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俺の生まれたヴェルナー家は、いわゆる名家と呼ばれる、古い歴史を持つ家だ。
父ヴェルナー侯爵は王国の政務を取り仕切る内政官房の副長官の役職にあり、また十ある侯爵家の筆頭を努める。それ以上の位にあるのは、四大公と呼ばれる四名の公爵と、王だけだ。
兄弟は五人。六歳離れた兄とその一つ下の姉、五歳離れた妹、それから――双子の弟。
兄弟は幼い頃から個々の館で、養育官によって育てられた。それぞれに生母は違い、兄と姉、俺と弟の母は既に亡くなっており、妹の生母が現在は彼女と同じ館で暮らしている。
同じ家にありながら、兄弟達と親しく言葉を交わした記憶はさほど多くはない。何か儀式などがある時程度だろう。姉は早くに他家に嫁ぎ、兄は後継者としての教育を受ける為、常に周囲を多くの養育官に囲まれており、兄弟達と食卓を伴にするという事も殆ど無かった。
それは父とも同様だ。まず顔を合わせる事が月に一度あればいい方で、下手をすれば半年振りなどという事にもなりかねない。物心ついて以来、父と交わした会話の回数を数えるのは容易い事だった。
それに不満が無かったかと問われれば、当初はあったのかも知れないが、まあ慣れてしまえばたまに会う事の方が面倒になる。
兄と他の兄弟達との、父の接し方の違いは明らかだった。父は跡継ぎである兄にしか関心のない、そんな男だった。それ以外がいる事を覚えているのかすら、怪しいものだ。
それ程の繋がりの薄さを知っていれば、多くの者が俺の「家」などに要らぬ気を回す必要も無かっただろう。
そうした状況の中で、双子の弟だけは同じ館で育った。十を数えるか数えないかという頃までの話だ。
生まれつき胸が悪く病がちだった弟は、日の大半を寝台の上で過ごす事が多く、その分というのか、思慮深く穏やかな性格をしていた。
いつも誰かしらが傍にいる事を好み、俺は良く彼に請われてその寝台の脇で書物を広げていた。彼がするとりとめもない話に頷き、意見を交し、求められればその日にあった出来事を語る。
とはいえ、俺もまた殆ど館を出る事もなく過ごしていたのだ。それほど日常に変化がある訳ではなかったが、それでも弟よりは日々の事を語る事が出来た。
彼は些細な事でも感心し、良く笑った。笑う程の大した事があるとも思えず、何がそれほど面白いのか、俺には分からなかった。
「だって面白いじゃないか」
それを問うと、彼はさも当然のようにそう答える。
「毎日同じ事の繰り返しの、どこが面白いんだ?」
「それだってちょっとずつ違う。生きてる以上は」
「……」
「ロットバルトは余り笑わないよね。だから僕がその分笑ってるのかもしれない。双子だから。――でもそうすると、僕が笑いすぎるから、君が笑わないのかな」
「――別に。楽しかったり嬉しかったりすれば、俺だって笑う」
「もっと笑った方がいいと思うよ。せっかくすごく綺麗な顔してるんだから、笑ったらみんな喜ぶよ」
「自分も同じ顔だって判って言ってるのか?」
呆れてそう返すと、ふと彼は、言い表しようのない表情を浮かべた。
「僕もそんな顔をしてるかな」
「……俺みたいになる必要はない」
「そういう意味じゃないよ」
彼の言いたい事は判る。俺達はまるで鏡に映したように似ていたが、彼の内部を蝕む病は、その表面から生気を奪っていた。
「ロットバルトは自分の顔が嫌いなの?」
「別に」
好きでも嫌いでもない。単にこれが俺だというだけだ。
館で過ごす中で、俺は様々な事を学んだ。政治、経済などの学問一般。護身の為の武術。学ぶ以外にすべき事が無かったというのが正しいが、敷地内には必要なものは大抵あり、わざわざ外に赴く事もない。
教師達は父である侯爵の我が子等への配慮だと有難そうに言っていたが、単に一々考えるのが煩わしかっただけだろう。
ただ確かに、この状況が恵まれているのは確かだ。不満を差し挟む余地はない。
「そう言えば、あれはどうなったの?」
何の事かと顔を上げると、弟は寝台の上で枕に背を預けたまま、剣を抜く素振りをしてみせた。
「この前、上手くいかないって言ってたやつだよ。斬る時の力の入れ方が良く判らなくてってさ。こんな感じ?」
まだ一度も剣を持った事のない弟は、何回か剣を振る真似をしてみせて、やはり感覚が掴めないのだろう、自分でも首をかしげながら寝台の脇に座っていた俺の顔を見下ろした。その顔には微かな憧れの色が見える。
「……まあ悪くはないと思うが……斬る瞬間だけ握り込むんだ。今のところそれが一番いい」
「なんだ、もう解決しちゃったんだ。一緒に考えようと思ったのにな」
つまらなさそうに枕に背中を預け、それから穏やかな瞳を天井へ向けた。
「でも、やっぱりすごいよね」
「何が」
「出来るまでやるもんね、君は。負けず嫌いだしさ。何日かかった?」
彼は人を褒めるのが上手いとでも言うのか、彼の柔らかい口調でそう言われると、理由は無くても自分はそうなのではないかと、そんな気にさせられる。
「……ひと月と十日」
「ずっと? それだけやってたの?」
俺が頷くと、驚き、呆れた後、彼は可笑しそうに笑った。
父に会う機会など殆ど無いにも関わらず、弟は父の事を慕っていた。
「父上にお会いしたいなぁ。いっつもお仕事で、この間の僕らの誕生祝いにも来てくれなかった。せっかく九歳になったのにな」
誕生祝など大して意味のあるものではないが、一応の祝いの席でも、これまで父が顔を見せた記憶はない。それを言おうかとも思ったが、彼がひどく淋しそうな色を浮かべていた為、さすがにやめた。
「仕事があるんだ。仕方ない」
「だって兄上とはいつも食事を一緒にされるじゃないか」
「兄上は跡取りだろう」
「だからって兄上ばかりずるいよ。――ロットバルトは淋しくないの?」
「別に」
正直に言えば、俺には父を恋しがる弟の心情が理解できなかった。
年に数える程しか会う事の無い相手を、どうしてそう慕えるのだろう?
同じ時間を過ごしながら、考え方がこうも違ってくるのは不思議だ。生来の性格が為せるものか、彼が病を得て不安を感じていた分、より多くの愛情や関わりを欲したのか。
「僕は大きくなったら絶対、父上のお役に立てるようになるんだ。そうしたら父上も喜んでくれるよね」
「――確かに、役に立つようになれば喜ぶだろうな」
事実を言ったまでだが、彼は悲しそうな顔をして、寝台の脇に寄りかかって座っている俺を見下ろした。
「でも、じゃあロットバルトは何の為に勉強してるの? ずっとずっとやってるだろ。剣だって、手の皮が剥けるまでやってるのを知ってるよ」
「別に。――暇だから」
弟はすっかり頬を膨らませ、寝台の上で肩を落とした。
「ロットバルトは冷たい」
「お前が期待し過ぎなんだ」
言葉も無く黙り込んだ為、少し冷たく言い過ぎたかと思った。そんな時はいつもそうであるように、また落ち込むだろうと思っていたら、彼は瞳を見開くようにじっと俺を見て、それから嬉しそうに笑った。
何故笑ったのか、その時には聞かなかった。
だからもう、彼があの時何故笑ったのかを、知る事はできない。
弟の病が進行し、もはや手の施しようもなくなったのは、それから一年も経たない、まだ彼が十年も生きていない頃だった。
季節は冬へと差し掛かっていた。王都の冬はそれ程寒いものではなかったが、それでも冬の冷気は身体に堪える。
主治医は少しでも長らえる為に、空気の暖かい所で療養する事を勧めた。幸いヴェルナー家の別邸は各地にあり、南方の一つに弟を移す事になった。俺まで行く必要はなかったが、弟がそれを望んだ為、俺も共に別邸へ移った。
移った当初の四、五日は、弟の容態はゆるやかに快方に向かっていくように見えた。寝台の上に起き上がる事もできたし、窓から外に広がる湖を眺める事もできた。
「湖に船を浮かべて乗ったら楽しいだろうね。ねぇ、ロットバルト、乗って見せてよ。僕はここで見てるから」
弾んだ声とは裏腹に弟は幾度か小さく咳き込み、俺は外気の流れ込む開け放されていた窓を閉ざした。弟に視線を戻すと、彼は名残惜しそうに窓の外へ目を向けていた。
「……自分で乗ればいいだろう。体調が大分良くなって来てる。あと数日もすれば乗れるさ」
「君が見せてくれれば、それでいいよ」
もう一度、そんな事は自分でしろと、そう言って俺は部屋を出た。
廊下から外を眺めた窓越しに、陽を受けて碧く輝く湖が館の前面に広がっている。
深く穏やかなその色は、彼の瞳のようだと、ふと思った。
弟の容態が急変したのは、その晩だ。
苦しそうな息の下から、弟は何度も父の名を呼んだ。
俺は生まれて初めて、父に宛てて手紙を書いた。ただ言付けるだけで良かったのにそんな事をしたのは、父が手紙によって或いはここに来る気になるかもしれないと、そう思ったからだ。
弟が貴方に会いたがっている。せめて一目、顔を見せて欲しい、と。
急使を立てたから、手紙はその晩の内に王都に届いただろう。
弟には父はすぐ来るだろうと、そう言った。どれ程の痛みがその身の裡にあるのか、俺には感じ取る事すらできなかったが、苦しみに耐えながらも彼は嬉しそうに笑った。
その隣に立ったまま見下ろすと、弟の蒼い瞳と目が合った。色の失せた顔の中で、その瞳だけが熱を宿している。
周囲では医師達が慌しく行き来していた。逼迫した空気の中で、弟の姿だけが静かだ。
立ったままの俺を見て、弟は僅かに笑みを浮かべた。
「――僕が、一番、気掛かりなのは」
「止めろ」
断ち切るように遮ると、弟は口元を緩ませる。
「まるで、今にも、君が死にそうだ」
その方がマシなんじゃないか。
どう考えても、俺より弟の方が価値が高い。俺には何も面白いとは思えない。父に会いたいとも思わない。
そうしたい方が、残ればいいのだ。
何故そうはならないのだろう?
弟は黙ったままの俺に構わず、天井に視線を向けたまま、押し出すように言葉を紡ぐ。
「僕が一番、気掛かりなのはね――この先、君がどこで、……夜を、過ごすんだろうって、事だ」
「……どこでだって、俺は居られる。お前が居て欲しがるからだろう」
「そう、だね……」
弟は曖昧な笑みを浮かべた。
もっと何かを言うべきかと言葉を探したが、口を開く前に彼はひどく咳き込み、医師達がその周りを取り囲んだ。彼らに押されるようにして退いた俺を、色の褪せた視線だけが追う。
掠れた呼吸と共に押し出される微かな声は、それでも俺の耳に届いた。
「……君が、笑うように、なるかな……」
「――言っただろう。」
何も代わる必要などない。
彼はただ、笑った。
その後は、もはや会話も交せる状態ではなく、途切れ途切れの荒い呼吸だけが、彼の命がまだある事を告げていた。
俺は彼がいつもそう望んだように、寝台の横に背中を預け、床の上に座った。
時折物音に耳を澄ませる。
けれど深い夜の中で、馬車の車輪が石畳を弾く事もなく、飛竜の羽ばたきが夜風を切り裂く事もなかった。
夜更けを過ぎても、父は姿を見せなかった。だがもう、うわ言を言う事もない弟には、父が来たところで判るまい。
俺はただ、弟の手を握るでもなく、寝台の脇に座っていた。
夜明けが室内に忍び込む頃、弟は静かに息を引き取った。
完全に夜が明けきる頃には、館の中は慌しさに包まれていた。走り回る足音と、啜り泣く声が交じる。
「――葬儀の準備をする必要があるな。父へは何と?」
「お亡くなりになった事をお伝えしましたが……、ご指示は、まだ……」
「なら、別にいい。進めてくれ」
誰もが、何を言うべきか分からずに、戸惑った表情を浮かべている。俺達の養育官は、慎重に言葉を選んで俺を諭した。
「お父上はお忙しかったのでしょう」
そうだろう。
「余りお父上を責めてはなりませぬ。……クラウス様を、ご自分のお子がお亡くなりになって、お心を悼めておられるはずです」
まあ、そう思うのが一番いいだろうな。
ただ頷いて、弟の部屋を出ようとした時、朝日を浴びて光る碧い湖が視界に入った。
ゆらぐ深い色は、生命を満たした柔らかいあの瞳のようだ。
「……船はあっただろうか」
「は? い、いえ、ございますが」
「なら、少し乗ろう」
もう見る事ができる訳ではなかったが、多少は喜ぶのだろう。
「まだ十にも満たぬというのに、あの方は冷静で、眉一つ動かされん」
「あの方が一番、侯爵に似ておられるのかもな」
「泣いて差し上げた方が、クラウス様は喜ばれたでしょうに……。」
漏れ聞こえる声はただ煩わしい。
葬儀は身内だけでひっそりと行われた。
父の姿は無かった。
欝陶しいくらい、晴れた日だった