DOROの海STAGE5[無知]第4部
一年経つと書き方も変わるもんです。成長よりむしろ退化を楽しんでおります。
かつて広大に広がる大陸の地下に広大な穴があった。国と国との境界線。果ては山々や外洋を跨いで国と国を繋ぎ合わせて、小さな惑星の中の世界を一つにする為の広大な穴があった。皆が様々な場所、地域から手を取り合い着々と計画は進み実行され、広い穴は徐々に広がりを見せた。そしていつの日かその穴が全て繋がる日がやって来た。そしてその最初の出発点として、記念碑が建てられ式典が開かれることになった。皮肉にも、それは世界が全て消えてしまう日になったのだ。
少女と正反対の方向へ吹き飛ばされたフリックは、激しい衝撃と共に床に叩きつけられた。二、三度衝撃の反動で体はだらしなく床の上で滑り、バウンドしながらやがて支えもなくなった操り人形のようにぺたりとその場で崩れ落ちた。部屋のあちこちにバラバラになり散乱しているテーブルであった残骸や、椅子本体から折れて飛び散った脚の一部。随所に散らばり二度と口につけることもできなくなった料理の一部やそれを載せてあった割れた皿に、散り散りになった食器類がフリックの周りにあった。これら物言わぬ物と同じ様に、フリックの体はぴくりとも動かなかった。呼吸をするたびに上下する胸も、息を吸い吐く鼻や口も蝋人形のように不自然に固まり、まるで時間がそこだけ止まったように静止していた。フリックは意識を当に失い、体を自由に動かすどころか考えることすらまもならぬ状況に陥ったのだ。
少女は床の上でしばらく仰向けのまま動くことはなかった。視線は天井をゆっくりと仰いでいた。だが何かを注視しているのではなく、考え事をしているように視点は天井へと合わさず彼方此方と揺らいでいた。四肢は泥のように脱力させて、緊張感もなくリラックスした様子になっていた。だがフリックのように無反応ではなかった。しっかりと意識はあった。あれだけ力任せの巨漢の腕に翻弄されたのにも関わらず少女の感情は一切揺らぐことなく、やはり体の何処にも。殴りつけられた顔ですら外傷が見当たらなかった。無傷というより少々服の乱れが出た程度だ。けれどもそれを気にすることもなく、少女の視線は一つとして定まらずちらほらあちこちを見渡すように動かしていた。手足も全く動かさずにそのままか長い時間がすぎるのを待っていたようだが、それも飽きてしまったのか少女は両肩と両腕に動きをつけさせゆっくりと上体を起こした。腰から上を上げて、お尻と足をぺたりと床につけたまま、少女の視線は倒れて動きを見せないフリックに向かった。少女の目の前に広がる光景は、先ほどとは全くと言っていほど散々な有様になっていた。大きなテーブルは粉微塵に分解され、跡形もなく吹き飛んでいた。テーブルに合うように用意した洒落た椅子も脚はおろか、背掛けも肘掛もありとあらゆる所に細かな欠片となって飛散していた。料理にそしてもれなく食器類も同等にひどい状態に成り果てていた。少女は少し悲しそうな顔をした。せっかくフリックのために用意してあったものが、結局料理一つも飲みもの一つとしても口元に運ばずお開きになってしまったからだ。少女はこの光景を一目見回し、一体何がいけなかったのか少し考えてみることにした。考え事をするように少女の視線はふわふわと中を舞った。
料理の内容が頂けなかったのかしら?それとも椅子が小さすぎて体に合わなかった?あれこれ詮索する少女の視界から、フリックの姿は消え失せていた。いつのまにか少女はギュッと目を閉じて深い考え事にふけっていた。しばらくその沈黙が続いた後、少女はゆっくりと瞼を開いた。その目ははっきりと答えを出し、自信満々な様子を浮かべていた。少女はすっと立ち上がり、衣服の汚れを少し気にしながら目立つ部分を手で払った。それから右腕を胸の当たりまで上げて人差し指だけピンと上に向かって立たせてから、縦にスっと手首を曲げて指を下に指した。すると目の前に飛散してあったテーブルや椅子、料理と食器類の全てが瞬きをしないうちに完全に消え去ってしまった。後に残っていたのは、その場で固まったままのフリックだけだった。すると両腕を規則正しく振りながら、少女は何も言わずただ黙ってフリックに向かって歩み出した。歩く音が一切無く静かに、そして凍った水面の上を滑るようにして少女はフリックの倒れた足元までやってきた。少女が近づいたにもかかわらずフリックはぴくりとも動かなかった。やがて少女はフリックの周りと時計の進む指針に沿って歩き始めた。一歩、二歩、三歩。半周まで来たとき、少女はフリックの頭上の位置に立っていた。少女は上体を前に傾かせて、フリックの顔をのぞき込む姿勢になった。眼を閉じて僅かな呼吸をする他、全くの動作もできない状態であることを少女はその目で確かめたかったのだ。少女によって噴き飛ばされた彼に何をしたのか、少女の思惑通りなのか、少女の予想通りフリックは微動にしていなかった。
一時の間、少女はその姿勢を保っていたが、やがてフリックに一切の変化が見当たらないことを再確認するや否や、すっと元の姿勢に戻して今度は左腕を肩の高さまで水平に持ち上げた。少女の表情は別段先ほどと変わらず、じっとフリックだけを見続けていた。やがて左手の人差し指だけを立たせて、そのままくるくると中に円を描く動作をした。するとどうだ。ゆっくりと指先が円を描く動作に合わせて、フリックの周りの床に細い切れ目が表れ始めたのだ。フリックの頭部のてっぺんから始まり、時計回りに切れ目はフリックの姿を形作っていく。しばらくの間、少女が指先を回しているうちに切れ目は終点であるフリックの頭部にたどり着いてそこでピタリと止まった。切れ目は止まったのだが、少女は指先を回すのをやめなかった。すると今度は切れ目から少しずつ、ほんの少しずつであるが黒いシミがじわりとフリックの体に近づいてきた。シミは切れ目の外側には全く向かわず、フリックの体目指して鈍足にも確実に進行していった。手足の指先、頭の毛先から止まりそうで止まらずゆっくりと包み込まれていくフリックは、その様子に全く気づかず、静かで今にも止まりそうな呼吸だけを続けていた。段々と黒いシミはフリックの全身を包み込みつつあった。シミはゆっくりと進行していくがフリックの耳あたりまで来た時、フリックに反応がなかった。また黒いシミがフリックの鼻の当たりまで近づいても、またしても無反応だった。この黒いシミには蠢く音もそこから出てくる臭いも無臭だったのだ。じわりじわりと迫って行き、やがてフリックの全身をすっぽりと覆った。手足も胴体も顔すら黒く染まったにも関わらず、やはり少女は円を描く仕草を止めることなく続けた。息もできないくらいにびっしりと敷き詰められた黒いシミが黒い人間を形作り、その姿は徐々に床の中へと沈み出した。少女の視線もそれに合わせ下へ下へゆっくり降りていった。もぞもぞと沈み動くシミの塊が微々たるものだが体積が減りだした。手が沈み、顔半分も消え脚は爪先の部分だけになり、胴体は胸あたりが顔を出す程度までになった。水面に浮かんでいたのがゆっくりと底へ向かうように、黒いシミに包まれたフリックの姿はこの一室から完全に消え去ったのだ。
その有様を少女は前の状況と違って沈黙を破ることなく見守っていた。気性は至極単純だが冷淡さを持った少女は、床の中へ沈みきったフリックのことを気に入っていた。自分がいったい誰なのか見当もつかないまま突然のあの行動。彼が何故あのような行動に至ってしまったのか、少女は十分すぎるほどの興味を示しフリックを拘束したのだ。突然の眠りから目覚め、目の前で突然わけもなく暴れ出した大男。フリックがいかにして少女の住まう場所で破られない眠りを紐解いたのか。その答えを少女はじかに聞き出そうとしていた。だが、フリックは少女の意に反した動きをし、結局少女の手段の一つである拘束状態に持ち込んだのだ。ここから少女はじっくりとフリックの事を詳しく調べることにしたのだ。少女は無慈悲ではないが冷徹な性格をもっていた。少女が目覚め活動を再開した時、彼女は独りだった。それが何であれ少女は今の今まで一人で暮らし続けていた。だから珍しいのかもしれなかった。少女に付き従い再び眠った者は多くいたけれども、意に反した行動をとるのはこれで二度目だからだ。少女はフリックの意図をしっかりと見極めておきたかった。そして判断する時間が欲しかった。今までにない事例に少女も戸惑いを隠せずにいられなかった。
隙間も継ぎ目も一切見当たらない真っ白な床を少女は完全に目視から消えてしまい、先程までフリックが横たわったていた床を透き通すように見続けていた。フリックが消えてかれこれ2,3分程経った。とてつもなく長くゆっくりと時間が経ったように感じた。彼を迎える前、彼が起きる前の状態に戻った広々とした一室。じっくりとその跡形を確認した少女は、やがて何かに引き寄せられるように踵を返し、静かに部屋の出入口へと向かったのだ。
黒いシミに全身をびっちりと包まれ、成すすべも無く床の中へと沈み込んでいったフリックの体は下へ下へずぶずぶと歩みを止めない黒いシミの集合体に囚われたままでいた。意識は一向にして回復の兆しを見せずなすがままに暗闇の中を静かに進み続けていった。フリックからは外の様子を伺える事はできなかったしそのすべも無く、そもそもそんな状況ですらなかった。黒いシミの進む先はどこを見ても暗闇しか広がっておらず一筋の光も見当たらない空間であり、道しるべがなければ3歩進まずとも迷ってしまう空間が広がっていた。上か下か前か後ろか右か左か理解しようにも、地を付いて這っているのか潜るようにして進んでいるのか。はたまた、空を仰ぐように漂っているのか見当もつかなかった。しかし黒いシミの集合体はフリックの体を連れて何の苦も見せることなく、淡々とその道なき道をズリズリと進み続けた。一体どれくらいの時間が過ぎてしまったのか分からなくなるほど、黒いシミの進行速度は鈍足を極めた。10数えること僅か数ミリ。時間にして数メートル届くか届かないもどかしさも兼ねた進み具合だった。かなりの時間が過ぎたが、一向にたどり着く兆しもなかった。一体この黒いシミはフリックをどこに連れていくのか。それともどこにも連れていかず、只々この闇の中を延々とさ迷い続けるのか。その答えは床の中にフリックを沈ませた少女本人しかわからないことだった。
この間フリックは全く意識を回復することなく、極度の昏睡状態に陥っていた。少女の拘束は恐ろしいほど繊細で緻密な計算の下でおこなわれた手法であることが、フリックの心身状態で十分把握出来た。呼吸以外のありとあらゆる全ての行動が完膚なきまでに制限されていた。せめて呼吸が出来、生存し続けることが救いだったのかもしれないが今はそれすら信憑性のない理屈に変わってきていた。フリックは混濁した意識の中で深い眠りに落ちていた。あたかも夢を見ているようだがこの空間が真っ暗闇と同じように、フリックの意識の奥底に浮かぶ情景も黒そのものに染まったままだった。意識が戻る傾向は絶望的であったが、呼吸することだけは決して止まることはなかった。フリックを覆う黒いシミの中に空気が混在していたし、暗闇の中がどのような空間か詳細が掴めないが、窒息することはなかった。シミの塊は意識の戻らないフリックを連れてさらに奥へ、さらにさらに奥へ進んでいった。
彼が自力で意識を取り戻したのではなく、第3者の手助けで目を覚ましたのはそれから数時間後だった。長い間硬直状態だった彼の体が活動を再開したのもそれとほぼ同時期だ。フリックは誰かに右肩の当たりをひどく揺さぶられている気がして、ゆっくりと瞼を開いた。それと同時に聴覚と嗅覚、手足の感覚が突如としてフリックの体に舞い戻ってきたせいか、彼はひどくショックを受けた。低いうめき声を再び動き始めた口内からとぎれとぎれに吐き出すように発した。まずむせかえるようなよどんだ空気が彼の肺に入り込みひどい咳払いをした。次に曲がりそうなくらい不快な臭いが強烈に鼻を突いた。そして硬直していた手足の筋肉が一度緩んだと思ったら、一瞬にしてピンと張り詰めてしまい酷い激痛に見舞われた。瞼を開いた目も同様に散々な仕打ちだった。カラッとした空気とオレンジ色の淡い光が網膜に直撃し、頭の奥がチカチカと点滅する感覚に陥った。苦痛にも思え、耐え難く連続しておこる数々の衝撃は、数分間フリックの体の至るところを休むことなく襲い続けた。暑いのか寒いのか、ひもじいのやら苦しいのやら。痛いのか痒いのか、全てがごちゃごちゃに絡み合って巻きついて、また離れたと思ったら搾り取るようにして吸いつかれ。ほんの僅かの間に一気におきた感覚の波は、彼にとって数十時間にも思えるほど長く感じた。
手を動かそうにも自分の思い通りに動かない。まるでほかの誰かの体みたいに意に反して暴れ続けている自分の体にフリックは恐怖すら覚えるも、再び巨大な感覚の波が襲いかかれば、動悸が激しく揺れ乱れ、自由のきかない体はジタバタともがくだけだった。チラチラと霞む視界。その端に違和感を感じ出したのは、それから更に数分経った頃だった。
人だ。フリックは直感でそう思った。自分以外の人がいた。更にいつの間にか、騒ぎ立てることしかできない彼の体も、幾分か落ち着きを取り戻し始めてきた。肺に吸収される空気を体が慣れ出したのか。痺れることしかできなかった手足に神経が働きかけたのか、目の焦点はまだフラフラとして不安定だったが、フリックの意識はさらに落ち着きを取り戻しつつあった。そして視界に写る違和感が人であることの確信が、自分自身の体に答えとしてあることをフリックはボンヤリとした視野の中、ついに見つけ出した。手だ。両手には明らかに何かが施された跡がある。彼はまだ完全に回復してない両目を無理矢理でも酷使しようと、躍起になった。なかなか視界は鮮明に戻らず、嫌でもやきもきしたフリックだが、やがてその跡がなんのなのか理解できた。
「・・・・・・・布?」
朝方で見られる山岳のモヤのように霞み、揺らいでいた彼の目には、自分の両手に布のような切れっ端が乱雑に巻かれていることを知った。布は細くて長くするように引きちぎったのを不規則にフリックの両手に巻いてあった。お世辞にには言えないが手の形がわからなくなるほど巻くぐらい酷い有様になっている手をフリックはまじまじと見つめている。状態はボロボロ。所々に小さな穴がポツポツと目立つように空いており、表面は煤けているようでまたは黄ばんでいるようにも見えた。フリックは片方のグルグル巻きの手を自分の顔の方へ近づけた。ツンとした刺激臭が鼻を刺し、咄嗟に手を遠ざける。先程暴れまわるほどひどくきつい思いをした臭いの元はこれなのかと、フリックは察したかに見えたが手を離しても不快な異臭がそばから離れることはなかった。どうやらここ一帯から漂っている臭いのようだ。フリックは手に巻かれた布の刺激臭から開放されたと思ったら、また違う異臭に悩まされることに顔をしかめた。彼の視界は、前よりかは大分善処していた。手に巻かれた汚い布以外にも、フリックは見るべきものが見えてきたのだ。どうも、汚いのはこの手に巻かれた布だけではなかったことに、フリックは無意識にも理解してしまった。
ゴミの山だ。彼はいち早く理解する。山というより、ゴミなのかゴミであるかわからないほどの巨大な塊が、隙間という隙間を埋め尽くしていた。そのわずかな隙間に、とは言ったものの。大人なら十分に立ってジャンプできるくらいの空間を持っていたが、それより目の前に広がる光景がそのわずかな空間さえも隙間に感じるほど想像の域を覆していた。咄嗟に当たりを見回し、フリックは何かを探しだす。出口だ、出口を探すんだ。ゴミの塊の中に放り出されたと思い、彼は出口を探した。しかしそれはすんなりと見つかった。彼の倒れていた場所から僅か数メートルの所に、窪んだ穴のような場所があった。
「あそこか…。」
フリックは痺れも取れ、やんわりとなった体に熱を帯びさせてやろうとおもい、慎重にだが腰を上げてみた。警戒するほど大した反動も起きず、彼はすんなりと立てたことに思わず拍子抜けするも、気を取り直してくぼんだ箇所に足を進めた。幸い両手、両腕以外大した外傷も見当たらず問題なく動けることに安堵しながら、フリックは窪んだ箇所の近くまで来た。穴はフリックから見て、下の方に空いていた。穴の中は暗く彼から見ても中の様子がどうなっているのか判断つかない。手の方はまだうまく動かせないのがもどかしいが、フリックは思い切って飛び込んでみることにした。穴の中なのか下なのかどうであれ、こんな所よりまだマシであるようにと祈りながら、フリックは「えいっ」と穴に飛び込んだ。
だが飛び込んだ瞬間、素足であったことに今更気づいて、フリックは「しまった」とおもった。穴の下がゴミであるかどうかも分からずに飛び込んでしまったことに後悔するも、ええい!ままよ!フリックは目をつぶることを必死にこらえ、眼前に迫る何かを待ち受けた。とは言ったもののやはり、ゴミだけである。それに穴の深さもなく、ちょっとした段差みたいだった。穴の下が見えなかったのは、飛び降りる前の場所に光があった証拠だ。そして、ここはすべてが闇に染まりきっていた。愕然としてうなだれることはなくても、やはり彼にとってはショックは大きかった。降りた場所は先ほどの狭い空間を本当に小さいものとだと教えこまれるほど、広大な空間が彼を待っていた。
思わずフリックは、頭を上げて上を見ようとする。無意識にそのゴミの空間は上まで続いているのか確認したかったからだ。徐々に暗闇にも視界が慣れ始め、なぞるように目線を上に向けた。上に上に昇るにつれ、その予想は徐々に確信に迫っていることが目に映る光景で把握出来る。埋めつくされたゴミは上に向かって積もり続け、やがて天辺まで届き、そして自分の背中の方へとまわっていた。全部。全部ゴミだ。もうゴミ以外、どこを探しても何ら変わった様子も見当たらなかった。
「何処なんだ……、此処は……。」
酷い夢の続きなのかと、フリックは目の前に広がっている光景を現実として受け止めないよう極力意識しないようにした。またあいつの、嫌でもヨリマの仕業かと思ってしまう。あの時、彼の意識は広い白い一室でぷっつりと途切れて、そして目覚たときにはゴミの山の中にいた。またわけの分からない実体験だと思い込んでしまいたくなるが、明らかにに常軌を逸していたこの惨状が、逆に夢物語でないような気がしてならなかった。
あの時フリックが体験した数々の出来事は、不愉快にもかなりのリアルさを惜しみなく表現していたが、此処はそうでないことに薄々と、フリックは直感であるが悟っていた。あの時の自分は、そこにいる実感がまるでなかったことに今さらになって気付き、フリックは現実と非現実の境目がなんなのか区別がつかなくなりかけていた。フリックは、妙な冷や汗を覚えた。緊張しているのかと思ったほど息切れも起こし始めた。ここの空気が悪いのは重々承知なわけなのも、バカのひとつ覚えみたいに何回でも言ってやりたい心境でもあるが、ここが実感があるのが現実なのか、それとも今までのあの光景は全部本当で、今目の前の光景は全て嘘なのか苦々しいほど答えは出てこなかった。
ひどい夢なら早く覚めろ。念じるように彼は身構えたが、目の前の情景は変わらなかった。ふと、フリックは目の前の広がるゴミがまるで迫ってくるような錯覚を見た。
「ありえない……」
そんなことは決してないと、フリックは頭を振る。だが、言い表せぬ何かが迫る予感は錯覚と違い、頭の隅から離れなかった。そもそも何故、此処にいることすら全く状況がつかめていないのをフリックは、はたと今更に思い出した。そして、この両手の布を巻いた張本人にも未だ出会っていないことに、僅かな悪寒が背中を走った。
彼は時間が欲しかった。今ここにいられる時間が悠久でないことも直感で分かってしまったせいか、ここから一票でも早く出るための考えが欲しかった。だが、余りにも不足なものが多すぎた。自分が一体どのようにしてここまで来たのか全く見当もつかないからだ。
「どうやった……。どんな方法でここに連れてこられたんだ……」
歩くべきだ。フリックは有無も言わさずゴミの上を歩きだした。ここで立ち止まって何もしないより、今眼前に広がるゴミの空間が一体どれだけ続いているのか確かめるべきだと思った。手の痛みも、その手に巻き付く布の異臭も、そしてゴミからも漂う凶悪な臭いも彼は無言で振り切り前進した。不思議に疲れはなかった。意識が途切れ、どれだけ時間が過ぎたのもかも判らなかったが、少なくとも消耗しきった体力が戻っているような気がフリックには全身から感じ取っていた。進む道は何処に目を通してもゴミだらけだった。そして明かりも一つとして見つけられなかった。素足で歩くゴミの感触は想像を絶するものと思いきや、特にこれといった嫌悪感はなぜか湧かなかった。足場のゴミは左右に大きく広がるゴミの壁や天井と違って、寧ろ舗装のような感触に近かった。何度も踏み固められていたのか、足が沈むことも何かがひっついて離れない事もなかった。以前、ここに誰かが通った形跡は見当たらないが、これは人が通れる広さにしてはあまりにも大きかったのだ。
「…真っ暗なせいで、見つからないだけか……」
フリックはここがゴミで出来たトンネルにも思えた。敷き詰められたゴミ山の中の空間はここだけではなく、一直線に前方へと続き果てが見えなかった。ここから先もここと同じく暗闇の中だ。フリックはここが一帯なんなのかにせよ、詳しく調べる必要があると考えをめぐらし始めた。そしてもう一度周囲を見渡し、目に付きそうな物を辺りから探そうとした。だが、結局徒労に終わりそうな予感がして、フリックはその考えを中断した。それより、もっと興味深いものを見つけてしまったからに過ぎなかった。
ゴミ山の壁。その隙間から何かが動く気配がしたのだ。フリックは再びじっとりとした汗をかいていた。ゴミ山から出る臭気で少々暑さを感じていたが、それとはまた違った汗なのを彼が一番よく理解していたからだ。一体何時からか、フリックは何かに尾行されている気配を感じ取っていた。なるべくその気配を錯覚だと決めつけながら、ワザと左寄りの壁際を伝ってここまで歩いてみた。が、フリックがさきほど一瞬見たことによって、錯覚は確信に変わった。いる。彼のいる壁のすぐ上になにかいるのだ。だが、相変わらず視界ははっきりしておらず、尾けてきたその正体を目視で捉えることはできなかった。寧ろ、視界を確保する。そう、明かりを探すほうが更に相手に居場所を知らせる羽目になってしまったかもしれない。フリックはまぶたを閉じ、あれこれ考え始めたが、それもすぐにやめてしまった。寧ろそれどころではなく、あの分別のつかぬ何モノかがいるのは確実に判断できたのだ。フリックは腹をくくったのか、再び辺りを見回すことにした。あの夢のような実体験、あの時の動きが今でも出来るのか、フリックは少し疑問に思い始めていた。そして、フリックは僅かに残った記憶の中からヨリマが言ったことを思い出しはじめた。
‐まるで本物のような体験をさせて、どうなるのか見てみたかったの。‐
今にして思えば、ますます意味のわからない事をさせられたのだと、フリックは既に終わったことを憤慨し始めた。確かにそれによって生まれた恐怖のような感情は、ヨリマに向かって矛先を突き立てたが、少女はそれすら凌駕するほど正確に、彼がそういった行動に出る予想までしていた。フリックはいかにあの少女に隠された裏をどうにか暴けないか、また頭のネジをくるくると回すように巡らせようとした。だが、先程の言葉が脳裏に浮かぶとその気力すら失った。今はその思案を持つのも、大分後ヘ後へ回すすべきだとフリックは結論づける他なかった。辺りを見回したとき、あの気配が移動していることがわかったからだ。緊張感が全身を一気に奮い起こし、奇妙な気持ちを焚きつけた。
驚くことに壁に伝ってきた気配は、まだ壁のゴミ山の中にいた。いや、正確に言うと壁の中で動き続けているのだ。どうやら、このゴミ山の壁は相当の厚さがあることがフリックには分かってしまったが、それはあまりいいニュースでもなかった。つまり、気配はひとつだけではなかったということだ。
「なんか無理に出てこないほうが……よかったのか?」
フリックの口から自虐にも近い言葉が自然とでてきた。彼は記憶をなくしたのか、それとも取られたのか。あのヨリマと出会った頃とはだいぶ印象が変わり始めた。この暗闇が彼をそうさせたのか。それともゴミ山の臭いで頭がおかしくなったのか。それともゴミの中にいる何かに感化されたのか。何れにせよフリックはもう逃げることは無理と悟った。両手は使えず、素足で何処まで行けるのかはわからない。こちらからは真っ暗で何も見えないうえに、臭いで鼻もやられ、頼れるのは耳だけ。
「俺だったら……。まず、耳を狙う……」
この声が聞こえているのかどうか、フリックはわざとらしく少し声を張って言ってみた。だが、相手は思った以上の反応を示さなかった。しかながら気配はこちらに気づいたようにずるずると近づいているのをフリックは感じ取った。布で丸められた両手をだらしなくだらりとして、フリックは壁からじりじりと足を引き始めた。臭気で汗がにじみ出てくる。何も見えないのに、もうそこに何かがいることをフリックは全身にひしひしと伝わっているのを実感した。
‐来る。‐
その矢先、ゴミ山の壁の隙間から何かが飛び出して来た。突如として真正面から黒い物体が弾丸のように、フリックに向かって一直線に襲いかかる。臭気の下から昇る僅かな流れ。の微々たる変化を肌で感じとり、フリックは寸前で回避する。耳元をかすめる黒い何か。「ビュッ」という音と共にまたたく間に反対側のゴミ山の壁に埋もれて行く。顔面ギリギリをよぎった瞬間、フリックはこの黒い物体から「羽音」のような音を聞き取っていた。
前書き20000、後書き20000。本編40000合わせて80000文字になりますが読みにくくなりそう。