4―4.予見の力
仁の帰る先は、村の外れにある小さな家だ。村人らの好意で、もっと良い家を建てると申し出てくれたが、仁と、仁の姉は、両親が残した家に住むことを望んだ。
「今帰ったよ」
仁は、がたつく引き戸を開けながら、中の者に声を掛ける。
「おかえり」
暗い部屋の中に似つかわしくない、白く繊細な存在。姉の茜だった。弟の帰宅に安堵し、優しい笑みを浮かべる。
「身体の調子は?」
草履を脱ぎながら、仁は姉に問う。
「この頃は、随分身体が楽。……御免ね、仁。お前にばかり苦労させて」
茜の目が伏せられる。仁は、そんな姉の伏している床の傍らに座り込み、清太郎から受け取った麻袋を差し出す。
「こないだのお礼だって。今日はこれを食べよう。姉ちゃんは体力つけないと」
仁は姉に向かって笑いかける。それにつられるように、茜も目を細め、ゆっくりと頷いた。
その日の晩は久しぶりに白米を食べることが出来、心なしか普段青白い姉の顔にも血色が戻ってきているように思えた。
深夜、突如茜が布団から跳ね起きた。額にはびっしょりと汗をかき、肩で息をしている。
「姉さん、どうしたんだ? また予知夢か?」
尋常ではない姉の様子に、仁は布団から出て姉の顔を覗き込む。
今まで見たことも無いような恐怖の表情を浮かべ、うわ言のように呟く。
「村の反対側の崖に、鳥居ってあった?」
「鳥居?」
確かに、村の反対側の崖には、人一人が通れる道がある。その道を下ってゆくと、横穴がぽっかりと開いており、その中にはいつ、誰が建てたともしれない祠がある。姉はその事を言っているのだろう。
「あぁ、小さいけれど祠があるよ。そこに鳥居もあったはずだ」
仁は茜の言葉を待つ。姉の体は小刻みに震えていた。
「……何を見たの?」
「黒い、化け物」
茜の言葉に耳を疑った。今まで姉は、嵐、干ばつ、村人の怪我、病気などと、自然に起こりえることを予見してきた。
だが、今の言葉はあまりにも現実からかけ離れている。仁の反応を他所に姉は話を続ける。
「深い深い地面から這い出てきた黒い化け物が赤い鳥居の前で蠢いている……。その化け物は黒い霧になり、この村全体を覆い尽くしていった……。一体、何を暗示しているのか……」
茜は、自身の肩を掴み、身を縮こまらせた。自分が見た予知夢に戸惑いを隠せないようだ。
「明日の朝、皆で祠に行ってみるよ。きっとそれは、ただの悪い夢だ」
仁の言葉に、暗い表情の姉は一度だけ頷いた。
翌朝、仁は村の者数人と共に、姉が予知夢をみた祠へと向かっていた。
切り立った崖に沿うように、人が一人通れる幅の道が続いている。姉の「化け物」という言葉に警戒をし、男たちの手には鍬や鋤が握られている。海からの強い風に煽られながら、一列になり、無言で道を下り続ける。
半刻ほどかけて、ようやく祠の入り口へとたどり着いた。祠の前には、潮風で色が褪せてはいるが、赤い鳥居が立っている。
予め持ってきていた松明に火をともし、仁達は祠の中へを歩を進めた。
祠の中は波の音と潮風が響き、静寂な時が一秒として無い。何年も村の者らが足を踏み入れていないせいか、吹き込んだ潮と雨で地面はぬるぬるとし、独特の臭いが辺りに立ち込め気持ちが悪い。
「特に変わったところは無さそうだな」
松明を持って先頭を歩いていた男が仁に話しかける。その言葉に、改めて仁はぐるりと洞の中を見渡し、頷いた。
ふと、仁の視界の端で何かが動いた。
動いた気配の方向へ、手に持った鍬を構えながら一歩一歩近づく。
松明を持った男も仁に気がつき、視線の先を照らせるように後に続いている。
松明の光に照らし出されたものを見て、仁は目を丸くした。
「これは……」
「姉さんの予知も外れる事があるんだな」
仁の腕の中で、黒い塊が動く。茜は一瞬仁の持っている物に警戒し、身を強張らせたが、その塊が鳴き声をあげると、体の力を抜いた。
――ニャア
生まれてまだ数か月程だろう。仁の両手にすっぽりと収まってしまうほどの小さな黒い猫だった。
「皆も安心して帰って行ったよ。大事が無くて何よりだって」
「そう……」
茜の表情は猫を見つめ、さえないままだ。猫を抱えたまま家に上がりこもうとする仁に、茜は困惑の表情を浮かべた。猫の毛が体に障る可能性があるかもしれないからだと仁は思った。
「随分弱っているから、今夜だけ世話をさせてくれよ。大丈夫、姉さんの近くには寄らせない」
仁は箱に布を敷き詰め、浅い呼吸を繰り返す猫を横たえさせた。