~商人の話~その2
路寄りさこワールドへようこそ!
さて、商人の話の続きを聞きましょう。
女はなかなか戻ってきませんでした。
ひどく退屈しているところへ一人の老婆が訪ねて来ました。
よくぞこんな砂漠に囲まれたオアシスへやって来たものだと、カトパトは感心しました。
老婆の乗って来たラクダは、乗り手同様にとてもくたびれているようでした。到着してしばらくすると死んでしまったのです。
老婆を追い返すわけにもいかず、カトパトは老婆の面倒をみることになりました。
カトパトのラクダを老婆に与えることはできません。なぜなら、一頭しかいないラクダですから、もし与えてしまったら、何か事態が変化したときのカトパト自身の移動の手段が失われてしまいますから。
食べ物は十分にありました。湖の魚と家畜、草花や木の実、弱っていた老婆の身体も癒されて、オアシスの楽園を散歩して歩くようになりました。
「おお、これは、秘薬じゃ」
老婆が来てから、幾日過ぎ去ったでしょうか。カトパトの妻が残していった秘密の小箱を老婆が見つけ出してきたのです。
「おばあさん、それはこまります。妻の宝物でして、妻の帰宅まで、夫である私が大事に預かっているんですから」
「なんじゃと。だったら無造作に椅子の上になんぞ置いておくでないな」
「ここは、訪れる者もない秘境です。私も嵐に飛ばされてやって来たのですから、用心の心得などありませんよ」
「そんでも、こうしてまっとうに辿り着くおばばもおるでな。不用心を後悔しますかな」
老婆は、頭からすっぽりと被っていた黒いショールを後方へずらし、肩にかけました。
黒く日焼けした顔は、皺に埋もれていましたが、若い頃は美しかったであろう片鱗は瞳の奥や鼻筋の辺りに残されていました。
「おまえさんは、これが何だか知っておいでなのかい」
「いいえ。何も知らされてはいません」
「これはな、時間を動かす秘宝じゃ」
「なんですって」
「これを使えば、思いどおりの時を取り戻すことができるんじゃ」
「そんなこと、どうしておばあさんに分かるのですか」
「古い言い伝えじゃよ。どうかね、これをわしに譲ってはくれんか」
「それはできません。私は妻との約束を破るほど見下げた夫ではありません」
「そうかのう。よくお考えよ、ご主人殿。あんたの嫁さんは、いったいいつここを出てお行きになったのかね」
「さて、だいぶ前ですが……」
カトパトは、過ぎ去った時を数えることができませんでした。それを計る手段もなく、ただ太陽の運行と、月の満ち欠けを見知ってはいましたが、何回昇り、何回欠けたか、記録しようなどと気を利かせることはしなかったのです。なにより、大した間もなく戻ってくるだろうと高をくくっていましたので。
けれども思い返してみれば、かなりの年月を過ごしているようでした。
「どうだね。わしを生娘にもどさんかね。あんただって、こんなよぼよぼの女よりも、若くてはりのある女のほうがよかろう」
「ですが、やはり、私は妻の帰りを待っているのです」
「そうじゃろうなぁ。まあ、ちょっと湖面をのぞきなされ」
老婆に言われた通り、この楽園の憩いの象徴でもある湖の澄んだ面をのぞきこみました。
自分の姿はどこにも映っていません。
湖面からカトパトを見返しているのは、一人のくたびれた老人でした。
カトパトは事の次第を理解すると、あまりの驚きにその場で腰を抜かしてしまいました。
「こ、これが私ですか」
カトパトは、老婆を見ました。
「どうだ。この秘宝をわしらで使おうじゃないか。わしも若くなり、おまえさんも若くしてやろう。わしといっしょに人生をやりなおさせてやるよ」
老婆の誘惑は、甘い蜜の香りがしました。
自分の衰えを感じる間もなく、こんなに年老いてしまったことを、嘆き悲しみました。
そして自分の人生を振り返ると、なんとも空しい気持ちを隠すことができません。
「私はこんなところで死んでしまうのか。懸命に働いてつくった財産はどうなるのだ。いずれ妻とともに帰ることができるという希望もなくなり、私の人生はいったい何だったというのか」
「さあ、気持ちを翻して、その箱の封印を解くことを、わしに許しなされ」
カトパトには、もうこの老婆に逆らう理由はありませんでしたので、大きく頷き、老婆の意志に従うことに決めました。
老婆は、カトパトの妻が残していった秘密の小箱を手に取ると、さっと一捻りしたのです。
すると、パリンとばかりに箱がくだけ、中から透明な瓶のようなものが出てきました。
手の平に乗るほどの大きさで、中央が細くくびれ、その両側は杯の形をしていました。
中に、きらきらと光るものが入っているのが見えました。さらさらと動く砂でした。
杯の二つ付いたその透明な瓶を、老婆が近くの切り株の上に立てて置きました。
杯は上下に対称を成していて、砂は下になった杯の方に溜まっていました。
「さあ、ダンスのはじまりだ」
老婆がそういうと、砂がするすると動きだし、ひゅるひゅるっと下から上へ登っていったのです。
「な、なんですか、これは」
私も、皆さんも、そしてもちろんカトパトも、この地上では、下から上へむかって移動できるのは、羽を持つ生き物だけだということを知っています。だからこそ、不思議に感じたわけですが……。
「なんだって、ひとつの方にしか行かないって決めつけるんだい。なんにでも自由はあるんじゃ」
戸惑うカトパトに向かって、老婆が賢者ぶって言いました。
そして砂は、しゅるしゅると登って、ついに、全て上の杯に納まってしまいました。
「愛しい人よ、わたくしは美しいですか」
もう老婆のがりがりとした声ではありませんでした。小鳥の囀りのような、ころころと転がるような、可愛らしい声でした。
老婆を見ると、若々しく光り輝いていました。
自分はどうしたかと気になって湖面を覗き見ると、なんと青年のカトパトが、初々しい恥じらいを秘めて、黒々とした髪を誇っていました。凛とした瞳は、将来を見据える獅子のごとく炎を湛えていました。
「美しい我が妻なる人よ。帰ってきてくれたのですね」
若返った老婆を見て、カトパトはそう言っていました。
自分の瞳を疑う間もなく、いま目の前に立っているのは、紛れもなく、五十頭のラクダを連れて旅立って行った自分の妻である、と認識したのです。相変わらず、その当時のままの美しさを保って……、いや、取り戻して、と言うべきでしょうか。
「私の夫となる人よ、約束を守ってくれませんでしたね。残念です」
カトパトは、自分の身体から血の気が引いていくのが、ここぞとばかりに分かりました。
なんて取り返しのつかないことをしてしまったのでしょう。
そう思ったとたん、辺り一面砂の嵐に巻き込まれて視界がなくなり、カトパトの身体も宙に浮き上がり、もと来た道を辿るようにして、砂漠の隊商のなかへ戻っていきました。
そこでは、カトパトの財産の一部である五十頭のラクダが、テントの回りで休息しているのでした。
カトパトは、悪夢を呪いました。
いったいどれだけの時間を、眠って過ごしてしまったというのでしょうか。
テントの外では止みそうもない砂嵐が吹き荒れていました。
私の隊商がカトパトを発見したときは、砂漠は穏やかな顔を取り戻していました。
カトパトはテントの中の寝床で、ひとりきりで衰弱していました。
カトパトは絶え絶えの息のなかで、このような奇妙なことを物語ったのです。
私の隊商が出発したのは、カトパトより遅れること、たった一日のことだったのですから、なおさら奇妙でございましょう。
カトパトですか……そう、すっかり年老いて、私とたいして歳の差はないのですが、今こうして皆さんの前で話をしている私よりも、ずっと老けて見えましたよ。
私の話はこれでおしまいです。
商人が聞き及んだ不思議物語は終わりました。
砂と時間の神秘にさまざまな人生がからんでいるようです。
いよいよクライマックスです。
次話投稿は、8月21日を予定しております。
お楽しみにお待ちください。




