傷の記憶
どうもみなさん会沢です。1カ月かかりましたが、この作品にそれぐらいかけたのではなく、最初に書いていた作品が進まず、そのまま打ち切りになってしまいました。でも、この作品にも結構時間はかけました。この作品を書くきっかけになったのは、夏目漱石の『吾輩は猫である』ですね。もともと私、猫が好きなので書こうと思いました。前回の作品よりも、深い作品となっておりますので、どうぞお楽しみください。
私が生まれたところは、とても暗かった。そしてとても寒かった。
必死にないていたが、それはとても小さいものだっただろう。親に抱えられながら、小さな小さな声でないていた。親は、息を荒くして、もうほとんど動いていなかった。
そして、自分の体を初めて見てみると、黒くて、ふさふさとした、毛が生えていた。
このあたりには私の仲間がたくさんいる。親は、もういない。なので、ここでどうやって生きていくかは、その仲間が教えてくれたのだ。食料はどうやって探すのか。寝床はどうやって探すのか。私に、猫としての生き方を教えてくれた。いつか恩返ししなければ、と思う次第である。
私がいつも食料を探している、いや、もらっているところは、この、とてつもなく大きなものを住処にしている、とても巨大な生き物だ。体に毛は生えておらず、後ろ足だけで立っていて、前足は歩くのに使われていない。その前足で、食料を私によこすのだ。話している言葉はよくわからないが、とても友好的であるというのはよくわかる。やたら甲高い声で私に話しかけるのだが、たまに、私の頭に手を乗せてくるのだ。このことも、知り合いから聞いている。この、「ヒト」と呼んでいる生き物は、私たちの頭をやたらと触ってくる、と。この行為は、私にはとても不快なものだ。毛が生えていない上、私たちの手にある肉球と呼ぶ、とても柔らかいものがついていないためか、ごつごつしている手が、自らの頭で動いているというのだ。ほかの猫はどうか知らないが、私はとても嫌いである。しかし、この行為、この生き物(ヒト)にとっては、とても愉快なものらしい。私たちの毛によって、手が気持ち良いらしいのだ。少しぐらいこちらの気持ちも考えてくれ、と懇願するばかりである。
私が、いつものように食料をもらいに行くと、そのヒトはいなくなっていた。いつもと同じ時間に来たのに、そのヒトは出てこなかった。後で仲間に訊くと、おそらく住処を変えたのだろう、と言っていた。そこまで住みにくそうには見えなかったが、住処を変えたならば仕方がないと、私は、新しい食料をもらえるところを探し始めた。
わたしは昔、猫に引っかかれたことがある。そのため、猫はあまり得意ではない。
わたしの叔母の家で、1匹飼っているのだが、怖くて近寄ることができない。20歳になった今でも、同じである。
わたしが一人暮らしをしようと思ったのは、去年の、大学に合格した時だ。それなのに、今頃になって一人暮らしを始める理由は、ただ、タイミングが無かったというだけである。親の反対があったわけではない。なかったわけでもないが。
「あなた、一人暮らし始めるの?」
わたしが大学に合格した時に面倒くさそうに母が言った。その一言で決断したのだ。その一言で、自分が母に、なかなかの負担をかけているということが分かった。一人暮らしをきっかけに、バイトでも始めて、親孝行しようと考えた。しかし、バイトが見つからず、結局、大学に入学してから1年以上も経ってしまった。最終的に、大学の近くの飲食店に働くことになった。そこは、わたしの住むアパートからも近い場所にあった。
実家を離れるとき、何故だかわたしは悲しくなかった。そもそも、実家からそこまで離れていないというのがあるが、やはり一番は親の反応だろう。
父は、いつもと変わらず新聞を広げている。しばらくわたしに会えないことなど、まるで気にしていない様子だった。
母も同じような反応だった。「いってらっしゃい。」と言うだけで、それ以外は声をかけず、いつもの日常だった。
なんなの。お兄ちゃん達の時は、あんなに騒いでいたのに。
わたしはそう言いそうになるのをこらえた。そういう反応は慣れてる。大学を合格した時だって・・・。わたしは自分にそう言い聞かせた。そして、わたしは、
「お兄ちゃん達が独り立ちした後も、世話のやく娘を養ってくれて、今までありがとう。」
と、それだけ言って、わたしは友達の車に乗り込んだ。それが、今自分にできる最大の皮肉だった。もう帰るつもりはない、とそう思った。
私が仲間から聞いていたのは、ヒトの中には、”オーヤ”と呼ぶものがあり、それがいるところには行かないほうがいい、ということだった。なぜなら、そのオーヤは、猫などの、その辺りにいる動物を、ひどく嫌っているらしい。仲間の一人が、それらしきものに追い返された、と言っていた。
その、オーヤが住んでいるところは、住処の外に階段があるらしい。そのような場所は、街を歩いていると、よく見かける。そのたびに、身構えている。歩いているだけでも襲われたことがある、という話もある。
これは、食料を求めるときに、もらうヒトを間違えないために、教えてもらったことだ。ほとんど使うことでもないといわれていた話だが、今、私に役に立っていると感じている。
しばらく歩いていた。歩いていると、たまに、私に対して反応を示すヒトがいる。私は、人嫌いの質ではないが、その、私に寄ってきて、騒がしく私を触ってくる連中は、好きではない。というより、嫌いである。元来私は、騒がしいのは嫌いである。猫というのはそういうものだ。この間まで食料をもらっていたヒトは、どちらかというと、騒がしいほうのヒトだったが、食料を貰っていたため我慢した。正直、このヒト選んで失敗だったな。と感じていた。そのため、あのヒトがいなくなり、新しく、食料をもらうヒトを探すことに、心を踊らせていた。次はどんなヒトなんだろう。
一つあくびをして、そのまま歩き続けた。
しかし、私が思うにはその、オーヤの住む住処が多くないか、ということである。歩けど歩けど同じような形式の住処が見えてくる。
例えばここ。もう、隣のものとほとんど外見は同じだ。違うのは色ぐらい。
おっとヒトが出てきた。行かねば。
そのとき後ろから「ひっ」というような声が聞こえた。
わたしが住む地域は、集合住宅が多いらしい。友達の車から見る建物は、ほとんどアパートかマンションだ。 マンションは少ないが、一軒家はもっと少ない。
「この辺りは集合住宅が多いのよね。」
わたしの友達がそう言った。
「そうだね。」とわたしはそっけなく答えた。
「だから、どれが彩里の家かわかんなくなっちゃう。」
笑いながら、友達はそう言った。彩里とはわたしの名前だ。
「そうだね。」とわたしは答える。
「どうしたのよ。まだ悲しいの?彩里、やっと親元を離れれる、って喜んでたじゃない。」
「ごめん。ぼーっとしちゃって・・・」
「そう。もう着くから、準備しておきなよ。」
わたしは、それを聞いて荷物を少しまとめ始めた。
「それじゃあね、また今度。」
「うん。今日はありがとう。」
それだけの会話を交わして、車は発進した。
目の前にあるのは、小さなアパートだ。隣にも、似たような形式のアパートがある。違うのは外壁の色ぐらいだ。わたしのほうは、『西山コーポ』と書いてあった。
その建物から人が出てきた。70代ほどのおばあさんだ。
「あら、今日からくるって、言ってた人かしら。」
そう言うと、こちらに近づき、わたしの顔を見ると、
「かわいい子だねぇ。名前は何と言ったか・・・」
「あの・・・藤田彩里といいます。これからご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願い致します。」
と言って、頭を少し下げた。すると、そのおばあさんは、ニコッっと笑い、
「まあ、礼儀正しいねぇ。私は大家の西山です。こちらこそ、よろしく、お願いします。ここに住んでるのは、あなたと、あなたの隣の清水さん。あと、2階の井上さん、私の4人だけよ。あいさつしておくようにねぇ。」
そう言って、西山さんは、ポストの新聞を取り、自らの部屋へ戻っていった。なかなか人が好さそうだ、とわたしは思った。
わたしの部屋は一階の一番奥の部屋で、103号室だ。部屋は1、2階合計で6部屋しかない、小さいアパートだ。木造ではないため、あまり古そうには見えないが、わたしよりも年上なのは確かだ。
ドアを開けた。中は思ったよりも古い感じはしなかった。随分と落ち着けそうな部屋だ。わたしは荷物を下ろすと、そのまま座り込んだ。家具はこれから増やしていく予定だが、初日に布団がないとさすがに不便なため、毛布2枚ほどは実家から拝借した。それを広げると、その上にわたしは寝ころんだ。しかし落ち着かず、そのまま起き上がった。
しばらくぼーっとして、外に出よう、と思いついた。部屋にいたら隣の人がうちに来そうだ、と思ったからだ。わたしは、人とかかわるのがあまり好きではないタイプなので、そういうのは避けたかった。
部屋を出ると、まず、どこに行くか考えた。とりあえず、最寄りのコンビニでも探してみるか、と思い、鍵を閉め、歩き出す。すると、目の前に黒い何かが通った。なんだろう、と思うと同時に、歩み寄ると、その正体は猫だった。わたしは反射的に「ひっ」というような声を出してしまった。
そして、わたしは数年前にできた傷跡が、少しうずいた気がした。
そのヒトは、ヒトの中では小柄で、顔は怯えたような、そんな顔をしていた。ヒトの顔は判別しづらいが、なぜかこのヒトはよくわかる。表情から心の状態をよく読み取れる。なぜだろう。よくわからない。
私はそのヒトに近づいた。するとそのヒトは後ずさりをした。その恰好がおかしくて、私はどんどん近づいた。するとそのヒトは私の脇に回り込み、そのまま走っていった。なんだろう。普通のヒトからは感じられない何かを感じた。
「怖い」という声が、私の中でこだましていた。
私は、父が生きているときに、ある話を聞いた。
随分前だが、私はある少女に食べ物をもらっていた。ん?あぁ、少女とはヒトのメスの子供だ。お前も大人になればヒトのオスメスが判別できるようになる。
何の話だったかな?ああ、そうそう、少女に食べ物をもらっていて、そのもらっていた場所というのが、その少女の住処ではなく、我々の住処に赴いて、食料をいただいていた。その少女は、そこが我々の住処だということを知っていたようだ。我々は当然少女のことを良く思っていた。我々に危害を加えることもない、さらには食べ物ももらえる。撫でられるのはあまり好ましくなかったが、少女が良ければそれでいいと思った。
しかし、だ。ここから問題だった。
気が付くとわたしは、アパートから随分離れた場所にいた。なぜここまで逃げてきたのかと、自分でも驚くほどだった。猫一匹でここまでとは。
でもそれは当然のことだったのかもしれない。わたしを引っかいた猫も黒い体をしていた。それに、あの猫は、わたしを引っかいた猫と雰囲気が似ていた。猫の顔の違いなどよく分からないが、わたしを引っかいた猫の顔とよく似ている。そういえばわたしが引っかかれた場所も、このあたりだったような気がする。この辺りは、実家から近いから。あれは9年前だったかな。
わたしは、近くのコンビニに立ち寄ると、そのまま1時間ほど雑誌を立ち読みしていた。
傷はまだ、うずいている。
我々の一族は代々野良だ。父も、祖父も、そのまた上も、だれにも飼われたことがない。もちろん私もだ。それが一族のしきたりというものだ。守らなければならないものだ。それが危ぶまれたのだ。
ある日だった。いつものように少女が来た。いや、いつものようにと言うべきではないか。かなりうれしそうな様子だった。いつもよりも声のトーンが高くなっていた。どうしたんだと思ったが、我々の言葉は通じない。少女の言葉もわからない。いつものように食料をもらおうとするのだが、その日は持ってきていないようだった。なぜだ、忘れたのか。とそう思ったその時だよ。
少女が私を持ち上げた。抱えたと言うべきか。そしてそのままその場から離れようとした。連れていかれる。私はそう思った。必死でもがくが、少女は離さなかった。少女は何か私に言っているようだったが、何を言っているのかわからない。私はもうパニックだよ。あの場所から離れてはならない。もう、そのことしか考えていなかった。そして、私はやってしまった。
私を抱えていた少女の手を、伸びきった私の爪で引っかいてしまった。それも深く。少女は私を離し、真っ赤な腕を抑え、泣き叫んでいた。私は急いで逃げ去った。もう10秒もすれば、少女が見えなくなった。私は走りながら、真っ赤になっている自らの爪を見た。少女の声が聞こえた。「怖い」という声が私の中でこだましていた。少女の言葉なんか理解できないはずだが、そう聞こえたのだ。
おかしな話をしてしまったね。すまない。だが、これは本当だ。今でも忘れられないよ。
あれはこういう事だったのか。私は正直信じていなかったが、父の言っていたことは本当だったみたいだ。私はもう一度その声を思い出してみるが、どうも思い出せない。一度きりのようだ。あの人は、メスなんだろうか。今の私ではよくわからない。
部屋に戻ると、また暇になった。スマートフォンの充電はあいにく切れていたので、今は使えない。雑誌を一冊買ってきたが、どれも、私の興味のないことばかり書いていた。なぜこんなものを買ってきたのだろうと、自分でも驚くほどだ。
すると、部屋のドアフォンが鳴る。誰なのかは、もうわかった。いやいやながら、部屋のドアを開けた。そこに立っていたのは、背の高い男性だ。
「あっ、いらっしゃったんですね。さっきは出かけているようでしたので。」
そういうと、一つお辞儀をして、
「隣の清水です。俺もこのアパートに来て間もないんですよ。去年大学に合格したときに一人暮らし始めようって思って。」
ということは同い年か。とわたしは考える。
「上の井上さんは長いこと住んでらっしゃるようなので、わかんないことがあったら、彼女に訊いてくださいね。わかんないことなんてそんなにないと思いますけど。」
それもそうだ、と思う。極力井上さんにはかかわらないでおこう、とわたしは考えた。
気になることを一つ訊いてみた。
「あの・・・どこの大学に通ってらっしゃるんですか?」
わたしは、短期女子大学ではなく、普通の私立大学に通っていたので、もしかしたら同じかもしれない、と考えたからであった。
「あっS大です。」
S大は、このあたりの私立大学だ。わたしの通う、O大とは大違いの学校だ。
「そう・・・なんですか。」
わたしなんかとは全然違いますね。と言いそうになるのをこらえる。そこで話が終わりそうになるのを察してか、彼が話を変えた。
「そういえば、井上さん。西山さんから聞いたんですけど、昔、野良猫を拾ってきて、その猫を虐待してたそうですよ。怖い話ですねぇ。一度西山さんに注意されたんですけど、今でもこの辺りで猫を探してるとか。」
その話を聞いて、わたしは、やはり井上さんとは関わるべきではないな、と思った。そうして、あの猫を思い出した。そんな人がいるから、ここにはもう近寄らないほうがいいと伝えたい。しかし、わたしの言葉は、猫には通じない。
あの猫は、もう一度来るかもしれない。
仲間のもとへ帰ると、仲間内で、話が盛り上がっていたようだ。
「何話してる。」
わたしが言い寄ると、仲間の一人が答えた。
「このあたりにあるアパートでさ、昔、野良が一匹殺されたって。俺らと直接つながりはないんだけどよ、恐ろしいなあって話してたんだ。お前も気をつけろよ。ヒトは俺みたいな三毛より、お前みたいな黒猫を好むって話だ。」
「アパートとは何なんだ。」
「オーヤの住処だよ。この辺りはたくさんある。」
あれはアパートというのか。覚えておこう。
それにしても恐ろしい話だ。父ももしかしたら、そうなっていたのかもしれない。父も黒猫だった。
自分が連れていかれることはないだろう。亡き父が教えてくれた、あのしきたりを守らねばならないためだ。
自分は野良でなければならない。それだけだ。
明日もあのアパートへ行こう。あのヒトが、私とどんな関係なのか。行っても到底わかりはしないが、あそこに行くことに意味があると思ったからだ。
明日だけでなく、明後日も行こう。明々後日も、その次の日も。
そう考えているうちに、私は眠りについた。
ここに来てから2カ月ほど経った。
だいぶ慣れてきたものだ。井上さんは言われていたよりも、随分人が良かった。本当は、あれはうわさに過ぎないのでは?と思うほどだ。清水は、ほとんどアパートにいなかった。学校が忙しいのか、よくわからないが、めったに会わなかった。
あの猫はほとんど毎日ここに来た。大家さんか、井上さんか、それとも清水か、だれかが餌付けしているのか、毎日のようにやってくるのだ。それも同じ時間に。絶対に誰か餌をやっている。わたしはそれ以外考えられなかった。おそらく、井上さんだろう。猫が好きなのは、2カ月過ごしてきた中でよくわかった。本当にあの人が猫を虐待などするのだろうか。いつも私は疑問に思っていた。逆に、清水のほうが怪しかった。めったに見ないし、学校以外の時は何をしているのかわからない。
今日も来た。
学校へ行こうとしているところへ来たのだ。本当にやめてほしい。そういっても伝わらないのだが、やはりやめてほしい。猫を見るたびに、傷がうずくのだ。
わたしは長そでを着て傷を隠すので、傷は見えないが、うずいているのはよくわかる。
わたしはいつものように脇へよけて学校に向かう。走って行っているときは、振り返らない。振り返ると、猫がそこにいる気がするからだった。
しばらくして振り返ると、そこに猫はいない。
しまった。絶体絶命だ。
いつものようにあのアパートに行くと、いつものようにあのヒトは去っていった。私も去ろうと思ったが、そこにいた別のヒトに捕まってしまった。父のことを思い出したが、相手は大人のヒトだ。その程度で、泣き叫んでひるむとは思えない。そのまま住処の中に連れていかれた。
中は、少し薄暗かった。明かりはついておらず、そのヒトが何か言っている。その言葉は聞き取れない。
すると、突然降ろされ、そして、食べ物が与えられた。別に腹は減ってなかったので、私は食べなかった。そのまま私は外に出ようとした。その時だった。
突然そのヒトが大声をあげ、私を蹴りつけた。右頬に強い衝撃が走った。何が何だかわからない。私はもう、パニックだった。
毛を逆立て、爪を立て、唸り声をあげて威嚇した。しかし、私のそれは大人のものと、全くわけが違うかった。
もう一度蹴られた。痛い。痛い。こんな感覚、生まれて初めてだ。踏ん張っていなかったら、吹き飛ばされていただろう。
助けてくれ・・・誰か・・・誰でもいい・・・ああ・・・私は死ぬのか・・・ごめんなさい・・・お父さん・・・
もうどれくらい経ったろう。私は目を覚ます。すると、突如右の後ろ足に激痛が走った。見てみると、血が流れていた。何かで切り付けられたのかもしれない。よくわからない。
あのヒトはいなかった。外に出ているのか。これを逃してはならないと私は考えた。もう、それしか考えられない。前足を引きずりながら、入り口まで急ぐ。
どうやって開けよう。私は考えた。ひたすら、ひたすら。
私はこの大きな扉のそばに、登れそうな場所があった。1つ足がなくても登れるだろうか。そんなことは考えない。登るしかない。力いっぱい跳んだ。
登れた。よし。
そして私は、扉の出っ張りを探す。父親が教えてくれた。なんで覚えていたんだろう。ここを回せば扉が開く、というのを、何かあったときのために、と教えてもらった。なぜこんなことを教えるのだ、と当時は思ったが、今は死んでも思わない、というか、今死にそうだ。
私は跳んだ。出っ張りに前足をかけた。少しひねると扉が開く。降りると同時に、右足に強い痛みがきた。だが、そんなことでわめいている場合ではない。外に出て、死に物狂いで階段を下っていく。階段を下り終えると、もうほとんど動けなかった。もうだめだ。私は諦めていた。
あのヒトが私の目の前を通るまでは
少し遅くなってしまった。
帰っている途中で、コンビニの期間限定アイスに釣られたのだ。甘いものはわたしの大好物だ。
すっかり日が沈みかけているなぁ。と夕日を眺めていると、いつの間にかアパートに着いていた。それほど近いのか、と改めて感心した。郵便受けから郵便物を取り、自分の部屋に向かった。しかし、そこには信じられないものがあった。いや、いた。
血だらけの黒猫が、這いつくばって、動いている。その猫は、いつもここに来る猫だ。喧嘩でもしたのだろうか。かわいそうだが、猫は触れない。わたしはそのまま部屋に入ろうとした。そのとき、
腕の傷が、とても強く痛み出した。刺すように痛み出した。今まで体験したどんなことよりも痛かった。
それと同時に、声が聞こえた。「助けて。」と、わたしの頭の中でこだまする。
わたしは小さくうなずくと、9年ぶりに猫を抱えた。ドアを開けると、カーペットに猫を降ろした。血で汚れた服を脱ぎ、洗濯機に放り込む。下着のまま、棚から救急箱を取り出し、消毒液を出した。ティッシュを5枚は取ると、消毒液を猫の右後ろ足にかけ、ティッシュで拭った。猫は動くそぶりを見せなかった。
ここまでの動作を、わたしは30秒ほどでやり遂げた自信がある。そこまで素早く動いたのだ。
ドアフォンが鳴った。
わたしは、寒気がした。背中に刃物でも突き付けられているような、そんな感覚だ。
「藤田さーん?井上ですー」
その声は、明らかに息が上がっている様子だ。
「ちょっ・・・ちょっと待ってくださーい」
わたしはすぐにジャージを着、猫に「ごめんね」と声をかけ、毛布をかけた。
「どうかなさいましたか?」
「このあたりに猫がいませんでした?黒くて、けがをしています。喧嘩をしてボロボロになったところを拾って、治療をしようと思ったんですけど、逃げっちゃって。」
その言葉からは、あの井上さんを感じなかった。真実を話さない、悪魔のようだ。
「いえ・・・見てませんけど・・・」
そこへ、清水が現れた。学校帰りのようだ。清水はこちらを見ると、近づいてきて、
「どうかしたんですか。」
と言ってきた。すると井上さんが、面倒くさそうに、
「いえ、今帰ってきたあなたには関係ないことですわ。」
と答える。皮肉のように聞こえるが、ややこしくなるため、本心で答えたのだろう。わたしも、下手に首を突っ込んでほしくないと思った。そんなことをして猫がばれたらどうする。
「気になりますよ。この血痕の事ですか?」
井上さんは、ばつが悪そうな顔をしたが、すぐに切り替えた。
「けがをした猫が逃げたんです。喧嘩か何かしたんだろうと思って拾ったんですけど。」
「そうですか。見かけたらお伝えします。」
「お願いします。」
そう言って、清水は自分の部屋、井上さんは、どこかへ行った。
わたしは急いで部屋の中に入り、毛布をどかして、治療の続きを始めた。しかし、気づいたのだが、包帯がない。どうしよう。とわたしは思ったが、救世主というべき人が現れた。
ドアフォンが鳴った。
ドキリとした。大家さんか、それとも清水か。大家さんであってくれと、願っていた。
「藤田さん。清水です。」
その声は、とても小さいものだった。
「猫がいるのはわかってます。俺に治療させてください。俺は獣医志望です。」
何とか聞き取れたのは、そんな言葉だった。
わたしはドアを開けた。
その手には、救急箱のようなものがあった。
「猫はどこに?」
そう言って清水は入っていく。
「そこにいます。」
わたしはカーペットを指した。
「こりゃあ、なんとまあ、ひどいな。ほんとに喧嘩か?血だらけじゃないか。」
わたしはひとつ、関係のないことを聞いた。
「どうして猫の居場所が分かったんですか?」
「血痕だよ。君の部屋の扉の前にまで続いていた。あのオバサンは気づいていなかったようだけど。それに、彼女の言葉からは、信憑性が感じられなかった。何というか、嘘くさい。」
やっぱり。この人もそう思ってたんだ。
彼が隣で治療をしている間、わたしは昔の話をしていた。
「わたし、昔猫に引っかかれたんですよ。これ、傷です。病院に行って、伝染病はなかったんですけど、傷は、ほとんど一生残るって。9年前ですから、そんなこと全く気にしてませんでしたけど、少し経つと、やっぱり気にしちゃって。両親なんて、お嫁にいけない、ってわたしを見放したんです。いつもお兄ちゃんばかり。その引っかかれた理由っていうのが、わたし猫大好きだったんです。それで、野良の集団から黒い猫を一匹連れて帰ろうとしたんです。なぜかっていうと、わたしの必死の説得で、母親が許してくれたんですよ。猫を飼っていいって。それで嬉しくって、猫をうちに連れて帰ろうとすると、途中で暴れて、伸びきった爪で引っかかれたんです。変な話ですけど、その猫。あっ、わたしを引っかいた猫です。その猫が、この子にそっくりなんです。ごめんなさい。でも、ほんとに同じものを感じて。」
よしっ、と彼が言うと、私に向かってこう言った。
「この猫は、骨折をしている可能性がある。決して喧嘩なんかじゃない。折れているのは鎖骨。何者かに蹴られて折れたらしい。間違いなく人だ。」
わたしはぞっとした。明らかに井上さんだ。清水が言っていたことは本当だったんだ。想像もできない。彼女が猫を蹴り飛ばしている姿を。
悪魔というのは本当に存在するんだ。
私が目を覚ますと、眩しい光が私の目を突き刺す。ここはどこだ。
少し顔を動かそうとすると、少し痛んだ。周りを見渡すと、例の女がいた。このヒトは、メスだとわかる。なぜならこのヒトは、私の父が傷つけた少女なのだから。夢で見た。父が私に教えたのだ。
そのヒトは、私に何か語りかけると、私を撫でた。心地が良いものだった。
そのヒトは、何か作業をしていた。箱に何かを入れていた。さらにこの住処は、あの地獄の場所と比べてものが少ないな、と思った。住処を変えようとしているのだろう。私にはわかる。
しばらくすると、私は持ち上げられ、箱の中に入れられた。抵抗はない。このヒトは信じられる。それに、暗いのは慣れている。もともとそういう場所で生まれたためか、少し落ち着く場所でもあった。
このまま私は彼女の住処についていくのだろう。
このまま私は野良ではなくなるのだろう。
それでもいい。もともと仲間のもとに戻るつもりはなかった。感謝は大いにしているが、別れるときは静かに別れるのが、決まりだ。
許してくださいお父さん。野良ではなくなることを。
許してくださいお父さん。
あなたが傷つけた少女と、これからずっと、暮らしていくことを。
あの日の数日後。清水は学校を休み、猫を見にきた。少し猫を観察すると、
「まだ意識はないが、安静にしていればそのうち治るよ。治ったら野良に返そう。」
しかしわたしは、彼に言った。
「あの・・・わたしが飼ってもいいですか?」
清水は、は?というような顔をした。
「この子とわたし、何か繋がりがあると思うんです。他の人にはわからない、何か。ここも引っ越します。井上さんの目の届かない場所へ。あの、やっぱり野良に返したほうがいいですか・・・?」
そう言うと、清水は微笑み、
「構わないよ。病院でいろいろしなきゃダメだけど、大丈夫?俺が手配しようか?」
彼のやさしさに涙が出そうになる。
「お、お願いします。よくわからないので。」
「費用も俺が出すよ。」
「いやっ、それはわたしが飼うんだし・・・」
「いいよ。治療したのは俺だし。その延長ってところ。それに引っ越すんだったら、お別れ代ってことで。」
彼は笑いながら言った。お別れ代って何ですか。わたしも笑った。
引っ越す日、私達は猫を段ボールの中に入れようと考えた。清水によると、目覚めても、鳴き声を出す元気はまだないそうだ。
大家さんにあいさつに行くと、
「もうちょっといてもいいのよー。猫が嫌なら私が、追っ払ってやるわ。」
と言って、新聞を振り回していた。大家さんには、猫アレルギーで、この辺りは猫が多いから。と言ってある。これも当然、清水と話し合ったことだ。
外では友達の車が止まっていた。ここに来る時にも送ってくれた友達だ。それに、今度は部屋が見つかるまで、彼女の家に居候させてもらうことになっている。
鍵を閉めている最中、清水が部屋から出てきた。右手には封筒を持っている。
「振り込みだと信用できないだろ。だから。」
と言ってわたしにその封筒を渡した。封筒には、『お別れ代』と書かれている。
「そんな、いいですよ。まだ月の初めじゃないですか。」
「いいんだよ。俺、仕送り来てるし。」
「どうしてそこまで?」
「あ~・・・なんとなくだよ。なんとなく。隣の人だから。」
そう言うと彼は、猫をよろしく。と言って、部屋の中へ入っていった。わかりやすい人。わたしは笑いだしそうになった。
鍵を大家さんに返し、車へ向かう。
後ろから視線を感じ、振り返ると、井上さんの部屋が見えた。そちらに向かって、べえっ、と舌を出し、踵を返した。
車に乗り込み、一言二言言葉を交わすと、車は発進した。
「ここに来るまでに何回彩里のアパートを間違えたか。」
彼女が言った。
「そうなの?」
わたしは笑った。すると彼女がこちらを驚いたような顔でこちらを見た。
「あなた、そんなことで笑う子だった?」
わたしは答える。
「変わったのかもね。」
そうに違いない。わたしは、この2カ月で、2つのものを得て、1つのものを失った。
得たもののひとつ目は、好きな人。
ふたつ目は、運命の黒猫。
失ったものは、
遠い昔の、傷の記憶だ。
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