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暁を渡る  作者: 雅
3/12


 長じるにつれ、俺はそれなりに自分の能力を育てていった。

 吸収できる限りの知識を吸収し、武芸を学んだ。


 王立学術院に入ったのは、交渉力や社交力を身に付けるためだ。

 館に用意された教師達だけでも、ある程度の知識を得るには十分だったが、十五を数える頃にはそれでは物足りなくなっていた。何よりこの狭い世界の中では他者との接触の機会はほとんど無い。

 知識を得る事よりよほど重要なのは他者との交渉術だが、ここではそれを学ぶ術や機会は無かった。


 寮を希望したが、それは認められなかった。

 だが院の試験は無難に抜けられたらしく、その年の総代として式典で挨拶を行う事になった。


 壇上に上がると、数百の目が一斉に注がれる。それは生まれて初めての緊張を覚えた瞬間だった。無事に宣誓を終え、壇を下りて自分の席に戻った時、後方の席から密かな声が洩れた。


「総代だって? さすが、ヴェルナー家の子息は扱いが違うよな」


 静まり反っていた場内の空気が騒めき、教師達の慌てたような叱責の声が幾つも上がった。

 たったそれだけの言葉で、彼は席を立たされ、その日の内に除籍された。俺に対しては、副学院長がわざわざ謝罪の言葉を告げに来た。

 呆れた対応を通り越して、笑うべきだろう。知を信奉する組織が、まともな判断とは思えない。だがそう告げても、彼等はひたすら恐縮するばかりだった。


 俺が、自分の家が――自分がと言うべきか、他者からどう見られるか、初めて突き付けられたのがそこだ。

 これまで外部とは没交渉のまま館の中で過ごし、自分の置かれている場所を異質なものとして認識する事など無かった。

 反目と、追従。

 それは学院にある期間、ずっと消える事なくあった意識だ。

 歓迎できる反応では無かったが、彼らが俺の背後に、在りもしない父の影を見て様々な態度を見せるのは、いっそ面白かった。


 誰もが、俺の上に父、ヴェルナー侯爵の影を見ている。


『ロットバルト・アレス・ヴェルナー』?


 そんなものは単なる侯爵家の一部だ。そこに見いだせる価値などない。

 だが、ヴェルナーに生まれた以上、そのくびきから逃れて個として立つ事は不可能に近いと、俺は次第に自覚するようになった。


 反目する者、お世辞を並べたてる者、俺に近づく者の大方はそのどちらかに別れた。ただ、近づいてくる者は少ない方だ。それ以外の大勢は、ただ俺との関わりを避けるように遠巻きにして眺めていた。

 反目と追従であれば、どちらかと言えば、反目される方がまだましだったが、時に拳を交えるような場所でさえ、父の影は消えなかった。

 当初は苛立ちも覚えたが、次第に俺は、ただ受け流す事が一番手っ取り早く、問題も少ないと学んだ。まあそれも交渉術の一つと言えなくもない。

 いつだったか、弟が言ったとおり、幸いこの「顔」はただ笑むだけでかなりの面において問題は回避される。家柄にしろ、容姿にしろ、使おうと思えばそれなりに役には立つものだ。

 結局それはどれも俺自身の能力によるものではなかったが、周囲はそんな事は気にはすまい。





 王立学術院に入って数ヶ月が経過した頃からか、館で父の姿を良く見かけるようになった。朝食の席に前触れも無く現れる。

 特に何かを話す訳ではない。俺も話したい事は思い付かなかった。まあ世間一般の挨拶程度は交わしただろう。それ以外はただ黙々と食事を進めるだけだ。莫迦らしい事この上ない。


「お父上は、成績優秀な貴方を喜んでおいでなのですよ。学院での成績をを常に気にされておいでです。学問も武芸も首席でいらっしゃるから、誇らしいのでしょう」


 俺から父に成績を報告した事など無かったが、おそらくは学院から報告が上がっているのだろう。

 次第に来訪の回数は増え、当初は朝食だけだったものが、時折晩餐の席にも現れるようになった。忘れられたようにしんと静まり返っていた館の中が、その度に活気を取り戻していく。

 父の意識がどこへ向いているのか、それをこの狭く深い世界の中で、誰もが息を潜めて注視していた。





 丁度その時期に、敷地内の庭園で偶然兄と行き合った。そこは中央の庭園でもそれぞれの館に面したものでもなく、家の者が余り訪れない、裏門の近くにある庭だ。

 兄は数名の侍従を連れ、植え込みの合間の整えられた小路を正面から歩いてくる。

 俺は脇に避け、兄が通り過ぎるのを待った。


 だが、次第に近づいて来るにつれ、このまま礼を通して過ぎるのを待つか、それとも言葉を掛けるべきか、当然のごとく迷いが生じた。

 兄から言葉をかけない限り、下の者から話し掛ける事は通常有り得ないのだが、随分と長い間、兄とこれ程近い距離で顔を合わせた事はない。尤も、会話の内容など思い付かないが。


 すぐ手の届く位置まで、兄が近づいて来る。伏せた面を上げようか、尚も迷っている間に、兄は俺の横を通り過ぎた。

 軽く息を吐いて顔を上げ、歩き出そうとした時、兄の声が聞こえた。


「今のは何という名だったか」


 侍従達の間に、追笑が洩れる。


「貴方の弟君ですよ」

「ロットバルト様でしょう」

「ああ――」


 兄は足を止めも、振り返りもしない。


「死んだのでは無かったか」

「滅多な事を仰いますな」

「そうか? 同じ顔が二つもあって、判りにくかったからな。まあどちらでも大差はない」


 兄と侍従達の密やかな笑いが緑の中に散る。

 一瞬膨れ上がった怒りを押し留めきれず、俺は彼等の方へ振り返った。視線の先で兄も振り向く。


 全く似ていないのは母が違うからだが、それ以上にそれが俺達の距離なのだろうとさえ思えた。

 怒りは急速に冷める。それ程に遠い距離にあるのなら、発する言葉は届く前に散り、意味を無くす気がした。

 兄は何を思ったのか、俺の方へ数歩歩み寄った。俺が儀礼的に頭を下げると、やはり上辺だけの笑みを浮かべる。


「久しいな、ロットバルト。健勝そうで何よりだ」

「兄上におかれましても。日々のご活躍は聞き及んでおります」

「学院では、大層優秀だそうだな。私も聞くにつれ、誇らしい想いでいる」

「恐れ入ります」

「お前も、いずれ内務に進むのだろう? 私の下に来るといい。働き振りが楽しみだ」


 そう言って一つ笑うと、俺が顔を上げるのを待たずに兄は再び背を向けた。侍従達を後に従え、庭園の外へ消える。

 息を吐き、反対方向へと歩き出しかけて、それまで黙って控えていた養育官の悔しそうな顔が目に入った。


「どうした?」

「いかに兄君のお言葉とはいえ、同じ侯爵家のお子に対して、あの侍従共の無礼さは目に余ります。貴方に対して、道を譲りさえしないとは」


 心底憤っているのか、声は微かに震えてすらいる。


「……長子以外は侯爵家には無くても変わらない。気にするだけ無駄だ」

「そのような事を……! 第一、侯爵がお館へいらしている事も分かっていての態度なのでしょうか」


 だからこそのあの態度なのだろう。それはこの屋敷の中での全ての中心だ。

 まあ彼が憤るのは判る。弟はこの養育官を慕っていた。

 もう一度庭園の入り口に視線を投げ、俺はその場を離れた。





 内務へ進めと、父がそう言ったのは十八歳を過ぎ、三年間の院での学業の修了を間近に控えた頃だった。その頃には、父が晩餐を伴にするのは兄ではなくなっていた。


「……まだ私は、進むべき方向を決めてはおりませんが」

「お前が決める必要はない。私がお前に相応しい地位を用意しよう。お前はヴェルナー家の誇りだ。兄よりも、このヴェルナーを繁栄させるだろう」


 相応しい?

 相応しいのは俺にではなく、ヴェルナーの子息にだろう。




 屋敷の内部は、数年の内に大きな変化を見せていた。


「本日も面会を求める者が複数ございました。全く、調子のいい者達が多い」


 後半は独白に近かったが、最近常にそうした憤りを見せている養育官を眺め、彼が示した卓の上に視線を向けた。


「お笑いになっておられる。そうでしょう、これなぞ、いつぞやの侍従の一人ですぞ」


 不快そうな響きの中に僅かに勝ち誇る色があるのは、それがいつか庭園で兄の横にいた侍従からのものだからだ。そこに積まれた書状や品々の差出人には、兄に近い立場の者の名も幾つか含まれている。

 父の態度の変遷は館の内部にも確実に伝わって、彼等の関心の舞台はいまや二つに別れていた。


「どのようになさいますか」

「放っておけばその内飽きる」


 彼等の予測する方向には事態は進まないと、遠からず理解するはずだ。

 父の身勝手に付き合う気は全く無い。



 俺が近衛師団を選んだのは、軍の役務に興味があったからではない。

 近衛師団は王直轄の組織だ。師団の任免は王が決定する。例え四大公と言えど、師団に直接口出しする事はできない。

 あまり他者に話せた理由ではないが、単に俺は『ヴェルナー』という枠の中から抜け出したかったのだろう。それができる場所なら、要はどこでも良かった。

 子供じみた思考だと、自分でも思う。






「近衛師団を志願したというのは本当なのか」


 父は、とんでもなく馬鹿げた事をしでかしたとでもいうように、俺の顔を見るなり声を荒げた。内政官房の副長官として、長年内政を動かしてきた男だ。その血を受けた者は当然の如く、自らの意図のままに動く事を信じて疑わない。

 その驚き憤る様は、中々に面白かった。それだけで、軍を選んだ価値があるというものだ。


「ええ。先日試験を受け、ちょうど採用の通告を受けた所ですよ。幹部候補での採用との事です」

「何を考えている」

「ヴェルナーは軍での基盤は弱い。今現在、正規軍に数名は在籍しているものの、誰も軍の要職にはないでしょう。軍内、特に近衛師団に確たる繋がりを持っておく事は、この家にとっても有意に働くと思いませんか」

「だからと言ってお前が軍になど入る必要はない。今からでも内務に進め。お前の席は既に用意してある」


 くだらない。思わず笑い出しそうになる口元を堪え、目の前の父の顔を眺めた。濃い髪の色は、俺とは違うものだ。目の色だけが僅かに血の繋がりを感じさせる。


「既に兄上がおいでだ。その為に様々な知識を身に付けてこられた。おまかせしますよ」


 父の声は苦虫を噛み潰したように、だが僅かに、低くなった。


「ロットバルト。私はあれよりそなたに期待しておる。侯爵家は」

「それでは、兄上は納得されないでしょう。跡継ぎとして彼を育ててきたのは貴方だ」


 父にとって、ただそれだけの為に、兄は存在していたと言ってもいいだろう。

 最近時折眼にする兄の顔には、焦燥と苛立ち、そしてどこか不安定な精神が伺えた。

 それに――父は気付いていないとでも言うつもりだろうか?


「誰を跡継ぎにするかは私が決める。お前達の口出す事ではない」


 一瞬だけ、俺は拳を押さえ込むのに苦労した。


「――熟考されるべきですね。余計な諍いを増やす必要はありません」


 それ以上会話をする気にはなれず、呼び止める父の声を無視して、俺は席を立った。






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