4―10.仁
「おい、大丈夫か?」
強く、大きな手で揺すられ、意識を取り戻した。
口の中に砂が絡まり、思わず顔をしかめた。
「ほら、水だ。口をゆすぐといい」
竹筒を渡され、口に水を含む。思った以上に喉が渇いていた。砂も気にせず一気に水を飲み込んだ。
大きく息を吸い込み、人心地がついた仁は礼を言いながら竹筒を持ち主に返した。
随分と体の大きな男だった。
「浜を散歩していたらお前さんが倒れていてな。仏さんかと肌が粟立ったよ」
笑みを浮かべる男。仁ははっと今までの出来事を思い出した。
「姉さん! 姉さんは……!」
だが、見渡せど見覚えのない浜辺だ。周囲は砂浜が広がり、目の前には男が一人居るだけである。
「なんだ、姉もいるのか? ……辺りには見当たらんようだが……ところでお前さん、どこから来たんだ?」
自分が住んでいた島の名前を告げた。
とたんに男の表情が訝しげに歪んだ。
「なんだって?」
男は一度咳払いをする。
「ちょいとお前さん、混乱してるようだな。どれ、近くに宿を取ってあるから少し休むといい」
「うわっ!」
男は仁の体を軽々と持ち上げた。村では小柄な方であったが、一五の男である。だが男は重たがる様子もなく軽々とした足取りで砂浜を歩いてゆく。慣れぬ高さに仁は身をすくめた。
部屋の中に通され、仁はようやく男の腕から下ろされた。
「で、何だって? どこに住んでいたって?」
どっかりと目の前に座る男。やはり大きい。男の迫力に気圧されながら、仁はおずおずともう一度村の名前を答えた。
男は大きく息を吐きだした。
「あのなァ坊主、その村はかなり西の方にある島だがな、五十年前に大きな諍いが起きてから人は誰も住んじゃいないぞ。冗談は程々にして……」
「何だって……!」
仁は耳を疑った。何日眠っていたのかはわからないが、確かに今まで、姉や清太郎、村の者らと生活していたのだ。
「そんなわけない! 姉さんとずっと二人で住んでいた!」
そして、五十年前という思いもよらない年数は聞き間違いであろう。生まれて一五年、ずっと島で皆と共に生きてきたのだ。
「親は?」
「いない。二人でやってきた」
途端に男は同情めいた表情を仁に見せる。
「……その年で、さぞかし大変だったろう」
「俺はもう一五だ。十分一人でやっていける」
「おいおい……どこまで冗談を言うつもりだ。それとも、目が覚めたばかりで寝ぼけているのか? どら、そこに水を張った盥があるから、顔を洗ってこい」
「……」
男の態度が腑に落ちないまま、仁は示された場所まで足をすすめる。だが、妙に体が重いのだ。それが、自身が身につけている着物のせいである事に気づく。変に体にまとわりつき、足に引っかかるのだ。
そして、その違和感は盥を覗きこんだ瞬間に明らかになった。
「……!」
確かに、水面に写りこんでいるのは仁本人で間違いがない。だが、違うのだ。
見慣れた一五歳の仁の姿はそこにはなかった。もっと若く、幼い自分の顔が驚愕の表情を浮かべこちらを見つめていた。
顔をさすれば水面の人物も同じように顔をさする。瞬きも、口を動かすも同じように動く。間違いなく自分なのだ。
仁は暫し呆然と水面を見つめていた。
「ところでお前さん、行くあてはあるのかい?」
奥から顔を覗かせた男が問う。
はっと仁は気づく。男が大きすぎたのではない。自分の体が小さくなっていたのだ。
夢なのではないかと思った。仁は男の問いにぼんやりと無意識に答えていた。
「行くあて……は、無い……」
「ならば、一緒に来るか? 住むところを定めぬ生活だが、商いのよしあしなら教えてやる。お前さんの言う、その嵜ヶ濱村、か……近くを通る事もあるだろう」
男は自身の背後の大きな荷物を指し示した。男は商人のようだった。
自身の住んでいた島は遥か西方だという。今の訳のわからぬ状態で知らぬ土地、信じられぬが幼いこの身体では明日をも知れない。仁は素直に男の言葉に頷いた。
※
翌日から仁は男と共に各地を渡り歩いた。
体の変化について行けずに苦労もしたが、男は色々と世話を焼いてくれた。
一ヶ月も経つ頃には仁も男の仕事をそつなく手伝えるようになっていた。
「お前の姉さんはどんな人なんだ?」
宿を取り、布団に横になりながら男は唐突に問いかけた。
「……優しい人です。自分の犠牲も厭わないような、そんな人でした」
日々の忙しさに押し込めていた姉の記憶。仁は少しずつ男と出会う前の出来事を思い出していた。
「でした……って、亡くなったわけじゃなかろうに」
だが、生きているかどうかも分からない。自分は姉を守れなかったのだ。村長に捕まり、辛い思いをしているのだろうか。そして、五十年前という気になる言葉。だが、それを確かめる術を仁は持っていなかった。
「そうですね……でも……」
突如、全身に壮絶な痛みが走る。
血管中を針で刺されるような痛みに仁は声を張り上げた。
「おい、仁! どうした!」
男が布団から飛び起き、仁へと駆け寄る。
言葉が出ない。口から出るのは苦しみに耐える叫び声だった。
同時に、肩口、背中から布が裂ける感覚が伝わってくる。叫ぶ声が子供特有の甲高いものから徐々に低いものへと変わってゆく。
痛みが治まり、肩で息をしながら身体を起こした。
目に飛び込んできたのは、ようやく慣れた小さな手のひらではなかった。
身体の感覚が明らかに違う。近くに置いてある鏡に目をよこした。
鏡に写りこんだ見慣れた栗色の髪の自分は、二十を超えた大人の姿となっていた。
「お前……一体……!」
声に振り向くも、男は明らかに怯えていた。化物を見るような目だ。
子供がいきなり目の前で大人へと変じたのだ。無理もない。
「……!」
たまらず身を翻した。部屋を飛び出し、宿の階段を転がるように降り、外へと飛び出す。
半裸の男が目の前に飛び出し、女が悲鳴を上げる。
構わず駆けた。掛けてあった着物を竿から引き剥がし身を包んだ。
―― 一体、俺はどうなってしまったんだ……!
深夜の町を走り抜け、人が居ぬ方へ、人が居ぬ方へと仁は消えていった。
※
(何て夢……)
まだ外も暗く、部屋の冷え込みに身を震わせた。
仁も茜も、清太郎も、夢に出てきた人物の感情が全て流れ込んで来て、目を覚ました色把はぐったりと疲れていた。
(嵜ヶ濱村……と、仁は言っていた……?)
忘れようとも忘れられぬ土地の名前。
(一体……あの夢は何だったの……?)
先の夢の内容が色把の心中をめぐり、再び眠れそうにない。色把は胸に手を当て、大きく息を吐き出した。