5―16.とりな と いろは
途切れていた匂い袋の香りが哭士を誘う。
間違いなく強まっていく香りに、足は更に速まった。途中に点在していた狗鬼を、哭士は見つけ次第、能力で封じていく。
洞窟内に突入した直後に攫われた色把、何故自分の手がもっと早く、もっと長く伸びなかったのか、表情には出さないものの内心は自身への呵責で煮えたぎりそうだった。
突如、銃弾が掠めた。
前方に数人の狗鬼。GDの残党か、それともレキの配下か。どちらでも構わなかった。
一本の道では、身を隠すものは何もない。
氷の壁を生成し、飛んできた弾をやりすごす。大きく弾ける氷の粒と共に哭士は飛び出した。
身を屈め左右に走りながら壁を蹴った。銃声が止む。当たらないと判断したようだ。
紅く光る目が二対見える。
氷の槍を投じる。片方の紅い目がそちらに向いた。
哭士はこちらを見ているもう一方の狗鬼に向かい、能力を放った。地面を波のように走り、氷が線を引く。
すんでのところで避けたようだが、わずかに氷へ触れた片足が凍りついた。バランスを崩し、倒れこむと、片足から氷結が広がってゆく。
「……」
能力が暴走してからというもの、僅かな力を込めただけでも絶大な能力が発揮されてしまう。
哭士は戸惑っていた。
能力を解除するも、凍りついていた狗鬼は体の深いところまで損傷を負ったらしく動けなくなっていた。
もう一人の狗鬼に向き直る。
「流石、早池峰の狗鬼。ここまで一人でたどり着くとは」
かけられた言葉に反応せず、哭士はただ相手の動きを待った。
「!!」
次の瞬間、既に狗鬼は目の前まで迫っていた。咄嗟に手のひらを前に突き出し、相手の攻撃を受ける。びりびりと衝撃が腕から背中へと抜けていく。
鉄槌で殴られたかと思うほどの凄まじい力だった。腕を振るい、痺れた腕を少しでも慣らす。
小さく屈んだ哭士は、身体を半回転させ、相手の頸部に向かって蹴りを放つ。だが、相手は避ける素振りもしない。
通常の狗鬼でも昏倒するであろう相当の威力だったはずだが、次の瞬間、伸ばした哭士の足が男の首から広がる黒い何かに絡め取られてしまった。
体の一部を変質させられる狗鬼のようだ。硬質の金属のようなそれは、哭士の足をがっちりと挟み離さない。そのまま男の身体にぶら下がるような形になってしまう。
顔は見えずとも、笑っているのがわかった。
そのまま男は拘束された哭士の足を掴むと、壁に向かって叩きつけた。
強かに全身を打ち付けられ、目から火花が散る。
それでも足は拘束されたままだ。襤褸雑巾のように何度も何度も壁に打ち付けられる。
哭士の目に、自分の血が散っている様が映る。
左目にも流れ込んできた赤い液体は視界を狭める、だんだんと意識が遠ざかりかけるのを必死で堪えた。
ここまできて、倒れるわけにはいかない。
次に叩きつけられた瞬間、哭士は自分の身体と壁を氷でつなぎ止めた。
空いている左足で、男の顔を何度も何度も蹴りつける。ガン、ガンと人の身体から発せられることのない硬い音が周囲に響き渡る。
「まだそんな元気があるのか」
大きな木の枝のような太い手が、哭士の身体を壁に押し付けた。男の手の形が変わり、哭士の身体を締め上げにかかる。
ぎりぎりと内蔵を押しつぶされる苦しさに哭士は声を張り上げた。その間にも、肺が押しつぶされ、空気が吸えない。頭を振り、拘束された身体を捻り、なんとか逃れようとするも、それは逆効果だった。
「此処までだったな。楽しませてもらった」
苦しみ喘ぐ哭士の姿を見、愉悦の表情で哭士に笑う。
「……そうか、それは……良かったな」
男が見たものは、苦しみの表情を浮かべながらも光る哭士の紅い目だっただろう。
笑った男の口内には、氷の槍が突き通っていた。
これは哭士の賭けだった。
硬質化していても話している様を見、身体の内部までは硬質出来ないのでは、と哭士は考えていた。
男はもう動かない。ぐらり、と傾いた体と同時に、変質した男の腕も元に戻ってゆく。
開放された瞬間、床に手をつき、肩で息をする。
負った怪我はかなり深いが、それでも、先に進まなければならない。
膝を立て、鉛のような身体を立ち上がらせた。
倒れた男の背後には、天井にまで届く鉄柵がはめ込まれていた。
この二人の狗鬼は門番だったようだ。
よろよろと、鉄柵に近づく。
鉄柵には見覚えのあるものが幾重にも巻きつけられていた。狗鬼が触れられないよう術を施した布だ。
かつて、本家で色把が捕らえられた箱よりも更に重厚に、そして堅固に鉄柵に結び付けられている布は哭士一人の力で剥がすことは出来そうにない。
先に倒れていた門番が笑う。身体は自由に動かないらしく、うつぶせに倒れたままだ。
「我々狗鬼はその布に触れることが出来ぬのだ。あきらめろ」
だが、哭士は布の巻きついた格子に錠がかけられているのを見つけた。おそらく普通の鉄ではないだろう。狗鬼に壊せぬもののはずである。
「……この錠をあける番号を知っているな、言え」
「言うはずが無いだろう。馬鹿な」
門番の襟首を掴み上げ、壁へと押し付ける。バキ、バキと周囲の壁が氷で軋み、首まで氷が達する。だが、門番は動じない。
「何だ、凍死でもさせるつもりか」
「……殺しはしない。言わねば貴様の歯を順番に刳り貫く。……舌があれば話せるだろう」
腰に装着していたナイフを抜き取り、無理やり開かせた口内に上向きに差し入れる。前歯の二本の間に上向きの刃が少しずつ挟まっていく。
嫌な音がきしみ始める。門番の顔が青ざめた。
言葉にならぬ声を上げ、身じろぐが、氷で体を固定されている。哭士の左手はしっかと門番の頭を掴み離さない。
「急いでいる。手元が狂うかもしれない」
「……!」
意味を成さない叫び声が響く。
赤色を纏った白い欠片が三つ転がり落ちた頃、ようやく門番は口を割った。
※
錠が外れると、転げるように中へと進んだ。
少し進むと古びた鉄柵が視界へと飛び込んできた。牢だ。
「色把!」
牢の中で黒い髪が広がり倒れこんでいる一人の少女。
牢には何も仕掛けなどないようだ。哭士は何も考えずに鉄柵を掴み、折り曲げる。
鉄柵が倒れるけたたましい音にも身じろぎひとつしない。哭士の心中がざわめく。
ようやく体をすべり込ませることができるほどの隙間が生じた。
牢の中の様子を探り、哭士は違和感を覚える。
何故、一人しか居ない。
今まで相対してきた相手は、色把と取那が同じ場所に捕らえられている事を匂わせていた。
狭い牢の中、見間違うはずなども無い。ひとまず哭士は倒れこんでいる少女にゆっくりと近づく。
身にまとっている衣服は色把のものだ。洞窟内も歩けるよう、裾の短い上着に、ジーンズを纏っていた。
「……」
哭士は少女を抱え上げた。さらり、と黒い艶めいた髪が流れ、顔が顕になる。
僅かに開かれた薄桜色の唇から小さく呼吸が繰り返されていることにひとまず安堵した。
「おい」
声をかけるが、瞼は閉じられたままだ。
哭士は手のひらに薄く氷を精製し、少女の頬に押し当てた。
小さく息を吐きながら身じろぎ、眉間にしわを寄せて、ゆっくりと瞳が開かれた。
未だはっきりとせず空中をさまよっていた視線が、ようやく哭士へと向けられる。
意識が戻りつつある様子を確認した哭士は口を開いた。
「おい……『色把』はどこにいった?」
問われた少女の目が見開かれる。
哭士には既に分かっていた。この人物は、自分の狗石を持つ、声を失った籠女ではない事に。
この少女は『取那』だ。
数秒の時間をおき、取那が体を起こす。
首を振り、自分の周囲を見回し、色把が居ないことに気が付く取那。
「私……気を失って……」
そして、今、自身が身にまとっている服装が変わっていることに気づき、はっと哭士見上げる。
「ねえ、あの子は……! 何で、私……」
頭の中を様々な思いが錯綜しているらしい。哭士はじっと、取那を見つめた。
少しずつ現状が飲み込めてきたのだろうが、顔色は一層悪くなるばかりだった。
「まさか……!」
わなわなと震える手が、哭士の戦闘服の胸元を掴んだ。
「私! 紅い着物を着せられていたの!! 【神】に捧げられる生け贄だからって……! だからあの子……!」
「……!」
すべてを言わずとも、二人の間に色把のしようとしている事が分かった。
「急ぐぞ、掴まれ!」
取那を抱え上げ、次の瞬間には牢を飛び出していた。
哭士がたどり着いた部屋は行き止まりだった。そして、牢の部屋までは一直線。哭士は今来た道を風のように駆け戻る。
早く【神】の元へ行かねばならない。
さもなくば、色把が。
――哭士
ふんわりと笑う少女の顔が浮かび、そして消えていった。