5―19.血の重さとは
時間は少し前に遡る。
哭士は取那を抱え上げながら、一本の道を戻り続けていた。
おそらく、途中にあった分かれ道。そちらが【神】へと続く道だと哭士は確信していた。
「噛みなさい」
時折、身体を傾がせる満身創痍の哭士の姿を見かね、取那が哭士の口の前に腕を差し出す。
その慣れた所作に、少しだけ戸惑う。
「……何よ。早くしなさいよ」
その哭士の様子に取那まで僅かにうろたえる。
哭士は恐る恐るといった様子で取那の腕に噛みつき、血を嚥下した。踏み出すたびに痛んでいた身体からゆっくりと傷が消えていく。
「狗鬼なら喜んで血を欲しがるのに。貴方おかしいわ」
「……籠女の血の治癒に、慣れていない。俺に籠女は居ないからな」
身体が傷つけば、自然に治癒するのを待ち、籠女から直接血を受けるのは最近になってからだった。
「……そう」
哭士の言葉に、取那は小さく返事をし、目を伏せた。
「……友禅は」
十数秒の沈黙の後、取那が呟くように言葉を放つ。
「友禅はどこ?」
一番聞きたかった事だったろう。切欠を掴めず、今ようやく口を開いた。
「今、戦っている」
「……大丈夫なの……?」
哭士はすぐに答えられなかった。自身を置いて洛叉へと向かう友禅に撫でられた背中の感触が蘇る。
「……ああ」
友禅ならば。
慧眼を持ち、身体の能力も、水の力も強い。交戦した事など勿論無いが、それでも兄の戦う姿を見、その力は十分過ぎるほど知っている。
だが、それでも哭士の心中からは不安は拭い去れなかった。
「!!」
そのときだった。
一瞬にして空気が変じた。危険なモノが、この道の先に突如として現れたことを感じ取る。
それは、本家で相対した紅い犬の気配に類似していた。
ぶわり、と全身の毛穴が粟立つ。
「……どうしたの」
哭士の様子に、取那も何かを察したらしい。
「洛叉と友禅が戦っている場所だ。……何かが、いる」
哭士の見つめる先に、取那も視線を飛ばした。
「お願い……! 降ろして! 私、友禅の所へ……!」
哭士の胸に縋り、見上げる取那。
暫時の逡巡。哭士は取那を抱え直すと、気配のするほうへと足を踏み出した。
※
身体が燃えるように熱い。内側から熱が溢れてくるような感覚を、友禅は統制できないで居た。遠くはなれた水までもすべて自身の意のままに操れる。
そして、自分の周囲のすべてが知覚出来た。
哭士が取那を引きつれ戻ってきたこと、苑司も、菊塵も取那の血で治癒された事、ユーリが自分を追おうとしていた事。
洛叉の意識が自分に向き、クオウは一時、命令の呪縛から解かれている事も感知できた。
「あの時も、こうして私の部下達を殺したのですか。自分が生き残る為に」
友禅の異様な状態にも洛叉は冷静に言葉を放つ。記憶に蘇る鉄錆の匂いと、生暖かい血の感触に唇をかみ締めた。
だが友禅は答えない。
「残念ですが、貴方は生まれてくるべき狗鬼ではなかった。狗鬼同士の血を持つ穢れたもの。それが一時でも早池峰の嫡男として認められそして敬愛されていた。私にはそれが許せないのです。忌家に囚われて尚、弊履の男共を殺め、器となる籠女を攫い出しては我々の邪魔立てをし、こうして生きている。大人しく囚われ苦しみながら朽ちていけば良かったものを」
洛叉が語る間にも、鋭く伸びてくる枝を掴む。掴んだ先から枝の水分が瞬時に蒸発し、木屑となって爆ぜた。
軽く腕を振るった。高圧の水が洛叉に向けて放たれるが、洛叉はそれを太い幹で避ける。
瞬間、わき腹を貫かれた。木の陰から放たれた刃物だった。
負った傷に目もくれず、洛叉を追い、地面へと叩きつけた。
だが洛叉は怯まない。組み付いている友禅の身体に、能力で木々を纏わりつかせてくる。
払っても払っても、植物が友禅を絡め取ろうと伸びてくる。その勢いは衰えるどころか、強く数も増える一方だ。
執拗な襲撃にも、友禅は能力を駆使し、すべての植物を打破していく。
「本来ならば、本家で貴方が立っていた位置に、私が立っているはずでした」
洛叉の言葉に友禅は眉をひそめた。
「私の血筋は、早池峰家に次ぐ力を持つと言われている家柄でした。だが」
上からばさりと落ちてくる葉、視界が一瞬途切れた。
背後から首に蔓が巻きつく。
「血族に、ただの人間が生まれたのです」
耳元で囁かれる洛叉の声。
身体を反転させて、身体に伸びる蔓ごと引きちぎった。振るった手が洛叉の腹から肉と血を抉り出す。
「確率的には殆どゼロに等しい。だがありえることです。しかし本家の者たちは我ら血族すべてを欠陥品とみなした。そして、あのような穢れた場を管理する立場に堕とされたのです」
洛叉の左腕が、ぐずぐずと爛れた。友禅の力の余波を受けたのだろう。
だが洛叉は気にも留めない。
「何故正統な血を持つこの私が忌家に堕ちて居なければならなかったのか……! 貴方の出生の禁秘を貴方の叔父様から知らされた時には、腸が煮えくり返りそうでした。貴方が、何故あの地位を縦にしているのかと……!」
友禅は目を見開いた。
何故、克彦が自分の出生の秘密を知っていたのか。
浮かんだ疑問は、自身を絡め取ろうとする枝葉によって吹き飛ばされた。
「ぐっ……」
胸を破ってしまいそうなほど心臓が激しく脈打つたび、熱が体中を焼く。
薬の効果は友禅の思っていた以上に身体に負荷をかけ、そして力を増大させている。
疼く身体は、溢れ出る能力を放出させろと訴え、統制せんとする友禅を押し流そうとしている。
周囲の向かってくる植物に意識を向けた。
視界に映るすべての有機物は、友禅の能力により水分が蒸発し爆ぜていく。
一時は木々が蔓延っていた空間が、友禅一人の力により破壊され、暗い岩だらけの空間に戻ってゆく。
操るべき木々が全て失われ、洛叉の攻撃する手段が失われる。
許容を超えた能力を放出し続けた身体は過熱している。身体が不自然に軋みを上げ始めた。
薬の効果が切れつつある。
洛叉の無痛の効力も限界を迎えたようだ。今まで無表情だった洛叉の顔が歪み、ずるりと地へと手をついた。
「……馬鹿馬鹿しい」
地を這うような友禅の低い声。洛叉が顔を上げる。
「貴方のどうしようもない無念のはけ口の為に……私は囚われていたのか」
だらりと腕を下ろしたまま、友禅は続ける。
「だが、それでも私は構わない。貴方が喉から手が出るほど欲していたかつての私の地位など、吹けば消えてしまうほどの脆いものだ。唯の血、誰もが自身で選ぶことの出来ない血統などというもので塗り固められた中身の無い張子だ」
「貴様……何を言っている……!」
「……感謝していますよ。それに私は気づくことが出来た。守るべき大事なものに気づくことが出来た」
興奮が冷めていくのを感じる。目も、紅色から元の色に戻っただろう。
「貴方は憐れだ」
友禅の言葉に、洛叉は憤怒の表情を浮かべ、立ち上がる。
おそらく、最後の力を次の攻撃にすべて向けてくるだろう。
友禅も、もう、一度だけ身体を動かす力しか残っていなかった。
「貴方を楽に逝かせはしません……」
洛叉が最後に笑った。