~王子の話~その4
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馬上槍試合に勝利し、祝宴の場に招かれたルメトモン三世。
大道芸人たちのなかでひときわ目立つ吟遊詩人の歌声に魅せられた王子は……。
私はあっけにとられながらも、この国から逃れる方法はないものかと心のなかで画策していました。まさに捕虜の気分です。
そうです。祝宴がお開きになるときが逃亡の好機会であることは、戦術に不慣れな者でも分かる簡単な計略でしょう。
「すでに殿下と姫の寝室は用意されております。今宵は、契りの日となりましょう。さ、すこし酒でも飲まれて心を開放しなされ」
式典係が、王のお言葉だと言って私に耳打ちしました。
するとどうでしょう。どうぞ私の愚かさをお笑いください。
城を後にする人々の群れにまぎれて逃亡しようと企てていたはずの私は、一目姫の顔を見てからでも遅くはないのではないか、と式典係の言葉に強い誘惑を感じたのでした。
逃亡の機会ならいつでも巡ってこよう。私はそう考えて、寝室へ案内されるまでこの与えられた場、いいえ、私の力で勝ち取った場を楽しもうと思い直しました。
賑やかな饗宴は終わりを知らず、いつまでも続いていきました。料理も酒も、途切れることなくテーブルを満たしていました。
いったどのくらいの時が経ったのか、もう知る由もありませんでした。
王は相変わらず赤ら顔をたるませて、飲み食いをしていました。取り巻き連中がこれまたひっきりなしに訪れ、姫の婚礼の祝いを述べているようでした。
私は、王の息子となろうというのに、王と親しく語り合うこともなく、王から側に来るようにと招き寄せられることもありませんでした。人々も私に近寄って祝福を言う者はなく、ただ王に言葉を掛けるついでに私の方を見やって軽く会釈をするだけです。
やはりどこか奇妙だ。そうは思ったのですが、姫を手に入れたいという私の願望がしだに欲望となって、幼少より十分に鍛えられているはずの防衛本能は鈍っていくばかりでした。
延々と続けられている宴に大道芸人たちがなだれ込んできました。彼らは逆立ちをして歩き回り、ひょうきんな恰好でピョンピョンと飛び跳ねながら、巧妙な身のこなしと、低俗なヴァイオリンの音色を披露していました。
と、そこへ聞き慣れない弦の音色が聞こえてきたのです。
美しい……と思いました。ただただそう思いました。
私はその音色がどこから流れてくるのか、騒々しい大広間のなかを眼と耳を存分に働かせて捜しました。大広間のなかは散らかり放題に散らかっていて、まったくその美しい弦の調べとはそぐわない乱雑さでした。
弦は、繊細な指に弾かれ、爪弾かれ、やさしく撫でられ、語りかけられています。
他の客人たちは誰もこの音に気づいていないのでしょうか。それが証拠に、楽師たちや大道芸人のワルツで、楽しそうに身体を動かしているのです。
……見つけました。そこに……光に包まれて、そこだけ別世界のような空間が、ぽっかりと浮いていました。
私は息を呑みました。
さーっと辺りの騒々しい雰囲気が消え去っていくのを感じました。
金色に輝く竪琴が、その人の腕のなかで優雅に歌っていました。
吟遊詩人でした。
―どうぞ名を聞かないでください
―どうぞ生まれを聞かないでください
―どうぞ魂を見せてください
―どうぞ名は語らないでください
―どうぞ…………
その人の透き通った歌声は、男とも女ともつかず、妖精のようなかわいらしいマントのフードが顔を隠していましたので、その容貌も見てとることはできませんでした。
空気の流れの止まってしまった空間で、私とその吟遊詩人の間に一本の道筋ができました。
私は席を立ち、引き寄せられるようにして大道芸の和のなかへと入っていきました。
吟遊詩人は床に腰をおろし、膨らんだ絹のズボンは、足首でキュッと絞られ、胡座に組まれた脚の太股で竪琴の台座を支えていました。
私の城にも宮廷おかかえの吟遊詩人はおりました。彼から、奏で、吟ずるということを教わりましたが……これほど洗練された吟遊詩人は……。
いったいどこの生まれなのでしょうか。
私は、興味をそそられずにはいられませんでした。
大広間の南のバルコニーに太陽が昇り、そして沈み、また昇り沈んでゆくのに気づいていましたが、私の魂は、吟遊詩人の歌声、竪琴、霊妙な姿に酔いしれ、釘付けになっていて、その魂を支える私の肉体はまるで彫像のように見えたことでしょう。
吟遊詩人の歌は魔術だったのかもしれません。でなければ、なにゆえに私はあの場で硬直しなければならなかったのでしょう。
いよいよこれは本当に魔法なのだと気づいた時には、すでに私にかけられた魔法は、私の魂を深く吸いよせ、奪い取っていたのでした。
私はいつの間にか眠ってしまっていたようです。
ずっと瞳を凝らして吟遊詩人の姿を見ていたはずなのですが、身体を動かしたときには、どこか遠い所から戻って来たような感覚でした。
大広間は、まったく違う風景になっていました。
あれほど賑わっていた客人たち、城内で働く人々、王族貴族廷臣たちはもちろん、テーブルやストーヴなどの調度品もなく、静まり返った室内が、真空のなかに埋もれていたのです。
焦った私は、閑散とした大広間のなかをあちらこちらと歩き回りました。
やがて私は、王の座っていた場所にぽつりとなにか箱のような物が置かれているのを見つけたのです。
すると、私の耳のなかで、吟遊詩人の歌声と竪琴の音色が甘美な残響でよみがえり、どことなく懐かしい香りが思い出のような質感を運んできました。
吟遊詩人が……そこにいました。丈の短いフード付きのマントの下は白い絹のブラウスとたっぷりと布を使った幅広のズボン。腰と足首は同じ麻を編んだ紐できゅっと絞られています。
胡座の膝に金色の竪琴を置き、丈夫な固い革の靴底に、柔らかくなめした革が足をくるむサンダルばきの白い足は、ピクリとも動きません。
私がじっと見つめていると、フードに覆われた吟遊詩人の頭が、心なしか上向いたような動きを感じました。
「どこからきたのか、名前を聞かせてくれないか。私はスヌサ国のルメトモン三世だ」
配慮も下心もなく、ふと口を衝いて出た言葉でした。
吟遊詩人は、また歌いだしました。
―どうぞ名を聞かないでください
―どうぞ生まれを聞かないでください
―どうぞ魂を見せてください
―どうぞ名は語らないでください
―どうぞ…………
私の胸は後悔に打ち震えました。今度は本当に、いや、ついにと言うべきでしょうか、してはならない質問をしてしまったのです。
萎縮してゆく魂を感じながら、どうにもとり戻せない作為の時間を遡るように、私は後悔の念を強めていったのでした。
しばらくして、チャリン……チャリン……と小さな金属の触れ合う音が聞こえてきました。
私はまた気を失っていたのでしょうか。それとも夢を見ていたのでしょうか。
その音は、聞き覚えのある音でした。そのどこかで聞いたことのある音が、繁栄と俗界とを結ぶ象徴であるのを思い出したとき、金銀銅のコインが、入り交じって上空から降って来るのが私の瞳に映ったのです。
大道芸人たちがアクロバットを演じ、リーダーの男が被っていた茶色の帽子が裏返って床に置いてあるところへ、客人たちから、やんやの喝采のなか、褒美が放り込まれているのでした。
祝宴はいまだ続けられていました。
貴婦人たちの高らかな笑い声が、大広間の壁を行ったり来たりし、高い天井に突き当たって共鳴しています。
「そろそろお時間でございます。祝宴は客人たちの興の場に譲られて、殿下におかれましては、姫の夫としてのお役目がございます。婚礼のお披露目はのちのち盛大に祝われます」
式典係は祝宴の終わりを告げると、私にマントを返してくれました。馬上槍試合に出場するときからずっと、城に預けてあったのでした。
「どうぞ、こちらでございます」
私は、マントを身体に巻き、スヌサ国の紋章の入ったブローチを愛着の思いで右肩に留めました。そして式典係に付き添われ、大広間を退出し、そういえば、王の姿はなかったように思いましたが、姫が待っているであろう部屋へ向かって城の中をゆっくりと歩んで行きました。
私は城の回廊を歩きながら、何度も太陽が昇っては沈むのを感じていました。
いったいどれだけの日が経ったのか分からず、そういえば、気づいたときには客人たちの姿も城の者たちの姿も広間の調度品もなくなっていたのではなかったか、と思い起こしました。
私の記憶は前後し、過去へ行ったり未来へ行ったりしていたようです。
スヌサ国の王子として、そしてこの国の姫君の夫としての自分をあれこれと考えていました。
「お入りなされ」
連れてこられたところは、天窓が光る最上階の部屋でした。
扉が開かれると、さっと暖かい風と光輝く空気が流れてきました。
「私はこれにて失礼いたします。またお目にかかれますときまで、どうぞお身をお清めくださいませ」
そう言い残して、式典係は姿を消しました。
それからこちら、この式典係には二度と会うことはありませんでした。
ご堪能いただけましたか?
不可思議に入り乱れる時空。
王子はついに姫と会うことができるのでしょうか?
次話投稿は5月15日を予定しています。
お楽しみにお待ちください。