5―7.一つの能力を
哭士の呟きにいつの間にか傍らに立っていた友禅が静かに口を開く。
「いいえ。確かに彼の能力は多岐にわたります。だがそれこそが、弱点」
友禅の体に刻まれた傷はかなり深い。だが兄の目の光は揺るがない。
「何言ってんの。負け惜しみ?」
息を大きく吸ったクオウの胸が大きく膨らむ。
「……閃光が来ます」
友禅の言葉に哭士は目を眇める。だが友禅はクオウを見つめたまま微動だにしない。
周囲に変化が起きたのはその時だった。
哭士の視界が白く曇る。閃光で目がやられたわけではない。柔くねっとりと肌に吸い付くのは水滴だった。
煙る霧の奥で、チカリと光るのはクオウが放った閃光だ。
「なんだよ……これは!」
霧として舞う水滴は光を乱反射させ、二人に届かない。
苛立った声を上げたクオウだったが、それも束の間、霧の奥から高笑いが響き渡る。
「なかなかやるじゃないか!」
怒りを表すような焔はクオウの周囲を巡り霧を吹き飛ばした。
「落ち着いて一つずつ対処するのです。彼は、『能力を複合出来ない』」
静かな声には確信が宿っている。哭士は友禅をちらりと見やり、クオウへと意識を向けた。
右手の指が曲げられる。音を発するつもりだろう。
それを知覚した友禅の目が赤く光る。岩から染み出した水は盛り上がりクオウとの間に薄く幕を張り始める。
「そんな薄い水で防げるかよ、いっそ鼓膜ぶち抜いてやろうか!」
クオウの言葉が終わると同時に、その場にいる三人を完全に分断した。
びりびりと周囲の岩が振動する。確かに耳障りな音が哭士の耳を刺た。だが耐えることの出来る範囲に収まっているのだ。
水も空気と同じく音を伝える。友禅は敢えて水に音を伝わせ周囲の壁に音を逃がしたのだ。
「力を熟知している貴方なら、対処出来るはずです。……落ち着いて」
次々と繰り出される能力に囚われていたのだ。友禅の言葉で哭士の心中がすとん、とあるべき場所へと落ちた。
哭士はクオウを見つめ、ゆっくりと息を吐き出した。
クオウが岩石を拾い上げると、それは沸々と赤くなる。熱せられた岩石を振りかぶり、哭士へと投じた。
真っ赤な岩が熱を孕みながら哭士へと向かってくる。
それまでの哭士であれば、繰り出される能力が何なのか考え、それに対処する事だけで精一杯だっただろう。
だが、能力が繰り出されたその瞬間、軌道を読む。
そして真っ向から氷の壁を叩きつけた。
急激に冷やされた岩石は金属の擦れるような音を立て、そして爆ぜた。周囲には溶けた氷がバラバラと散り落ちる。
「……うざったいんだよ! さっさと狗石をよこせ!」
激高したクオウが叫ぶ。
「友禅、水を周囲に」
落ち着いた弟の声に、友禅も僅かではあるが安堵の表情をその顔に浮かべ頷いた。
友禅が切り開いた足がかりに、自然と哭士の腹が据わる。
哭士とクオウの間に、友禅が張り巡らせる水がじわじわと広がる。だが、クオウはそれを気にも留めない。
「精々、氷で防いでみろよ! 俺には使う瞬間がまるわかりだ!」
叫ぶクオウ。足が踏み出され一歩、二歩と地面を蹴り哭士へと向かってくる。
だが哭士はその場を動かない。
身構え、向かってくるクオウの姿をじっと見つめる。
次の瞬間だった。
「!!」
クオウが踏み込んだ水たまりが、一瞬にして凍りつき、足を強くくわえ込んだ。
「なんでっ……!」
哭士が能力を使う素振りを見せないことで慢心していたのだ。クオウはそのまま足を取られ地面へ手を付いた。
友禅が小さく頷く。
哭士は、友禅により周囲に張られた水をゆっくりと冷却していた。
過冷却された水は摂氏零度を下回っても凍らず液体のままである。そして過冷却水は、僅かな振動で瞬間的に凍りつく。
能力を使う瞬間を狙われていた哭士はその裏をかいたのだ。
クオウが氷に気を取られた瞬間、同時に哭士と友禅がクオウへと飛びかかった。
友禅がクオウの首根を掴み、地面へと縫いとめる。哭士の放った能力がクオウの右脇腹を貫いた。
「痛ッ……!」
その間にも哭士の氷は右脇からじわじわとクオウの身体を飲み込んでゆく。
だが、氷の拘束はあっという間に砕かれクオウの光彩が紅く光る。身を小さく屈め、友禅の身体を蹴り飛ばすと、転げるように二人から距離を取った。
「何でだよ……! 能力が一つしか使えない奴らのくせに……!」
寒さか、悔しさか、わなわなと細い腕が震えている。幼い感情は自身を統制する事を忘れ、喚き散らす形でクオウを動かす。
「……一つ、だからです」
「ふっ……ざけんな!」
クオウの力は哭士達のものよりも強い。当たれば甚大な損傷を負うだろう。
だが真っ直ぐにクオウを見据えた友禅が、クオウの攻撃を難なく避ける。
「そんな事あっていいわけ無ぇよ!」
繰り出される一手一手が、乱雑になっていく。哭士や友禅が避けるまでもなく、二人の脇を掠め飛んでいった。
友禅は焔を避け、突きあがる地面を踏み台にし、クオウとの距離を一瞬にして詰める。
高圧に凝縮された水が、クオウの足元を打ち抜いた。ガラリとクオウの足元が崩れ、バランスを崩す。
哭士がその隙を狙わないはずがない。クオウの首根を掴む。地面とクオウの手足が氷で縫い止められた。
「また……ッ!」
拘束を解こうと一瞬、動きが止まる。両手の氷を砕いたその間にも氷は見る間に成長し、クオウの下半身を全て飲み込んだ。
友禅はいつでも次の動きに対応出来るよう、身を低く屈め、クオウを見つめている。その目が僅かに細められた。
クオウが力を込め氷から抜け出そうとするその瞬間、氷は瞬時に溶解し水へと変じた。はけ口を失ったクオウの力は空を切りバランスを失う。生き物のようにうねる水はクオウを飲み込もうと口を開いた。
「この……!」
クオウは細い腕を振るい、空気の圧で水を吹き飛ばす。だが残った水が今度は瞬時に氷へと変わる。
振りかざした手が一瞬だけ止まった。
すぐに解く事が出来るほんの僅かな拘束、だが力を込めると瞬時にそれは水や氷へと次々と変じ力自身の思い通りに身体を動かす事が出来なくなる。思い通りに動かせなくなる状態は、クオウを更に激高させる。
「こんな……事で!」
友禅は軽く地面を蹴ると、軽やかにクオウの目の前へと降り立った。気が高ぶっているクオウの反応がわずかに遅れる。
振りかざされた手は、クオウの喉へとあてがわれた。瞬間、クオウの喉が ごぼり と鈍く鳴る。空気を求め激しく咳込んだクオウは膝から崩れ落ちた。
「……貴方は多くの力を手に入れたばかりに、一つ一つの力を蔑ろにしていた。多くの命を奪いながら……」
見たことが無いほど冷たい友禅の目がクオウを見下ろす。
大量の水を吐き出し、ようやく息を吸い込むことが出来たクオウの力がぐったりと抜けた。
「嘘だ……」
絞り出すような声。クオウは両手を地につき、顔を歪ませている。
もう哭士らに牙を剥く気力は無いらしい。クオウを見下ろす友禅の傍らで哭士は警戒を解いた。
「一体、何故、私たちに襲いかかってきたのですか」
先ほどの冷たい表情の友禅はそこにはなく、普段の友禅がしゃがみこみ、クオウへと語りかけた。
ゆっくりとクオウの手が持ち上がり、友禅の裾を掴んだ。
「……助けて……」
消え入りそうな声に友禅が小さく反応を見せる。
「頭の中でずっとずっと声がする……。兄貴達の狗石を食べて、優れている狗鬼は俺だって証明しろって……」
先まで自信に満ち溢れていたクオウの姿はどこにもない。弱々しい一人の少年がそこにいた。目から溢れた雫は足元の水たまりに吸い込まれていった。
友禅はクオウの次の言葉を待った。
「……沢山の狗石を食べたんだ。それでも声は止まない。……兄貴達の狗石を食べないと、この声は止まないんだって、そう思った……」
友禅はゆっくりと口を開いた。
「……貴方の狗石は?」
兄の言葉にクオウはゆるゆると首を振った。
「無いよ……俺には、ないんだ……」