3―11.一つの望み
それからというもの、狗鬼らの目を盗み、友禅は足繁く取那の牢の前へ通い続けた。
ただただ、自分の言葉に、更に言葉が返ってくるのが嬉しかったのだ。本家に居た頃の話、自分の好きな物の話、飼っていた犬の話。時間が許される限り、思いつくままに言葉を綴った。
取那も、話し相手というものが居なかったのだろう、初めは全くの無表情だった取那の顔に、やがて少しずつ人間らしい顔が戻ってきていく様が、友禅にも手に取るようにわかった。徐々に取那の心の壁が取り払われ、友禅にも随分と打ち解けた。
取那の牢に置かれている蝋燭が半分になると、友禅は鉄の扉を元の状態に戻し、自分の部屋に戻る。
牢の管理を任されている友禅が、男たちが寝静まった後に出歩いていても、不自然なことは何も無い。細心の注意を払いながら行われた友禅と取那の密会は、誰にも見つかること無く、繰り返されていた。
「全てが懐かしい……。戻れなくなってから、あんなに嫌だった、あの屋敷が懐かしい。これって、我侭なのかな」
友禅の話を聞き終えて、取那がぽつりと漏らした。牢に寄りかかるようにして座っている取那が背中越しに口を開いた。
「そろそろ、話そうか。……私が、どうしてここに居るのか」
先ほどまで浮かんでいた笑みは、一瞬のうちに消えてしまった。伏せられた目は、過去を見つめているのだろうか。じっと動くことなく、一点を見つめていた。
※
「これが、私に起こった全て。今でも、何が何だか分からないのよ」
全てを語り終えた取那の顔は、この世の何よりも悲しく、そしてすぐにでも消え去ってしまいそうだった。
そんな取那の表情を見ていられなくなった友禅は、勤めて明るく言葉を発した。
「そうだ、取那。何か、欲しいものはありますか。私なら、この地下をある程度動き回ることが出来ますから」
「……え?」
一瞬、何を言われたのかを理解できなかったようだ。友禅の目を見つめてから、言葉を飲み込むようにして取那は俯いた。
「……言ったって、絶対に無理だわ」
取那の湿った睫毛が何度か瞬く。
「言ってみてください」
友禅が微笑みながら取那の顔を見つめる。暫くの間、取那の視線は友禅の足元をさまよっていた。
「花」
やがて、取那が呟くように言い放った。
「……花が……見たい」
小さくつぶやいた声は、不思議と友禅にはっきりと聞こえた。
太陽も数年見ていない。暗闇が支配するこの忌家では、花というものは、遠くかけ離れた存在だった。
「……花、ですね」
友禅は一度小さく頷いた。
※
勿論、この薄暗い地下の世界に、地上を飾る花などが簡単に手に入るはずは無い。
地上と地下を出入りする弊履の族に頼むなど以ての外だ。
(何か、方法は無いものか)
男共が食い散らかし、そのままになっていた後片付けをしながら、友禅は思考をめぐらせていた。
ふと地上に繋がる階段に繋がる扉から、人が降りてくる気配がし、友禅は掃除をしている手を止めた。
部屋に入ってくる者の妨げとなれば、すかさず拳や足が飛んでくる。部屋の隅へと移動し、その人物が入ってくるのを待った。
「友禅、居るだろう。開けろ」
中にいる友禅の気配を察したのだろう。出入り口の扉の奥から声が掛かる。手早く取っ手に手を掛け、戸を開いた。
入ってきたのは、両手に大きな荷物を担いだ弊履の族の一人だった。
部屋の中央にある卓にその荷物を下ろすと、それらはガチャガチャと音を立て、中にガラスの瓶が詰まっていることが分かった。奥から別の男が顔を出し、声を掛ける。
「おい。何を持ってきたんだ」
声を掛けられた男は、にやりと笑みを漏らす。
「酒だ」
男の一言を聞きつけた男共が、蛮声を上げながら部屋へと集まる。本来、本家にこき使われている存在の彼らは、酒を口にすることなども殆ど無いのだろう。
「本家で何か慶事があったらしい。大量にあったから、少しばかり頂いてきた」
荷物から瓶を取り出せば、上等な酒ばかりが机上に並ぶ。男らのどよめきが大きくなる。
「なんだ、食い物まであるじゃないか。摘みに丁度いい」
酒に紛れて、幾つかの菓子も荷物からこぼれ落ちる。
「酒盛りだ! 早く開けろ」
酒を目の前に、興奮しきっている狗鬼達。忽ちのうちに、酒瓶の封が切られ、酒宴が始まった。
このような時、男共を刺激せぬよう、目に触れないようにするのが得策であることを友禅は知っている。友禅は、部屋から静かに遠ざかった。
「友禅!」
部屋を離れて半刻程だろうか、自身を呼ぶ声が聞こえる。相変わらず廊下には、男たちの蛮声が響き渡っている。
友禅が、酒宴の部屋に顔を覗かせると、男の一人が床を指す。
「杯が割れた、片付けろ」
地面には、陶器の破片が無数に散らばっていた。友禅は言われるがままに地面にしゃがみこみ、破片を拾い集める。
その間も男らは、他愛の無い話をしては、大声を上げて笑っている。
友禅が破片の全てを片付け、部屋を去ろうとした時だった。酒を持ち込んで来た男が、友禅を呼び止める。
「今日は、気分が良い。お前にも少しばかり、分けてやろうじゃないか」
そう言って、男は散らかりきった卓の上を指す。
「酒でも、食い物でも、好きなものを一つだけ持っていけ」
酔いが回り、かなり上機嫌になっているらしい。他の男らからも、不満の声が上がらなかった。あるものは杯を呷り、あるものは友禅の動向をニヤニヤとしながら見守っている。
友禅は卓の上を見渡した。
酒の封は殆ど開けられ、底の部分に僅かに残っているものばかり。酒と共に紛れ込んできた食べ物も、殆ど食い散らかされ、僅かにしか残っていない。
ふと、卓の中央に残っている砂糖菓子が目に入った。男共は甘いものを好まないのか、それだけは手がつけられていない状態だった。
友禅は、菓子を指し、口を開く。
「私は酒が飲めませんので、菓子を一つ頂けますでしょうか」
男は友禅の言葉を鼻で笑うと、卓の上の菓子を乱暴に掴み、友禅に向かって放り投げた。受け取った友禅は、一つ頭を下げ、踵を返した。
「なんだ、女みたいな奴だな」
動向を見守っていた男達の一人から声が上がる。
「タマが無いんだ、仕方がなかろう」
同時に男共の下品な笑い声が響き渡る。このような言葉には既に慣れている。友禅は、何の反応も見せぬように、静かに自室へと戻った。
その様子を、一人の狗鬼の鋭い目つきが追っていた。
自身の部屋に戻った友禅は、手の平に感じる、僅かな重みに、高揚を覚えていた。
本家の慶事で出される砂糖菓子は、美しい細工が施されている。友禅の手の中にあるのは、本物とは程遠いものの、美麗と言い表すには十分な花の細工が施された砂糖菓子が納まっていた。
本物の花ではないが、きっと取那も喜ぶはずである。桜紙で優しく包み、最下層へ向かえる次の機会を待った。