4-19.観測者の宣告
病院の最上階。豪奢な部屋の中には、彩子とその夫、桐生祥吾が窓際で相対していた。空は薄曇り、部屋の色彩を奪っていた。
「あぁ、あんなに雲が集まって……。これは荒れるね。大荒れだ」
結露した窓の水滴をこすり外を見つめながら桐生は呟くように語る。
「一体、何をおっしゃりたいの?」
腕を組んだまま、彩子は桐生に問う。
「神を手に入れた者が次の狗鬼らの世を担うだろうね」
窓から一歩離れ、桐生は彩子へ向き直った。
「間もなく【神】が、その手中におさまる気分はどうだい?」
夫の言葉に、彩子は息を飲んだ。雨音だけが自由に部屋の中を踊る。その空気を破ったのはまたもや桐生の言葉だった。
「僕が知らなかったとでも思うかい?」
首の後ろを掻きながら桐生は普段の調子で口を開く。
「君だったんだろう? 狗神の薬を外へ流していたのは。本当は保守派や革新派なんてもの、存在しないんだよね……大元がつながっていたのだから」
安穏とした様子で語る桐生に、変わった様子は見られない。
「どこかの偉い人も言っていたね、争いは技術を産み、発展をもたらすと。いがみ合っている派閥を装い、その中で育ちゆく狗鬼や籠女らを笑って見ていたのは君たちだったんだねえ」
結構、結構と呟く桐生の言葉に彩子が笑む。
「今更お分かりになったの? でももう遅いわ。あのGDさえ大人しくさせれば、もう私たちを邪魔するものは居なくなるもの。御代様とレキ様、それにあの子がうまくやってくれるわ」
「あの子?」
桐生の片眉が上がる。視線が部屋の中を泳ぐ。だが次の瞬間には彩子の予想に反し、笑みを浮かべながら夫は大きく息を吐き出した。
「色々と策を練っているようだけれど、君の思い通りに果たしていくかなぁ」
細面の頬を長い指でさすりながら桐生はゆっくりと語る。
「君たちは、一つ大きな存在を見落としているよ。あと僅かで寿命を迎える一人の狗鬼を」
桐生の言葉に彩子は怪訝な表情を浮かべる。
「【神】の力を急くあまりに、小さな事を見落としていたんだよ。本家では【神】に籠女を捧げるとき、狗鬼から遮断するだろう。【神】にとって狗鬼が穢れたものだから。
なのに、わざわざその穢れたものを呼び出し、母となる者へ警告を行った。『その狗鬼を産めば、死ぬ』と。一体それは、何故だと思う?」
柔和に笑んでいるように見える目はしっかりと彩子を捉えていた。
「【神】は戒心しているんだ。氷の力を持つ、あの狗鬼を」
柔和な顔が崩れ、鋭い目が彩子を射った。その目に宿る光は彩子に言葉を紡がせることを強く拒む。
「哭士くんはこの世に生まれ、そして彼の地へと向かった。事態は君の手の届かない所にまできているんだ」
稲光が部屋の中を一瞬だけ真っ白に染める。強まった雨が、窓を激しく殴りつけ始めた。桐生の言葉は、激しい雨音の中でも静かに響いた。
「彼らは【神】に到達する」
既に彩子の顔からは矜持とも取れる表情は消えていた。
「抜かっていたのは君達の方だよ、彩子。不要な狗として本家が捨てたあの狗鬼は、【神】が誕生を阻止しようとした唯一の存在と僕は考えている。彼が【神】に接触する事で、きっと予想外の事が起きるよ。……君たちの良くない方に、ね」
「……!」
彩子は数歩後ずさり近くのテーブルに備え付けてあった電話機に手を伸ばした。嵜ヶ濱村へ向かった革新派の狗鬼に指示を与えるつもりなのだろう。
雷鳴が轟いた瞬間、二人の居る部屋が暗闇に包まれた。
同時に苦しげな声が彩子の唇からこぼれる。
「貴方……何を……!」
部屋が光る。見開かれた彩子の目が、捉えた夫の表情はいつもの柔和なものに戻っていた。だが今この瞬間、その表情はひどく不釣り合いだった。
「無用心だね。僕が夫だからと周囲に狗鬼もつけないで。形だけの夫婦だというのを一番わかっていたのは君だと思ったんだけどなあ」
彩子が膝から崩れ落ちる。
「僕もかつては【神】が欲しかった。きっと僕が口を閉ざしていれば、【神】は僕らの物になっただろう。でもね、僕はそれよりも興味深いものを見つけたんだ」
彩子に返事は無い。
「……大丈夫、殺しはしないよ。でももう僕達の出番はおしまい。役目を終えた演者は舞台から降りなくちゃ。……お疲れ様、彩子」
稲光が再び部屋の中を明るく照らす。桐生は真っ黒な空を見つめ呟いた。
「僕が出来るのはこの位だ。君の子供たちはきっと大丈夫だよ。さくら、さん……」
ここまでお読みいただきありがとうございます。そしてお疲れ様でした。第四部、終了です。
次では最終決戦が待ち構えています。引き続きお読みいただけると幸いです。
各章の最後にあるあらすじも活用くださいませ。