3―24.業
がらんと人の居なくなった病室を見渡す。
傷を癒すために眠っていたが、眠る前とさほど痛みは変わっていなかった。ずきずきと疼く体をゆっくりと起こし、深く息を吐き出した。
――君、狗鬼としての治癒力が殆ど無くなってしまっているよ。
病院に担ぎ込まれ、目を覚ました友禅に放たれた一番の言葉がそれだった。
狗鬼としての本能が働き、ひたすらに眠りを欲する。だが、十何時間と眠っても、籠女の血を与えられようとも、友禅の体に走る無数の傷は、瞬時に塞がることは無かった。
狗鬼同士の子供として生まれた友禅は、他の狗鬼に比べ、ほんの少量の籠女の血で全快になることが出来ていたはずであった。
桐生から受けた説明によると、長い期間狗鬼の力を封じる首輪をはめられていた事で、体が人間のものに近くなってしまったという事らしい。
だが、狗鬼としての身体能力や、特異な能力は、今の所はそのままであるという。
――無理はしないでおくれよ。また今回みたいな大怪我を負ったら、次はアウトだよ。
何時も朗らかな笑顔を絶やさない桐生が、僅かに強張った表情を向けた。
その時、友禅はその言葉に頷くことしか出来なかった。
(きっと、これは彼らを殺めてしまった戒めなのだ)
何度も、何度も、悪夢になって現れる、亡者となってしまった者たち。この手で命を狩った者たちの顔が浮かぶ。
力を取り戻した目で見た男たちの顔は、いまでもまざまざと思い出せる。そして、彼らの命の源でもあった生ぬるいドロドロとした液体の感覚も消えることが無かった。
次に命を懸けるような諍いがあれば、自分は間違いなく命を落とすだろう。
その諍いは、遠い未来ではなく、もうすぐ自分に迫ってきているのを感じる。それから逃げ出すつもりは毛頭無かった。
(甘んじて受けよう。それが、私に課せられた業なのだから)
体を絶え間なく蝕み続ける痛みを、深く息と共に飲み込む。
(取那は、無事なのでしょうか)
心中で一人呟き、苦いものが広がる。
【神】の器として攫われたのだ。恐らく、すぐには身体に危害が加えられることは無いだろう。
だが、取那があちらに渡ってしまった以上、彼女の存在がこの世から消えるのは時間の問題だ。
拳を強く握り締めても、どれほど悔やんでも、攫われてしまったのは事実だ。
――取那
友禅の脳裏に浮かぶのは、取那と分かれた一番最後の情景だった。
哭士が、色把を連れ、比良野家にやってきたあの時。取那は色把に切りかかった。
友禅はそれをすんでのところで制止し、その場を離れた。
友禅が取那と離別したのは、その直後だった。
※
「何故、止めたの!」
比良野家の裏山。取那が友禅に詰め寄る。その様子を、シイナが不安げに見つめている。
早池峰哭士との契約を結び、自分の狗鬼にすると取那が言い出したのは数ヶ月前の事だった。
ただ、契約が結べないというだけで不要物として扱われている哭士と、契約を結ぶことさえ出来れば、哭士も寿命の制約を外すことが出来、取那も早池峰の狗鬼に護られる籠女として、本家に手厚く迎えられるというのだ。
確かに、狗鬼同士の間に出来た子供という事が判明し、更には子を遺す術を失った友禅では、哭士の役柄を果たすことはどう考えても不可能だった。
取那は幼くして牢に閉じ込められていた為か、彼女の言動には子供の我侭のような部分が見て取れる。今回の件についても、あまりにも短絡的な発想だった。
取那の余りにも強引な言いように、渋々哭士の足止めに手を貸した友禅だったが、それだけでも、良心の呵責に耐えられなかった。
「もう、止めましょう。取那」
友禅は、ゆるゆると首を振った。その友禅の様子に、取那の目つきが鋭く変わる。
「何故!? 言ったでしょう? 本家を見返してやるの! 偽物と本物を見抜けなかった間抜けな本家を見返して、あの偽物を引き摺り下ろしてやるんだ!」
頭を大きく振りながら、噛み付くように友禅に食って掛かる取那。その様子を、友禅は目を眇めて見つめる。
「……それから?」
友禅の纏う雰囲気が一変する。その様子に取那は思わず怯んだ。
「それから、どうするんです? 哭士を手中に入れ、本家に貴女が本物と認めさせて、どうなるというのです? 今までの貴女の苦しみが無くなるわけではないでしょう? もう、復讐など止めましょう」
「……今更」
そういう取那の声は、僅かに震えだしている。
「気づいてください。復讐からはなにも生まれない。不幸な人間が増えるだけです。狗鬼や籠女である事を隠していけば、充分人間社会で生きていけます。貴方は私を救ってくれました。だから、私は貴女が望むことは可能な限り叶えようとおもっていました。でも、もうこれ以上、貴女の行いに手を貸す事は、できません。だから、取那……。全てを捨てて、一緒に、ヒトとして生きましょう」
友禅の言葉に、取那の言葉が詰まる。大きく気持ちが揺れ動いているのが分かる。
「取那」
友禅が一歩取那に歩み寄る。
だが、僅かな時間に逡巡した後、取那は友禅の言葉を振り切るように首を大きく振った。
「だったら! アンタは何なの!? 過去に囚われているのはアンタだって同じでしょう! 偉そうな口きかないで!」
「……」
取那の言葉に、押し黙る友禅。
「私は、諦めない」
取那の言葉に、友禅は悲しげに首を横に振った。友禅の必死の訴えは、僅かに取那に届かない。
「もう、話すことは何も無いわ」
取那の強い目が、友禅を射抜く。揺らぐことの無い意思。それを動かしているのは、恨みと怒りだ。
「友禅……、取那……」
事の始終を怯えた様子で見つめていたシイナが、ようやく声を発する。
「行くわよ、シイナ」
取那は乱暴にシイナの腕を掴み、振り返りもせずに、闇に消えていく。
「私は、貴女が目を覚ましてくれる事を、願っています。また、会いましょう、取那!」
取那の耳にも聞こえるよう、友禅は暗闇に向かって大声で呼びかけた。
遠くで、取那が少しだけ立ち止まる気配を感じたが、間もなく二人の人物は遠ざかっていった。