3―36.紅い狗
哭士の背に、今まで感じたことの無い怖気が走る。ユーリもそれを感じたらしい。屋根の上から、哭士らの近くに着地した。
何か、巨大なものが接近していることを察する。今まで大人しくしていた友禅の犬が激しく吠え立てる。
人ではない。何か、大きな岩石のような威圧感。狗鬼としての本能が、警鐘を鳴らしていた。
哭士が顔を上げたのを皮切りに、その場に居る狗鬼らも、近づいてくる大きな気配に気付いたようだ。警戒する対象が、目の前の敵ではなく、その威圧感に切り替わる。
「来る」
哭士の声と同時だった。
ガシャンという何かが割れる音が頭上から響く。全員がその音に顔を上げ、目に映ったものに息を飲んだ。
「何だ、アレは……!」
屋根の上に佇んでいるのは一体の獣、だった。だが、その獣の名を、誰もが口にすることは出来なかった。
犬でもない、獅子に似ているがそれとも違う。ましてや人ではない。
長い鬣を風に揺らし、尖った耳まで裂けている紅い大きな口。その口からは、獣のものではない赤い液体が滴り落ちている。
屋根の瓦を踏み潰した四足は、太く逞しかった。
見たことも無い大きな獣だ。喉の奥から洩れる重低音は、周囲の者らに緊張の空気を孕ませる。
僅かに獣が動くと、その獣の周囲のぴりりとした空気も敏感に伝わってくる。その雰囲気は、神々しさと言うよりは、禍々しいと言い表すのが順当だった。
爛々と光る目は、ぐるりとその場を見渡す。その目に映り、動けるものは居なかった。
「見たことねえぞ、あんな生物。しかもかなり凶暴そうときてら」
ユーリの額から、汗が滴り落ちる。無意識に、獣が恐ろしい力を持っていることを察したのだ。
そして次に動くときには、間違いなくこの場に居る誰かに牙をむいて襲い掛かってくるという事も何故か分かった。
突如、上がったのは野太い雄叫びだった。
その声に全員が振り返り、そしてその光景に目を疑った。
「!!」
倒れている久弥の上に覆いかぶさるように、獣が現れていた。
あわてて屋根の上に視線を戻すも、既に獣の姿は無い。まるで瞬間移動をしたかのような神速。
獣はその場にいる一番弱りきっている者に飛び掛ったのだ。あまりの神速に、久弥も対処することが出来ない。
先の戦闘から負傷している状態では組み伏せられた状態から抜け出すことなど不可能であった。
「何だ! 何だ! こいつは!」
今や『狩る』側ではなく『狩られる』獲物と化した久弥の口からは恐怖の声が洩れ、その言葉は意味を成さない。
獣の首が下がり、久弥の身体に牙が突き刺さる。周囲の者の耳を劈くような凄惨な悲鳴。
ゴキリ、と硬いものが折れる音、水分を孕んだ柔らかい音が獣の口から響き渡る。
何度目かの生々しい音と共に、久弥の叫び声が途切れる。
獣の下に転がるものは、もう人の形をしてはいなかった。
顔を上げた獣の口からは、先ほどまで『久弥』だったものが零れ落ちた。
その場を動けるものなど、誰も居なかった。
菊塵の身体が震えている。
今までに対峙したことの無い恐ろしい存在に、狗鬼としての本能が、警鐘を鳴らしている。
「な、何をしている! 殺せ!」
二人残っていた久弥の部下が叫ぶ、もう一人は一瞬怯んだ様子を見せたものの、銃を獣に向ける。
激しい銃声と共に、獣に弾が打ち込まれるが、獣は全く怯む様子が無い。それどころか銃を放った部下らに標的を変え、一瞬のうちに踊りかかった。
自身の能力を発揮する間もなく、その太い前足で地面に叩きつけられた瞬間に頭部を噛み砕かれる。まるで握りつぶされた水風船のように脳漿と血液がはじけ飛ぶ。
数える間もなく次々と獣の牙にかけられ、悲鳴さえ上がる隙も無かった。周囲は短時間の間に血の海と化した。
獣の紅い身体は、本来の身体の色ではなく、他者の血で染められたものだということに気が付く。
唸り声を上げ、死体から顔を上げる獣。
獣の瞳に映りこむ者が、次の獲物である事をその場に立っている全員が察した。
鋭い瞳が、哭士を捉えた。
獣の目が見開かれ、前足に力がこもる。身構えた瞬間、十メートル程離れていた獣は哭士の目の前に迫っていた。
――速い!
何とか獣の動きに対処し、後ろに飛ぶ。その動作一つで獣の爪を避けるのも間一髪の所だった。
飛びずさり、着地をせぬうちに次の爪が哭士の胸に向かってくる。
「!!」
反応が出来ず目を見開く哭士の目の前で、鋭い刃物のような爪が止まった。
獣の目が見開かれる。
「下がってくれ、早池峰」
ユーリの壁が、獣の爪を止めたらしい。壁は、右前足そのものを固めているらしく、獣は苛立った様子で見えない壁に噛り付いている。
哭士は身を翻し、獣から離れた。哭士の傍らにユーリが立つ。
「暫くは動けないはずだ」
ガリ、ガリと噛み付く音と獣の唸り声が響き渡る。改めてみる獣の姿は、おぞましいという言葉が相応しかった。
光の差さない瞳は、常に獲物を探し、血の臭いを絶えず体から発している。
「……速すぎる」
獣のすべての動きについていける狗鬼など、居はしなかった。瞬きをした次の瞬間には、別の場所に移動している。余りの速さに、移動している軌跡すら見えないのだ。これでは、向かってこられても防ぎようが無い。
「ねえ」
莉子が、哭士の傍らに立つ。
「奴の動きを止めれば良いんでしょ?」
莉子の目はまっすぐ獣に向けられている。
「出来るのか」
哭士の問いに、莉子は一度頷いた。
「獣の質量を十倍に上げるわ。動きが鈍くなれば、動きを追えるでしょ?」
莉子の能力は物質の質量を操れる。獣も、体が重くなれば、今のような神速は発揮出来ないはずだ。
「僕が莉子を援護します」
莉子は能力を発動中は、全くの無防備になるのだという。そこを狙われてはひとたまりもない。
「……あまり長時間は発動出来ないの。頼んだわ」
莉子の目が、獣を映し出した。
同時に哭士らも身を屈め、獣の動向に注意を向けた。