4―14.月下の狗
目が覚めると色把の姿はそこにはなかった。夢すら見なかった深い眠りに、身体はいつも通りに戻りつつあった。
夜がふけ、哭士は庭へと足を踏み入れた。雪の季節が近づいてきている。
キンと冷えた空気は澄み渡り、空に浮かぶ月は物寂しい明るさだ。
周囲に明かりの無い庭は星が無数に瞬いていた。
息を吐き出せば白く、闇夜に解けていった。
「哭士」
背後に声が降りかかる。肩越しに視線を寄越すと、友禅はゆっくりと歩みを進めてくる。
隣に並び、夜空を見上げた。僅かに哭士よりも背の高い兄は、哭士と同じように白い息を吐き出した。
しん、と静まり返った空間に、友禅はゆっくりと口を開いた。
「貴方の誕生日を、伝えていなかったのですね」
本当の誕生の日を知っているのは友禅と、祖父の修造、そして哭士の誕生に居合わせた克彦だけだ。友禅は毅然と話し始めた。
「菊塵君が貴方の制約を外そうと必死になっていたと。それに気づかない貴方でもないでしょう」
「……その日になれば、一人で死ぬつもりだった」
一八歳になる日を偽っていれば、誰にも気に留められることなく、ひっそりと逝くことが出来る。哭士はそれを望んでいた。恐れていた祖父にすら、皆に何も言わぬよう、口止めをして。
「今も気持ちは変わらないのですか」
友禅の問い。
「……」
だが哭士は答えない。
「そうやって、いつまで逃げるつもりなんだ」
冷たい空気に、凛と響き渡るのは友禅の声ではなかった。
振り返らずとも分かる。相棒の声だった。
友禅は一歩下がる。菊塵へその場を譲ったようだ。
哭士はゆっくりと相棒へと向き直った。真っ直ぐと哭士を見つめている。彼が纏う雰囲気は普段の菊塵とは程遠くぎりりと険しい。
「お前は寿命を受け入れているつもりなのか。その上で一人で死ぬなんて馬鹿けたことを。制約を外す努力も自身では行わず、勝手にしろとでも言いたげだ。お前は認めたふりをしているだけだ。本当は迎えるその時を考えぬよう、己の心を見て見ぬふりをしているだけだろう」
菊塵と初めて会った日を思わせる鋭い目つき。菊塵は一歩、また一歩と哭士に詰め寄る。
※
「……お前に何がわかる」
息もかかる程の距離。哭士の低い声が菊塵の鼓膜を揺らす。
「分かりたくもない。寿命を認めたふりをして逃げてるような奴の気持ちなんてね」
「……」
哭士の目が紅く染まる。周囲の空気すら凍りつかせるような冷たい視線を菊塵は何度も見てきた。
若く、荒々しいこの狗鬼はここまでは分りやすい。だがここから先となると本心を奥へ奥へと悟られぬように押し込め、口を噤むのだ。
菊塵はあえて哭士に本心を語らせるつもりでいた。
「いい加減僕も苛々していたさ。本家に不良品と罵られ、自身の殻に閉じこもっていただけじゃないか。そんなに死にたいのなら、自分の狗石を潰して自害でもすればいい。そんな腑抜けた根性じゃ契約も結べなくて当然だ」
「黙れ!」
菊塵の言葉を待たず哭士が吠える。顔面めがけて拳が飛んでくる。
長年見てきた相棒の戦い方ならば、動きも癖も手に取るようにわかる。だが分かっていても速い。
掠める哭士の攻撃は桁違いだ。体ごと持って行かれそうな重圧感が何度も襲ってくる。
それでも特殊部隊で積み重ねた経験は無駄ではない。振り抜かれた哭士の手を使い、拳に掛けられた体重をそのまま放り投げた。砂煙を上げ哭士が砂を引く。
「負けるわけがない。自分を偽っているような意気地の無い奴になんてね」
迷いのない普段の哭士であれば菊塵も力に圧されこのように立ち振る舞いはできなかったであろう。動揺しているのだ。菊塵の言葉に、行動に。そして気概に。
「……始めは死んでも良いと……思っていた」
哭士の言葉に菊塵の片眉が上がる。
最近になり周囲に人が増えたものの、それまでの哭士はほぼ孤独と言っても間違いではないだろう。狗石を埋め込まれた恐ろしい祖父、本家に召し上げられ今まで会ったことの無かった兄、すぐに辞めてゆく使用人。長期にわたり哭士に接点を持っている者はいない。哭士を理解してやれるのは、今まで共にしてきた自分だけなのだ。
言葉で自身を全て語れるほど口器用ではない。ならば彼の得手とするもので語らせるしかないのだ。
「思っていた……? 今は違うとでも? 口先だけなら何とでも言えるだろう!」
菊塵の叫びに哭士が飛びかかって来る。菊塵はそれに応える。
――そうだ、全てぶつけてこい。
視線が交差する。鋭さが鈍っている。
哭士もわかっているのだ。先の言葉を菊塵が本心で語っていない事に。
だからこそ哭士は菊塵に向かう。菊塵の用意した舞台に甘んじて飛び込み、抱えている不安を、寿命が尽きる焦りを、目の前の相棒に真っ向から打ち付ける。腕を振るう。組みかかる。
互いの魂胆は自分のもののように分かっている。それでも二人の狗鬼は争いを止めない。
互いの思いを確認するよう、互いの気持ちを語るよう、言葉の代わりにぶつけている。
「不要な狗だと。僅かで終わる生きる価値などもない人生だと、そう思っていた!」
真っ向から向かってくる身体を菊塵はいなす。哭士は怯まない。
「だが今は、違う……!」
大きな岩が掠めるような鋭い拳。菊塵は手で払い哭士の脇腹を蹴りつけた。
「じゃあ、何だっていうんだ!」
砂が散る。地面に倒れこむ哭士を追い菊塵が飛ぶ。
迎え撃つように繰り出された哭士の拳をすり抜けるが、眼鏡が外れ、目の上を切った。
それを意にも介さずに菊塵は額を哭士の頭蓋に叩き込んだ。哭士は頭を振り払い体に跨っている菊塵を蹴り上げる。
地面に強く叩きつけられるが、痛みをかなぐり捨てるようにがばりと身体を起こした。
「制約なんかに縛られてたまるか……!」
絞り出すような哭士の言葉。繰り出される拳を反射する。受け流しきれなかった反動で弾かれそのまま哭士から離れた場所に降り立った。哭士もゆっくりと立ち上がる。
「俺は足掻く! たとえ寿命が訪ようと……最後まで足掻いてやる!」
哭士が空に嘯いた。
燃えている。身体から湧き上がる『生きたい』という情動が。
空気がびりびりと震える。
月に重なり照らされる鋭い氷の刃。
美しい、と菊塵は感じた。
舞い散る葉も、吐き出す息もすべてがコマ送りのようになる中でゆっくりと落ちる透き通った刃。
目の前に展開した反射領域の向こう側に光る、見開かれた瞳に輝く赤い虹彩。
赤色が目に焼き付いたその瞬間、この不器用な相棒の思いを、ほんの気まぐれに真っ向から受け止めようと思った。
菊塵は力を、抜いた。