1―12.哭士の祖父
菊塵が手配した車で、色把は早池峰家に戻ってきた。
現在、色把の目の前には白髪の老人が座っている。早池峰修造、哭士の祖父である。昨晩、色把が屋敷を抜け出してから、入れ違いに主が戻ってきていたようだ。
マキが製薬会社の会長と言っていた、七十歳とは思えないまっすぐな背筋、眼光は鋭く、迫力がある。そして、やはりどこか哭士と似ている。修造は枯れ木のような手を組み、色把を見つめている。
修造の隣には菊塵が着席し、色把の話す言葉を、唇を読んで修造に伝えている。
「よく、いらして下さった」
そう言って修造は色把に頭を下げた。とんでもない、と色把はかぶりを振る。
『私が勝手な事をしたばかりに、哭士さんが怪我を……』
項垂れる色把。
「儂が其方を護るよう命じたのだ。命に替えても命令を遂行するのが哭士の役目、お気になされるな」
修造は静かな口調で答えた。しかし、自分の我侭であのような事態になったことには変わりは無い、そう話そうとしたところで、すかさず菊塵に昨日あった事を話すように促された。
タイミングを逃した色把は、昨晩の出来事を順に話していった。
「……へぇ、あの哭士がねぇ」
色把の説明が終わると、哭士が自らの意思で色把を屋敷に連れて行ったという思いもよらない行動に、菊塵は僅かながら驚きの表情を見せた。黙って色把の話に耳を傾けていた修造は、徐に口を開いた。
「お婆様の突然の落命、さぞかし無念であろう。しばらくの間は落ち着かれるまで、拙宅に居られればよい。其方は、かつてわが早池峰家の友禅との婚約者であったからの」
哭士たちが、何故閉じ込められていた自分を救いに来たかも、これでようやく合点した。
修造は初めに見た印象とは違い、今は優しい話し方をする気の良い老人に見えた。祖母が居なくなってしまったあの家に戻るのは気が引ける。図々しいとは分かっていたが、色把は修造の申し出に、素直に甘える事にした。
「今、よろしいかな?」
と、そこへ、襖の外から声が掛けられる。修造が了承の返事を返すと、四十代から五十代程の白衣を羽織った男性が静かに部屋に入ってきた。
哭士を診ていた医者だ。白い肌が印象的で、髪を後ろで一つに束ねている。人が良さそうだ、と人目見て色把はそう思った。
「あぁ、この方は、桐生さん。狗鬼に詳しいお医者さんです」
菊塵が桐生と色把をそれぞれ紹介する。修造に促されると、ニコニコとしながら、入り口近くに桐生は腰掛けた。
「お孫さんの容態について、ご報告をと思いまして」
「それで、哭士は?」
「昨日の困憊状態については、いつもの契約失敗によるものですね。過去に数回あった籠女との契約失敗時と同じ症状でしたから」
『契約の、失敗?』
色把の言葉に菊塵がすぐさま答える。
「契約は、狗鬼と籠女の両者が額と額を接触させて成立となる。通常であれば、互いの首の後ろに印が発生して完了するのだが、哭士の場合、何故か籠女と契約を結ぼうとすると、拒絶の反応が起きる。原因は今も不明のままだ」
昨日の哭士のあの状態は、拒絶反応が起きた後だった、というわけだ。
「いつもなら、数時間後には何事も無かったかのように回復しているはずでは?」
「哭士君曰く、今回は契約前に、酷い眩暈が襲ってきたとの事です。直前に、耳に水が掛かったとか」
「水、ですか。特に関係のないように思えますが」
「いえいえ、人間の耳の奥に、三半規管という器官があってですね、そこに水が溜まると、酷い眩暈が起きるのですよ。まさに、今の彼はその眩暈の状態が後遺している状態です。流石に身体の強い狗鬼でも、器官そのものをやられてしまっては、どうにもなりませんからね。」
昨晩、自分を少女から庇った男性が言っていた。「彼の動きを一時封じさせてもらった」と。その事を思い出し、菊塵に話した。
「その男性が、哭士を人為に動けなくさせた、という事か。待て、水……?」
「特殊な力をもつ狗鬼なら、可能でしょうね」
桐生は、のんびりとした口調で語る。菊塵は、またもや静かに考え込んでいるようだった。
「兎に角、哭士君の回復力は並大抵の物ではないので、安静にさえさせていれば数日で通常通りになるでしょう。勿論、命に別状はありません。では、私はこれで」
「どうも、有難う御座いました」
菊塵と、修造が桐生に頭を下げる。色把も慌てて頭を下げた。
桐生が立ち上がり、部屋を出て行った。修造も桐生の後に続く。
「ご自宅と思って、お過ごし下さい。儂は哭士を見て参る」
修造は色把に語りかけると、静かに襖が閉まった。