3―9.闇の先
能力が人間並みに低下している友禅は、明かり無しでは暗闇を歩くことが出来ない。
普段の座敷牢の見回りも、手に蝋燭を持った状態で行っている。だが、突如引き連れられてきた現在は、当然の事ながら蝋燭など持っていない。
下層へ向かう階段には明かり一つ無く、一向に目が慣れない。一段一段、足で探りながら降りていく。
一段一段、降りていくと、友禅の目に一つの小さな明かりが映る。
そして、僅かに耳に届くのは……。
――歌……?
この場所に全く似遣わない状況に、友禅は大きくうろたえる。
だが、この場所で立ち止まっているわけには行かない。友禅は、また一段、一段と足を進めた。僅かに聞こえていた歌も、少しずつ大きくなり、旋律を捉えられるようになってくる。
次の段差を確かめるために足を踏み出す。足で探っても次の段差が見つからない場所まで到達した。遠くに見えていた小さな明かりも、もう少し進めば届きそうである。
洩れている明かりから察するに、最下層も同じ座敷牢になっているようだ。
明かりが灯っている座敷牢は一つだけ。そして、歌もその牢屋から聞こえてくる。
(知っている……。これは、手鞠歌だ……)
本家に居る狗鬼の子供らが、庭で遊ぶときによく歌っていた。友禅本人も、幼少の頃に歌ったことがあるものだ。
旋律が耳に届くたび、縁側で子供らを見守っていた情景が浮かび上がってくる。子供らの嬌声。柔らかな日差し。通り抜ける風。
二度と戻ることは無い、酷く懐かしい記憶。
「う……」
思い出してしまう。かつて過ごした、あの柔らかな日々を。
囚われて三年。必死に遠ざけ、押し込め、直視出来ぬ現実に堪えていた友禅の感情は、耳に届くか弱い手鞠歌で、脆く崩れそうになる。
もっと、聞きたい。あの懐かしい日々を思い出せる、あの優しい手鞠歌を……。
僅かに洩れる明かりに、足を踏み出す。
――下に居るものには、絶対に接触するんじゃねえ。いいな
逆らえば、どんな仕打ちが待っているのか、友禅には手に取るように分かる。先日も、狗鬼の腹いせ交じりの暴力から、何とか命を繋ぎとめ、動けるようになったばかりである。
だが、弊履の族の声は、とうに吹き飛んでいた。
一歩、一歩と、歩みを進め、牢屋の前にたどり着いた。
消えてしまいそうな悲しい声。中を覗き込むが、牢の中には蝋燭が数本点けられているだけで、中の人物の姿をはっきりと捉えることは出来ない。
目を凝らせば、長い黒髪を持つ和装の少女であることが分かる。
パチリ、と足元の砂利を踏む音が一瞬、だが辺りに響き渡った。
「!」
牢の中の少女は、肩をびくつかせ、次の瞬間、警戒を顕にして振り返った。怯えている様子は強張った全身から見て取れる。
「申し訳ありません、驚かせるつもりは無かったんです」
友禅の姿を捉え、身構えている少女に、友禅はゆっくりと謝罪の言葉を掛けた。
弊履の族らとは違うと判断したらしい。ふらつく足で、友禅が立っている鉄格子の近くまでやってくる。
歳は、十四、五歳だろうか。
少女の顔にかかった髪で、はっきりと顔立ちを捉えることが出来なかった。
「……」
少女は、じっと友禅の顔を見つめている。
「懐かしい歌が聞こえたので……思わず近づいてしまったんです」
少女の無表情な顔に、僅かに陰りが広がる。
「貴方、ずっと、ここに居るの?」
少女が歌以外で、初めて言葉を発した。少女は大人びた静かな声で友禅に語りかける。
「……はい」
命令でもない、罵声でもない。他人との『対話』も、ここに来てからは皆無に等しかった。言葉を紡ぎ、会話を進めることが、自分が思っていた以上に出来なくなっていた。
二人の間に、長い沈黙が流れる。
少女は、自身の顔に掛かった長い黒髪を耳にかけた。長い睫毛、大きな瞳。今は汚れてしまっているが、黒い煤が付いている白い頬。
隠れていた顔が顕わになる。
そして、友禅は息を飲んだ。
「……色把、さん……!」
自分の許婚、比良野 色把。まだ出会ったことは無い。幼い頃から見せられていた写真。写真の少女が成長をすれば、目の前の人物のようになる。
実際に、友禅が言い放った名に、少女はあからさまな狼狽を見せている。
「色把さんでは……ないのですか……?」
更に問う友禅の言葉。少女はじっと唇をかみ締めていたが、見開いていた瞳から、ぽろりと涙が零れ落ちる。
「……貴方は、一体」
悲しげな瞳が友禅を映し出す。少女は自分が色把であるという事を肯定も、否定もしない。友禅の目から見ても、どちらなのか読み取ることは出来なかった。
「私は……」
友禅が口を開きかけた、その時だった。
「友禅!」
荒々しい声が、壁に反射して辺りに響き渡る。その声に、少女は身を強張らせる。
「友禅! 聞こえねえのか!」
声は苛立っている。早く行かなければ危険であることを友禅は察する。
「はい、ただ今」
友禅は声のする方に声を投げかける。
「友……禅」
少女は、今しがた呼ばれた名を反芻する。目を見開く少女の顔に、友禅は小さく視線を寄越し、その場を離れた。
背中に視線が注がれているのを、友禅は感じ取っていた。
足で探りながら階段を上りきると、目の前に弊履の族の男が一人立っていた。
「下では何も見なかっただろうな」
獰猛な表情。友禅は静かに頷いた。
「はい、真っ暗で何も見えませんでした」
「ならいい。今後も、無断でこの下に行くんじゃねえぞ」
「はい」
友禅は、男と目をあわさぬように、もう一度頷いた。友禅の脳裏には、今しがた対面した少女の表情がぐるぐると巡っていた。