5―18.切り札
突然、平衡感覚が狂う。
「なっ!」
足元が崩れ、大きな生き物のように口を開いた。
すかさずユーリは能力で上へと逃れるも、岩石で出来た生き物はうねり、ユーリの身体を追う。
「畜生……!」
やがて四方から蠢く岩に囲まれ、行き場を失ったユーリはバランスを崩した。
空気のブロックを掴もうとする手を、岩が掠める。
「!!」
奈落へと繋がるような闇が、ユーリの細い体を喰らい、そして岩の口が閉じる。
腹の底を突き上げるような凄まじい振動が空洞を揺るがせた。
舞っていた埃が少しずつおさまる。
静まり返ったその空間に立っている者はクオウ一人だけだ。
絶望の表情を浮かべて。
※
小刻みにクオウの体が震えている。
自分を救ってくれた人物を、この手で殺めてしまった。
「…………」
取り返しのつかない、しかし抗うことの出来ない事態に、クオウはその場に崩れ落ちた。
「……あっぶねぇ……! 挽肉になるところだ……!」
だが、岩の割れ目の間に、手足を突っ張るような形でその人物は生きていた。
空気の壁で周囲を覆い、動く岩をやり過ごしたのだろう。
安堵より、何より、驚きと喜びが入り混じる。
金髪の男は、ひらりと岩の割れ目から姿を現した。肩を下げ、大きく鼻から息を吐き出す。
「一体、何だってこんなことしやがる。大人しくあの中に入ってりゃ良かったのによ」
自身を支配する『声』のことを、弁解したかった。
しかし、それを許さない人物がいる。
木々の間から冷たい双眸がクオウを射抜いた。
※
「クオウ」
呼ばれた小さな体がびくついて、また、戦う意識が完全にこちらに向いた。
先ほど一瞬見せた、泣きついてきそうな脆い表情は名を呼ばれた瞬間に消えうせ、まるで刃物のような顔を纏う。
同じく険しい顔をしても哭士とも違う、無機質な冷たい顔つきに、先ほどとはまったくの別人のようだ。とユーリは思った。
ぐわり、空気の塊が迫ったような気がした。
身体は小さいはずなのに、纏う空気は水飴のように濃い。
威圧を感じているのだ。
圧倒的な力の差を嫌でも本能が理解する。
空気の壁も、すぐに破られるだろう。
だが、ユーリは避けなかった。
破られると知りながら空気の壁でクオウの攻撃を緩和し、真っ向から受け止めた。
受け止めきれない余波が、そのまま地面を大きく抉る。
喉から搾り出されるような呻き声が漏れる。
肋骨が何本か折れたかもしれない。だが、ユーリはクオウの細い両手首を掴む。
この拘束がクオウの力の前では無意味であることを誰よりも知っている。それでもユーリは無理やりに口の端を上げた。
「へへ、捕まえた……」
クオウは動かない。だが、瞳の奥が揺らいでいる。
何故、目の前のこの男は笑っているのか、こうなることを分かっていながら自分の攻撃を受け止めたのか、目がそう語っている。
様々な感情が彼の中を駆け巡っていた。
ユーリはゆっくりと口を開いた。自分よりもっと幼い子供に言い聞かせるように、一言、一言を紡ぐ。
「……なあ、友禅はお前の兄ちゃんなんだろ? そのままじゃ、俺、友禅を助けられねぇよ。……きょうだいを失うのは辛ぇよ」
自然に笑えているかはわからない。
クオウの掴まれている両手が、震える。洛叉の命令に逆らおうと、必死に抗っている。
不自然に呼吸が乱れ、クオウの目尻から雫が流れる。
「クオウ……」
名を呼び、更なる言葉をかけようと口を開く。
だが、次の瞬間、ユーリは背後の岩に叩きつけられていた。
「がアッ!!」
クオウの身体をほぼ完全に統制する命令。狗石も持たない彼を解き放つことは容易ではない。
――もう一度、何か出来ねぇか……!
身体の殆どが地に埋れている。
ユーリの身体は全身が痺れ、動かす感覚を忘れていた。
恐る恐る吸った息で、身体中が悲鳴を上げる。
動くことも、声を放つことも出来ず、最早クオウの次の一撃を待つのみとなった。
「もう、嫌だ……! 嫌だ……!」
身体を掻き毟り、慟哭するクオウ。それでも、自身を動かす呪縛から、逃れることは出来ない。
「誰か、助けて……!」
心の奥底から搾り出されたような、クオウの声だけが響き渡った。
※
「なかなか使える駒でしたが。まだまだ感情が厄介ですね。幼すぎる」
木々の隙間から、始終を眺めていた洛叉が呟く。
友禅は枝に寄りかかり、身体を支えているのがやっとの状態だ。
最早抵抗も出来まいと、洛叉は高をくくっているのだ。とどめを刺すこともしない。
瞳だけを動かすと、崩れた岩の間に埋もれているユーリの姿がある。
クオウの攻撃を真っ向から何度も受けたのだ。意識があるほうがおかしい。
苑司に至っては、もう指先一つ動かすことが出来ない状態である。
友禅は、ゆっくりと身体を起こした。
「……実は、あるんです。最期の手段が」
懐から取り出した。一本の細長い透明な棒。透明な蓋の中には、一本の針。
蓋を指ではじき飛ばし、自身の腕へと突き刺した。
液体は吸い込まれるように友禅の身体へと消えてゆく。
熱さが腕から全身へと広がってゆく。
だが、この感覚は初めてではない。狗鬼の力を取り戻すために、桐生により投与された狗神の力。
それが再び、友禅の身体と同化してゆく。見る間に友禅の体中の傷が癒えていく。
――もうやめよう、これ以上は君の命にかかわる。
桐生の言葉と共に、薬品の投与は友禅が治癒の力を取り戻した時点で終了していた。これ以上は、どうなるか分からないから、と。
だが、友禅はその液体を自身の能力で僅かに掠め取っていた。本家で暴れた紅い狗の力。それはきっと、自身の切り札になるはずだ、と。
身体を襲う衝動からわずかでも逃れようと、友禅は咆えた。
びりびりと木々の繁る洞窟内が揺れる。
友禅の足元の木々が同時に爆ぜた。
粉々になった木片が雨のように降り注ぐ。
「……木の水分を一瞬にして蒸散させたのか……!」
洛叉の顔には驚きの表情が浮かぶ。
赤く燃えたぎる光彩。筋張った腕、身体から蒸気がのぼる。纏う水が蒸発し、友禅の身体を隠していく。
尋常ではない友禅の姿に、洛叉は顔を引きつらせた。
「クオウ、友禅を止めよ!」
うずくまっていたクオウが身体を上げる。目は真っ赤に充血し、戦いを拒絶している。
それでも命令はクオウの身体を動かす。
「う……あああ!!」
言葉にならない声を上げながら、クオウは洛叉の命令に従い、友禅に踊りかかった。
だが、友禅はまったく動かない。
いざ、クオウが目の前まで迫ったとき、友禅は柳の木の枝のように、最小限の動きで避けた。すれ違いざま、細いクオウの足を掴み放り投げる。
所作からは考えも及ばないほど、遠くへと飛ばされるクオウの体。壁に叩きつけられる瞬間、風が細い体を包み込み、衝突の衝撃を和らげた。
「友禅!!」
尋常ならざる友禅の様子に、ユーリが叫んだ。重い身体を持ち上げ、何とか立ち上がる。
動かぬ体を叱咤し駆け寄ろうとしたユーリの体を、いつの間にか現れた菊塵が止める。
「!!」
ユーリの視界には菊塵と、その背後に立つ哭士、そして黒髪の少女の姿が映る。
だが、今はそれどころではなかった。
「キク……! 何すんだ!!」
菊塵に喰らいかかる。だが、菊塵はそれをも凌駕する勢いでユーリに吼えた。
「分かりませんか! あの友禅さんの纏う気配が!」
菊塵の言葉でユーリは気づいた。
本家で争った、あの紅い狗を思い起こさせる。
「今の友禅さんに近づけば間違いなく……」
菊塵の目の奥に広がる感情は、恐怖だった。
「間違いなく……僕達も殺されます」
噛みしめるように、菊塵が呟いた。