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3―38.呼びかける男

「早池峰、大丈夫かよ」

 左足を引きずりながら駆ける哭士に、ユーリが声をかける。

「……構うな、先に行け」

 額からは脂汗が滴り落ちている。自分の為に遅れを取るわけにはいかない。仕方なしに哭士は駆けるスピードを緩めた。ユーリは哭士の言葉に頷き、先を走る莉子の後ろへと付いた。

 先頭を走っていた友禅の犬は、渡り廊下の向こう側に向かい吼え立てる。

 廊下の向こう側を指し示した事に気づき、莉子は犬を抱え上げ、渡り廊下を飛び越えた。

 莉子に続いて渡り廊下の上に飛び上がった。ユーリの姿も渡り廊下の向こうに消えてゆく。

 左足の痛みは、絶え間なく哭士に襲い掛かる。歯を食いしばり、大きく息を吐き出した。



「哭士よ。何を急いでいる?」



 嘲笑うかのような口調で自身に呼びかける声。

 はたと足を止めた。ここに居るはずの無い男の声に、哭士は耳を疑った。

「お前……」

 声に振り返った先に立っていたのは、叔父である烏沼 克彦だった。



 克彦は一人の男を従えて立っていた。妙に白い肌に、爬虫類を思わせる温度の無い瞳。哭士は男に見覚えは無かった。

 左足を引き、克彦を睨みつける。

「何故こんな所に居る」

 哭士の問いに、克彦は肩を揺らして笑う。頬の火傷のあとが醜く引き攣れる。

「なァに。ちょいとね、後始末に来たのさ」

 哭士はいつでも動けるよう克彦とその傍らに居る男の挙動に神経を張り巡らせた。

 その哭士の様子を知ってか知らずか、克彦は肩を震わせ笑う。


「長年お前たちを見続けてきて、良かったと思うよ。これで俺は、全ての恐れから解放される」

 克彦が満ち足りたような笑みを漏らす。だが、哭士はその言葉の意味を飲み込めずに居た。

「あぁ、長かったなぁ。もう20年近くになるのか。俺が『あの方』と始めて出会い、心奪われたのは」



――あの方?



 哭士には思い当たる人物が居ない。哭士の険しい表情を他所に、克彦の遠い目には愉悦の色が浮かんでいる。

 克彦の傍らになっていた男が耳打ちをする。男の唇は『御世様がお待ちです』と言葉を放っていた。

 克彦は男に向かって頷き、哭士に向き直った。

「これで全ての鍵が揃った。もうお前たちは用済みだ。当主は屋敷とともに自害する。これで全ての準備が整う」

「……何だと?」

 哭士が目を眇める。



「いいのか? 奴らはもう先にいっているが?」

 ちらりと皆が行った先を見、哭士を挑発した。

 菊塵が哭士の名を呼ぶ声が届く。はっと顔を上げる哭士

「あばよ、駄犬。精々足掻きな」

 哭士が注意をそらした一瞬だった。克彦の傍らに立っていた男が克彦と共にその場を去ったようだ。視線を戻したときには、二人の姿は無かった。


(当主が、自害?)

 哭士の心中に残る、克彦の言葉。哭士は菊塵の声のする方へと足を向けた。






      ※





 友禅はゆるりと瞼を開いた。やはり眠れない。菊塵の部下から報告を受けてからだ。


 本家が襲われた、と。


 軟禁された哭士を救うべく、本家へ足を向けたのがほんの一月ほど前。それ以前となると、本家の地下に囚われていたものの、従来の本家の姿を何年も見ていない。

 友禅の脳裏には、一人の人物の顔が浮かんでいた。



――カナエ





      ※





「こうすれば、男に見えると思って……」

 長かった髪を、耳の横で無造作に鷲摑み、鋏でばっさりと切り落としてしまったのは、カナエの父が死んで1年も経たないある日の事だった。

 ハラハラと落ちる長い髪を気にも留めずに、反対側の髪にも手を伸ばそうとし、友禅が鋏を慌てて取り上げた。突然目に飛び込んできた光景に、友禅はどう声をかけてよいのか分からず、鋏を握り締めたまま膝を折り、カナエの目線に合わせた。

 カナエの泣きはらした真っ赤な目から、今にも涙が零れ落ちそうになっている。

「私が女だから、皆話を聞いてくれないのでしょう? 当主が女だから、私が子供だから……。そうでしょう?」




 違う、とは言えなかった。本家の当主を務める者は代々の直系の血を持つ者でなければならない。

 突如当主が病に倒れ、その血を継いでいるのは、一人『娘』のカナエのみであった。


 幼くして当主となり、必死に自分の責任を果たそうとしているカナエの心中を知り、居た堪れなくなった友禅は、カナエを強く抱きしめた。

 この少女には余りにも重過ぎる重圧が課せられている。このような事になる前に少しでも気づいてやれていれば。友禅の胸は締め付けられるようだった。



 そして程なく、友禅は忌家へと囚われ、それからカナエとは会っていない。

 色把と話す姿を盗み見、あまりのカナエの変わりように心底驚いた。「僕」と己を男のように演じ、他者を受け入れない冷たい受け答え。本家当主であれば、沢山の狗鬼が警護するはずであろう周囲には、男女一人ずつの狗鬼しかいない。

 どれほど辛い思いをしてきたのだろう。胸は苦しくなる一方であった。



      ※



「せめて、無事で……」

 身体が自由に動かない今、友禅は案じる事しか出来なかった。




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