4―9.黒い影と白い像
村長が大きく息を吐き出す。眼前に倒れている茜を見、頭を掻きむしった。
「あぁしまった……。死んでしまったか……。血が勿体無い、死体からでも血を持ってゆくか」
茜のもとに歩み寄り、そして途中で足を止めた。
「な……なんだ……?」
村長の声に、男共も異様な光景に気づいたようだ。
茜の胸から、ざわざわと蠢くものが溢れつつある。
それは血とは程遠いものであった。
その蠢くものは波打ち、沸き立ち、そして「生きていた」
ざわり ざわり
血の代わりに湧き出たその生き物は、真っ黒で、だが透けていて、見るもの全てを不快に、不安に陥れるものであった。
ゆっくりと生き物は目を開く。目玉がギョロギョロと周囲を探る。忙しなく動いていた目玉が、やがて動いている者に焦点を合わせた。
一番近くにいた、村長へ。
恐怖で足が竦んでいる村長に、生き物は迷いなく踊りかかった。
重さを感じさせない軽やかな動きで高く飛び上がり、迷いなく獲物の喉へと噛み付いた。
ようやく体の動かし方を思い出しても、もう遅かった。
悲鳴を上げようにも喉に開いた穴からごぼごぼと血が吹き出し、その血を美味そうに生き物が啜る。体をざわめかせ、歓喜を表す黒い生き物は次の獲物を眈眈と狙う。
恐慌状態に陥ったのは男たちである。
突然、倒れた女の胸から血ではなく見たこともないおぞましい生き物が現れ、目の前に人間をいとも簡単に狩り殺した。
足をもつれさせ、転がりながら一刻でも早くこの禍々しい物から離れようと背を向けた。
だが、生き物は早かった。一人、また一人と黒い生き物の餌食になってゆく。
悲鳴がおさまったときには、動いているものは一人として居なくなった。
食事に満足した生き物は、空気に溶けるように闇へと消えていった。
※
時が止まったかのような空間に、一つ、動くものが現れた。
「うっ……」
うめき声を漏らしながら、茜はゆっくりと体を起こした。
自ら刺した胸の傷で倒れたはずである。茜は無意識に自分の胸へと手を当て、そこで、自分の身体に起きている変異に気づいた。
じわり、じわりと溢れているのは、生物の証である血ではなかった。
まるで墨のような真っ黒な液体。指先に付いた黒色は、黒い靄となり消えてゆく。
「……!」
自分が異質なものに変異した事を、まざまざと突きつけられた茜は、暫し呆然と手のひらを見つめ続ける。
胸から黒いものが溢れてゆくたび、自身の肌から人間の赤みが消えてゆく。
陶器のように真っ白に、そして硬質に変わりゆくその様に、驚く程冷静な自分がいた。
仁に取り付いた黒いシミ、それは完全に取り除かれ消えたわけではなかったのだ。自分の体の中で外には出ずとも着実に増え続け、ついには自身の血液すらも真っ黒に成り果ててしまっていたのだった。
茜はゆっくりと立ち上がる。
自身の夫の元へと歩み寄るが既に息は無く、もう治癒出来ない事が明らかだった。
「……」
流す涙ももはや人のものではない。黒い黒い液体が地面へと落ち、霧散した。
そしてすぐ近くには自身を守ろうとした弟が、背中に刃物が突き立てられ、うつ伏せに倒れていた。僅かに刺さった刃物が動いた。
今なら、まだ弟だけでも助けられるかもしれない。
茜は弟の横へ膝を付き、刃物を抜いた。背中に黒くなってしまった血を分け与える。
だが、
「あ……ああぁ……っ!!」
黒い血が体に吸い込まれると、弟の体は激しく痙攣し、苦しく声を上げるのだった。
「!!」
慌てて手を傷口から話そうとするも、手はぴったりと傷口に付き、自分の力で離す事が出来なくなっていた。
のたうち回り、吠え声を上げる弟の姿を、見えない力によってどうする事も出来ない。自身の変異を受け入れていた茜はここで初めて動揺した。
「なんで……? どうして……!」
目を背け、この悪夢のような出来事が過ぎ去ることを心から祈った。
時間にすればほんの僅かなものであっただろう。
だが、この姉弟にとっては永遠とも思える長い時であった。
体に血が馴染んだのだろう。息も絶え絶えとなっているが、仁の苦しみは終わり、手を背から離す事ができた。
仁の傷は塞がり、何とか助かったようだ。仁の体は茜のようにはなっていない、それに心から安堵した。
だが、これからの事を考える。自身の体は人ではないものに変質しつつある。すでに腕まで白くなり、自身の意思で動かすことが出来なくなっていた。体が動かなくなるのは時間の問題だった。何とか村に戻れたとしても、最早村人たちが無事であるかも分からない。
せめて、この弟だけでも無事であって欲しい。
「……」
迷っている時間はない。茜の心中は定まった。仁を抱き上げ、洞の奥へと進んだ。
進むにつれ、さざなみの音が強くなってくる。
ちゃぷちゃぷと足元に海水が広がる。膝までの深さに到達した頃、複数の舟が縄で括りつけられ静かに揺らめいている場所へ出た。
茜はその中でも一番大きな舟へ仁を横たえさせる。縄を外し、月明かりが見える岩の切れ目へと船を強く押し出した。
今の時期ならば海も凪ぎ、転覆することはない。なだらかな潮が島の外の浜まで舟を運んでくれるはずだ。
小さくなる舟を見送りながら茜は祈った。無事で、生き延びて、と。
茜の足は白く固まり、動かすことは出来なくなった。
岩の隙間から差し込む月光は美しく、茜の頬を照らし出した。
柔らかな光を反射し悲しげな表情を浮かべた『像』は舟が遠ざかる様をただただ、見つめていた。