STAGE 5 「無知」第5部
素っ裸のおっさんが、ゴミのトンネル内でで正体不明の敵と奮闘する熱い展開です。
5
フリックはぞっと背筋の凍る思いをした。
すり抜けた黒い物体はどちらの方向にも曲がることなく、反対側のゴミ山の壁へ一瞬にして突き刺さり、その音をゴミ山のトンネル内に轟かせた。それから休む様子もなく、ズルズルとその見えない体をねじ込ませる音と、壁の中へ飲み込まれるようにガサガサ、ゴトゴトと沈むわずかの音が、フリックの耳に届いた。
「ドカンッ!!」「バキバキ!!」
と、先刻響くことすらなく、壁の小さな穴という穴にかき消された自分の声とは違い、激しくぶつかりひるむ様子も見せずに次の行動に移ると共に鈍い音を立てていた。
今にして、フリックは黒い物体が自分の顔の横スレスレを通り過ぎた事意外、まじまじと見つめることも出来ずにアレの正体が一体何なのかも掴めずにいた。が、なんにせよ気味の悪い存在なのは確かだった。しかし、アレがなんであるのか正体不明もままでは対処の仕様が無いことも事実である。フリックは自らの瞼を瞬きする間に、通り過ぎた黒いアレの形を自分の感覚だけで当てはめてみようと試みた。ゴミの臭気で立ち込める重々しく思わず顔を背けたくなるよどんだ空気の中、わずかな空気のゆらぎから、想像力をかきたててフリックは構想を巡らせる。あの大きさにして、壁にぶつかる音は不気味なほど鈍重に聞こえた。衝撃は壁に伝わったであろうそのときに、砕けたゴミの固まりがその周りに四散していく音も幾度か同じタイミングで聞こえた。視界ゼロに近いこの暗闇の中で、音からの情報は非常に重要であることともに、今のフリックに唯一収集できる方法だった。次第にその構想は彼の脳内で形成され、はっきりとしたものに変わっていく。それがフリックの脳のなかにある微々たる記憶の収納場所から、最も当てはまった答えを導き出す。
‐砲弾のように硬く、銃弾のように俊敏な黒いアレ。目でぼんやりと眺めていることは無謀に近い行為だ!!‐
フリックは自分に満を意して活を入れた。気持ちを奮い立たせるように心の中で自らに言い聞かせ、結論を瞬時にまとめあげた。‐すぐ行動に移さなければ。‐ そうして彼は、今見ている方角から顔を急いでそむけて、体を向けている真正面を暗闇で見えなくても眼前を見据えた。そして、さらなる状況の変化がその両耳に聴こえてきたのを瞬時に理解した。ゴミ山の壁の音は二つだけではなかったのだ。さらに三つ、四つとまるでフリックに向かってくるように増えていたからだ。さらに初弾が成功しなかったことで、黒いアレの次の手がどうくるのか予想を、というより見極める必要性に彼は迫られていた。急かすようにフリックはその大きく目立つ両耳に、全神経を集中させるように意識を高めた。ガサガサ、ゴトゴトと窮屈な場所を掻き分ける音が断続的にする。そして、その移動速度は異様なほど素早かったことが分かった。これにはフリックも、不可解なことだと捉えていた。ゴミ山の壁の向こうは空洞なのかと思ったが、内部を掻き分ける音が激しさを増したのを聞くと、今は無駄なことも考える事すら時間が惜しいことにフリックは歯がゆい思いをし、考えるのをやめた。聴覚が研ぎ澄まされて、音のする位置を明確にしていく。今、音のする方向は真正面の壁と、先ほど飛び出しし最初のあれが潜り込んだ、フリックから見て後ろの向こうの壁から。そして、天井からも聞こえてきた。しばらく待っていたが、ゴミ山のトンネルの下、地面からは何かをひっかく音は聞こえてこなかった。
「三方向から、か?……」
一つずつ攻めてくるのか、それともほぼ同時期に仕掛けてくのか。どちらにせよ嬉しくない事態に、この状況下で、ふとしたところで、フリックは自分がいつの間にか衣類を身に付けていることに気がついた。異臭と突如の混乱のせいか、自分のことを目もくれずここまで来たが、これまた薄汚い織物をすっぽり頭から乱暴にかぶせただけのものだった。まだ裸よりマシではあるのが救いなのかもしれない。今まで全裸のまま、あのゴミ山をさまよい歩いたわけではなかったが、そのことに別段意識していることもなかった。ましてその証拠に、あの白い部屋で、ヨリマの前では常に全裸だったからだ。しかしここで目を覚ましてから両手の布といい衣服といい確実に誰かが。そう、自分以外の人がいることがはっきりとここで示してくれた。では、その張本人はこの先に居るのかどうか疑問も出てきたが、フリックは次の音を聞くと思考を断ち、体を動かした。
次の手、攻撃と捉えられる意思と共に素早い行動が繰り出された。ゴミの壁からはじき出される小さな音と、かすかに揺らぐ空気の流れを頼りに、フリックは回避に徹する。まずは真正面。それも一つでなく三つ同時に襲いかかってきた。そして間を空けずに二手目。これはフリックの後方から先ほど潜り込んだ場所から、やや上側に離れた位置より一つ降り掛かるようにしてきた。そして最後。ゴミ山のトンネルの天井から一つ。自由落下も兼ねているのか、ほかの二方向よりはるかに速い速度でフリックの頭上へとズンズン空気の想を押し広げてきていた。
フリックはまず、それぞれの場所からの進行する方向性を見極めることにした。だが、その判断は一瞬にして正確に叩き出す必要があったし、相手側の行動、つまり壁から出てきたことをこちらが認知できない限りは、打つ手は浮かばないことの制限もあった。これは非常に危険であり、半ば賭けにでもある状況であった。今、黒いアレは合計で五つ、ゴミ山の壁から吐き出された。これは一体何であるにせよ、自分に向かって危害を加えんとしている事が今のフリックに分かっていることである。相手の目的が攻撃として判断したとき、フリックはまず相手の考えるありったけの手の内をできるだけ洗い出すことにした。そしていかに効率よく、そして確実に自分を潰す方法がなんなのかを答えを考えつくだけ限りなく出し、取捨選択し、適正となる予測をたてた。事実、第一手の行動を音で認知し、一重に回避出来たことは稀であり、次がどうなるのか判らない。だからフリックはそれに賭けた。
そしてその掛けは成功した。あの黒い物体は出は恐ろしく速いが、もどるのが遅いことに彼は理解した。最初にぶつかったのが次の行動に移る際、僅かに動きが鈍くなったような音を彼は聞き逃さなかった。再び壁の中を掻き分ける前、ゴソゴソとした小さな音は、何か前準備をするような音にも聞こえたことに、フリックは気になっていたのだ。見事に的中し、その音の間は激しく掻き分ける音もおろか、壁から飛び出してくることもできないことが分かった。勝機は見えた、かに思えた。だがその原因にまず気づくことは無理であった。
フリックはまず、真正面からくる三つから対処することにした。当然これは数が多いことから進行方向に対する予測が立てやすいからである。音は確かに三つあった。暗闇というハンディの中、フリックの聴覚は恐ろしく機敏に反応し、レーダーのように相手を捉えていた。三つの黒いアレは方向性はバラバラだったがほぼ同時進行だった。先ずフリックから見て左胸付近、さらに下に向かって左太腿辺り。そして右脇腹といった三角形状であった。手を使えないので受け止めることはできない。なら脚はどうか?無理だ。素足で対処できる速度ではないし、まず見えないからだ。結局この三つも回避するしかなかった。動く方向に気をもんでいる時間は既になかった。後方や天井より、正面からの攻撃距離ははるかに近い。だが、その後の二つの移動する方向も考えなくてはならなかった。その時間も一秒も無きに等しく、今動く意外彼に死しか残されていない。とっさの判断。フリックは、状態を前に押し倒すようにして素早く身をかがめて、前方に滑り倒れるようにして伏せた。左胸と右脇腹辺りを狙ってきた黒いアレは、身をかがめたフリックの頭上を通り抜けるが、太腿に向かった残りの一つが彼の顔面のど真ん中の位置にあった。空気の層を切り裂く音がすぐ目の前までやってきたのを感じたフリックは、その倒れ込む体に合わせて首を右側へ曲げる。その瞬間、
「ブウゥンッ!!」「シュッ!!」
左のこめかみをこする音がフリックには聞こえて、その箇所がみるみる内に熱くなってく事も分かった。ギリギリの判断でのこの結果か、勘で避けれたための幸運か。受傷するのを覚悟したフリックは、額にどっと汗を帯び、まだ生きながらえていること実感した。思ったほどの出血も無く、横方向に一直線の切り傷からじわりと温かいものが流れて出ている感じがした。だが、そんな感傷に浸っているわけでもなかった。二手、三手の対処は未だ終わっていない。フリックの体は前方の壁へ上体を屈めて、飛ぶような形になっている。最初の一手から次から来るまで、一秒のタイムラグすらない。フリックはどうにかしてゴミ山の地面に向かって無理な姿勢で着地、と言うより倒れるのをあらゆる手段、もとより手段など選んでいる猶予もなかった。
フリックは左耳を集中的に意識して聴覚を高めた。顔は右に曲がって地面に倒れ込むような姿勢なので、天井へとむいている左側から、何としてでも相手の位置を探る必要があった。音はまだ五つある。自分の体の上を通り過ぎる三つと、後方斜め上からこちらに向かってくるのが一つ。垂直状態から真下に迫っているのがひとつ。両手を酷使できない今、足だけが頼りだった。フリックはいきなり右足を蹴り上げるように自分の体の方へ持ち上げた。しかしながら地面との距離が迫っていたため、当たり前に肘から足の指先にかけての部分がゴミの地面に激突する。運の悪いことに地面の隆起した部分が脛に当たり、耐え難い激痛がフリックの全身に蔓延った。
苦悶の表情を浮かべるフリック。まさに現実だ。フリックは確信に迫った自分の考えに恨みを覚えた。あの時と違い、臭いに、音に、痛みに本物と思える証拠がこうも続々と現れると、もう認めざるを得なかったのだ。
その痛みを必死にこらえるなか、地面に倒れ込む姿勢は足の動きで左側でそれる形となる。そして、脛をぶつけた隆起部分に間髪いれず左足を繰り出し、足の甲で思いっきり蹴りを入れた。素足だったことにも目もくれず、フリックは両足を犠牲にして回避に専念したのだ。
間を空けず、二つの黒い弾丸のような物体はバランスを崩して避けなかったら、その場にあったであろう位置に正確に突っ込んできた。早々と通り過ぎていく様を空気を断ち切る音で確認しながら、フリックの体は横に滑るようにして地面に倒れこんだ。ほぼ同時に壁から派手な勢いで四散し、ゴミの欠片が砕けて落ちる音と、黒いアレが壁の中にのめり込むくぐもった鈍い音がトンネル内に響いた。
‐次はどう出る?‐
フリックは地面に倒れ込んだ体をものすごい速さで回復行動に移し、痛みの引かない両足に力をいれ、立ち上がった。右足の脛からは当然ながら出血を催していた。隆起部分は鋭利なものか尖っていたのか、目に見えないので判断できないのだが、皮膚を貫通し、肉の一部をぱっくりとそぎ落としていた。幸い骨までには達してはいないが、出血がひどいのは明白だ。それに加え、うまく力を込めれないのである。左足の甲はどうだろうか。こちらは外傷として見受けれるほどの傷はないものの、やはり内出血が起きていた。蹴りを繰り出した部分がうまく当てていたのか、じわじわと痛みが昇るぐらい、フリックは我慢できた。
またもやゴソゴソを蠢く小さく複数の音が、フリックの耳に入ってくる。僅か一時の余暇も無く、次の攻撃が待ち構えるていた。両手は相変わらず自由が効かず、足は片方まともに動くのかどうかきわどい状況の中、フリックは次に差し掛かってくる手段に手を打たなければならなかった。
状況は増しに増して悪化する一方、防戦だけでは埒があかないことも彼は十分理解していた。攻撃に転じる術を探すために、フリックは目を使いたかった。
視覚からの情報は、脳の判断材料として約七割を占めている。今の彼が必死になって受け取れる情報は聴覚と、わずかに感じられる空気のよどみから読み取る感覚しかなかった。鼻は曲がるほどのむせ返るゴミの臭気にやられまともに働かずじまい。目は言うまでもなかった。しかしどれだけで不利とは言い切れなかった。それでは相手はどうだろう。相手は目を持っているのか、鼻を使っているのか、音を見分ける耳を持っているのか。フリックは少なくとも、黒いアレは個別に意識をもったような感じではなかったような考えを持っていた。さらに攻撃方法は無差別であるにしても、方向性は容易ならぬほどの的確にして精密であった。
無論、これは今の状況下において、僅かな情報からフリックの纏め上げた予測の中である。これが果たしてどれほどまでの信憑性をもってして、相手の動き、判断を明確に彼が暴けているのか、次の一手に決まっていたが、余りに代償が大きすぎるため果たしてこの行動こそが誤算であったことと決めつけたくない一心でもあった。
巨漢の男はその重々しい体を立て続けに鞭を打つようにして、ゴミ山の上に無理やりにでも立たせていた。だが、それも限界を超えたのか、頭は支えを失ったようにだらりと垂れ下がって、じっとかたまり動かない。
途絶える聞こえ続ける音が、ある一定の時間にピタリと止んで、不規則な形で振動と共に大きさを増していく音へと変わった。黒いアレが三度目の手を討とうと、しびれを切らしたかのようにフリックの立つゴミ山の位置に向かってくる。降って湧いた音はさらに激しさと数を増し続け、連続的に「ゾゾゾゾ」と波打ち、何かを引きずるような感じにも聞こえた。
フリックはその垂れ下がった頭の下で全てを閉ざした。息を極力殺し、眼を閉じ、聞き耳を止め、皮膚で受け止めず、ただ鼻だけはどうしようもなかった。次だ、次の一手で決まる。フリックは再び賭けに出た。不動となしたフリックの周りにあの引きずる音が嫌でも聞こえた。だが、幾ら待ってもその一手は一向に現れない。
「来い!!!」
フリックはあらん限りの声を吐き出し、挑発とも無謀とも思える先手に出た。雑多にトンネル内に声は響き、低く鈍く反響し合って当たり構わずこだまする。しかし、反復する彼の声にざわざわとわめき続ける壁の音は一向に変化をみせない。音は相変わらずフリックの周りを散策し、何かの引き金を待っていた。
空気が重く感じる。息をこらえ、眼を閉じままのフリックは、額にじわりとにじむ汗がこめかみへと流れ、目の窪みに入り込んこむ感覚をずっと捉え続けた。大声を発した時、そこに何らの変化が現れたに違いないが、十分な確証に及んでいない要素が多いため、異臭と混じり、不快感しか現れないもどかしい汗のつぶが目に入ってくるのをフリックはなんとしてでも堪えた。
フリックは先ほどの出来事を順を追って頭の中で巡らせた。あの黒いアレは、自分にある「目印」に向かって行動していることが分かる。そして、「音」は今除外された。
フリックは思い切って、頭を正面を見通すまですっと上げた。回避してから、少し後ずさる形。前に通ったゴミ山の道に立っていた。その先の道術は目を閉じた今、足伝わるゴツゴツとして、所々隆起し不安定な足場に頼えざるを得ない。もしくは壁に沿っていくため手を使うか。
音による判断は不可能と確信できたフリックは、ソロリ、ソロリと、一歩一歩慎重に歩み始める。右足の出血は止まらない。赤いのであろう彼の血は、足を伝ってドクドクと留めなく流れているのを感じられた。ゴミの地面に染み込む彼の血が目印としてなるか。ふと、フリックは考え、そしてヒヤリと背中が寒気を覚えた。
‐温度は?‐
迂闊だった。アレは温度感知なのかもしれないと思い、フリックは覚悟した。静まっていた呼吸が乱れ、心臓はバクバクと飛び出すほどに激しくあばれまわる。頭にサッと血が昇る感触が、フリックの全身に伝わった。しかし、グルグルとざわめきをやめない気分の優れない雑音は、退屈そうにフリックの周りに聞こえるだけで今にも襲いかかる様子も見当たらなかった。
「なんなんだ・・・・・?」
思わず安堵し、息を静かに吐いたフリックは、この奇妙な事実に混乱と今の状況を正確に分析したくなった。この時点で、既にアレの引き金は白日の元に曝されたが、何かが引き金なのかはっきりしすぎるのが彼にとって、余計に怪しく思えたからだ。
声や動く音、体温や血液、汗の臭いでもなく。相手はフリックの目だけを見ていた。いや、感じ取っていたと言うのが正しいのかもしれなかった。事実、彼が瞼を閉じた時から何も反応を示さなくなったのが決定的な証拠につながっているのだ。しめた、と思い止む事も無理はなかったが、勝機がようやく見えてきたことにフリックは緊張の糸が切れかけようとしたが、おいそれ相手には隙を見せまいとかぶりを振って、気を引き締める。
進む必要性が徐々に方向性として見出してきた中、フリックはなおも歩みを止めず、警戒を怠ることなくゴミの上をぎこちなく歩いていく。やはりフリックの思惑通り、トンネル状に騒めく耳を塞ぎたくなる不快な音の集合体は、足を進めば進めるほどに遠くなっていく。フリックは焦る気持ちを抑え、慎重に、確実に歩みを止めずその場を離れることだけを意識した。足の出血が未だ止まらないからだ。切迫した状況において、焦りは非常に油断のならない要因に等しい。出血の状態を目で確認したいのだが、おそらくそれと同時に、あの音が有無も言うわさず襲いかかってくるのは十中八九目に見えた。なおかつこの暗闇の中で、傷の状態が見えるとも限らない。そのことについてフリックはやはり、先程の疑問がぶり返すのであった。
暗闇の中、どのようにして目の光を判断しているのか原因はつかめていないからだ。しかし、目を開けなければ、相手から位置を悟られることもないのも明らかになった今、無理に詮索する必要もないのだ。フリックはそのことを頭の片隅に追いやることにし、見えない道を歩き続けた。
どのくらい進んだのだろう。黒いアレがいくつも重なって奏でていた音も遠くから響くぐらいにまで落ち着き、あたりは無言の静けさを帯び始めてきたのフリックは耳で感じ取る。警戒心を徐々に緩ませる。危機的状況下から一時的に脱したにせよ、油断のならない場所であるのは変わらない。しかし困ったことに、彼の後ろでトンネル内轟く音は途切れ途切れになりつつも、また新たな音が前方から聞こえた気がするからだ。おかしい、フリックはあゆみをとめてしまった。道なりに進んだはずだが、確証は無かった。視界は皆無なのは当然のことであるが故、灯台のかざす光が無い海のど真ん中で、荒波の中進む小舟のように、フリックは両足をフラフラさせて、音のしない方へと今まで歩いてきたのだ。方向感覚が全く狂っていなければ、恐らくもと来た道をあるいてはいないはずであり、その何処知れぬ自信も彼にあった。しかし、彼の耳に届くあの音。狭い中を無理矢理引っ掻き、推し進めて行くような、単体とも、複数とも聴き取れるあのおぞましい音。連続性を持ち、断続的に滑らかな動きを見せるあの音。明らかにさっきとは違う場所から聞こえてくる音に、フリックは呆然と立ち聞き耳を立てる。
もとより、足は限界に来ていた。歩いた距離がどれ位にしろ、半ば右足を引きずる形で足を止めず進み続けていたのだ。肉が削がれた脛の傷口は悪化の一途を辿り、酷く膿が出はじめていた。
「治療が必要だな…。」
フリックはそう言って、再び重くなった足を傷が触らぬ程度で動かし、壁に寄りかかろうとした。ゴツゴツとしたり、ぐにゃりと力なく形の崩れる地面はそうそうなれないものであった、ゴミの大きさは分別の域を越え、当時存在してあったありとあらゆる物が捨てるためにここに集まったのだろう。ガラクタとなる物。腐食を帯びる物。わけの分からない臭いのした物や、決して触り心地のよくない物が、絶えず途切れず蓄積され、埋め立てられ、そこで山積してあった。
やがて壁側にたどり着いたのか、壁を探るように動かした不自由な左手が何かに当たって、フリックは足をとめた。手をあらゆる方向に伸ばし、それが壁であることを確認したら、踏ん張るように足を引きずって壁に背を向けてずるずると腰が抜けたように寄りかかり、その場に座り込んだ。
「こいつを使うか…。」
フリックは左手を突き出し、右手を使ってその位置を確かめながらゆっくりと自分の顔の前に寄せた。ちょうど左腕の部分がフリックの口の辺りになる。するとフリックは大きく口を開いて、その開いた箇所に左腕を運ばせた。そして噛んだ。勢い任せではなく、触れるようにしてフリックは自分の左腕に自分の上の歯をあてがえた。そして腕を水平方向に少しずつ、ほんの少しずつ位置を左にずらしながら、葉に引っかかる感触をさがした。
すると一箇所だけ違和感を感じる場所が見つかり、わずかに口元を腕から離し、その違和感のある場所に今度は顎を当ててみる。突起したような感触が顎から伝ってきたのを確かめたフリックは、再び口元にその突起した部分を寄せた。そして軽く口を開け、その部分を軽く噛む。そこから一気に顎に力を入れて引きちぎるように頭を上げた。
‐ブチンッ‐
何かが切れた音と共に、上げる力に半発する抵抗感がなくなった。口先に残ったちぎれた部分を吐き出し、フリックは再び上の歯を腕にあてがう。そして破断して垂さがった部分を見つけ、その腕に巻かれていた布の端を噛んで、スルスルと器用に取り外しにかかった。
前部椀から巻かれていた布が取り外され、力なくだらりとフリックの前に垂れ下がる。フリックは布を取り外した左手の状態を見たかったが、未だあの音は聞こえる上、ここが明るい場所ではないとまぶたを上げるのを断念する。しかし目で見なくても、ある程度の状態は感じ取れた。手に力をいれて指を折り曲げる動作をしても全くその動きをしてくれなかったからだ。あの時ほとんどの指は吹き飛んだと言うことの事実をフリックは深く受け止め、中断していた作業を再開した。
指が使えなくとも、腕は動くのでフリックは外した布の切れ端の一部を手首に巻きつけズレないようにすると、右足をあぐらをかくように左足の太ももの上にのせた。バランスをとりつつ、右足を上げ、左手をその下を通してグルグルと右足に布を巻き付けていく。やがて引っ張っる布に突っ張った感触が口と手首に伝わると、口に噛んでいた端と手首に巻きつけてあるのを合わせて少々苦労しながらもなんとか結びつけた。
疲れた顎をカクカクを動かし、フリックは一息つく。この応急がどれほどまでの止血処置になるかは判断しかねるが、何もないよりかはましと、彼は思った。血を多く流しすぎたせいか、フリックは鉛のように重くなった体をまずは休ませることにした。あの忌々しい音の集合体は今だに無くならないが、さほど変化する様子もなく‐無論このまま目をつむったままであるものの‐肩をの力を抜き、フリックは深く息を吐いた。
相変わらず、このむっとする臭いに嫌気もさすが、ここは我慢。とフリックは体は動かさず心の中でくり返し唱えた。鼻腔を引っ付く刺激臭もさながら、降って沸くようして立ち込める湿度の高い空気が、易易と彼の体を休ませることはない。それでも、ほんのわずかな休憩が彼の体と精神に活力を蘇らせ、再び行動に移す気力に代わったが、蓄積された疲労感を完全には拭い切れず、いつの間にかフリックは深い眠りにゆったりと誘い込まれていた。
ゆっくりとまどろむ中、フリックは束の間の夢を見た気がした。それは黒々としたものがゆっくりと彼を全身に包み込んで来る家庭を彼まじまじと見届ける夢だった。じわりと動きを見せつけ、なんの抵抗もできない彼はやがてその黒い物体にすっぽりと全身を覆われた。暑さも寒さも感じれず上下方向も平衡感覚も失い、前に進んでいるのがぐるぐると回り続けているのかわからない状況下で、フリックの体と精神はどこかに引き寄せられるように動き続けている夢だった。それは果てしなく続くようであって、またすぐ終わりを迎える形にもなり、一度通り過ぎた場所にも感じ取れて、または初めて見た新鮮な気持ちにもなった。そのまま止まってしまったかに思えば、延々とさ迷う何かに取って変われ。ひたすら大きさが増えつづけては、一気に収縮し何もかも無くなってしまう存在にもなった。それが絶えず繰り返されたり、断片化されたり、区切ったり。規則性のない不安定な夢を止まることなく目覚めるまで見続けていた。
夢にうなされたのか、意識が回復したのか、どれほどの時間が経過したのか、その様子はフリックには分からずじまいだが、ハッと意識が戻り、一瞬開きかけたまぶたを強引に閉じるようして、こめかみに力を込めて奇妙な起き方をした。
「む、そろそろか…。」
一時的に疲れの取れた体を再び前に運ぶため、フリックはのそのそと背中を壁に寄り添いながら立ち上がる。右足の痙攣するような感覚も、じりじりと響く痛みも大分引いたかにも思えるのだが、出血が止まったどうかは判断しかねた。まだ脛の部分は焼けたように熱かった。脛はもうどうしようもないわけでは無いため、フリックは両足に踏ん張りをきかせた。重りを引っ付けて歩いていたような前までの動きもなく、こうも軽々動けたことに、かすかな希望を持ちつつ、彼は壁に沿って歩みを再開した。