体が硬直してしまう。
それでも菊塵は、相棒に向かって言葉を発した。
「お前……そのまま色把さんにも手をかける気か……!」
菊塵の言葉が皮肉にも合図となった。目にも留まらぬ速さで、哭士は菊塵の前へと迫り、菊塵の首を掴み上げた。
簡単に浮き上がる菊塵の身体。
それでも、僅かな抵抗とばかりに菊塵は哭士の腕を掴み上げる。
腕の太さは今までの哭士と変わらない。だがまるで大木を掴み上げるような威圧感を覚えた。
ぐぐ、と哭士の手に力が込められた。
ほんの僅かに動かされた指が、菊塵の頚部を深く締め上げる。
菊塵の目が紅く光った。
自身の足元に、銃弾を数発放つ。弾は空間を反射し、哭士の背中に突き刺さった。
だが、哭士は僅かに眉を動かしただけだった。
菊塵の身体が瞬間的に浮遊した。頚部を掴んだまま菊塵を地面へと叩きつけた。
空間が崩れ落ちてくるのではないかと思うほど振動。菊塵を中心に地面が窪んだ。
「こ……くし……!」
身体を動かすことも出来ない。
菊塵は相棒の名を呼ぶ。
だが、哭士は首を傾けたまま、ただ菊塵の姿を瞳に映すだけだった。
また、哭士は菊塵を掴み上げた。
簡単に放り投げられる菊塵の身体。
クオウが戦った跡の水たまりに、高い水しぶきを上げて菊塵の身体は落ちていった。
突如、クオウの傍らに立っていた色把が駆け出す。
「色把さん!」
予想もしていなかった色把の行動に、制止しようと掴もうとした色把の腕はするりと抜けていった。
圧倒的な力に、籠女である色把はどうすることもできないはずである。
だが、色把に向かって構えられた哭士の腕が止まった。
「……そうか……! 狗石!」
色把は哭士の狗石を持っている。胸元から掛けている狗石を入れた匂い袋ごと握り締め、色把は哭士へと一直線に駆け出した。
※
すべては、この手の中にある狗石に委ねられた。自身を守るのは哭士が自分へ託した狗石だけなのだ。
自身一人の手でどうにかなるものではないことは知っている。それでも色把は、変わり果ててしまった哭士の胸元へと飛び込んだ。
『やめて、もう止めて! ……哭士……』
哭士は、喉の奥で唸り声を上げている。だが、色把の姿に目を見開き、床に根を張ったように微動だにしない。狗石の命令が効いているのだ。
苦痛の吠え声を上げ色把を引き剥がそうと手を振りかざす。
だが、その手は、なかなか色把に振り下ろされない。哭士と狗石の力が、神に抗っているのだ。
哭士は苦しげに唸る。
だが、神の力が僅かに勝り、紅い目が光を失う。
「色把さん!」
哭士と色把の間にクオウが滑り込む。クオウが床に叩きつけられた次の瞬間、既に目の前に哭士が迫っていた。
「哭士兄……」
一瞬で闘争心が萎えてしまう。萎縮する身体、抗うことなど不可能だと本能が告げている。
振り下ろされた手のひらが迫る。渾身の力を込め、クオウは咄嗟に首をひねり避ける。遅れてやってきたのはとてつもない衝撃。
耳の横で爆ぜる岩と共に身体もろとも吹き飛ばされた。
「クオウ!」
ユーリの叫び声は崩れ落ちる壁にかき消された。
色把の胸元から、首から提げていた小さな袋がこぼれ落ちる。
「早池峰ェェ!」
ユーリが哭士を叫ぶ。憤怒の表情を浮かべ、哭士に向かって牙を剥き出した。
ちらり、とユーリに視線を寄越すが、色把を標的に定めたらしい。
「てめェ! 目ぇ覚ましやがれ!」
ユーリが色把を救わんと、哭士に向かって飛び掛る。
「!!」
だが、哭士の紅い双眸と目が合い、ユーリの背筋が一瞬にして凍りつく。光の差さない、人間を超越した神の目。
今までに感じたことのない恐怖にユーリの反応が僅かに遅れた。同時に哭士の姿が視界から消えた。
次の瞬間には、ユーリの身体は宙を舞い、岩壁に叩きつけられた。崩れる岩壁に埋もれたユーリは、その余りにも激しい衝撃に、身動き一つ取れなかった。
「何て力だよ……! 畜生……!」
吹き飛ばしたユーリには一瞥もしない。
哭士の目が細められ、色把に向かって手が振り上げられる。
振り上げられた圧だけで、色把の身体はいとも簡単に突き倒された。
地面に仰向けになったまま色把は、今までに見せた事が無いような冷酷な表情の哭士を見つめていた。
「こくし……」
色把の唇が、名を刻む。
その口から『声』が、発せられた。
あまりにも小さく、そしてかすれたその声は、それでもその場に居る者全ての耳へと届けられた。
哭士の目がピクリと反応する。だがその反応も僅かな時間だった。
同時に哭士の腕は色把に向かって真直ぐに振り下ろされたのだった。
時間が止まったかのように静まり返った空間に、
パキリ、と乾いた音が、やけに大きく響いた。
「……これで、いい」
哭士の声だった。
色把が顔を上げる。向かい合ったその顔は、苦痛に歪んでいながらも口元には笑みが宿っていた。
自身の行ったことに悔いは無い。そう、言っているように思えた。
色把の上に倒れこむ大きな身体。急速に失われていく体温。感じられるはずの強い鼓動が、ない。
『嘘……でしょう……』
目の当たりにした現実を認めてしまいたくなかった。自身の上で身動き一つ取らない大切な者の身体を、色把は力の限り抱きしめた。
大きく哭士の首が落ちる。呼吸の音は、聞こえない。
色把の心をを支えていた大きな何かが、一瞬にして崩れていく。
色把の身体がわなわなと震える。
哭士が、死ぬ?
信じられない。あんなに熱い体温を持っていたのに、あんなに強い力を持っていたのに。
今、自分の身体に覆い被さる体は、だらりと力なく、そして冷たい。
「哭士!」
水から這い出た菊塵がようやく二人の元へとたどり着く。哭士の肩に手を掛け、身体を仰向けにする。
「……狗石を……自分の手で割ったのか……」
色把は菊塵の言葉で全てを理解した。色把の大切な人は自身の命を、その手で握りつぶしたのだ、と。
自分を、守る為に。
倒れた哭士の顔は青白く、安らかだった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。そしてお疲れ様でした。第五部、終了です。
当初、嘯く羊は五部立ての予定でしたが、話の進行度合いから、章分けをした方が良いと思い急遽ここで一旦終了とさせて頂きます。
次は六部。今度こそ最終です。引き続きお付き合いくだされば幸いです。