STAGE 6 「消去」第一部
1
私がかつて見た事のあらましを一から順に要領よく説明するのは、さほど難しく感じはしないだろう。だが、彼が従者の姿に代わるも、あられもなく蹂躙され、怒号の咆哮と充満する煙に消えた時に私の見た彼の姿を捉えた情景も、私自身の意識も、細い糸が切れたように突如途切れてしまった。
時を大分挟み、再び目を覚ました時私は、自室のベットの上で着替えもせず当時の作業着のまま、羽毛をふんだんに使ったシーツにうつ伏せてだらしなく身を預けていた。長時間外に出向いたためか、不快に感じる程の埃と汗を十分に蓄えた服に身を包んだままのせいか、全身に鉛が重しくのしかかるような誇大妄想とも捉えられる疲労感を拭えなかった。やがて、心身がそれに耐えかねたのか、私の思考に自身の筋肉がようやく拍車を掛けたのか、体をベットから亀の様に両手両足を使い、這い出した。当然ベットの方が床面より高差がある為、なだれ込む形で私の体は重く床面に押し付けるように崩れ落ちた。
全身そこらじゅうに染み込んだ汚れを一刻の早く脱したい気持ちなのは山々ではあったが、私の体力は思考に合わせて期待に応えてくれない有様であったし、何分今までの出来事がその気力さえも根こそぎ奪うような心境でもあった。
あの後。彼の行く末が心配でならないもの事実だ。そしてあの時彼の身に起きた出来事も、よくよく考えれば、誠に奇妙な光景であり、現象に立ち会えた訳でもあった。だが、彼が特別な存在だということは、重々承知してあった筈だし、何よりわずかな時間であるが、今まで彼と行動を共にしただけでもその疑問に反発できる答えは十二分に揃っていた。
私は床に全身を預け、顔を横に向けて鬱屈した精神をなんとか別の方向へ持っていこうとした。だが、時間が経てば経つほど、物言わぬ焦りが自身から遮ることなく湧き出てくることに、徐々に我慢ができなくなり、私はもう一度気力と体力を奮い起こし、床から頬を勢いよく離すことにした。竹のようにフラフラと揺れながら立ち上がった私は、そのままの格好に嫌悪感を催し、何くわぬ様子で衣服を脱ぎ始めた。最初はのそのそとした覚束無い動きで上着を脱ぎだしていたが、やがて何かに背中を後押しされたように段々と動かす手を早め、下着を脱ぎ終わった時には、なんとも言い表せない気持ちに全身が高ぶり、そのままシャワー室へと向かっていた。
私はそれまで自室の照明を一切焚かず、真っ暗闇の中妙な気持ちに神経を高ぶらせていたが、シャワーの口から出る高陽とした熱い湯に全身を打たれている間に、興奮した感情は水面の波紋の如く落ち着きを取り戻し始め、シャワー室から出た時には、散々たる私の精神も幾分かは正気を取り戻しつつあった。
山々に囲まれ、津々と静まる森林の様に私の心は平常運転に戻り始めている。折しも体力はまだまだ不十分な点に苛まれているが、それを補う気力は十二分に蓄えられた。すっかり体を乾かした私は、衣装ケースから下着と普段着を取り出し、身に付けた。あれだけ至る処に重々しく伸し掛っていた体も今や、すんなりと私の思い通り素直な反応を示してくれる。熱い湯が、私に降りかかっていた弱々しい感情を洗い流してくれたようだ。
心身が安定状態に入ると、次に私は今までのことを考え、まとめるに至った。私は部屋の照明を付けようかと思ったがそれはやめて、一室の隅に置かれた簡素な椅子に腰を下ろし、出来るだけ時間を掛けて今までの記憶を思い返すことにした。幾分冷静に対処できればあのような結果になることも可能だったとか、あの時ああすべきだとか、そう言った反省も踏まえ、思考を帰還させる。何れにせよ、次なる行動は私の処置判断の理由を探ることにぶち当たった。
いつの間にか目を閉じて考えにふけっていた私は、感情の波に揉まれることもなく、幾つかに考えをまとめ上げ閉じた目を静かに開いた。今だに部屋は照明を焚いていないので、何時に無く暗い様子に包まれている。外の景色はここからは見えない。建家から見て、内室なので窓がないからだ。その為、時間もよく把握できるのが難しい。椅子から何事も無く腰を上げて、扉の前に来た私は壁に取り付けあるスイッチを押し、部屋明かりを灯した。室内が朗らかな明かりと共に、色と形を取り戻し始める。部屋の一番奥に、一人用のベット。ベットの頭の横には、鉄製の骨組みと板材で組み立てられた簡素な机と、それに似合ったように持ってきた、今まで腰を下ろしていた四脚の背の付いた椅子。向かい側の壁には、部屋の出入口からはシャワー室の壁で見えないが、着替えを出した衣装ケース棚がある。いつも通りの内装であるが、私は殊更新鮮味があり、手つかず内装に不気味に捉えてしまう心境でもあった。
この部屋はそう頻繁に利用することもないのだが、生活する為に使おうとは一切思わない。この一室に限っての事ではないが、この建物全体が異質な雰囲気と、何処からともなく流れる不穏な空気に満ち溢れているような気がしてならないからだ。芳しくも無い言い表し方でもあるが、時として感じ取れる嘗め回すかのように捕らえて仕方ない視線が、この建物には絶えず存在しているように思える。時に、この部屋を自分の好きなように内装を変えられるとしても、私は一切そんな考えを起こさないだろう。個人を排他したこの異様な空間は、とても耐え切れるものではないからだ。
私はもう一度室内を見渡し、壁に掛けたままの手で照明を切った。再び暗闇に脅かされて一室は沈黙を通す。またここに戻ってくるかどうかは疑問ではあるが、少なくとも自らの意思で舞い戻って来る事は無いと、私は心の中でそう思い込んでいた。戸口に手を掛けると、扉は勝手に開いた。ここに置く私物も無く、私は手ぶらで扉の外へと向かい、部屋から出たのだ。
2
名称も、その概要すら明確に判明されていないこの巨大な建造物は、双方が垂直に伸びた巨大な塔が外観的特徴だ。塔にはそれぞれ五つの区間によって構成されている。最も広大であり、最下層に位置する「一般居住区」。煌々とした空間に空中庭園のように鎮座する自然を残した第二層の「自然区」。塔の中間位置でタワーを中心にドーナツ状の巨大都市を築く「上流都市区」。そこからさらに上にある「管理地区」がタワーの中心制御区間を担う「オルタ」がある。さらにその上にもう一つ区画があるが、その区画の詳細は私の知るところではなかった。区画はそれぞれ、均一に分け隔てており、二つの塔が「串」ならば、五つの区画は串に刺さっている「団子」といったものだ。団子といっても、球体状でなく、半月状の管理区画や楕円状の上流都市区、自然区。円錐型の16の区画に隔壁されてある居住区など、姿形は様々である。
居住者は全てを合わせて百万人を越えるといわれているが、果たしてその数字に信憑性があるかどうかと問われると、皆首を傾げてしまうことだろう。何故なら、その数字を遥かに超える広さをこの建造物は持っているからだ。その大きさは最下層の居住区から容易に把握できる。居住区はそれぞれ区画ごとに分別されており、16区画が塔の周りを円状に囲ってある。言い換えれば塔の下に寄り固まった場所が居住区といえよう。その一つ一つにそれぞれのコミュニティーが構築されており、一区画に100~200近くのコミュニティーが隙間を空ける事無く窮屈そうに区画内に入っている。コミュニティーはその規模によって多少の差があるものの、一つのコミュニティーに約1000人として換算すると、ゆうに百万を超える数になる。この塔全域を掌握することはかなりの時間と労力が必要になるということだ。
16に区切られている居住区。その区画の周りにも塔の外壁と宜しく同じ構造であり、円状に強固な隔壁が円錐状に建てられている。透過状で内側と外側からも可視出来る壁だ。無論、硝子のような構造ではなく、何か特別な加工を施された構造物だということしか分からない。塔の内部は、人が移住して30年近くたっても、その細部を明確に出来ないまま、今日に至っている。
おぼろげに塔のについて、あれよこれよと物思いに耽りながら、私は管理地区にある自室から中央区画へと足を運んでいた。この区画一帯は全てを通して外の見える窓が一切無い。仕切り目の無い円弧状の通路を歩くと、何時もそのことに気づかされてしまう。まるで馬鹿でかい生き物の腹の中か、その反対、自分が小さくなったような錯覚に溺れ、気が滅入ってしまう。私がこの区画を余り良しとしていない理由の一つでもあり、更に一つ付け加えるのなら、中央制御区間の管轄がここ区画全域に集中している事だろう。勝手な言い分でもあるが、居心地の悪さとは、正にこういう事なのだろうと、はっきり断言すら出来る。あの自室同様、何か外的では無く、内側から見透かされている感覚は、体内の神経を逆撫でてくるようないい様のない嫌悪感と、不快感を催す。それが一時的ならまだしも、執拗にそして間を与えずして絶えず降りかかってくるのでたまったものではない。自分の言動一つ一つが、年下から諌められている妙な恥ずかしさも出てくる。何とも表現の苦しい状態が続いているわけだ。これも中央制御からの影響だとすれば、この後ろ指を指された後ろめたい気持ちになる人間は私一人だけではないからだ。だが、それを表に出す事無く、皆じっと注意深く我慢している。事実、目下の環境に精神を耐え切れず、発狂するか自主退去しなければ此処から去る事はあまり難儀ではない。ただ、去れば二度とこの場に、この区画に戻ることは決してありえない事実を突きつけられ、ひたすら留まり心身を極限にまで狂ってまでも降ろされたくないといった、そんな無言の訴えさえひしひしと伝わってくる。
円弧状に曲がっている通路を歩き、中心区画に移る。この地区は外郭に沿って通路が設けられており、中央区画に向かう為には外側の通路をぐるっと廻ってから、特定の場所に設けられている連絡通路に向かわなければならない。外郭をたどる通路と中央区画の間には、連絡通路と膨大に敷設された無人の空き部屋がある。その幾多にも流れるように同じ形をした一室の一つに私の自室がある。他の人間も使用しているそうだが、私はその様子をとんと見受けた覚えは無い。外角に沿った通路を渡り、連絡通路の目の前まで、来た。ここから自室まで、大よそ管理地区の4分の1を闊歩したことになる。だが、使われている部屋は一つも無く全て無人であった。さほど違和感も湧かず、ここまできているが、今まで同じ環境だったので疑問には思わなかった。この地区は人間はほとんど居ないと言った方が正しいのだろう。地区のほとんどが中央制御によって占めており、他の微小な部分が先程の膨大な無人の部屋だ。塔の全域を管理するコンピュータが設けられて居る場所なので、人が引きしめ合う必要性はまったく無い。此処は人というよりコンピュータの為の場所だと言えよう。
説明もそこそこにして連絡通路を跨ぎ中央区画に入る。ここ一帯も特筆する点は見当たらない。先程と変わらず、更に外の様子が伺えない中心部に移っただけだ。中央区画からは先程の円弧状に曲がり、外郭に沿った通路は存在しなくなる。中央にそびえ立つ双塔付近に向かって、一直線に伸びた無機質で、真っ白に塗り固められたような通路が延びているだけになる。この場所の他に、三ヵ所同じ通路が存在し、それぞれ四方向に伸びた通路から中央制御室に向かえることが出来る。連絡通路と中央区画の間の隔壁を通り抜けると、その通路に入れる。此処から外郭部と違って独特な雰囲気と音が聞こえ始める。この通路の奥に足を進めるとその雰囲気と、音はより濃さを増すのだ。外から断絶された空間のせいなのか、ここの空気は何故かしんと静まったように固まっている。音は、恐らく制御室からだと思えるが、実は付近の壁からも聞こえる。絶えず鳴っているわけではない。時折「ジジジッ」という引っかいたような音、「チキチキ」と場所を移動する音がしている。中央に向かう途中、その音は大きくも小さくもならず同じ一定の音量で聞こえてくるのだ。私はその音に不快を感じたことは無かったが、慣れることは無かった。ここに向かうたび、生きているものが一切消え去ってしまったような威圧感を覚えるからだ。思わず早足でその場を通り過ぎ、中層制御室へと入る最後の隔壁の前に辿り着く。ここからは特定の人間しか入室できないよう、監視の目が入いってくる。
隔壁の前に立つと、恐ろしく変化の無かった無機質の壁から、黒ぐろとした丸い物体が無数に浮き上がってくる。物体の中心には、鏡のように私の自分自身の姿が形に添って丸くなって映っているのがわかる。そのまま暫くすると、黒ぐろといた物体は表情を変えるように周りを縦横無尽に駆け出し、再び壁の中に潜っていくのだ。浮き上がってから再び戻るまで、一切無音のままなため、私もそれ合わせ、何一つ口を開かず隔壁の前に立ち続ける。すると、静まり返っていた隔壁が息を吹き返したようにゆっくりと動きを見せた。中央から垂直に隙間が見えてくると、間を置かず左右へ音も無く一気に開かれた。
中へ入る為、足を進める。中央の制御室からはここの通路まではそれほどの距離ではないため、目の前の光景は一層開けたような錯覚になるのだ。ちょうど空洞のようにぽっかりとした空間が広がっている思えばいいだろう。
そしてここも漆喰で塗り固めたような継ぎ目の無い白い空間が目の届く限り広がっている。その中央に鎮座するのは、太古の大陸で限りないほどの根を大陸に敷き詰めた大木の幹のように極大の円柱がある。中央制御室の中枢部「オルタ」である。突起も凹みもなく、白くてのっぺりとした馬鹿でかい円柱は、通路で聞こえたあの音も鳴ることもなく、息を殺して眠ったように沈黙している。ここでは先程の音もしなくなるほど静寂につつまれているが、それに増して匂いも一切しない。周辺は相変わらず静止したような雰囲気である。外郭の通路で感じたあの不快な視線も、何故かここでは感じることは無かった。
私が張り詰められた空気の中、中央に鎮座した巨大な円柱に目をやっていると、遠くからではなくさほど近くから鈍ったように響く低い声がした。
「扉の前で突っ立っていないで、奥に進め。無用心に扉を開けたままにするつもりか?」
私は声のしたほうに目をやる。初老の男性がこちらを向いていた。塔の最高責任者、菰田本人だった。何時の間にこの男がここにいたのか知らないが、菰田を探していたのは私のここまで来た目的でもあるから、特に問題視するべきことも無かった。幾らか前に塔外で起こした事から更に時間が経過したことが伺える。彼の格好も外の汚れを一掃するかのように出で立ちをすっかり変えてあり、責任者らしい風貌でここに構えていたのだ。黒ぐろとした外套のようなものを羽織り物が、恐ろしく場違いに似合わない色で浮いている。頭皮は剃りこんだのか一切無く、地肌をさらした少々しわの刻み込まれた小ぶりな頭の形をしている。目は鋭さを持ち、鼻は若いころは整ってあったと伺えるほどひどく崩れた様子も無く凛とした形を保っていた。口周りも深いしわが見えるが、その様子に似合わない若々しい唇をしている。背格好は微々たる程度だが、前かがみになっていた。年に似合わず若い印象を受ける。
「此方にいらっしゃいましたか」
私はそう言ったと同時に、部屋の中央に向かった。ちょうどそのまま菰田と向かい合う形になり、それと童子に後ろで開かれていた隔壁も静かに戸口を閉じていた。初老の菰田と目が合う。やや冷ややかな様子でもあるが、話を拒否するようなそぶりでもないのでそのまま話を続けることにした。
「少し気になったことがありまして......。答えてもらえますか?」
菰田は私の直属の上司ではない。寧ろ間接的だともいえるが、ここではそのような組織体制が少し変わっている。管理地区の居住者として私を管轄しているのは、目の前にあるオルタであり、直々に私へ命令をしてくるのが菰田ということだ。考えをまとめるのがオルタ。その判断から行動を指し示すのが菰田の存在意義となっている。あくまでコンピュータからによる直接指令を遮る様に考慮した処置であると公言された事が以前あった。が、所詮体制維持によるこじ付けであると頻繁に噂されていたのも事実だ。幾ら間接的に人を介入させようとも、その大元を変えなければ体制の変化は認められない。詰まる所、菰田一人がコンピュータから直接指令を請け負っている現状だからだ。
彼には同情こそ浮かばれないが、それに似た感情や気持ちで接するわけであっても、それを表に出すようなそぶりも見当たらず、ただ仕事をこなす人間に私には見えている。腐っても彼はここの責任者だからだ。
「自室に戻れ。お前はまだ自室待機の命は解かれていない」
私のそんな対応にも、菰田は素っ気無くあしらわれる。
「自主待機なのかどうか知りませんが、私はあなたに聞きたいことがあってここまできたのです。聞いて頂いても宜しいでしょうか?」
「何も受け取られる情報は与えん」
「それは受け取り方でどうにでもなりますよ」
私はそんなことに臆する事無く、目的達成のため、菰田に迫った。彼といえば、眉一つピクリとも動かさず、相変わらず冷ややかな反応だ。が、話をまったく聞かない態度でもなく、取り合ってくれるような素振りでもなく、受け流すようにも見えなくも無い。反応が薄いといえば薄いが、聞こえていない様子でもなった。聞いてくれている様子でもないが。
「コトギはどうなったのです?」
「その質疑は、お前の知る由とする旨の範ちゅうに至っていない。よって、私がそれに答える義務も無い。」
私は彼の表情から、答え主旨の有無を探ってみた。しかし、先程と代わり映えも無く毅然とした態度のままその強固な姿勢を崩さないことが分かった。また回りくどい言い方であるが、これも彼らしい答えの出し方でもあった上、警告みたいにも聞こえた。
「では、質問を変えます。彼は何処に?」
「それも答える範ちゅうではない」
あくまで教えることは何もないと言った態度で、初老の菰田は頑なに私の疑問に素直に受け入れるような姿勢をとらない。ここまで来ること自体無駄足であったとしても、否が応にも彼の現状を知る必要性があるのだ。
「何も答える気はありませんか・・・・」
「最初にそういったつもりだ。耳が悪くなったのか?」
「そうなのかも知れませんね?あんな状況に陥れば身体機能の一つや二つ、支障をきたすでしょう。そういえばあの時にいたマダムは?それに五木彼はどうなりました?私と同じく軟禁状態ですかね?」
「何も答える義理は無い」
こうなってしまうともう何も聞くことはなくなってしまった。私自身、ダメ元で探りに来たわけだし、必要な情報が入ってこない以上、ここに居続ける理由もない。私は自分から彼の行き先を探しに行くべきだと思い、早々にここから出ていくことにした。再び元来た通路に戻ろうと菰田への挨拶も早々、先程の隔壁に近づいた時、ほとんど口を開かなかった彼の鈍い声が聞こえた。
「あいつを探しても無駄だ。」
私の歩みも彼の発言に合わせて止まる。
「探すつもりだろう、だが無駄だ。あいつを見つけることはできんよ」
私の視線からは、菰田の表情が見えない。彼がどんな顔をして私に話しかけているのかわからないが、その声は冷やかに語りかけてくるような感じで私の背中に伝わっていた。
「断言できる理由は?」
私は振り向くことなく、その意味を聞いた。
「理由?理由すら有りはせんよ。アソウ、お前はこれからまっすぐ自室に戻るしかないからな」
「なにを ―――――」
「お前の任はつい先ほど解任された。アソウ、対象を監視するポジションは別の者に任せることになったからだ」
彼に私の動揺が気づかれたかどうかにせよ、私は少なからず小さなショックを受けた。不適任者は解雇。只それだけではあるものの、私の双肩にどっしりと何かがら振り下ろされた感覚に息が詰まりそうな思いであったからだ。これで、私が制限なく行動を取れる理由を失ってしまった瞬間だった。
「このまま自室に戻り、待機しろ。詳細と次期の任については追って報告を出す。以上だ。繰り返すがもう質問は一切受け付けん、そして答えもせん」
そう言うと、菰田は私より先にオルタのある制御室から姿を消した。もはや人と人との会話よって起きた発声音は消え去り、私自身の僅かな呼吸音しか響かない空間だけが取り残される。私はこの場に留まる理由も随分前からないことを分かっていたので、菰田が私が通り抜けた隔壁とは違う隔壁の向こう側へ行ってしまったことを背中で感じた後、私も何も言わずにその場を後にした。
間も無くして、白く長い通路が私の視界に迫った。ここを通り抜ければ、自室に戻る順路へと繋がっている。後ろでは閉じられようとしている隔壁の静かな音が聞こえたような気がした。私がこれからすべきことはコトギを探しに行くことではあったが、それを実行に移すにしても、先ほど菰田によって阻害させられてしまった。このまま命令を無視して行動を起こしてみるのも一手ではあるが、ここではあまりにも無謀であることが嫌というほど私の頭の中で、警告している。大人しく部屋に戻って待機に順ずる他ない。そう考えている間、私はいつの間にか自室の目の前にまで来ていた。扉は相変わらず無頓着な様子で主の帰りにも何分の反応も見せることはない。近づけば勝手に開き、私は吸い込まれるように静かに中へ入った。
照明を焚き、私は部屋を見据える。先ほど部屋を出ていった感じとどこも変わっていないが、前より窮屈にも思えた。扉は勝手に開いたと同じように、急かすように閉じられ、外との空間を遮断させる。そのまま着替えもせずにベットの方に向い、腰を下ろした。やるべきことは嫌でもわかっていたが、それを実行に移すにまではまだ時間があった。それに、その始めるための合図もまだまだ先だ。
私は時間を気にしだしたので時計を見ることにした。別途に据え付けられている電子表示板に写る淡い緑色をした数字の並びは、昼過ぎを指していた。私が気を失ったのか、強制的にそうさせられたのか今となっては明確にできないもののここに到着したのが朝方だった筈だ。あれからそれほど時間も経過していない事を確認した私は残り数時間をベットの上で寝そべり、数時間の仮眠を取ることにした。仰向けになり、何もない天井を見上げなから、私は今までのことについて再度考えに耽ることにした。まずはコトギ。あの変化した姿についてだ。あれには、私ですら説明のつけようのない現象を目の当たりにしたわけだ。人のかたちをそのままそっくりに変化できることなど、今私の用いる知識からでは到底理解しようのない幻覚だと片付けたほうが、ましだと思うくらいだった。彼がどのようにして姿形を変化させたかに付いて詳しく見ていないことが残念ではあった。あの一時の煙の中で一体何が起きたのか、彼に聞かせて欲しいところだ。
それに、あのマダムとか呼ばれていた高齢の女性のことについてもだ。コトギも菰田もあの女性を知己していたが、こもだはそのことを詳しく答える気はないこともさきほど分かった訳であるし、これもコトギに追求せざるを得ない事柄に含まれていた。結局、彼を見つけなければ何も解らないままだということに、私はあれこれ獲もしない想像を頭の中で掻き立てるのをやめて、本格的に仮眠に就くことにした。まぶたを細め、ゆっくりと深呼吸をする。部屋の照明を落としていないことに今更気付いたわけだが、今更ベットから起き上がることも億劫になった私は煌々と照らされた一室のベットに仰向けになりながら無音のまま静かに眠りにつくことになった。まブラに係る淡い光が徐々に暗くなるのを感じ、私は小さな寝息と共に次の行動に移すための体力を養うことにした。