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3―10.失った殻



――友禅様


 遠くで声が聞こえる。


――友禅様、友禅様。



 瞼の向こう側には光が溢れている。

 友禅はゆっくりと目を開いた。


 障子から朝日が差し込む眩しい一室。

 凛とするような畳の香り、暖かな木の天井。

「友禅様」

 障子のすぐ外から声が掛かる。女中だ。

「はい」

 咄嗟に障子に向かって返事をする。

「珍しく遅いお目覚めで御座いますね。朝餉の用意が整っておりますよ」

 慌てて返事をした様子が伝わったのだろう。障子の外からはくすり、と柔らかく笑う気配がする。

「ただ今、参ります」

 友禅の声を確認し、障子の前の女中の気配が、ゆっくりと遠ざかってゆく。



「友禅様、お早う御座います」

 すれ違う女中は、友禅の姿を見かけると立ち止まると、深々と頭を下げる。幾度と繰り返した朝の様子。その様子に友禅も頭を下げ、廊下を進む。

 朝の七時をまわった所だろうか、庭はまだほんのりと朝露で湿り、日の光で徐々に空気が温まってきているようだ。



 大広間の襖を開く。

 中にいる者らの視線が、一斉に友禅へと向けられる。

「友禅様、お早う御座います」

「お早う御座います」

「友禅様」


 皆、顔には笑みが浮かび、友禅の名を口にする。



――友禅様


――友禅様  友禅様……



 見慣れた顔が、目の前に現れては消えていく。皆、顔には笑みを浮かべ、友禅に対し、好意の表情を向けている。

 やがて、その顔たちは少しずつ薄れ、呼びかける声が遠ざかっていく。





 ハッと、目を覚ました。

 身を包む襤褸の着物、薄汚れた布団、素足では歩けぬほど荒んだ畳。辺りは暗闇に包まれている。

(夢、か)

 囚われて数年、見ることも無かった本家に居た頃の夢。

 おそらく、あの少女に出会ったからだ。



 二度と戻れぬ、明るかった日々。

 かつては懐かしく思ったあの空間。

 だが、今となっては、先ほどの夢は、友禅に別の意味を与える。


 失ってから気づいたのだ。

 周囲の者が尊敬の念を表していたのは、自分自身ではなく、早池峰家の長男、強い狗鬼、そしてその血という、友禅を取り巻く外側の殻であったということだ。

 それにも気付かず、悠々と時を過ごしていた自分が全てを失った今、こうして眩しかった日々に苦しみを覚えている。

(なんて笑える、滑稽な、話だ)

 暴力に耐え、残飯のような飯を食み、みるみる身体は痩せ衰えていった。自分を固めていた殻を全て失い、このような場所に囚われても、腹は減り、喉も渇く。まだ身体は生き延びる事を欲しているのだ。

 だが、これから先、何も求められる事もなく、与える事もなく、このまま薄暗い地下でひっそりと朽ちていくのだろう。

 黴の臭いにも、暗闇にも慣れてしまった。だが、その暗闇は友禅の心をも蝕もうとしている。無意識に喉の奥から洩れる嗚咽にも似た唸り声は、自身を哀れむ別の自分か、自分でも分からなかった。


 


(私は、一体どうなってしまうのか)

 脱走を企てるわけでもない、男共に抗うことも無く、ただ服従し続け、三年もの時が過ぎている。

(あの方も、同じなのだろうか)

 入ることを禁じられていた最下層で出会った、かつての許婚とそっくりの少女。顔に表情は殆ど無く、放つ声も弱弱しい。

 自分の名を知り、目を見開いていた少女を思い出す。

(彼女は、何かを知っているのだろうか)

 唯々「生きている」というだけだった友禅の生活に、一つの変化が現れた。

(彼女に、会おう。そして、話を)

 脳裏に、少女の顔がちらつく。あの少女に会わなくてはならない、という使命感にも似た焦燥が、友禅の心をざわつかせ、居ても立ってもいられなくなった。このような感情を持つことが無かった自分に、僅かながら驚愕を覚える。

 今まで「従う」という事しか行ってこなかった自分が、あの少女を切欠に、少しずつ自身の意思で動こうとしているのだ。



 部屋を出ると、廊下は静まり返っていた。男共は、床に就いているらしい。そうなれば、数時間は部屋から出てこない事を友禅は知っていた。

 友禅は、出来るだけ音を立てないように、静かに階下へと向かった。


 牢が立ち並ぶ廊下はしんと静まり返り、相変わらず腐臭が立ち込めている。

 廊下の一番奥までたどりつく。重厚な鉄の扉は、見ただけでも相当な重さがあるように思える。狗鬼の力であれば、難なく開くことが出来るものである。現に、友禅が扉の先に押し込まれた時も、友禅を片手に捻り上げた状態で、軽々と扉を空いた手で開けてみせた。

 錠は掛かっていない。しかし、今の友禅の力では、容易に扉の向こうへ進むことは難しそうである。

 鉄の扉は、押して開くものだ。取っ手を下に引き下げ、扉に肩を押し付けては、渾身の力をこめて前へ押し出す。踏ん張った足が、砂利で滑り、中々思うように力が入らない。漸く、僅かに隙間が開いたが、通り抜けるにはまだまだ幅が足りない。碌な食事も与えられず、酷使されてやせ細った身体では、十分な力は出すことが出来ない。息を吐き出し、呼吸を整えた。開いた隙間に足を差し入れ、肩をを扉に当て、腕をつっぱっては身体全体で押し開く。かなりの重量に、地面と扉の擦れる音が僅かに響く。

 一度、手を止め、辺りに神経を研ぎ澄ませるが、階上にいる狗鬼らの耳には届かなかったらしい。

 音が鳴らぬよう、最新の注意を払いながら、ゆっくりと扉を押し広げる。焦らぬよう、少しずつ、少しずつ、隙間は広がっていく。

 やがて、友禅が通り抜けられるほどの幅が開いた。細くなった身体は、難なくその隙間を通り抜けた。



 扉さえ抜けてしまえば、あっさりと、少女の居る最下層までやってくることが出来た。

 手鞠歌は聞こえず、しんと静まり返っている廊下は、前と変わらず火が灯っているだけだ。

 そっと友禅は牢の近くまでたどり着く。

「……」

 いざ、目の前にしてどう声を掛けるべきか。友禅は小さく口を開きかけ、一度噤む。

 突如、牢の中からカタリ、と音が成る。少女が牢の目の前までやってきたのだ。

「来たのね」

 友禅の訪問に驚いた様子もなく、表情のない瞳で友禅の姿を映し出す。

「まるで、私が来ることを分かっていたような言い方だ」

 取那の位置からは、牢に向かってきた友禅の姿を見ることは出来ないはずだ。偶然とも思えぬ少女の言動を、友禅は不思議に思った。 

「貴方が友禅という名で、私を色把と呼んだから」

 言葉に抑揚が無く、淡々と語る言い方に、友禅は僅かに違和感を覚える。

「きっと、また、私に会いにくると思っていたの。私は、貴方の許婚だったから」

 少女の言葉に、友禅は息を飲む。

「では、貴女はやはり、色把さんなのですね! 何故、こんな所に……」

 友禅の言葉に、少女は静かに首を横に振るだけだった。

「私はもう、色把ではないの。今の私の名前は『取那』よ」

 事態を把握できない友禅は、暫くの間、取那の顔を見つめていた。

「どういうことなのです?」

 だが、どれほど無言の時が流れようと、取那は自分が囚われている理由を語ろうとはしなかった。瞳には光は無く、人形を目の前にしているような印象を覚えた。



 二人の間に流れる静寂を破ったのは、取那のほうだった。

「貴方、その目はどうしたの」

 友禅の目を見つめていた取那が、友禅に問う。両の目が通常とは違う色になっている事に取那は気付いたらしい。友禅はかつて、許婚である『色把』の写真を見たことがあったが、許婚の『色把』は、友禅の顔を知らないのだ。

「あぁ……これは、生まれつきなのです。気味が悪い、ですよね。こんな色では」

 目を伏せ語る友禅の言葉に、取那はゆるゆると首を振る。

「そんなこと、ない」

 取那は、二人を隔てる鉄柵に一歩近づいた。

「綺麗だと思う」

「!!」

 始めて聞く言葉に、弾かれたように友禅は顔を上げた。取那の表情は変わらない。

「話を聞かせて。貴方が何故ここに居るのかを。……そうしたら、私も、いずれ話してあげる。なんで、私がここに居るのか」

「しかし……」

 いつ、狗鬼が地下に降りてくるか分からない。反射的に、友禅は階上への出口に視線をよこした。

「あの蝋燭が半分になるまでは大丈夫。誰も降りてこない」

 友禅の思惑を察したらしい、取那は部屋の中の蝋燭を指した。狗鬼らの行動も全て把握しているらしい。友禅は取那の言葉に頷くと、ぽつり、ぽつりと、自身の境遇を語り始め、取那はその言葉に、静かに耳を傾けていた。




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