5―12.蛇の男
哭士と友禅は、クオウが指し示した道を進んでいた。言葉を信じれば、そこに色把と取那がいるはずである。
「……」
哭士は兄の背で気を失っているクオウをちらりと覗き見た。
自分には狗石がない、そう嗚咽を漏らし言い放ったあと、クオウはその場に倒れ込んだ。
先を促した哭士が振り返ったその先で、友禅は倒れたクオウを背に負っていたのだった。
眉根を寄せ、友禅の背中にぴったりとくっついている様は、先程まで大暴れした者とは思えない。
「まあ、『弟』ですから」
哭士の言わんとしている事を察したのか、友禅はやんわりと笑みを浮かべた。
「……私が狗鬼同士の掛け合わせで生まれたというのは知っていますよね」
「ああ」
静かに語りだした友禅に、哭士は静かに返答した。
「私は、桐生さんの研究から生み出された狗鬼の一人なんです。掛け合わせで生じた不具合でこの両目の色が違う」
哭士からは金色の左目しか見えない。目を伏せながら友禅は歩みを進める。
「桐生さんは、私を作り出してからその研究は辞めたそうなんです。でも……」
「桐生が離れたあとも、密かに続けられていたということか」
哭士の言葉に友禅は頷いた。
「私は、桐生さんの計らいで早池峰家の嫡男として本家で育つことができました。ですが……」
友禅以外にそういった狗鬼は現れていない。つまりは隠されてきた存在なのだろう。
「恐らく、クオウは我々の知らない狭い世界で生きてきたのでしょう。……シイナのように」
忌家に取那と共にとらわれていたシイナの姿が脳裏に浮かぶ。
「……きっと監視と管理のされた世界で今まで生きてきたのだと思います。……こんなこと、あっていいはずがない」
自由と栄華、その裏に隠された本家の真実、友禅はどちらも目にし、そしてその身に嫌というほど刻み付けている。
友禅の背中でクオウが身じろいだ。
「クオウ……」
「……聞いてた」
友禅の背からか細い声が聞こえる。
「声は?」
「今は、大丈夫」
クオウの脳内に響く、兄たちの狗石を手に入れろという声。それが彼を苦しめている一番の要因だ。
「友兄の言うとおりだ。今までずっと監視の下で生きてきた。自由になんかなったことないよ」
友禅の首に回した手を小さく握るクオウ。
「俺、自由が欲しかった……それだけ。さっきは、ごめんなさい」
小さくぽつりとつぶやいた言葉は、堅い岩肌へと吸い込まれていった。
「友兄と哭士兄はさ……」
クオウの言葉に友禅の口元が緩み、小さく息を吐き出す。
「……なんで笑うんだよ」
友禅の様子に気づいたのか、クオウが首を伸ばす。
「いえ、『ゆうにい』『こくしにい』なんて初めて聞くものですから。なんだか新鮮で。特に哭士が」
「……今まで弟の存在を知らなかったのだから当たり前だろう」
不機嫌そうに哭士が答えるも、友禅はにこにこと笑っている。
「私が大きいお兄さんで、哭士が小さいお兄さんですから、哭士はちい兄ちゃんですね」
「なにそれ……変なの」
強張っていたクオウの体から、力が抜けたような気がした。
しばらく進むと、妙に甘ったるい匂いが哭士達を包み出した。鼻腔をくすぐる不自然な匂いに、哭士の緊張が高まった。
「……花の匂いのようですね」
光が一切差さないこの洞窟の中に花などあるわけが無い。また、誰かが待ち構えている。
「……この匂い……嫌だ。すごく、嫌な感じがする」
鼻の上に皴をよせ、クオウが目を伏せた。
※
「お久しぶりですね、友禅様」
正面に立つのは妙に色の白い長髪の男。道を進み、開けた場所に出た際、目の前に現れたのがこの男だった。
爬虫類のような温度のない目で睨めつける。友禅の表情が一瞬にして凍りついた。
「……!」
クオウの様子がおかしい。蛇に睨まれた蛙のように身体を硬直させた。
「私の狗達をあんなにも無残に殺しておいてその涼しい貌……。まったく恐ろしい」
友禅を見つめる男。筋張った細枝のような指が男自身の顔をなぞる。
「洛叉……」
「覚えておいででしたか。あれから随分と経ちましたが見違えるようだ」
友禅が語った忌家での出来事。その中に洛叉という男は居た。
忌家を管理する弊履の族を束ねる男である。
友禅は、取那を救うため、その場にいた弊履の族の息の根を止めた。
「クオウを返してもらいましょうか。それはミヨ様により貸し与えられた私の新しい狗です」
ミヨという名に、哭士と友禅が視線を交わす。
「俺はお前なんか……!」
クオウの言葉とは裏腹に、雷に打たれたかのように身体が強張った。一歩、また一歩とクオウが洛叉へと歩んでゆく。
「……狗石はあの男が持っているのか」
洛叉という男がどのような能力を使うのかは分からないが、再びクオウを相手にするのは厄介だ。能力の対処は出来ても、彼の身体能力に順応する事が難しい。
「クオウに狗石などありませんよ」
洛叉がこともなげに言い放つ。
「……なんだと……」
あれほどの能力を持つ狗鬼だ。狗石がないとはどういうことなのだろうか。
「籠女と狗鬼の血が大量に人間の体内に入ると、どうなるかはご存知で?」
「……」
今の苑司と同じ、元は人間ということなのだろうか。
「この方は、籠女と狗鬼の血を輸血されて作られたのです。だから、狗石を持たない」
「ならば……」
クオウの頭に響く声は、そして今しがたの洛叉の命令が狗石のものではないとすればなんだというのだろうか。
「洗脳ですよ。深層心理に働きかけ、限られた者の声のみに反応するよう誂えた。これほどの狗鬼が他の者に操られる事は避けなければなりませんからね」
哭士の心中を読んだかのように洛叉は続けた。
「全身に狗鬼と籠女の血がいきわたるほど、クオウは他者の狗石を求めるようになりました。足りないものを、求めるように。だから、貴方たちの狗石を求めるのは彼の本能です。それは彼自身で抗えるものではない。……非常に、興味深い。さあ、クオウ」
クオウは耳を塞いだ。洛叉の声を少しでも遠ざけるように。洛叉の命令に抗おうと、細い身体が震えている。
その様子に、友禅は大きく息を吐き出した。瞳が紅く染まっている。
「こんな……こんなことをしていいと思っているのか! 彼は貴方の道具ではない!」
友禅が声を荒らげた。
「道具ですよ」
「!!」
友禅とクオウが同時に顔を上げた。
「忌家の狗鬼達も、弊履の族も、そしてクオウも、すべては我々の目的を遂行する為の道具です。貴方だって、本来ならば生まれるはずのなかった狗鬼でしょう」
友禅の両拳が強く握られた。
「おぉ、お怒りのようだ。そのような恐ろしい貌を、この方に見せるおつもりですかな」
奥から二つの影が現れる。一人は無理やり引きずられるように歩みを進めている。
黒い髪、透き通るような白い肌、赤い着物を纏った色把と同じ貌の少女が叫ぶ。
「友禅……!」
悲痛な表情を浮かべ、友禅に向かい手を伸ばす。
哭士は瞠目した。
「……」
だが、友禅に動揺の色は無い。鋭く洛叉を睨みつける。
僅かに唇が震えている。それが、怒りからくるものであることはすぐに分かった。
「……そんなもので私が騙せるとでもお思いですか」
友禅の言葉と共に高圧の水が取那の姿をしたものを貫き、霧散し消えていった。
取那を引き連れてきた狗鬼の能力のようだ。
「……流石でございます。だが、この奥に器の双子が囚われているのは真実。貴方達が二度と見えることはございませんが」
静かに息を吐き出し、洛叉の口端が持ち上げられた。