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STAGE 6 「消去」第三部

4


 ―ズルズルズル、ズルズルズル、


 老弱な扉を挟んで、床を這い続ける泥の音は絶える気配すらみせず、聞き慣れない不快な音を連続的に受け続けていると気が狂うまではいかないが、いっそ耳をそぎ落とした方がよかったかと錯覚に陥るほど不可解極まりない現状だった。私は、意識的に浴室の向こう側から遠ざけるようにして扉から足音を立てぬよう静かに離れる。床を這う音が少しづつだが、扉の前に集まってきたようにも聞こえたが、これ以上は耐えかねないと感じ顔を背け聞き耳をたてないよう極力務めることにした。

 勝手知ったる他人の家と言う感じだろうか。一目見廻した室内の様子はつい先程まで仮眠をとっていた自室となんら代り映えのない同じ作りをしている。机、椅子。衣装ケースの寸法から、その設置場所に至るまで、不気味なほど規則正しく、整頓されている。壁際にあるベット。その頭側に据え付けてある淡い蛍光色を放つデジタルの表示板。再び自室に戻ってきたような錯覚すら覚える。

 デジタル表示板に注目する。四つの数字からは先程見た時刻から更に一時間程進んでいる事が分かった。幾ばくかの時間に対し、抜け落ちた体力の割合が余りにも不釣合であることを目の前に映る数字から読み取ってしまい、私は不意な目眩に襲われた感覚を受ける。立ち尽くすばしょは変わっていない筈なのに、妙に足元はふらふらと落ち着きがなく、体はそれに合わせて右へ左へとどちらつかぬ方向へ揺れ動き、バランスを取ろうと動きを止めることをしない。現実味を帯びない泥からの襲撃のせいか、窮屈な換気口を汗まみれでぐったりとしながら這ってきたせいか、はたまたその両方なのか、私が向かう目的が一体何なのかわずかにも朧気に変わってしまうほどに疲労感を蓄積していた。

 だが、私が惚けようと惚けまいと。時間も、そして仕切りの向こう側で蠢く奴も、のんびりとはまってはくれない。束の間も忘れるほど早い感覚で時間が経っていたのか、執拗に迫る泥の音が、次第に激しさと大きさを増していた。びくりと条件反射のようにして肩を震え上がらせ、私は味わいたくない恐怖をこれで何度目かと思いたくなるほど、ひしひしとこの身にはしる感覚を受ける。一旦仕切りから離れて、出入口の扉に歩みを進めた。

 「変わらないか....」

自室と同様。電源の行き届いていない扉は物言わぬ壁にかわりはなかった。どこにも当てられない苛立ちを抑えられず、扉に向かって右足で蹴りつけた。けれども足に鈍い衝撃と痛みを容赦なくもらったぐらいだけで、頑丈な作りに見える扉はやはり頑丈に出来ていたらしい。ビクともしなかったし、揺れ動くこともなかった。

 そしてもう一度だけ試す暇もなかった。浴室の扉からは今まで聞いたことのない音を耳にした私は踵を返し何時の間にか浴室の前に戻っていた。何かの意思によって動かされていると思われる泥の集合体はしっかりと私の逃げた方向を正確に突き止めていたらしい。部屋と浴室を仕切るその扉の隙間の至る所。目張りされたようにびっしりと泥がまとわりついており、今にもあふれんばかりの勢いだ。なかにあった泥が一斉に迫りつつあるのか、扉の隙間から溢れ出た泥が、じりじりと追い立てて、次々に降りかかってくる続く泥の道先案内人となって、私の方へまっすぐと迫りつつあった。

 「ぐっ......」

やがて待ちきれないといった泥の圧力とも思えるミシミシときしむ音が、段々と私の目の前に隔てている扉に集まってきた。ガタガタと振動して、震えの止まらなくなった扉が、立て付けの悪くなったように開く方へと微動する。振動は内側からかけて放射状に広がりを見せ、ガタツキを更に増しながら扉の動いたところから生まれた隙間から堰を切った様に泥が吹き出す。

 咄嗟の行動で扉の取っ手に手を掛け、反対方向に扉を動かそうと私は懸命に手を引いた。ものすごい勢いで流れ出る泥はさっき見たより数倍にも体積と密度を増やしたのかと過重な量を思わせ、それに比例する様に押さえ込む力が各段に増えたことが瞬時に分かった。扉を引いて押さえ込むよりも、先に扉がはち切れんばかりの泥に負けて、破壊されてしまいそうだからだ。そうなれば、扉を押さえ込む事すら無駄に終わり、破れた扉の先に待つ泥の塊が、一斉に私の体に覆いかぶさることは間違いないことである。そんな予想も早める様に、泥の勢いは激しさを増し、扉の向こう側で急き立てる。振動とも思えた扉の震えはさらに激しさを増したてつく音をも大きく響くようになった。今にも外れそうな扉に振動とは違う別の違和感を感じ、私はすぐさまとってから手を離し、一歩後ずさりをした。きしみ出した扉が、形を保つことが困難になり、くの字に曲がりだし、ポキポキと軽い音を立てて真ん中から折れ出した。そして一呼吸おく間も無く、べシャリと音を立てて扉だったものは粉々に砕かれ、障害が無くなり譚を切った泥が一斉に押し寄せてきた。


 一斉に外にめがけて突進する泥をかいくぐり、その後の泥の行方にもわき目も振らず、天井の脱出口まで猛進する。しかし、床に張り付く泥の一部に足を取られて、無残にも体のバランスを崩した私は、浴槽の壁に向かって躊躇なく激突する。手をより先に頭の方をぶつけ、目の前がチカチカとフラッシュを無闇やたらに焚かれたような目の眩みと、耳元で大鐘を打ち鳴らされたような凄まじい衝撃ともいえる脳震盪に襲われ、のめりこむようにして床にうっ伏した。「べチャリ」。と周りの泥は四方に弾けて、私の付近に散らばっていた。足を取られた泥は外に勢いよく飛び出した泥に私の居場所を教えるようにして、こちらにジリジリと速度を早め、にじり寄ってくる。「ヒッ」、と小さな悲鳴を細く弱く吐いた私は、かき回すようにして両腕を空中でばたつかせ、必死に立ち上がり回復動作に移ろうとする。だが、捉えられた足に泥が辛くも先に追いつき、片足を拘束されてしまう。反射的動ける反対側の足先で蹴りつけ、泥をはねのける。だが、相手も諦めが悪く、次々に援軍の泥の塊を送り出し、今度は両足ごと抑えこもうと躍起になってうねり返ってきた。もうたくさんだ、という気持ちでいっぱいだった私は、自分でも考えられない程素早く立ち上がった後、体制を立て直し、さきほど叩いた片足を浴槽の淵にかけると、踏ん張りを利かせ一気に跳躍した。

 両腕はいつの間にか前方に見える換気口。ぽっかりと口を開けた唯一の脱出口にむかっていた。私の考える思考よりも早く、これは本能なのか、あるいは私ではない別の何かのせいか、只々判らないわだかまりを用いながらも両手は出口の端をつかんだ。

 だが、どうであろうか。換気口の口元にも泥が既に這いずっていたのだ。目の前に広がる絶望感に余韻を残さずして、手先に絡みつく泥は攻撃的で獰猛だった。がぶりと鋭い牙で噛み付かれた痛みに耐えかね、私は力なく両手を換気口から離してしまう。一瞬だけ浮かんだ私の体は次の瞬間浴槽に向かってなんの抵抗もできず落ちていった。そして最初にこの浴室に来た時とは全く別物の泥が私を待ち構えており、浴槽の底部へと辿り着く前に、私の全身をどっぷりと包み込んでしまった。

 

 ―ドプンッ......


 真っ黒な何か取り込まれる感覚とはとても表現しきれるものではなかった。落ちていった衝撃もほとんど感じることなく、内側に向かってグイグイと押し込められる物々しさは、外から見て一体どんな様子なのだろうか?巨大な生き物の腹の中に押し込まれたような味わった試しのない未知の恐怖より、これはどちらかというと、既知感がわずかにあったのだ。よく分からないが、妙に慣れ親しんだ様子でもあり、懐かしさも僅かながらも有ったと思える。だが、外側から全身をきつく硬直させられる泥の感触と恐怖に耐えかねて、私は無我夢中でもがきはじめた。皮膚から伝わる泥の感覚は最初の時と同じく滑りをまとったようで妙にサラサラとして不快感がない。でも、その蠢く意識のような素振りはなにものにも代え難い拒否感と恐怖を絶えず私の本能へ直接語りかけてくる。縺れ、引っかかるどろを手でかき分けるが、粘っこさが一向に衰えない泥に対して、私自身の抵抗など赤子の手を捻るぐらい易々といった感じで、どっしりと浴槽の中に構え続ける。

 底の方に漂うほどでしかなかった泥はいつの間にか体積を無尽蔵に増やし続け私の体を悠々と飲み込む程に肥大していた。全身が埋まってしまった次の瞬間、思わず開いた口や、鼻の穴へとゾワゾワと恐ろしいほど不快感に満ちた泥の塊が、絶えず侵入してきた。呼吸もロクにできない。吸うどころか、吐くこともできず、次第に頭の奥から鋭い針で激しく何度も刺してくる激痛が、絶え間なく響く。金槌で思いっ切りしこたま打ち続けられ、警告ともとれる衝動に抑えられず、泥の水面に向かって、もがいていた手を引きずり込ませて、鼻と口を覆った。無駄とは分かっていてもこれ以上泥の侵入も黙認できない。顎の骨が外れるくらいの力を目一杯かけ続けた。だが所詮時間の問題でもあった。喉内に押し詰まった泥は徐々にその密度を増やし奥へ奥へと押し入ってくる感触を紛れも無く伝わってきたのだ。ビリビリと焼けるようにしびれる喉を詰まる痛みがさしわたって広がり、吐き気を催した。だが出口のない泥の行き先は一方側にしか進まない。食道を抜けた先には肺と胃だ。

 ―冗談ではない!!

 泥は外から押し潰すではなく、中から窒息死させるつもりか。息の続かなくなった私は朦朧としていく意識の中必死に体を動かし、泥の水面に出ようとする。だが、相手はそれを封じるようにして私の周りにある泥を硬化させてきた。このままではろくに体を動かせない。全身は既に縛り付けらた痛みで一杯。口もとは考えられないほど風船の様にパンパンに膨らみ、泥は躊躇なく内臓を押し潰そうと、動きを止めない。

 もがくことすらまもならぬ状況に陥る前に、私は口と鼻を抑えていた手を咄嗟に離した。次の瞬間。口を広げるだけ目一杯大きく開けた私は、右手で拳を作り自分の腹部に向かって殴りつける。泥の中で少々の勢いが落ちるがそれでも十分だった。思わず力む腹筋をいやでも緩ませようと意識したせいか、思いの外右手は勢い良く「ズン」と自分の体に沈み込んだ。幾ら自分で殴ったとはいえ、当たる瞬間に無意識に力を緩めようとするはずだ。だが、混濁した意識の中、そんな余裕もなかった。ぐいっと内臓がせり上がったような感触をうけると、中に押詰められている泥が耐え切れず否応なしに私の大きく開いた口から吐き出された。突然の吐瀉物に流れを変えられた泥の動きに私は追い立てる形で、浴槽の壁めがけて余った左腕を勢いよくぶつける。

 「ミシッ」という音がする。衝撃が全体に伝わったのか、硬化した泥がグズグズと崩れる様子を皮膚で感じとった。だが、周りの泥には未だ溶解状で活発に動き回る泥が、崩れた泥を補佐しよう行動を起こしだした。その隙を与えず、固まって土台となってくれた泥に感謝しつつ、両手をその土台に乗っかかり、上体を起こす。びちゃびちゃと、当たってくる泥に怯まず、遂に泥の中から私は顔を出すことができた。

 「バシャリ」、と水を打つ音。その次の瞬間、顔全体に張り付いていた泥を払いのけ、浴室の淀んだ空気が皮膚にびちびちと打ち付けてきた。口や鼻、耳の中まで入ってきた泥を外に押しやる形で、私は咄嗟に咳き込んだり、鼻を摘み、耳へ空気を押し流したりした。口の中に残る泥がびちゃびちゃと音を立てて、生き物のように這いずっていた。唾と一緒に吐き出す。それでも残る泥は手を突っ込み、掻き出した。荒い呼吸を起こしながら肺に酸素が行き渡ってくると意識もそれに応じるように鮮明さを戻してくる。そして考えうることなく、大急ぎで浴槽から周りの泥をかき分けて、縁に手をかけて体を泥の中から引き離した。泥のその瞬間、動きに若干の澱みがあり、直ぐ様拘束しようはしてこなかった。が、浴槽の外にあった泥は前と変わらず更に勢いを増し、淵に立った私にめがけてズルズルと猛進してきた。

 二度と捕まるもんか。私は目の前にあったシャワーヘッドを引っ掴み、天井にぽっかり空いた換気口に向かって硬い部分を思い切りぶつける。すると覆いの口元にたまっていた泥がよろよろと形を崩し、ぼとぼと音を立てて力なく落ちていく。対処法の既に分かった私は、多少の泥に怖がる必要も無く悠々と換気口に手を掛けて、間髪いれず上がった。全身にひっついていた泥の一部は、上がった時の衝撃でバラバラになり崩れて下に落ちた。上がりきる前、ちらりと泥の方に目を向けた。私の方向をしっかりと認知していたらしく、びちゃびちゃと音をてて上へ上へとせり上がっているように見えた。しかしそれは無駄であるこが、私は分かっていた。先程引っ掴んだシャワーヘッド。ぶつけた勢いで根元が外れ、残っていた水が浴室全体にバラまかれた。浴槽にあった泥はそのおかげなのか、軟化し、勢いを付け出したが、流れ出た水の量が多かったのだろう。溶解状の泥が徐々に形をうまく作れず水のように水面状を波紋だけが、出るまでに勢いを失ってしまったからだ。私が最初に浴室に降りてきた状態に戻っていたのだろう。やがて腐臭はそのままで、這いずる音は静かに消えていった。



 暫く放心状態に陥っていたらしい。常識では考えられない現象に立ち入ってしまったせいか、自分では考えられないほど極度の疲労感のせいか、頭の中はぼんやりとしたモヤに遮られ、僅かの間だけ何かを考える事を放棄していたらしい。次第に目の焦点が合いだした時には、体中にまとわりつく恐怖が消え去っていて、手足の不自由のなさを細部まで確かめる程、落ち着きを保つまでになっていた。夜目の効かない目ではあったが、ぼんやりと薄く広がる通路の光景から、あの泥がここまで這い上がってこなかったことが分かった。再び這い出して、浴槽の見える換気口まで体を持ってきた。やはり夢ではなかったようであって、浴槽とその周りには黒々とした泥のような何かがたぷたぷと静かに漂っていた。一旦浴室から出た途端、泥は静寂を取り戻している。まるで縄張りを荒らされ、外敵から身を守ったために私に向かって襲いかかってきたようにも見える様子である。もう一度下に降りてみようとも思わないが、"あれは一体何なのか"詳しく知りたい気持ちになった。探究心は身を滅ぼすともコトギがボソリと呟いたことを思い出し、その呟いた本人に直接聞いてみるのも悪くないとも思った。

 そのためにはこの場から一刻も早く出なくてはならない。不本意ではあるが、大分時間を食ってしまった為、わざわざ来た道を戻る方向性にはあえて考えず、先にある送風ファンを壊して、進むことにした。夕刻からだいぶ時間の経過を進んだと踏んで、じっくりと考え込むことも必要ないと判断した。ほかの人間や監視の目がどれほどなのか判断つかないが、あんな非現実的な現象に出くわした後に、少々常識という枷が私の頭から離れた様だった。表面上落ち着きを取り繕っていたが、先程の出来事に若干の興奮を目覚めさせてしまったと言えるのだろう。妙な気持ちを高ぶらせたまま、私はさきほど戻ってきた道を再び這っていった。やがて、目の前に先程外すのを諦めた送風ファンが姿を現す。今度は手ではなく、足先が送風ファンの方へ向いて這ってきたのだ。ファンのギリギリまで体を近づけさせ、めいっぱい曲げきるまで足に踏ん張りを利かせてから、思いっきり蹴り出す。

 ―ガンッ!!―

 一発目でいとも簡単に蹴り破れるほどヤワではないことはこの時確信となった。それでもジンジンと足裏に滲む反動の痛む中、絶えず繰り返し蹴り続けていればいずれ根負けしてくれるだろう。私は焦る気持ちをヒシヒシと胸に抱きつつ、蹴り続ける足に段々と制限を解いていった。いずれこの音に反応して誰かが駆け寄って不振に思い、上に連絡を寄越してしまうかもしれないが、今更後に退ける理由も既に無気に等しく、破断する音と共に向こう側へとかつて送風機であった物がくしゃくしゃに砕けて通路を滑っていった。

 ガラン、ガランとけたたましく際限なく鳴り響く音にいったい何人が気づいてしまっただろうか。ひとつ思案してみようかと私は何気なく思ったがそうも言っていられない事態となった。急に視界が斜めにぐらりと揺れたのだ。私は狭い通路で際限なく体を動かした為、酸素を不足して貧血気味になったかと思ったほどの急激な揺らぎだった。だが、その揺れは決して酸素が不足してした要因ですらなかった。何だ、と考える間もなく次の瞬間耳を劈くけたたましい轟音と共に、私の居た通路一帯のそこがいきなり抜け落ちたのだ。

 その轟音を頭で処理する前に目の前で起きつつある光景に私は成す術も無く、その体を宙へと投げうっている状態であった。

 

 滞ることのない耳鳴りと頭痛を併用して襲い掛かる、信じられないほどの凄まじい轟音と、縦横無尽に下へと落下し崩れ去る混凝土や奇妙な色をした骨組みの行き交う空間の視界そのものが、私の頭が一瞬だけ理解できた光景だった。その次には耳鳴りに勝る二度と味わいたくない衝撃と共に、周りの景色は即時に暗転。そして続けざまに鳴り響く奇っ怪な音と、体の到る所に絶え間なく激痛がほとばしった。おおよそ無限とも捉えられる幾多の激しいショックに、私の頭は処理の限界を超え、私の意識そのものまでを即時に遮断させてしまった。これ以上かと思えないくらいの耳障りな音も、全身に万遍無く浴びせられた数々の苦痛も、それに合わせてじんわりと溶けるようにして薄らいでいった。

 次に目が覚めた時、私は運がいいのか悪いのか一時の間深く考えてしまいそうになった。視線の先には崩れ落ちた瓦礫の山は一切見受けられず、変わりに最下層に広がる筵のような無数の建家がうっすらと靄がかかった空から見下ろすことができた。先程まで這って出た通路も、その周りの大部分の部屋もすっぽりと抜け落ちたように無くなっていた。私は崩れ落ちなかった骨組みの一部に体が引っかかり、意識を失っていたのだ。意識の覚醒はその引っ掛かりによる痛みが原因だとすぐに理解できた。鉄骨とも見て捉えれる野太い骨組みがへし曲げられたように折れ、私の左腕に遠慮もなく覆いかぶさっていた。骨組みの間に挟まれた腕の場所は間隔が極端に狭い隙間に挟まれており、腕からはその先は宙ぶらりんの状態だった。その挟まれた痛みから意識は取り戻せたものの、ここからどう動こうにも挟まれた腕をどうにかしなければいけなかった。素人目から見る限りでも骨組みは重量物であるのは明らかであり、とても今の状態では持ち上がる以前に、腕を引っこ抜くことは到底不可能に見えた。それに左腕を引っこ抜こうにも、奇妙なほどに左腕の感覚がなく、健全な状態で再びお目にかかれることは絶望的かと思ったほどだ。

 こうしている内に、私は運良く最悪の結果とは至らなかったが、悠長に構えている場合でもなかった。骨組みの下敷きとなり折れた左腕意外、私の体を支えている物は何一つ見当たらない。床下は当の昔に崩れ落ちている。

 外は既に夜。あれからさらに時間だけが過ぎ、高高度での吹き荒れる強風が全身にひしひしと感じられた。

「どうにかしてここから……でなければ……ッ!!」

 まだ自由の利く左腕以外の手足を使い、安全な場所まで戻ることが最初の目的となった。今は腕の心配など後回しだ。周囲を即座に見回し、自分の今状況をできるだけ正確に把握する。下には大人一人満足にも耐え切れる足場は一切見当たらなかった。顔を上げ、私の真正面には派手に削ぎ落された部屋。その一部には無数の瓦礫が覆いかぶさっていた。とてもじゃないがそこまで飛び移れるほどの距離を跳躍することはできない。たとえしっかりとした足場があっても、五分五分といったところだろう。

 であれば行くつく道術は自然に骨組みへと向かう。卑しくも私の腕を離さない骨組みに向かって、宙に振られた右腕を持ち上げる。そのとき左肩に妙なしこり共に、ガクッと抜けるような感覚がした後、酷い激痛に襲われた。思わず悲痛な声を上げそうになったが、上に上がることだけを必死になっていた私の口からは歯ぎしりか漏れてこなかった。右腕だけでなく体を捻ったり動かしただけで腕より肩の痛みが増していたのが目に見えて理解できる。

 ようやく二,三回空振りした後、ようやく骨組みの一部に右手が届き、ガッシリと掴む。そのまま片腕だけで下側の骨組みまで体を持ち上げようとした。長い間体を動かしていないせいか、少し無茶なやり方だったにせよ、気で踏ん張り、思いっきり腰を浮かせたと同時に、骨組みに向かって両足で羽交い締めをする様に絡めて固定した。金属のヒヤリとした冷たさが腹部に捩る。下側の骨組みにピッタリと体を寄せた私は、次にある程度力をかける必要もなくなった右腕を使って、左腕を挟んでいる上側の骨組みを外すことにした。見る限り腰回りほどの太さを持つ骨組みを腕一本で持ち上がることはできない。だが、僅かにずらすことを許せば、なんとか左腕を抜け出せそうにも見える。私は一呼吸置いた後、あらん限りの力を込めて骨組みを押し上げた。

 「んんんんん……ッッツ!!!」

 全身の血が急加速し、体内を一層激しく掻き乱すように流れ暴れ回る感覚、顔が真っ赤になったような気分になった。その目に、僅かにズレを生じる動きを見せる骨組みの歪みを見た時、無意識に左腕がズルリと抜け落ちて空中で宙ぶらりんの状態になった。その次に私の制御も効かない左腕から、脳を直接貪られたようなひどい激痛が頭をかすめた。右腕が急に力が入らなくなり、上の骨組みがズシリと音立てて崩れた。次第にその崩れた場所から、徐々に曲がりも生じ出した。

 風に吹かれる布のように宙に漂う左腕はとても無事には見えなかった。引っこ抜いた瞬間もそうだが、赤い何かが顔に向かって降ってきたと思えば、今度は下に向かってボトボト落ちているのだ。千切はしかなかったものの、相当のひどい損傷が見受けられた。腕の一部が削ぎ落されて肉という肉が肌の下から遠慮なしに現れ、剥き出し状態だ。その奥からは、止弁の抜けた細い無数の管から、赤黒とした液体がぼとぼと風に煽られて縦横無尽に飛び散っていた。

 「これは…、使い物にならないな……」

 私はじっくりと左腕の状態を見ながら呑気そうにそう言った。今だ不安定な足場から抜け出せないままであるものの、左腕の有無に限らず損傷の具合は判ったため、下の骨組み伝って急いで上に昇ることにした。三箇所で支えるのは少々を難義であったものの、骨組みの根本まで差し掛かった際、上側の骨組みが撓みに耐え切れず、破断し、下に勢い良く落ちていく様はあまり良いものではなかった。あと十数秒遅れていたら、私はあの惨状に飲み込まれていたかもしれないからだ。

 根元まで届くと、上の方面は、随分と余裕のある空間になっていた。体を捻りながら、骨組みの周りを回転するかのように上に体を起こした私は、ようやく上体をおこし、骨組みの上に立った。ここから数歩歩けば下の場所とは程遠いが、長く曲がりくねった大きな通路に差し掛かることが分かった。一歩一歩慎重に登りながら、私は今回起きたこの惨状というものか事故のようなものに考えを巡らせた。左腕を潰されながらもようやく通路にはい上がった時、反組織「ハモク」の存在が脳裏をよぎった。だが、私は別の存在にも気ががりがあった。そして咄嗟にその疑問に問いかける姿がぼんやりと脳裏に映し出された。

 「マダム……」

 菰田がここに招き入れたあの高齢の女性。あの女は一体何者なのか、決定打となる確かな情報は今の今まで一切入ってきていないのだ。菰田の古い古い戦友であるという話でもあったが、果たしてその話に信ぴょう性があるとは言い難い。現にあの時以来私が気を失ったあと、あの女がどこに行ったのかまるで所在が掴めていない。まして共にいた菰田さえ、あの時答えなかったとすれば、疑惑はより一層高まるだけだった。

 「彼に直接聞くしか……」

 一度断りを受けた以上、菰田がそうも易易と固く閉じた口を開けることは許さないことは百も承知である。だからこそ彼が必要なのだ。行ける知識の宝庫。コトギの存在が。廊下の壁際によりかかると、私は床の近くにある小さな四角形の窪みの中心をコツコツと小さく手で叩いた。すると上下にパカッと割れて、中から小さな小箱が転がって来た。それを右手で引っ掴み、上蓋を開いて中身を取り出し、口に含んだ。ゆっくりと硬いものが喉の奥に通り過ぎていったのを感じて、先程の小箱をパックリと開いた窪みに放り込んだ。

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