5―26.レキとクオウ
クオウは、レキの手を掴んだ。
他の狗鬼の力でも微動だにしなかったレキの手が、震えながらもクオウの力により動かされていく。
歯を噛み締め、レキの腕ごと押し返す。
僅かにレキが動揺する。バランスを崩した所を、更に地面を操り、硬い岩盤へと叩き付けた。
相当な衝撃が加わったはずだが、レキは表情を変えない。
「御代をまだ生かしておくべきだったか」
クオウを操れたのは、洛叉の他には御代のみらしい。
「もう、あの声は聞こえない……! 友兄は俺に足りないものをくれた!!」
クオウの声と共に、水に飲み込まれる二人。上か下かも分からないまま、もみ合い、水の中を転げる。
流石に息が続かなくなり、レキはクオウを蹴り、拘束から逃れた。
空気を求めて水から顔を出すと、そこへすかさず焔が襲う。すんでのところで避けるレキ。
大量の水が瞬時に引く。取り残されたレキに、クオウが獣のように飛び掛る。
友禅の狗石を得たクオウの動きに無駄は無い。
レキの腕を避け、クオウはレキの懐へと潜り込んだ。
渾身の一撃を放とうと力を込める。
だが、それを簡単に許すレキではない。クオウの腕を掴み、地面へと投げつける。
クオウは空中で回転し地面を強く蹴って、レキへと再び襲い掛かる。
時間にして僅か数秒。
通常の狗鬼には決して追いつけぬ速さだ。
クオウが拳を振りかざす。
それを受け止めるレキ。ただ、それだけのことなのに、凄まじい勢いで空気が揺れる。
哭士の目の前の小石が、カタカタと音を立てて震えた。
今のレキは嘘に塗れた笑みを浮かべてもいない。硝子が張り付いたような無表情でもない。
同等の力をぶつけられ、流石にレキにも余裕が無くなっているらしい。
ちらりと、レキの目が克彦を捉えた。
「克彦様!」
レキとクオウの戦いを、ただ傍観していた克彦が、レキの声に片眉を上げた。
「いいのか? 俺が器を殺しちまって。とんでもねえ有様になるかもしれねえぞ」
力の御し方をまだ知らぬ克彦は、それでも楽しげだ。
克彦に視線を向けられた取那は座り込んだまま身を強張らせ後ずさった。
恐怖で呼吸が乱れている。声も出すことが出来ないらしい。
ユーリが僅かに身体を上げた。だが、取那を助けるには程遠い。
「出来るだけ苦しまないようにしてやるよ。……出来るだけ、な」
一歩、また一歩と取那との距離を詰める克彦。
「あぁ、その顔、いいな。恐怖に染まりきったその顔だよ。たまらねぇな」
克彦が取那の前にしゃがみこんだ、その時だった。
突如、克彦の足元から水が噴出した。
膜を張った丸みを帯びた水は、生き物のように克彦の身体を這い上がり始めた。
「……アァ!?」
勢いも無い唯の水は、手で払っても払っても形を変え、粘菌のようにゆっくりと上っていく。
「クソ、何だって……!」
苛立たしげに足を振る。水滴が周囲へと撒き散らされるが、それでも後から後から、水が克彦に吸い寄せられていくようだった。
「!!」
ついに、水は克彦の口と、鼻へと到達した。
ごぼ、と吐き出す空気が泡を作る。それでも、水は克彦の口元に張り付いたままだ。
徐々に、克彦の顔に焦りが見え始める。顔を振ろうが、袖で拭おうが、水は克彦から離れない。
そして、焦れば焦るほど酸素が欠乏していく。
克彦は身体を折り曲げ、苦しみ悶えている。溺れているのだ。
だが、【神】の力を得た克彦は、窒息しただけでは死ぬことは無い。苦しみだけが、延々と克彦に与えられ続ける。
クオウの目が、紅く光っていた。
「貴方達は、死なないんじゃない。『死ねない』んだろ?」
クオウの冷徹な目が、克彦とレキを映し出した。
※
『……哭士』
哭士の左腕から温かいものが広がる。クオウがレキと戦っている間に、色把は菊塵とユーリにも治療を施してきたらしい。微動だにしなかった菊塵が、大きく息を吐き出しているのが見えた。
だが、あまりにも大きな負傷に、菊塵もユーリもすぐに動くことは出来そうになかった。籠女の血が徐々になじめば、立ち上がることが出来るようになるだろう。
その間にも、色把の血はじわじわと哭士の身体を巡り、傷を癒していく。
他の狗鬼より治癒力の高い哭士は、ゆっくりと身体を起こした。
安堵の表情を見せる色把。その手は小さく震えていた。
「……俺から、もう離れるな」
哭士はまっすぐに色把を見据えた
「生きて、帰る。俺たちも、取那もだ」
当の色把は目を丸くしたが、ひとつ、大きく頷いた。