STAGE 4 「再会」第一部
この物語には残酷なシーンが含まれております。
この世に生を授かり、目覚めて見れば、世界はいつの間にか崩壊していた。
文化、社会、政治、科学、情勢、歴史、経済。太古の流れからしてみれば短くも、人類にっとての膨大な時間が消費されヒトの繁栄が絶頂期へ達した時、人類は自分たちを“神に等しき存在”と謳った。ありもしない存在に自らの価値観を持ち上げ、ただただそれに酔い痴れる中、その繁栄に反するように、自分たちの足元が脆く今にも崩れ去ろうとしていることすら、気付く事も無かった。
システムが一度崩壊すると、二度と元通りの状態にならないように、世界の秩序はあっとゆう間に崩壊を迎えた。それもたった一日で。青く澄みきった海は一瞬にして褐色の土に変貌し、空は血糊を溶かしたように紅く染まった。大陸もただでは済まなかった。堂々と並び立つ各国の都市は跡形もなく崩れ、民家は一瞬にして焼き払われた。地形は歪むようして変わり、山は削られ凹凸をなくした。緑は燃え、枯れて隅にもならず消えていく。そこに育む生命たちも、同様だった。
でも、人は死に絶えなかった。
一瞬にして崩れ去った世界の中で、僅かな生き残りがいたのだ。起こりうる危険を察知したのか、欲と執念がそれらを突き動かしたかどうかは分からない。ただ、人はあからさまに生きようとしがみついていた。それから500年余り。生き残った人々がその生を絶やすことなく今に繋げた役目が強化人なのは、周知の事実である。
記憶媒体を埋め込んだ特殊な細胞によって生み出され、後世に残す人の文明を記憶した個体。老化もなく、繁殖活動さえ行わない、作られた形をそのままの姿で生きながら保つ。
まさに生きた記録。世界中に散らばったその個体は今もどこかで生き続け、再び巻き起こる人の繁栄に力を貸しているの違いない。
そうやって自分も、彼らに助けられた。この国と同様、僅かに生き残りから派生した私が、今こうやって、大昔の事が分かるのも、強化人のお蔭なのだから・・・。
テラスに一つだけあるロッキングチェアにもたれかかり、この時代では珍しいほど歳を取った女性は、そうやって今日も物思いにふけっていた。テラスに掛る風は優しく心地よい。まるで母親の腕に抱きかかえられたように、暖かく落ち着いた雰囲気を奏でている。静かにその風に身を寄せながらも、その女性はどこかしっくりとは行かない気持ちに内心少しの不満を持っていた。
ブロンド色の少し癖っ毛のあるショートヘア。今も変わらず澄んだ蒼い瞳。顔の堀は深いが、頬はすっきり引き締まってか、わいらしい小さな鼻が目立っている。だが、どこか淋しげな表情のこの女性には名前が無かった。
いや、本当はあった筈なのだが、今になって必要になる事は無いと思い、彼女自らが名前は忘れ去っていた。もしかしたら、それ以前に名前さえ無かったかも知れない。だから周りからの彼女の呼びか方はいつも「マダム」だった。今のように“おばあさん”になっても、あの若かった時代でも、皺の多い顔になった女性はいつまでも、「マダム」と呼ばれるに違いない。それに彼女自身もさほど気にしていなかった。
マダムは今はもう、静かな暮らしに慣れていた。混乱と絶望の最中、何もかもが暗闇に包まれた世界で、彼女は自分を忘れ、ただがむしゃらに生き抜くことだけに時間を費やした。自分という存在を全て捧げて、彼女はこうやって今の生活を獲得した。それも、つい最近になっての話だが。だから最初は何も変化の無い生活に、無駄な心配をしていた。あの生き地獄様な生活から解放されたのは何よりもうれしかった。だが、マダムはそれと引き換えに自由を獲得し、刺激を奪われた。
今の生活が悪いとは言わない。それは今まで願い続けた夢なのだから。だが、その夢の叶ってしまえば、この女性にとって今の暮らし方はあまりにも“つまらないものだった”。今、こうやって長椅子にもたれかかり、一日をただ景色を見ているだけ。女性の中に溜まる少しの不満は、徐々にたまり続けていた。
それが何故か。今日だけ違った。女性が過酷な日々を送った賜物かどうかは別として、感覚的に何かが変わることが感じられたのだ。それが余計に彼女の好奇心を刺激させ、不満はいつもより増幅していた。それだからだろうか。ただ風に当たっただけで、いつもより女性の心境はただならぬ状況に期待感を寄せていた。
そしてその期待感は現実へと即座に移された。
なめらかな革で外側を覆った後部座席に、スキンヘッドの男が腰を深くして座っていた。還暦を迎え半ばにして、細く鋭い眼を光らせ、大きな鉤鼻が顔の中心を陣取っている。頭の上がすっきりとしてあるためか、髭すら見当たらない。ただし、顔じゅう鑿で掘り返したようなごつごつとした威厳のある顔立ちは、見る者を思わずひるませそうな、オーラが漂っていた。
イツキに“簡単な命令”を下した後、コモダは急ぎ足で最下層に向かい仕様車を使って『膜』の外れまで足を運んできた。その外れにある小さな一軒家。彼はそこに用事があり、そして一刻も早く事を進めたかった。苛立ちの表情こそ、その顔には表れはしなかったが、彼は車に乗り込んでから一言も口を開くことは無かった。そんな彼の様子を、バックミラーでちらりちらりと見ながら運転手は車を進めていた。
「私の顔になにか付いているかな・・・・?」
運転手の視線に気づき、コモダは我慢もせず、直ぐに口を開いた。声に多少の感情が入っているようだが、それでも彼はまだ冷静でいられた。
「あら、滅相もございませんわ。トガイ様。」
おしとやかな女性の声が、運転席から響いた。肩まであるロングヘアーでどんな顔をしているか分からないが、少なくとも笑っているようにコモダは感じ取った。仕様車を運転するこの若い女性の名前はコモダは知らない。この女性が強化人がニンゲンであるかもわからない。くっきりとした黒目の女性は、少々の悪路でも不快を感じさせない運転で、コモダを目的地へと運ぶ役割だけだ。それ以外の余計な情報も関わりさえも不要なものだ。だが、コモダは意図せずこの女性に話しかけてしまった。別にここから展開する会話も進行も無いが、運転手はちゃんと答えてくれた。
「では、何故だ・・・?」
運転手は少し考えた後にこう言った。
「最良の運転技術、と言えばいいでしょうか?」
「答え方は自由だが、うまい逃げ方だな。」コモダはそっ気なく言う。
「お褒め預かり、光栄ですわ。」
コモダは笑顔でそう言われた様な気がした。顔こそ見えないが、声だけでそれを判断するのはそれこそおかしな思い込みなのだが、それい以上の詮索の余地も今に至ってはなくなり、コモダは考えるのをやめて窓から見える外の景色を横目で眺めた。運転手もその意図が分かったのか、それ以上会話をする事もなくいなやるべき運転に集中を戻した。もう直ぐ目的地に辿り着く。流石に街の外れだといったところだが、此処はそれほど広くは無い。街のシンボルでもある巨大な二つのタワーは、先程見受けたところからあまり大きさを変えず、町の中心に何の変哲もなく佇んでいる。このタワーは別の場所にもう一か所ある。つがいで作らされたものとは違い、此処のタワーはこの国の力よって突き建てられたに近い。コモダは今でもそう信じている。
少しの間もしないうちに、コモダは視線を前に戻した。今回の目的となる独り身の住まいが、フロントガラスを通り越したボンネットの上で、ちらちら見え始めてきたからだ。ここからはまだ遠くて見えないが、今頃彼女は正面のテラスから同じこの景色を見ていたに違いない。そのころ合いを見計らってコモダは少し時間をずらしてきた。それでも急ぐ理由があったのは、彼女がとても時間に厳しいわけでもなく、コモダが自分の都合に合わせただけである。 無論、“約束の期日”が今日であり、それを伝えに来たことは確かな事だ。いずれは話すことになると説き伏せてきたことがようやく自分の口から言える。コモダは何者にも言われようのない感情の渦にのまれながら、今こうやって自分を突き詰めてきた結果が今に至ったことに、大きな安堵感と苛立ちが彼ののど元から勢いよく溢れ返っていた事を知る由も無かった。
車の速度が目的地に近づくにつれ少しずつ確実にと抑えられていき、丁度家屋の正面に差し掛かるところで向きを変えた。鼻面がコモダから見て右へと反れだすと、不快な振動もなく綺麗に停車した。
小刻みに室内を共鳴していたエンジン音も黙り込むと、ドライバー兼使用人の一人がコモダが出ようとするドアを素早く開く。出口付近の座席の頭部を掴みながら、コモダは朝日を拝む陸ガメのようにのっそりと車外へ顔だけを出した。まばゆいほどの日差しも、すがすがしい青空も見えぬ狭い膜の中。一つ殻に閉じこもる孤独感だけが、彼の心をチクチクと痛めつける。
視線をすぐに目的の場所へ。そうすることで、いくらかの和らぎが来るわけでもないが、彼の眼には懐かしい人の輪郭が映し出されていた。あの頃は生き生きしていた自分もそして彼女も、何かに取り憑かれた様にしっかりと齢を重ねていた。コモダの身体が前へと飛び出す。それに連なって足は一歩一歩と地面を踏みしめコモダを身体のバランスが支えられる。痩せこけても早使い物にならない屑。その大地に自分の足がしっかりと踏み込まれている。
二人の視線が重なった。コモダは喜びに満ちたまなざしで、対する彼女もそれに答える様に振る舞ってくれた。
「まあ・・・。まあ・・・・、、まあ・・・・・ああ・・・。」
テラスで呆然と立ち尽くしていた彼女は、コモダを見るとさっと踵を返し、玄関の方へ向った。コモダは彼女の行く方を目で追いながら、家の玄関前に立つ。その時ちょうどドアが勢いよく開き、あわてた様子の彼女の姿が表れた。
「お久しぶりだね、マダム。」
柔らかい口調でコモダの口から自然に出てきた言葉。二人が知り合った当時からの記憶が読み戻されるように、コモダの表情は穏やかになっていた。
「まさか、あなた?・・・。“あなた”なの?」
玄関口からゆっくりと駆け寄るマダム。時折降り付くような歩き方を見せながら、しっかり前に進んでいく。長年の再開に二人は支え合うように抱き合い、再会の喜びを味わった。
「そうさ、私さ。マダム、懐かしい顔に出会えて嬉しいかい?」
「これが嬉しくないわけが・・・。そう、本当に懐かしいわ。」
お互いが、お互いの身体に埋もれるくらいしっかり抱きしめ二人は人の温度を確かめあう。感触、ぬくもり、匂い。それらが一つに混じるぐらい長い間、二人はお互いを抱き合い、ゆっくりと離れた。コモダは優しい笑顔を、マダムは涙目交じりの笑顔で。
「さあ、中に入って頂戴。いろいろ聞かせたいお話もあるし、あなたからのお話も聞きたいわ。」
マダムは静かに身体の向きを変えると玄関のノブに手を置きながらコモダを招いた。
「ああ。すまない、マダム。」
するとすぐにコモダはバツの悪そうな顔で謝罪をする。
「どうしたの?」
「マダムをじっくり話すのはまた今度にしてほしいんだ。今日は急ぎの用事でね。」
「まあ・・・・。」と驚くマダム。
「なにかあったの?」
間を空けずマダムはコモダに詰め寄ったが、彼はそこで話そうとは考えていない。ここで他人に聞かれる心配もないが、彼はどこか警戒心を隅にため込んでいた。
「ああ、とにかく。中に入ってから話そうか。ここで立ち話も君にはきつかろう。」
お互い既に老体の身。特にマダムはコモダより年は上であるため彼は気づかいの次いで、彼女にそう促した。それにはマダムも普通に承諾した。
「そうね、また冷えてくると嫌になるわ・・・。さ、そちらのお嬢さんも、どうぞいらっしゃいな。」
そう言うとマダムは、コモダの車に待たせているドライバーも家の中に招こうとして、右手を上げた。
「いえ、私は付き人。コモダ様の私用に割り込む余地はございませんわ。」
だが、彼女は丁寧にマダムの申しを断った。自分はあくまで従者の身。主人の意思に反する事が出来ないよう彼女は躾を受けていた。
「それでも、外は寒いわ。あなたの主人は私から言うから」
「聞こえているよ。マダム」
「あら、ごめんなさいコモダ。私ったらいつもこんな調子で」
コモダから鋭い指摘を受けて、マダムは小さな笑みをこぼした。コモダはそんな彼女の表情を見て、直ぐにドライバーに顔を向けた。
「おまえも来い。部屋に入っても問題は無かろう。」
突然の主人の計らいに、ドライバーは目を丸くするも、彼の横に立つマダムの優しい視線を感じると、直ぐに車から出て、二人の方へ向った。
「あなたも少しは丸くなったのね。」
「君には負けたよ。」
ドライバーには聞こえない小さな会話を交わして、二人の老人と一人の従者は小さな洋風のドアをくぐった。
木目模様の壁に彩られた珍しい家具の数々。色彩の豊かなバリエーションを誇る樹木。どれもこれも目を見張る物ばかりが、一つの部屋に一気に集結されている。
三つのカップに均等に注がれた紅茶。それに小さなミルク入れと、角砂糖の入ったガラスでできた容器を金属製のトレーに乗せ、彼女がちょうどキッチンから出た時、コモダは椅子に腰掛けた所だった。綺麗なテーブルクロスが掛かった見事な装飾を施したダイニングテーブルが、コモダの目に留まった。
この環境にらしからぬ似合わない机類に、コモダの口から疑問が上がった。
「これは婦人が揃えたのかい?」
「そうよ。」
あっさりと答える。
「何故?」
「そうねぇ・・・。余暇の為、かしら?」
余暇。婦人はたしかにそう答えた。カチャカチャとカップのふち同士が軽く当たる音を立てて、袖を汚さないようにテーブルの端に移動してきた。トレーが僅かに左に揺れる。器用に椅子に座りながら、テーブルの中央にトレーが運ばれる。従者は主人の着座を確認するまで整然と立ち続けていたが、紅茶に目を取れたままだったのかもしれない。無理もない。彼女は紅茶と言う「飲料」を今まで見たことがないからだ。
コモダにとっては懐かしい飲みモノで、マダムにとってはありきたりな存在でしかない。
「本物かい?」
「いいえ、複製。今の時代にオリジナル・・・、いいえ。天然は何処に行っても手に入らないものだわ。貴方の目の前にあるそれも・・・。」
マダムは紅茶をコモダに渡しながら、指でチラチラとその辺りをを示す。
「みんな、偽者。」
「・・・・・・・・・。」
押し曲げられたような声で小さく呟くマダムの顔が恐ろしく悲しさに包まれていた。恐らく、耐え難い孤独感を僅かに和らげようと始めた事。これがこの似非物への収集と愛着だろう。それが今になって彼女自身の中に気付かされた結果となった。家族も友人も当になくなった今、それがマダムにとっての唯一の生き甲斐か、それともそれも只の思い込みか・・・。
「悲しいかい?」
「え?」
従者は紅茶に気を取られているのか、周りに目が入っていない。いつ間にか紅茶の色も変化を遂げ、茶色く濁った様子をホクホクと見る姿がなんとも言えない。コモダは悲しいかな、その様子をしかと見ることも無く、マダムに語り続けた。
「余暇を取れることが出来ても、婦人は悲しいか・・・。」
「そうね。楽しめる事がなければ自分から探すしかないわ。貴方がこうやって突然訪ねてくることがあるかもしれないし・・・・・・。そういえば今日はどうしてきたのかしら?」
紅茶がそれぞれの場所にわたる頃になって、マダムが思い出したようにコモダに訊ねた。
「そうだったな。婦人が酷くかわいそうに見えたから少し心配になってね。」
「貴方が好きなだけよ、そういう所が・・・。」
小さく微笑みながらマダムが放つ台詞が、彼にとっては痛い事実であり、紛れもない真実だ。それが今になって炙り出される事はない。では何故彼はそこまでに執拗に詰め寄る姿勢をこの小さな存在に成り果てた一人の老婆が分かるはずがなかった。
「局長のイスを婦人に譲るつもりなんだが。」
とんでもない事を彼は口走った。要は自身の地位を他人同然の自分の渡すというのだ。マダムが驚かない筈もない。それまで細めていた瞼が大きく開いた。
「それが一つ目のお願い事・・・・なの?」
へんな言い方で聞き返した来たマダムにコモダは自然に返す。
「お願いじゃ無いよ。君に与えられるものだ。確実・・・だがね。」
二つのカップが空になり、洗い場に運ばれずに放置されたまま、コモダから発せられた声が静けさだけを奪っていく。外で吹き荒れる風がコトコトと戸窓の冊子を軽々と揺すり立てていた。そんな音よりも彼の声の方がよく聞こえる。確実にと自信を持つ彼の答えが大きく彼女の頭を揺れ動かそうとしている。
「でも・・・・、何故?」
声がか細く届く。コモダは両指を遊ばせながら少々考えたような素振り。呼吸を合わせるようにチラチラと指を滑らかに動かせながら、一括にまとめ答えた。
「組織が完遂するまでは私にもちゃんとした責任があった。上の連中が私を指名したからにはその期待に必ずが、私への了解だろう。それまでは私に一つもミスさえも出来ない。こんな混乱した時代にも、だ。いや、こんな時代だからこそかも知れないからね。私はそれを余計にも早く終わらしてしまった。私に必要な期間より、早く・・・・。」
「・・・・・・・。」
「シティの管轄だけが私の仕事ではない。外部から・・・・、特に反政府組織への対策も充分の余地も考えていかなければ、誰も満足しない。勿論、安心も・・・だ。」
「それで・・・、任期を終える時間稼ぎため、私に代わって貰うの?」
「簡単に言えばそうだね。私が勝手に難しくしてしまったかな?」
上手く丸め込まれるだろうか?コモダは笑顔の中、その事だけが頭の中をグルグル渦めいていた。
5年前の契約。一つの強化人の覚醒の時、コモダは任期を全うすると共に、素体の情報を返却ことを約束した。それもほぼ独断によって。それに従って、残り数時間後、強化人に素体自身のデータの全てが戻る。その瞬間、実験体として束縛した素体は、自由となる。組織を作り上げた側からすれば取り返しのない契りを切ってしまった様なもの。コモダの身にもその危機感は直ぐそこまで来ている事ぐらい充分理解している。現に、本部に彼の味方となるニンゲンは、僅かばかりしか存在しない。
「深い理由は後にしてもらえないか?」
そんな大事をいきなり目の前の老婆に言っても、混乱するばかりだ。むしろ、いつまで自分の命が守られている保証はなかった。しかし、焦りが大きく彼の判断を早くも誤ることに。
コモダは少しの希望に大きな自身を抱えすぎた。
「何を焦っているのかは、あえて聞かないわ・・・。」
そのことばがコモダの思考を一気に遮断させる。
―読まれていたのか・・・・。
彼の顔色が一気に色を失っていく。彼女は微笑を絶やさなかった。今まで、ずっと。それを彼はよく観察していなかった。それに気付かず彼は一気に話を詰めきった。
―読みが甘かったのか?それとも・・・。
「それとも・・・。言えない?」
笑顔は耐えない。
「そうだね。君には負けたよ。」
彼にとって、笑顔の中にどんな悪魔が潜んでいるかなんて今になってはどうでもよくなっていた。恐らく理由も言わずしても彼女には全て掴んでいるのだろう。コモダはそう考えた。
「貴方は命の危険も知らされながら、最後の切り札をその条件の破棄と身代わりが欲しかったのね。」
「そうの通りだ・・・・、マダム。」
腹を割った会話。これには嘘がないことは彼女はしっかり把握していた。だからこそ、率直に単純化した質問を続けざまに浴びせた。いつの間にか、彼女のペースに合わせられていたことに、コモダは気付かなかった。
そもそも、彼女の住宅に彼が来る時点で何かあることぐらい分かる程度の動機である。その結果が身代わりになれということ。面白いとマダムは思った。心の奥底から、それを感じられた。スリルある生活を望んでいたわけではない。それが大きな刺激に代わった。若かったあの頃のように、彼女は生き生きとしていたかった。
自分の行動が周りに反映される、支配できる。絶好のチャンスだと考えた。そのために彼女はなんとしてもコモダの真意を探る必要があった。そして見事、予想通りに彼女の思惑が当たった。
それに思わぬ事実も発覚した。無論、その予兆も気付いているわけではなかった。
「二つ目が・・・それだ。」
心労に堪えた老人が彼女の目に映っている。頭がうなだれ、顔がすっかり隠されていた。コモダの情報が正しいとすれば、“彼”の存在がとうとう現れ始めた。霞がかったマダムの記憶が大きく抉り取られる。懐かしい感じがした。
「あの人が帰ってくるのね・・・・。」
殺しあう事が出来る瞬間。あの時だけで終わらせたくなかった。コモダと二人、いがみ合うように一つの目的に喰いつき、共闘できた。いつか終わるだろう、いつか打倒されることになる。それがどちらになるか彼女のはとても楽しかった。
アレが帰ってくる。
「嬉しそうだな。マダム・・・・・。」
自分に問いかけているのかしら?マダムは自然に立ち上がっていたことに無意識にしていた事をコモダに言われて、気付いた。
「そうね。とても楽しみ・・・。彼が帰ってきたんですもの。」
子供みたいにはしゃぎだす彼女の様子、雰囲気が部屋に漂う。先も長くなく朽ちるだけの時間から今一度、若々しい頃に帰ってこれるのだ。こんなに嬉しい事はないと、彼女は感じた。
合間見えて早々殺しにかかるのか?
きらきらと輝く彼女の瞳を横目に、コモダは従者に車を動くよう指示した。結局冷え切った紅茶を一口も味わうことなく、従者は静かに席を立ち、元来た道順を通って、出口に向かった。コモダは従者が動いたのを確認すると、再びマダムのほうに顔を向けた。空になった二つのティーカップと付属品は、いつの間にかテーブルから姿を消している。マダムの姿の同様に。
「直ぐに出立するの?」
キッチンのほうからマダムの声が聞こえた。ついさっきまで自分の余韻に浸っていたのが怖ろしく嘘のようにコモダからは見て取れた。しわの多い疲れた老婆は、一体何処に消え去ったというのだ。あの頃の現役を思い出すほどきびきびと動いてた。
「準備が出来れば・・・・。キミの思い通りになるはずだ。」
「貴方に言われて動くことも?」
「何?」
「いいえ、何でもないわ・・・・・。」
洗い場の仕事を終わらせると、マダムはさぞ忙しそうにキッチンの奥に姿を消した。カウンターから全てが見渡せる。作りこまれた大きな家。彼女がわざわざ注文した形を再現したとコモダは聞いていた。未練がないわけではない。それでも、進むべき道が繋がった途端死んでいた彼女の心は再び活力を取り戻した。たった一つの存在だけで。
これは嫉妬なのか?コモダは自分に問いただして、不思議と可笑しくなって笑い出しそうになった。
もしそうなら、今で私はさぞかしアイツを憎んでいるのだろう。そして彼女があいつの相手を終わらせない限り、私はしぶとくいき続けるだろう。
所詮、そんな思惑も希望も叶わない事は彼自身よく分かっていた。この膜に囲まれた世界。何処に逃げる事とも隠れることも出来ないからだ。
「コモダ、準備は出来たわ。」
「ん・・・・。そうか。」
マダムの声で彼は立ち上がった。
後はこの家から出て、再び本部に帰る事になる。間に合わせる自身が無いのは、とうに理解していた。但し、少しは抗う事ぐらいさせて貰う。
廊下に入り、二人は玄関に足を進めた。車の動力音が微かにコモダの耳に入ってきた。玄関の扉を開ければ、直ぐに車に乗れることとなる。後ろからマダムがついてくる。それが不安を希望に代わるのか、不法が吉報に変えるのか彼にわかるはずがない。
「もう此処に戻ることも無いかもしれない・・・・。それでも―」
「それでも構わないわ。」
コモダが言い終わるうちに、マダムがすっぱりと意見を出した。いつもなく、また嬉しそうに。貴方に言われなくてもそれぐらい了解しているもの。後に続く言葉がそういう風に聞こえて、コモダはそれ以上話す事を止めた。右手でノブを握り、ゆっくりと右に捻り回す。カチャと噛み合わせてあった金属通しが擦れ合う音がして、扉は前に押された。淡い光が吸い込まれるように流れてくる。
従者の姿が見えた。
「お待ちしておりました・・・。」
軽く一礼。二人が降りてくる。
「急ぎだ、任せるか?」
「かしこまりました・・・。」
コモダが車のほうへ歩み寄ると、従者は何も言わずの御用と、後部座席のドアを開いた。マダムを先に乗せると、コモダもそれに続いて乗り込んだ。従者も運転席に座った。
シートベルト等の類はこの車には無い。私用でこの街を走る車は、彼の車しかない。それに車内は車体と完全に切り離されている構造で、外見だけがレトロチックに仕上がっているだけなのだ。局長御用達の護衛車。それも従者である彼女しか運転できない。
セーフティが掛かり、車内をある膜がすっぽりと包む。これは町を守る膜と同じモノ。未知なる性質を持った。細胞の集まり。
「少し荒い運転になるから、気をつけてくれ。」
マダムに向かってコモダは注意を促す。
「これが初めてじゃないわ。」
確かにそうだろう。コモダもそれには納得していた。何度もこいつにお世話になったことをコモダは思い出す。
古くなった昔の時間。目の前に広がる膜はずっと変わらない。きっと自分で朽ちても、これだけは変わる事もないだろう。
従者がアクセルを踏み込む。響く事もなく、くぐもったエンジンの爆発音がこだまする。車は休息に加速し、あっという間に彼女の家を離れた。
新年、明けましておめでとうございます。
今年も程々に頑張っていこうと思います。
よろしくお願いします。