STAGE 6 「消去」第二部
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事の重大さを思い知らされたのは、今から更に十数時間後の私でしか判らない。だから、ある程度十分にと思えた仮眠を終えて、ベットから体を起こした私はまず、部屋の照明が既に消えていることしか視認できていなかった。仮眠をとる前、確かにまぶたの上から感じる煌々と照らされる眩しさに疎まれながら寝に入ったわけだが、どういうことか、照明は独りでに切れたのか、若しくは誰かに落とされたかに思えるほど不自然に部屋一帯が暗転していた。早々に立ち上がり、壁に備えてあるスイッチを暗闇の中まさぐる様に探し当て、何度か往復するようにカチカチと入り切りを繰り返す。どうも、後者のようだ。照明が焚けない事実に、私はこれ以上スイッチを弄るのを諦めて、部屋の中央へ視界を向ける。その暗くなった部屋の彼方此方を見回すが、特に変化点となる目立った違いはなかった。内部から落とされたわけではなく、この部屋の外側から照明を落とされたに違いない。外の現状が把握できない以上今はそう判断するしか無かった。。
私は次に照明以外にも違和感に気付き、再び扉の前に立った。何時も通りならここで無作法に目の前の扉は開いてくれるものなのだが、私が一向に待っていても、灯りもないためいつも以上に黒ぐろとして色の見せない金属の一枚壁は、本当に物言わぬ壁に変わってしまっていた。私は試しに両手を扉に押し当て、腕の力だけで押したが、ビクともしなかった。恐らく、何かに引っ掛けて引っ張ろうにも、持ち上げたり、横に動かそうとしても私が根負けするだけだと思い、これ以上の体力の消耗は避けることにした。いっそ蹴り破ろうかと思ったが、この区画の人が少ないとはいえ、私が自室待機なのは重々周りにまで行き届いているはずだから、これ以上の騒ぎを起こすのは余計に自分の首を絞め上げる結果につながる。そうして、私は扉の前から自然に離れていった。
既に密室となってしまった自室の中、私は扉以外からの出口を探すことにした。ベットの時計は夕刻に差し掛かる数字に変わっており、ちょうどこの時間帯が巡回の少ない時間帯であることも重なっているため、迅速な行動に移る必要性に迫られていた。部屋の天井を見上げる。そこには、照明器具以外何も据え付けていない無地の天井が部屋一帯を覆っているのに過ぎなかった。窓が存在しない以上、天井からの換気通路を通る他、脱出経路は無さそうだが、通気口は此処に一切見当たらなかった。この部屋の換気をどのようにして執り行われているのか、私は深く考えないつもりではいたが、この時になって部屋の異常な密閉さに、背筋をひやりと思い起こさせる想像をしてしまい、私はこれ以上考えないように努めた。ベットの方に向い、そこから左に曲がって衣装ケースのある部屋の一角に来た。その横は浴室になっている。衣装ケースは移動できないようにがっちりと壁に備え付けられた構造なので、無理矢理引きはがすのは到底不可能なのが目に見えて分かった。その上にも何か通路となりそうな穴も無く、私の歩みも何かに追い込まれるようにして隣の浴室へと向かっていた。
さすがに浴室の前にある仕切りは、電気が通っていなくとも自力で開けることはできた。何かをさ迷うようにして求めたいのか、はたまた袋小路に追い込まれるネズミのように私はこの密室から出ることだけを唯一に考え、行動していた。ここにその兆しとなる何かがあるとも確証はないが、少なくとも今までよりかましな見解になるのではと淡い期待も抱いていた。
浴室には簡素な洗面台とこじんまりとした浴槽、便器が備えてあった。便器と洗面台は迎え合わせる形で仕切り側に備えてあり、奥に浴槽とその間を仕切り役目を担っている防水製であり、半透明状で厚手のカーテンが張ってある。その内部には出入口に向かい合わせる形で壁に設置された操作パネルと、洗面台側の壁に沿うようにして、その横には蛇口とシャワーヘッドが付いている。部屋の水周りは全てここに集中的に置かれていた。
この水場において、確実に出入口が設けられている場所がある。換気と排水口だ。少なくとも出口は三箇所設置されているはずだと私は打算したが、わざわざ人の体が通り抜けそうにない狭い排水溝を選んで来たわけではなく、問題の場所はその上、天井に向かっていた。湿気の高いこの一室で内部の空気を換気するためにはどうしても外側に排出するための換気口が必要最低限だ。それはこの場所でも必然的に存在していた。天井の中央部からやや左側、洗面台の方に寄せてある四方形の中くらいの換気口が暗闇の中、朧気ながらぼんやりと顔をのぞかせている。
丁度大人一人が通るか通らないほどの大きさだったので、私は少し不安にもなったが、これ以外自力で外に向かう手段が見つからない以上、無理矢理にでも通り抜けるしかなかった。水を使えるのかと思ったが、先程の扉同様感応式な為、電気が通ってない以上無駄な試みだった。
浴槽の淵に足をかけると、私は勢い良く体を身長以上の場所に持ち上げて、換気口に手が十分自由が利くところまで寄せた。上がる途中頭でも打ってしまいそうなほど、ここの天井は低いものだと感じながら、手探りで換気口に備え付けてある外枠に、手をあてがえる事が出来た。枠の縁に指先が引っかかる場所を探り当て、下に落とすようにしてひっぺ返してみる。幸いなことに、構造が比較的安易だった事と、枠が樹脂状の弱い作りだったおかげですんなりと外すことができた。「パキッ」とはめ込みの部分が外れた音と共に、換気口の覆いは外れ、私はそれを水の貼っていない浴槽の中へ静かに収めた。
「案外拍子抜けだったな....。」
もっと苦労して外しに時間がかかると予想していた私は、いとも簡単に脱出口を設けてしまったことに思わず独り言をつぶやいていた。思えば、ここを自室としてから随分と経つが、この場所に詳しくなったことも、また詳しくなろうともしなかった。せいぜい部屋の間取りが他の部屋と同じぐらいしか知っていなかったのだ。
覆いが外れ、ぽっかりと口のあいた換気口に向かってよじ登った。体半分が換気口に入るかはいらないか位の時に、何か持っていく物はないのかと思い返してみたが、杞憂に終わった。そもそもここには私物といっていいほどの私の所有物は一切置かなかったからだ。あくまで此処は体を休める場所として私は徹底していたからだ。視界に入ってくる換気の通り口は意外にして広めの作りをしていてたが、お世辞にも立ったまま歩いていくわけにもいかず、寝そべった状態で這っていくのがやっととも見て取れる長方形の空間が規則正しく続いていた。先の方に下から点在する薄ぼんやりとした光源は、恐らく隣側の室内にもある浴室に繋がっている換気口である。ポツポツと等間隔に浮かび上がる細い格子の影が上側に形作られ、この通りが照明の点かない室内よりも暗いことが朧気ながらも私の目には映っていた。
両腕に踏ん張りを利かせ、私は一気に昇る。浴槽の淵から足先が離れると同時、ぽっかりと空いた黒々とした生き物のような口の中に吸い寄せられるようにして換気口内部に体を滑り込ませた。ゴトゴトと肩や肘、膝や脚先が乱暴に窮屈な場所に当たる音が周りに響いてしまうが、極力慎重な行動に重んじていたため、ひどく大きな騒音にはならずに済んだ。換気口内部に入り込むと、周りに響く音がより一層高まって聞こえる。四方の壁は換気口を覆っていた枠と同じ質感ではなかった。湿気から錆を守るために保護された金属で作られていた。色はどんなものかは、暗闇のため判断はつかないが、否が応にも皮膚に伝わるこのひんやりとした冷たさが、先程の室内と全く異なった作りであることが断言できた。
金属の壁にはそれぞれの箇所に窪みが見受けられる。これが金属と金属をつなぎ合わせている箇所だろう。指がちょうど引っかかるくらいの隙間を設けられているので、これを利用して前進できる。私は両手をこの狭い四角形の空間の中で、壁と自分の体の隙間を滑り込ませるように前へと伸ばし、指先にあたる感触を頼りにして隙間に指先をかませる。そこから力を加え全身を前に押し出す。ズリズリと冷たい金属の感触を腹部に受けながら、芋虫の様にもそもそと前に進むことができた。
両腕を目一杯に広げることはできないので、移動の際はかなり苦労を要した。匍匐も満足にできない上、体をねじったりできないため無理な体勢を長時間固定したまま移動し続ける事が予想された。実際、あれから時間がどれほど経ったのか分からないが、まだ数メートルしか進んでいないのだ。そしてどこまでこの狭い空間が続くのかもまだ分かっていない。さらに体力の消耗にも欠点があった。
温度だ。水場からもらう湿気は例え使用以外でも幾分かは蓄積され、上へと昇ってくる。これが換気口内部溜まり、そこからある方向に従って排出される訳だ。だが、今回はそうはいかない。電源が遮断されたのはどうも私のいた部屋だけではなかったからだ。排出されるように内部の空気を循環させる装置も電源を供給されていなかった。下から登るよどんだ空気はその場に留まり、さらに密を持って内部に立ち込める。急激な湿気の発生で内部の温度もそれ合わせて高まっていた。狭い中、密なった湿気と温度により、私の体からは絶えず汗が出だした。体は必死になって外気のと温度と合わせるように体を冷却させるが、それに追いつかないほど換気口内部は湿気と高温でむっとしていた。汗はそれに負けじと留めなく流れ、湿気と混ざり身に付けている衣服が水気を帯びてぐっしょりとなる。皮膚にベッタリとへばりつく感触に謂れもない悪寒に襲われるが、体の自由が利かない上、狭い中どうしようもなくひたすら我慢するしかなった。服をひっぺ返そうにも、手が自由に行き来できない上、衣服の裾まで持っていくことができない。汗と熱気と体にまとわりつく酷く気持ちの悪い滑りに対し、思わず苦悶の表情を浮かべ、どこにもぶつけることの出来ない苛立ちに思わず声がでそうになった。だが、自分がここまでして向かう理由はなんなのかを自問してみると、そんな悪態も何処へやら、私は額にじっとりと溜まった汗の塊を換気口の床面に押し付けて拭い取ると、沈黙を守り黙々と前進し続けた。
一部屋、二部屋、三部屋。私はいつの間にか下に見える水場の部屋の見える換気口に目をやると、頭の中で数を数えていた。前進するスピードは相変わらず鈍足であるし、湿気と高温も一向に収まりを見せないが一定のペースを落とさずに着々と前に向かっていた。換気口内部も建物の作りにあわせて、僅かなカーブをつけている。一向に明かりの類は見受らけれないが、先程にかけて暗闇にも目が慣れだしたのか、ぼんやりと朧気ながらも、その外観を把握することができた。数えていた部屋が十を超える辺りで、私の手の先で何かにあたった感触を受けた。明らかに指先にあてがっていた壁の隙間とは違う別の何かに手を触れた私は、反射的に手を引っ込めた。何かアクションでも起こすものの類かと警戒したが、暫く膠着状態が続いた後、私は再び手探りで違和感を受けた箇所に手を触れた。
壁と同じ金属の感触とも思える質感に、私は行き止まりか何かと嫌な予想を立てたが、次に手を横に動かした時、その予想が上手く外れてくれた事になぜかホッと安堵感を覚えていた。壁側に沿って細い金属の何かが形作られており、そこから中心に向かって四本の棒状のものが伸びている。中央には丸い感じ何かが取り付けてあり、その丸い形からは羽のようなものが三つ波状に広がっていた。眼前から少々遠かった為、体を思いっきりよじって目の前まで見てみた感想が上記の説明である。換気口内部に設けられている送風ファンだ。ご丁寧に換気口一杯に取り付けある。風で動く形式なのか、端又電気で動くの類なのか幸いのも三つのフィンブレードは静止している。止まっていることには何も文句もないが、ここをどう突破するべきか、私が考えなくてはいけなくなっていた。
「外せるのか....?」
試しに、私は両手で回転部を固定してる四つの支柱の内、二つを掴みガタガタを音を立てるくらい激しく前後に揺すってみたが、期待通りの成果は見られず、支柱は微動だにしなかった。恐らく壁に沿って固定しているだろうと、今度は四隅を調べ始める。暗闇の中、いくら目をこらえても何一つわからないので、指先に触れる神経に意識を集中させ、ファンの壁の周りを丁寧にまさぐり始めた。しかしながら、残念な結果となった。この送風ファンは換気口に合わして取り付けてあり、簡単に外せない構造になっていたからだ。つまり、壁本体にファンが取り付けてあり、おそらく四つの支柱も一体型になっている。力任せで外すことも難儀でなさそうだが、この狭さである。到底踏ん張りのきかない状態に、手汗でじっとりとなった支柱を見つめながら、私はあれこれ考えを興すが、今の状況下でこれを取り外すことがどうしても無理だと結論に行き着いてしまった。動きが止まってしまったファンを目の前に、私の思考も熱気と汗に根負けして止まってしまったように、ぐるぐると答えのでない暗礁に乗り上げてしまったのだ。
これ以上ここにいても埒があかないため、私は渋々ながらも元来た道を戻ることにした。だが、ただ同じ場所にもどるのも釈なので、ここから近い部屋に一度降りることにした。しかし今にしてみればこれは非常に無鉄砲な考え方であった。本来私は自室に軟禁状態だったのが、いつの間にか別の部屋から出てくることはますます自分の立場を危うい方向に傾いていくのは明白である。それでのこのときの私は躊躇なく下に降りることだけを頭の中をいっぱいにして動いていた。思った以上の体力の消耗が思考判断を酷く鈍らせたのだろう。少々体をひねりながら後ろへ下がっていくと眼前に下の水場に通じる換気口の覆いが見えた。ついさっきまで注意深く慎重な行動も疎かになり、拳を作って思いっきり覆いに向かって突き立て殴る。軽く経し曲げた音と共に、樹脂製の覆いが下に向かって落ちていった。そのまま垂直落下すれば浴室の床に叩き落とされ、軽くはじかれるような軽快な落下音がするはずである。
だが、覆いの落下音は水たまりに落ちたような音に変わっていた。だが、私はこの落下音に、さほど警戒することはなかった。浴室の床に水気があることは当たり前えである上、利用後の残りがまだ乾燥しきっていないかもしれないからだ。しかし、次に私の鼻腔を酷く引っ掻き回すようにしてまとわりつく臭いがその先に進もうとする意思を止めに入った。臭いは密閉された浴室に隙間なく漂っており、鉄が錆びたような嫌悪感を催す臭いだ。噎せ返る鼻腔への刺激臭に私は顔をしかめ、思わずのけぞる。そのせいで換気口の天井に後頭部をぶつけて「ゴン」と音が反響して伝わってきた。痛みより先に警戒心が我先へと押し込んでくるように頭の中が再び回転し始め、熱気の渦に囚われてモヤのかかった思考が、再び息を吹き返す。
鉄粉ともつかない奇妙な臭いに水気。下の浴室もここ同様、照明が焚いておらず視野に入るものはうっすらとぼやける内装の形が僅かに捉えられるほどでしかない。下に降りて臭いの元を確かめたいが、頭から器用に降りられる自信は私にはないため、一度前に進み足が覆いの口元辺りまで差し掛かったのを足先の感覚で確認し、ゆっくりと後退して下へと降りて行くことにした。
「よっ......くっ.......」
静寂の中、私の声だけが浴室に響く。右足の靴裏に浴槽の淵があたったことを確かめると、私は体をスルスルと滑り落ちるようにして浴室の床に降りた。降りた時、覆いの落下音と同じように水に浸かった音がシンとした室内に幾方向にも反響しコダマとなる。有難いことに水の深度はそれほど無く、靴の半分程が浸かる程度で済んだ。やはり先ほどと変わらず、この嫌な腐臭は浴室の中に漂っている。私は最も怪しいと思えて仕方なかった床に広がる水溜まりに片手を突っ込んでみた。排水口に流れでないこの不可解な水の正体が一体何のなのか、私は興味をもって手のひらに掬ってみた。
「泥?」
ネチャネチャと肌触りは悪く、熱くも冷たくもない人肌に近い温度。水気を帯びていながら、何の固形物が混ざり合ってできた水溶性の液体の様に私の掌からは感じれた。その溶解物は手にまとわりつく様子もなかった。握ってみても指の隙間からボトボトと音を立てて落ちてゆき、軽く振ってみれば手の中に全く残らないといった肌触りからは、考えられない程妙にサラサラした様子でもあった。腐臭の根源は明らかにこの泥状の溶解物から発されていることに間違いなかった。握った掌からは先程の鼻腔を引っ掻き回す臭いが漂っているからだ。
それから暫く経つ前に、何処からも揺さぶられない私の意識が何時までも臭いの元から離れるのも時間の問題になる状況になった。浴室というこの狭く。狭いと言っても先程の換気口内部よりかは遥かにマシな広さでのあるが、贅沢にも多人数が入れるほどではない。その室内で私は自分以外の気配に気づいてしまったからだ。他人の部屋である以上、別に気配の一つや二つあってもおかしくはない。だがすぐ傍に感じるほど距離に、私は恐怖以外何も浮かんでこなかった。気配はまさに私の傍らに迫っていた。浴室に漂う腐臭と床に溜まった泥以外、ここには私の居た自室との間取りに代わり映えは見当たらない。直ぐ様顔を上げた私は浴槽の方へ振り向く。壁にかかっている小さな操作盤が視界の悪い中、神妙な様子で佇んでいるだけだ。次に浴槽の中を見る。先程殴り落とした換気口の覆いが泥の上に漂っているだけで、その他これといって特徴的なものは見当たらない。気配は相変わらず私の周りを付き纏い、遠方から徐々に私のいる中心部に向かっているような錯覚さえでてきた。
―ここから早く抜け出したほうがいい。
私は流行る気持ちを極力落ち着かせながらも浴室の出入口に進むよう足を上げる。が、左足を上げようとしたその時だ。何かに引っ張られるような、寧ろ掴まれた様な感触が足首から伝わってきた。次に掴みかかられた左足は自由を奪われ上がることなく無残にも再び泥の中に吸い込まれていく。私は恐怖とパニックに苛まれぬよう顎に力を込めて歯ぎしりをする。ところが、私が無理やりでも足を泥から離そうといくら力を込めても、下に引きずられる力には敵わず、かと言って床下以上沈むこともない。泥の中に足を捉えられた様子であった。捉えられたのは左足だけではなかった。大急ぎで右足にも踏ん張りをきかせるが、徒労に終わった。左足と同様、右足も自由が効かなくなってしまった。
こうなってしまうと、もはや気配の正体が床に浸かる腐臭を放つ泥意外他なかった。最悪の状態を回避できず、私の自由は拘束されてしまった。押し寄せる恐怖に私は今まで自分でも聞き覚えのない悲鳴を上げたに違いない。暗闇という視界最悪の状況下、腐臭に鼻を取られ、泥に足を捕らわれた私には最早絶望しか残っていなかった。だが、諦めてしまった訳ではない。何か光明をなる手段を見つけるべく、恐怖に焦りと不安を一抹に必死になってもがき始めた。まだ足だけが掴まれたに過ぎない。私が焦る鼓動を必死に抑えながら、今だ融通のいく両手を使い、浴槽の淵に手を掛け掴む。そこから腕の力だけで体ごと起こそうとしたのだが、泥に引きずられる力はそうそう甘くいかないことを示し、反発する力をより一層高めてきた。それに、足首に纏わり付く泥の感触はまるで人の手に捕まったような感触に変わっていたのだ。床下に向かっていく引っ張る力が少しづつだが、浴槽から遠ざかっていく感覚に変わってきた。泥は私の足先に飽き足らず、脚全体も飲み込もうと躍起になってきたのだ。こうなるともうこの泥自体が何かの意志を持って動いているほか考えれなかった。私の持つ力より遥かに巨大で持続性もあり、尚且つ疲れもない。浴槽の淵を掴む手に汗を帯び出し、これ以上は掴んでいられない状態にまで追い込まれた私は、あらん限りの声を張り上げ、必死にもがき、抵抗した。だが、空しくも右手が滑り、淵から手が離れる。しかし諦めず、泥に引きづられる恐怖にどうしても避けたい必死の思いで、私の視界に映った洗面台に躊躇なく右手を差し出し、排水口に伝わった配管に腕をかけた。体はバランスを崩すものの、泥はまだ私の足首以外捉えていなかった。辛くもの最悪の危機を脱したわけであるが、未だこの状況が最良の余地に達したとはお世辞にも考えれないのも事実である。先程より余計にきつい体勢に変わり、泥の引きずる力も収まる気配もない。そして更なる状況が私に襲いかかってくるのだ。
左手で掴んである浴槽の淵。その浴槽側から底に溜まっていた泥が這い出して来たのだ。しかもそれは運悪く左手の甲にべったり這いつくばった時であった。視界は丁度足元に向かっており、反応するのが余りにも遅く、私が気づいた時には左手をすっぽりと覆いかぶさる程広がっていた。色の判別がつかない視野で浴槽から這い出した泥は左手を伝って私の体全体を包み込む算段だった。取り込まれることを想像した私はより一層抵抗した。だが、これ以上闇雲に暴れまわっても無駄に体力を消耗する上、泥の引きずる力も増えていく一方なのも分かっていた。幸いにして左手の動きは自由が利くため、私は必死になって左手を浴槽の淵から離すと、拳を作ってまずは掌に張り付いた泥を潰し、さらにその拳のまま手の甲を浴槽にぶつけた。左手にへばりついた泥の塊の一部は空中に離れた左手を追うようにして私の腕の動きに合わせて纏わり付くものの、浴槽の淵に思いっきり拳を当てると、「パンッ」と弾く音と共に左手から離れた。この現象をちらりと見受けた私は、先程浴室に入ったばかりの時、泥を手に摂ったあの時を思い出しそこから照らし合わせた答えがパッと頭の中に浮かんだ。もはやこれしかなかった。
私は確信と疑念の渦巻く頭を一度大きく振り払い、泥を一つ残らず跳ね除けた左手で浴槽の中にある樹脂製の覆いを引っ掴んだ。そこの方には泥が未だに残っているが、そんなこともお構いなしに、私は見えない浴槽の底に沈む覆いを見事泥の中から引き上げることが出来たと同時に疑念は一切断ち切られ自信へと変わっていった。
「いい加減にさっさと離れやがれ!!」
悪態を付くように、私は左手にもった覆いを自分の足目掛けて叩き込む。すると足首にしがみついていた泥は弾かれるようにして、足元からボロボロと崩れていくのだ。制限のなくなった左足を大きく持ち上げて、今度は足を使って右足めがけて蹴りを入れる。ズンっと自分の足首に掛る靴の質感。それに合わせて纏わりついていた泥は一気に剥がれた。
しめた。両足の拘束が解かれた今、抜け出すチャンスを私は逃さなかった。泥の中を蹴り出しながら進み、無理矢理にも道を作って大急ぎで浴室の出入口に向かった。一度離れた泥だが、まだ諦めがつかないといった様子で私の周り漂い、足元に掴みかかって来る。だが対処法が分かった以上、泥に恐れを無くした私は、躊躇することなく泥に向かって蹴りを叩きつけ砕けた泥の間を這って出た。浴室と室内を仕切る扉に手をかけると一気に引いて遮断していた一室を通過する。そしてそのまま浴室を出ると、泥がこれ以上這ってこないよう目にも止まらぬ早さで扉を乱暴に閉めた。浴室から出た私は、一抹の災厄から辛くも逃れたことを扉に寄りかかりながら確認すると、ずるずると腰砕けの様にその場に座り込んだ。ホッと息をつくと、ゆっくりと深呼吸を二,三回繰り返し、落ち着きと平静を取り戻そうとした。私自身、思っていた以上混乱の真下であり、切羽詰った冷たい発汗を嫌でも感じる中、未だ先程の状況がベットの中で眠ったまま夢の続きないかと思いたいほど鼓動を激しく高めていた。だが、比較的安易な考えも浮かばず、あの泥が本当に存在したのも事実だと頷ける音が、今だこの扉の向こう側にある浴室から絶えず聞こえる滑りをまとった床を這い続ける音に、私は認めざるを得なかった。
扉に仕切られたおどろおどろしいものから逃げ延びた私は、暫く扉の傍から離れなかった。状況を上手くまとめてくれなかった頭がうまく機能を発揮するまで無闇やたらに行動するのは危険すぎると判断したからだ。私はが思っていた以上、外はいつの間にか変貌を遂げていた。それも自分が認識していた常識を遥かに覆されるほどに。浴室から出ても、ここ一帯の明かりは点かず暗闇だけは視界を支配していた。無理にでも目を使いたくもなるが、夜目があるわけでもなく僅かに慣れた視野の中で私は落ち着きを取り戻すと、静かに腰を上げた。相変わらず隣から聞こえる不快な音は留まることを知らず腐臭も断ち消えることもなかった。