序
初めまして、ミドリのヒトといいます。
本をあまり読む機会も無く、と言うより集中力もなくなかなか上手く表現できずお見苦しい点もあると思いますが、本人は楽しく書いているので別段気にしておりません。
空を仰ぐ両目は細く、今にも潰れそうだ。眩しくもないのに、見たくないものを見てしまうようで手を上げてスっと顔を遮ってしまった。
私はただ一人立ち尽くしていた。風貌は表現しがたいほど酷いボロを身にまとっている訳だし靴が無く、素足のままだ。顔もよく分からないがひどく汚れているのは確かなことだ。あちこちに痛々しい傷があるが、私はそんなこと一切気にしない程の眼で。はっきりとした意志を持ち気力に溢れていた。この爛々と輝く眼の動悸を私は私自身の力では抑えきれない、それだけを否定することも許されなかった。そんな眼を持って私は、洞窟らしき入口に背を向け、何かを見据えていた。何かは判らなかった。私の視界の先にはと言うと何も無いからだ。騒然と佇む砂漠が幾多にも続いているに過ぎないからだ。背中側からはひしひしと伝わってくるものがあった。目で追わなくてもわかった。私がさっきまでその中に居たからだ。私の背の方に佇む洞窟の様な存在は幾らか自然物とは不釣合な作りをしていた。これはどちらかと言えば人工物の様な外観で捉えることが出来たからだ。洞窟と言うより寧ろ小じんまりとした子山のようにも見えた。勿論私がその小山をなんなのかは詳しく知らないというわけでの話である。小山の周りには目立つものは点々と存在してあるが、それぞれが互いに遠すぎる位置に点在し、それが何なのかが分からない上、見当も付かなかった。私の背中側にある小山と同じ物かも知れないし、全く異質な物かも知れないからだ。
周囲には、小さな石や砂で一面覆われた砂漠だ。この目で見える限界の地平線が見えるまで、それが続いている。夕焼けでもないのに、真っ赤な血のような色に染まった地面。そこに虚しく佇むのはただ一人、私だけだ。足下に佇む影も、どの方角にも長く伸びずに私の足元に寄り添うようにして、石像のように微動だにしなかった。皮肉にも、それは私も同じ境遇である。目を覆うような風も、陽射しも無いこの場で佇むのは、後にも先にも私一人だからだ。
私は右手に物を持っていた。物を持つ手も顔と同じく酷い有様に汚れている上、切り傷もある。だがこれは一日やそこらで出来た訳ではなかった。むしろ古傷に近いのだ。特に深く抉られた右手の甲、そして人差し指と中指の谷間から手首にかけて曲った様に削ぎ落された肉の跡。外側の皮と歪な付き方をして傷を被っていた。無理やり縫合させた所だ。そんな醜い手の中にしっかりと持った物。暗青色をした分厚い板状、長方形の物が二角で折曲がったようにして畳められて、内側にこれまたに薄い板状の物が何十枚も束ねられていた。彩飾は無駄が一切見当たらない程、面に沿って浮き彫りを見せつけ不釣合いなこの場所がそれをより一層の存在感を高めてくれた。枠をしっかりと鋭利なもので形捉えられていて、そこに触れることすら許されないほど極め細かな模様も施させていた。私の手の様に傷つき顔の様に汚れていない長方形の物。
本と呼ばれもの。おおよそこの私の風貌に似合わぬ清楚感をもった分厚い本である。私がその本の価値を知っているか否かに限らず、本は私の手の中にあった。赤地に一際は目立つ青い本。ふと、私は誰かにこの本を見られたような感覚に見舞われ、辺りを瞬時に一望しつつも、視界を右手に向けた。 突然感慨に耽った。今に思えばこの本だけが私のこれまでの存在そのものとなってしまった、と。どう表現すればいいのか難しく言葉にすることが上手くないためやきもきしそうだが、私の行動そのものこそ、この本の為だけと言ってもいいと思えた。
次に右腕をゆっくりと動かしを顔の方へ持ち上げさせて、私は本の表紙をその両眼で見つめた。前にも説明した通り、この素晴らしい装飾と、模様が施されている以外、この本の表紙には一遍の乱れすら無かった。それは背も勿論の事、裏面すら同じことだとはっきり言える。そして私は、その場で本を開こうとしたのだが、まるでこの動作を待っていました言わんばかりの強風が横殴りに吹きだし、私は左手で本の端に添えるのをやめて抱えるように本を両腕で挟み込み、小山の入口へと大急ぎで向かった。風で舞った砂などが、本の隙間に入ってくるのが大変困るからだ。
目の前に佇む小山、と言うよりこれは私の住居だ。「あの時」以来、此処等一帯は目を覆いたくなるほど酷い有様になってしまって、私のような生き残りが一人二人いるのかいないか、どうにも把握できなくなっているのが現状だ。そんな中私は、なんとかここまで外からの危害を防げる対処だけはできたと思っている。まさにこれだけでも幸運と言えるものだった。あの日、無我夢中で駆け、辿り着いた場所がまさに今の此処だ。今でも中に入って獣の様な住処に目をやった時、私はそれだけを考えてしまうのだ。何もかも失ってしまったが、この手に在る本だけが私と同様の生き残りだ。
いや、生き残りなのかどうかは、まだ判断つかなかった。生かさせているのかそれともまだ生き続けているのか、その答えを出す手段や目標もこれから見つけ行くのか。その手段はこの本の中に、それとも私自身なのか。そんな思案をただ無駄に浮かべるくらい、この穴ぐらは殺風景でいて、無駄が一切当たらないのだ。砂粒が入ってくるのが嫌なので、私は再びヒタヒタと冷たい地面を一歩一歩踏み締めた。
中は外界の赤地の様に、砂や砂利で埋め尽くされてはいない。足を守る靴が無いため、中の砂を払って硬い層の地面を露出させているからだ。お陰で足の裏に酷い豆は出来ないが、下の地面は凍った様に冷たいため足の裏が壊死しないよう、確実に揉み解しておく必要性があった。寒いため仕方ないのだが、血豆で苦しむより遥かにマシである。
数歩足を進めて穴ぐらの中央に腰を下ろした。特に中央に何かがあるわけではなかった。寒くもなく暖かくもない中途半端ま場所がただ中央なだけであるから、私は腰を下ろしたまでだ。身に付けているボロに空いている左手を突っ込み、まさぐるようにして中から細い棒状の物を取り出した。これを使って私は、この本の中の紙に今までの事柄を全て記録していた。紙面上をなぞる様に書いていけば、煤けた紙の上に文字が、勝手に印字されてくれる。鉛筆やボールペンの様に、芯やインキが消費することはない便利な代物だ。先程本しか無いといったが、ここにきてあれは嘘になってしまった。私には、今だに失っていないものは沢山ある。ただ、今はこれしかないこともははっきりと言えると思うのだ。紙面上をなぞる筆先は、疲れることを知らないみたいに、スラスラを書き続けていった。わざわざ文字を指先に沿って書かなくても、自然に筆先が書き手の動く方向を察知して、自動で記してくれるからだ。そして書き記した文字の羅列が消えてしまうのは、少なくとも何百年・何千年といった単位にもなり、到底計り知れないが、その前提は本としての形が、幾数年経とうとも、存在し続けていればの話だ。いずれにしても、故意に本を跡形もなく粉砕しない限り、または私の寿命を迎えるか、何か外的な働きによって死ぬまでは、恐らく残り続けるの事に確信は持てた。
その瞬間、頭の中で無意識に描いた時、この本の行く末を私は見れないことを悟った。そして、ふと思い浮かべたその情景にを目の前にして紙の上で走らせる手の動きがピタリと固まった。しかしほん少し、ほんの一瞬だけ手を止めていただけで私の手にもつインキの切れないペンの筆先は再び紙面上を走り出した。考えていることの時間を私は直ぐに書く時間に戻ることにしそのことだけを専念するよう頭に叩き込ませていたからだ。私の座っている周りには卓上等の類は一切無かった。窖の奥に横になる敷物みたいな平べったくなった岩の集合体以外、惨めなほど何もないのだ。地面の砂もその岩で砂を押し退けて使ったものもあった。窖はなかなかの広さだ。大人十数人ほどギュウギュウに敷き詰めるぐらいだ。天井とも見える瓦礫が重なった梁は中央から側面に沿ってなだらかな円弧上になっており、さながらドーム形状にも見て取れるが形は幾分か不格好で建築美術にそぐわない形になっていた。窖の入口は若干幅も高さも狭く入る時が少しくぐって入る厄介さも持ち合わせていた。入口が少々狭い分仲は暗く感じに捉えられやすいと思うが比較的に中は明るいのだ。原因は針とガレキに塗られた特殊蛍光色が大気中のチッ素に反応して発光しているからだ。しかしながら明瞭とは言い難かった。ここ一帯のチッ素の割合がどうなのかはわからないがほのかな明るさと薄暗さが持ち合わせている空間だと言えた。だが目を使わなくても文字を書くことはできた。筆先で自然と書き続ける時に目で追っていく必要すらないからだ。私の思ったとおりの文字がそのまま筆先に伝わって紙面に写し出された。もう私の意思も思考も関係なしにひとつの機械のように腕だけが細かに動き続けた。もはや自分が誰なのか、名前すら判らなくなるまでこの行為は続いていくのだ。やがて日が沈み光を失ってガラクタの山の中が暗闇に溶け込むまでなのか。それとも私の体力が限界にまで落ち込むまでなのか。その答えを導き出せる根拠が今の私には無かった。
繁栄と滅亡の周期は絶えず同じ周期に沿って繰り返された。
今の地球を一年として例えるのなら人類が誕生したのが12月31日の大晦日23時59分59秒だとしたら、次の新年に人類が果たして存在しているのか?
もしかしたら、1月1日、0時を回った直後には既に消えてしまっているのかもしれない。それは誰にもわからない。無論私もその一人だ。
私はたった一人でここまで生きていたのではない。何十何千、何万という命のやり取りの中生まれてきた小さな一つのしるし。
そのたった一つでも、すべてを動かす大きな力になれるとしたら・・・・。
*
1、無名作戦
私はある一室にいた。正確には一室ではない上にここは屋内ではなかった。詳しく説明するなら羽布の様になだらであるが古い化石燃料から抽出され、薄く伸ばされた合成繊維の羽織を骨組みにかぶせた天幕の下にいた。その天幕の中で私は軽く両腕を体の前方で組み、目の前で広がる光景を見ていた。それは景色ではなかった。私の目の前にある天幕の脚と脚の間いっぱいに広がるようにして展開してある巨大なスクリーンを見ていた。そのスクリーンにはある映像がリアルタイムで映し出されていた。ある一室のある角度から写し取っている映像だ。私はそれを眉をぴくりとも動かさず注視していた。私の他にも目の前のスクリーンの映像を見ていた者がいた。私の後方役1mに並列にして規律正しく立っており直衛任務に就いているハヤシダとモリダ。4つある天幕の脚の一角の隅で巨大なスクリーンの制御‐とは言ってたものの複雑な制御ではなく映像、音声の乱れを修正する程度だ‐を淡々とこなしそのスクリーンにすら目を向けず、小さな機械を弄り回すサダチ。そして私の横に立っている若者だ。若者の名前をとんと忘れてしまったことに私は今気がついた。ここに向かう途中に軽い自己紹介を伺っておいたのだが若者には悪いが私は全く耳を傾けずにほかのことに気を紛らわせていたのだ。私が申し訳ない気持ちでいる中、名前の出てこない若者はそんなこと察するような素振りも見せずに平然と目の前で広がる映像に目をしっかりと向けていた。
ふと、私は自分の後ろに立つ二人に目を向けた。二人とも同じ形同じ色の服装をしていた。彼らは軍人の部類だ。暗緑色ただ一色で塗りつぶされた上下の出で立ちで腰に拳銃とその予備の弾倉。その他の軽い武装と保護具に身を包んでいた。頭には複雑な分子構造で組み合わさった軽量複合素材のメットを被っていた。このメットは同じ大きさの鉄よりも軽くそして鉄より比較的硬い構造だ。そのおかげで長時間の作業でも苦にならずあの二人の様にずっと同じ姿勢でも耐えられた。ハヤシダとモリダは同期であり、私より2つ3つ年が若い。幼い頃から同じ区画育ったためか妙に似たような気に合う二人だと私は他の軍人が喋る会話に耳を傾けたことがあった。私はそれを聞きながら確かに、と心の中で同意した。私も二人と同じ区画にいた人間であったため子供の頃、二人がよく一緒に遊んでいたのを目にしたことを思い出したのだ。二人はまさに親友同士だ。区画とは私が住んでいる場所の名だ。ここより北の500キロ先にある巨大な建造物の中に収められており、その中に区画が16箇所に分けられている。その区画の中でも100~200近くのコミュニティーが形成されていた。その中で私と二人は知り合った訳だ。だが、私もそんなに二人の事を知っているわけではない。彼らをちらと見かけることもあったがそれほど意識していたわけでも無くやがて私は区画から離れて上流区画に行ってしまったので、二人が軍人として私の目の前に現れた時、思い出した程度だった。それは二人とも私と同じ反応だった。同じ区画、同じコミュニティーの中であっても私たちは親密になることはなかったからだ。そんな思いを巡らせ間もなく二人から視線をはずそうとするとハヤシダの胸のポケットには妙に膨らんだものがあり無線通信かもしくは煙草だと私は見て思った。だが二人して片ポケットに同じふくらみがあることに気がつきタバコの類だと確信しながら私はスクリーンの方へ顔を向き直した。
その間に天幕の隅でゴソゴソと背中をこちらに向けて黙々と作業を続けているサダチに一瞬だけ目をやった。サダチは体格に似合わない少々オーバーなコートを羽織り外部から何も見せたくないような雰囲気を漂わせていた。一瞬しか目を向けていたかったのでそれ以外の詳しい状況はわからなかった。そもそもそんな隅の事より眼前に広がるスクリーンの様子を伺っていたかった。この他にもハヤシダ、モリダのような軍人は天幕外にもちらほらと見受けれた。それにサダチほどではないが学者や技術者らしきの関係者も少なからずその場には居合わせていなかったが、スクリーンの映像が流れるまでは天幕の近くにはいた。ただいまは少々離れたところでサダチと同じような仕事を行なっていた。私と言えば屋外での作業だと事前に知らされていたので外で動きやすい格好でこの場に伺ってきた。スーツとまではいかない比較的軽く作業性のある服だ。靴も動きやすいよう運動靴で赴いた。事実私のように事前に告知されていた者は皆服装にこだわってきた者は少なかった。隣の若者はというとびしっとしたスーツ姿であるが若者にとってそれは苦痛として感じていない様子だ。私は若者の姿をふと横目にしながら再び視線を下のスクリーンに戻した。天幕の中は少々薄暗い感じだが‐目の前のスクリーンが外の光を覆い隠しているのは確かだ。‐全く前の様子が確認できない程度までではなかった。スクリーンの映像ははっきりとしていたし耳に届く音も不快に感じなかった。恐らく天幕の隅、サダチの処置が的確ということだ。
スクリーンの中で映し出された映像はは屋内の一室だが中の様子はここより明らかに暗かった。黒ぐろした部分からぼんやりと光を放つスタンドライトがその部屋の広さを物語った。スタンドライトは深い茶色をしたこの時代では珍しい木目調で横長な木造の机の上に置かれていた。机の輪郭だけはライドの光によってうっすらとスクリーン上に映し出されていた。恐らく映像をとっている場所は天井だろうと私は予測出来た。スタンドライトの明かりは前より弱々しく見えるが天辺がくり貫かれた円錐状の笠の下から光が漏れているのが分かった。天井と壁の四隅の境目にカメラが仕込まれていることが判断できた。ライトの光でかすかにわかる机。その机に添えてある物の輪郭だけが見えた。椅子だ。詳しくわからないのでどんな椅子なのかは見当もつかないが恐らくは机に似合った椅子だ。その椅子ののような輪郭の上。ぽっこりと浮き上がった影があった。人だ人が椅子に座っているのが分かった。だが、これでは誰が誰なのか全くわからない状態だ。私はサダチに向かってスクリーンの映像を明るく出来ないのか聞いて見ることにした。
「室内自体を明るくすることはできません。ですが映像を明るく見せることはできます。」淡々とした調子でサダチは答えた。そして「ですが映像が白っぽくなりますがよろしいですか?」と、付け加えてきた。私は少し思案し、白く見えるのは構わないが白さが目立たたない中間の位置で合わせてもらえないかサダチの方を向いて頼んだ。サダチは少しもぞもぞ体を動かしたらと思ったら「これくらいでよろしいですか?」とそつなくこなし淡々と冷やかに返してきた。私が再びスクリーンへ顔を戻すと確かに先ほどより幾分かマシに見える形まで改善された様子に映像が変わっていた。ハヤシダとモリダはその変化にさほど驚きを示さず、じっとそのままの姿勢を保ち私の隣に立つ若者も同じくなんの反応も返さず、只じっと目の前の映像から目を離さずにいた。私は小さな声でありがとうとサダチに向かって言った。サダチは聞こえていたのかどうかわからないが、さほど変わった反応も示さずゴソゴソと分厚いコートのすそを小刻みに動かしていた。
正面へと振り向く。映像を見るやいなや、早くも変化が訪れた。
スクリーンの先からノックの音が聞こえた。三回。規則正しく叩かれた音に椅子に座っていた人物は気づいたのか、その姿を私達の見る映像の元に姿を映し出してくれた。それに合わせて先ほどスタンドライトのみだった光源以外の他の証明が瞬時に焚かれる。映像から見て部屋の奥側、壁沿い一杯に展示されている巨大な水槽からだった。おそらく観賞用であろうその巨大な水槽から滲み出るようにして、群青色の発光源が水面を透けて浮かび上がってきた。四方をガラス張りで敷き詰められており、淡い光源から織り成す幻想的な空間が、密密にその部屋を充満していた。水槽の中にはいくつかの動く物体が見受けられるが、それが何なのかは私には判別できない代物で、時折水槽内を散策するようにピクピクと動いては、循環器の出す小さな泡に見とれては空中を浮かぶように優雅な泳ぎを見せてくれた。水槽からの淡い群青色の光が部屋全体へと流れるように表れ、室内の様子が一層変化を見せた。それに加え、視界が明瞭に確保できたため、青いコントラストの掛かった机からはその一室が相当の身分の持つ人物の所持する類である事が認識できた。
「代表・・・、これをご覧にはなりました?」
そう言って男は手早く電子版の中からファイルを一つ抜き出した。薄い緑色で外装を施されたそのクリアファイルには、中にいる何者かの多大な存在を必死隠している。そしてそれが『情報』ではないなどとは言わせない、内側からの威圧感を引き立てていた。
薄暗い部屋のせいでファイルの存在価値はより一層引き立たつように、芸術品といわれるほどの美しさまで見受けられた。
男の瞳は誰にも流される事のなく、惑わせる事もできない一遍の曇りがない目の奥に、代表の姿がぼやけるはずも無く、くっきりと映し出されている。
その瞳に写る姿は部屋の中心に置かれた机の椅子に座っている代表。と言われた中年の男性からはそんな貫禄も威厳さえも見えない。
男は代表の考えなど聞こうとしない姿勢で、手に触れるか触れないかの距離でファイルを移動させ代表の前に突き出した。
無論、無言のまま。
「なんだね?」
代表が訝しげに聞く。薄々分かっているが、あえて聞かない。
これが何なのか、どのようかものか。そんな答えは聞かずとも出てくる。
「ご存知でしょう?今、この国で頻繁に蔓延っている突発性ヒトゲノムウィルス。通称『ESP』の独自機構機密文章の一部です」
予想通りというか、決まりきった台詞なのかどことなくこれはビジネスのような感じがした。ある意味刺激的な発言でもあるが、幾度となく聞き飽きたか言葉にも受け止められる。曖昧な記憶とその性格のせいかもしれない。
用は単純な事だ。凌げばいい。
「機密文章? そんなもの、そうそう君の手に入るはずが無いだろう・・・。バカらしい」
フンと鼻を鳴らす。
反射的に使った受け答えの割りには型にはまったものだと自画自賛してしまう。そんな思考が次の後悔に移ることを誰が予想しただろう。
苦笑いもそれまでだ。そう言っているかのように、男は徐にファイルを開き、中身をその空間にぶちまけた。その途端代表であるはずの、目の色が変わった。
「代表、今の世の中情報には一遍の価値も見出せない。例え中身が重要だとしても、そこら辺のゴミとはてんで変わらない。これぐらいのデータはわずかな権限を持った私でも・・・容易に入手可能です」
映像化されたデータが代表の目の前をひらひらと海月のように漂い、四散した。ブラインドから差し込む月の光が粉々になったカケラを星屑に変え照らす。本体となるファイルとの伝達信号が無ければ、散りばめられた情報は空間に溶け、消えてしまった。
*
「何をするか!!」
椅子から立ち上がり、代表は消えた情報のカケラを両手を使って空をかきむしり、必死に掴もうとする。その困惑した様子を男は不敵な笑みを浮かべ、ただ見守る。そうしていると代表は男の視線に気づき、怒声を発する。
「何がおかしい!! もとはと言えばお前の責任だろう、何とかしろ!!」
「代表、少し落ち着いていただけますか? そうすればすこしは今の幻覚もすぐ解ると思いますが・・・」
まるで飼い犬に“待て”の命令をするかのごとく、男は代表の怒りを静めることにした。こうカッカされては、進む話も進まぬ。代表は男の行動を見て更に憤慨したが、次の指示を受けた後、代表の興奮状態は治まった。男は左手を盆を乗せたように手のひらを返した。すると先程四散した機密文章のファイルが元に戻っている。
「どう言う・・・真似だ?」
代表のキョトンとした姿を見て、男は更に失望した。こんな奴の下で5年も勤めた自分がどうかしていたかに思えたからだ。まあ、これも仕事のうちだという言い訳に覆えば、すこしは気が楽になるが・・・。今はとにかく・・・
「あなたが世間に・・・いや、特に情報に対して閉鎖的な考えをお持ちであることは十分理解に入れ、貴方の地位を今まで私が守ってきたのはご承知のはずです。ですが、こちらからの意見としてはせめて、せめて最低限の知識と共有を守ってほしかった。それが・・・、私の願いでもあったのです」
再び代表の怒りがこみ上げてこようが、関係ない。“事”は既に始まっているからだ。今の内に言いたい事を言っておかないと、気が晴れない。
・・・、随分と小心者になってしまった。
「何が言いたい・・・何がしたい・・・、お前は私に何を求めているの!!」
幾数分の間の後、男は口を開いた。
「代表に確認して欲しかったのです」
ファイルをもとの電子版に戻しながら、事を告げる。
「その・・・機密文章のことか」
再び椅子に腰掛けながら、男の言い分を聞く。
「その通りです」
「それで、私の目の前でマジックなどして、一体何が解ったのだ?」
代表は顔の前に手を組んだ。理性でも辛うじて保とうする意思の表れだろうか。その理性も全く塞ぎ切ってない御様子だ。
手が震えていた。
「代表。貴方が最後にこの情報を知った“時期”がです」
「何?」
「代表にはこれをかつてこの国を死滅まで追い込んだウィルス『ESP』の機密事項文章として認識させていません」
獲物がエサに食いついた。
「どういう事だ?」
目をそらし始める。
「これをご覧ください」
そういって男は確たる証拠を否が応でも視界に入るように代表の前に突き出す。
「これは・・・・!!!」
再び立ち上がる代表。額や手の甲に汗がにじみ始めた。
「貴方の目の前で散りばめた、本当のファイルの正体です」
「ば、馬鹿な。確かにあの時は・・・?!」
顔を横に振り、その時の場面を振り返る。彼のいう幻覚の中の行動だとしても、それはありえないほどの衝撃だ。そんな代表の姿を見ながら、男は話を進める。
「これは貴方がこの会社の取得利益を改ざんした複製情報です。代表・・・、私は今まで勘違いをしていました。代表が5年前突然外からも、そして内側からも情報を全く共有しない事に、これまで前者のファイル、つまり機密文章が問題だと思われました。そんな大事な情報持ってかれてでもして世間にバレてみしたら、とんでもない事になりかねませんからね」
代表は何も言わない。いや、言える言葉が見つからない。
「ところが、それが違うと分かったのはつい先程の行動です。引っ掛けとして作っておいたファイルを壊される幻覚を見て、貴方はなぜか困惑した。不思議ですね、わたしはてっきり『ESP』がダミーかと思いましたから・・・」
何故でしょう? そう問いただす顔で男は代表の顔を見る。情けないほどの焦り、汗、目の泳ぎっぷりが、彼を窮地に立たせる。
間抜けすぎだ。
「それは誰だってそうだ。会社のデータを壊されたくはない。困惑するに決まってる!!」
やっと口に出した言葉がその程度。やれやれ、もっとマシな言い訳でも思いつかないほど怯えているのか。張り合いがまるで無いが、容赦なく潰しに掛かった。
「そうです。でも、本当の目的はそうじゃなかった。貴方今まで影武者として堂々と会社のファイルに添付していた、『ESP』の機密文章こそが、改ざんデータの根城だったわけですよ」
言い終わると同時に代表はこちらに向かって突進してきた。中年太りの肥満代表か。
「そんなものクズ同然だ!! 情報改ざんなんぞお前には容易に出来ることだろうが!! だ・・・だいたい、お前がこの私を脅してどうするつもりだ?!」
クズ同然はあんただ。そう吐き捨てる台詞も言わぬまま、男は素早く代表を壁に押し付け、腕を押さえる。ミリッと言う音に代表は声にもならない悲鳴を上げたが、更に壁押し付けられて、息ができなくなった。男はその間に胸ポケットから拘束具の一種を取り出し、代表の両腕にはめる。
「う・・む、ぐはぁ!!」
一旦男の手から離れたが、拘束具は自分の腕を締め付けるどころか、急に重量を増した。バランスを崩し、床に何の支えの無いまま、倒れる。顔から行ったせいか、鼻の骨が折れ、出血し始めた。薄暗いカーペットに、黒い水が溜まりはじめる。
「ぬ・・・む・・・。このようなことをして・・・・、只で済むとは思うな!!」
減らず口だけは消えない。それがここでのシステムなら受け止めよう・・・、だが。
「安心しろ。そんな権限なんぞ今のお前には無い。たった今、あんたの特別処分が決まった」
「何だ、ごほっ・・・と? 特別処分・・・。ま、まさか!?」
「『コード』。あんたほどの井戸の蛙でもこのことは分かるよな? なんせ一番注意しなくてはならない相手だからな」
ブラインドの掛かった窓からまぶしすぎる光が差し込んだ。さっき呼んだヘリでも到着したのだろう。アソウ、少し目立ち過ぎ。
「お前が・・・お前がそうだというのか?」
「それを聞けるのはブタ箱に入ってからにしておいてくれ、代表。」
正面の扉から機動隊が一斉に突入してきた。臆病風にふかれっぱなしの代表は、「ひいぃ」と完全な敗北宣言。
「本日付を持って、貴方の職務、及び権限を剥奪。逮捕します」
大音量で流れる警告と現場の取り押さえ。サイレンがけたたましく鳴り響き男一人の終劇となった。
*
潜入捜査の終えた建物を遠くから眺める。周りから見て随分とこじんまりとした古い建築物が良くもまあ五年間も、外部からの進入と内部崩壊を持ったものだと逆に感心してしまった。
周りを見渡す。さっきまでいた現場は「KEEP OUT」と表示される黄色の粒子ケーブルに囲まれ、野次馬と報道者の群れはいないここは少し落ち着く。
過去のニンゲンからはおおよそ社会人のスーツとは見えない格好をしているコトギは数分前にいたあの建物から何の意欲も向かない無謀にも続く野原を一人で歩き、横切っていた。
旧市街に建つ建造物の殆どは、既に生活資材さえも撤去され荒廃した物言わぬ場所となっている。それでも“保護膜”の範囲ぎりぎりに入るこの場所で、居住者の資格を持たないヒト達が、スラムを形成し暮らしている。
だが、政府から捨てられ保護もないこの地域、人が住むためには生活の糧が必要となる。そんな問題を解く鍵こそが、先程の馴れ合いというわけだ。法的機関を通すことなく、「コード」独自の支援機関を設けて、この問題に全力で取り掛かる訳となり、その責任者がアソウという男に任せられた。
特別行動技術支援部―
政府から独自の行動と開発を許可された、言わばこの国の治安組織でもある。組織構成さえ今の状態では確かめられず、本部・支部共に場所は不明。上にたつニンゲンや、組織を制御下におく強大な政治勢力もバックもいない。各部署がそれぞれのリーダー(主任)を中心に活動し、定期的な連絡もとらない完全独立機関となっている。
“幽霊部隊”とか、“ゾンビの群れ”などと、周りから見ればそんな大した事ない組織、いや、死人同然の見方と見える酷い扱いになっている。
そんな噂もある中で、5年もここの監視を続けている間、都心部どころか市街地さえ入場不可とされては、お手上げだったがやっとあの男に文句の一つ言えると考えただけで、足の進みが速くなる一方だ。
更に歩くと支部の仮設テントが視界に入ってきた。今でも旧式なファイバー製の張りテントの屋根部分に、警告みたいな赤色で示されている「特九部仮指定所」が無駄な配慮に見えてくる。
赤文字でデカデカと示されている通り、我が埃っぽい支部は「特別行動技術支援、第九開発部」となっている。いわば「生活支援のために日々開発に精進し、寝る間も惜しんで皆様の幸せの為に頑張っています」のような組織だ。
だからテントは旧式。支給される物資は殆ど使い回しか、使用済みの物が大半となっている。ギリギリの生計をやりくりしながら、必死に生きる者を援助することに、テントの前で一遍の同情をしたのがそもそもの間違いだと気付くべきだった。
「コトギ! コトギ!!」
誰かが、自分を呼んでいる声がしたが気のせいだ。それにしても人の多さには鬱陶しかった。やっとゴミみたいな仕事からはずされるってぇのに・・・この空耳だ。何かしらの不安が頭をよぎり、この時さっさとこの場から立ち去っておけばと今思い考える自体遅すぎる。
「アソウ主任! コトギさんならここにいらっしゃいますよ!」
いらぬお節介が首を突っ込む。下がりなさい新人、そうしている内に呼びかけに応じて某本部主任がこちらにやって来た。
あ〜あ。来ちゃったよ、アソウさんが。
昔の制服とは形がだいぶ違うかも知れないが、アソウの服装は何となくだが古着の様な感じだ。上はワイシャツみたいなボタンの無い下地を着ていて、その上からは何やらごちゃごちゃとした彩色が施されているパーカーを羽織っている。下は変わって黒一色のビジネスズボンを穿き、革靴に似せたこれまた古い靴を履いている。
これに伊達眼鏡と帽子でもかぶせれば、単なる仮装パーティの衣装に変わるのだが、今の世の中、この格好が仮装になるのは数億年前の『過去』を見つけるより困難な課題にも見える。
「言っとくが、また手伝ってくれは無し・・・です」
近づいてくる主任に宣告しておく。こうして置かないと、知らないうちに変な捜査担当に廻されてしまうから怖い。ついさっき終わらせた事件も油断した隙にやらされたものだ。
まあ、逆らえない事情もあるのだが・・・。
「違う違う、ねぎらいの言葉を言いに来たんだ。御苦労様、今回君の活躍で上からの評価も何らかの変化があるはずだ」
―ランク付けは御免だ。というか、アソウの態度がちょっと違う
コトギはそう心の中で吐き捨て、アソウの変化を不気味にも思った。
「騙されねぇぞ。5年間のブランクをどう埋めるか知らないが、また俺に変な事持ちかけるな」
こうやって放って置くのが一番。ここの支部に廻されてロクな事がありゃしないのだから。手を使ってあっち行けと某主任に指図。が、金魚の糞如くここで簡単には取り外せないこの男。
「何も五年間暇じゃなくて良かったじゃないか、暇があれば別の捜査に同行できるし。それに、社会勉強にもなっただろ? ほら、一応民間企業だし。あそこ」
やっぱり様子が変だ。話し方や接する態度もまるっきり逆。気持ち悪い事もあるので少し挑発的に返してみた。
「はっ!! 5年も時間かかってこちらに得られたものはそれだけか? ・・・大体、捜査期間の間外からの情報を受け付けないあそこに、何の社会勉強だ。それに、あれだけの立証であのデブが堕ちるとは思わない・・・」
勿論、これも実技演習の一部であり、会話の内容も全て記録されている。その為、終了時の合図まで、解散は不可能だ。アソウもそれは分かっているはずだが、何故か必要のない会話を続け、テントの中まで誘導された。
テントには主に簡易机に通信機器と現場周辺の地形が映像として表示されているが、使う事はなかったのだろう。万が一の備えだろうか、周りにうろつく武装した機動隊が気がかりだが・・・。
治安機動隊の一部がこちらに同行しているのだが、ある意味、「監視」と同じ立場にもある。我々の支部に極わずかな異変さえ見つかれば、速拘束・射殺の許可もやむ得ない。
「“彼ら”の目が気になるかい?」
こちらの行動を随時窺いながら、無意味な会話を執拗に迫ってくる。止めて欲しいものだ、何処かの報道陣じゃないんだからいい加減人の心理を突き止める尋問は無しにしろ。
「話の内容がそれてますけど、ようは何が言いたいんですか? 結局、まとまった要点は聞かされていないってのに・・・」
「それについて心配は要らない。君のつかんだ情報は大元の根っこにもなりゃしないからね。大部分は上が握っているよ」
アソウの話も一向に止まらない。先に持ちかけたのはこちらだから、何もいえない。
―御偉い様方の尻拭いをさせられていたのですか、俺は。
「御疲れ様です。どうぞ」
支部内の関係者とも思われる人からコーヒーを渡されたが、断った。そんな泥水、飲む習慣なんざございません。気まずそうにコーヒーを持つ手を引いたが、すぐさま後を憑けて来る豹変アソウがカップを取り上げ、助かったよ。と一言漏らす。
「上が持ち出した情報が当たりですか・・・」
粗末なパイプ椅子に腰掛けた。業務用品にはほとんど経費使わないな、此処。それより、さっきのコーヒー、前は何処にも無かった筈なのに。いや、また新しい「過去」でも探し出したのだろう。
主任は立ったまま話し続けた。カップの中身は既に底の面が見えていた。
「だけど火種は君だ。その事は偽りのない真実だ」
「用は結果なんでしょう? 上が言えばこちらはお手上げ。それと、あそこはどうなるんですか?『経営者』がいなくなったら―」
「あの会社の正体を見極めていなかったのか? コトギ」
言葉を遮られ、同時に内側から怒り浸透。アソウの顔を睨みつけ、泥を引っ掛けるように少し大声で喋る。
「5年間持った理由でも聞きたいかは意図は掴めませんが、大体は掴んでいますよ・・・。バックアップの為にあそこを利用した“母体”がある。で、それについては少しは尻尾を掴んだのか、“そちらサン”のほうでは? 俺をあんな所で泳がせておいて、何も無かったなんて詰らない言い訳なんて聞きたくないですからね」
主任は落ち着いていた。いや、こちらが予想通りの反応を示したので満足しているか、よく分からない。全く、この人が人の選び方の極端な傾向が現れた一面だ。自分の思い通りに行かないときは相当やばい。
「掴めたさ。だいたい狼藉からデータをハックされなかったほうもおかしい。まして大手企業が守る価値もあそこにはないし、誰も手を付けないのも変だ」
「代表はそんな状況さえ知り得もしなかったですが・・・」
伸びをしながら補足をつける。椅子の支柱が鈍い音を立てた。と、すぐさま前に座っている通信係の女の子が急にクルリと振り返る。壊したら承知しませんから、そう鋭い目で訴えられた。
「彼女を怒らせないほうが良い。こちらまで火の粉が飛んできそうだ」
ボソリと釘をさしてくるアソウ。
「そうですか、せいぜい気をつけます。それで終わりですか?」
やれやれと思いながら立ち上がろうとした途端、肩に不意打ち。滑る様に再びオンボロ椅子に座らされ、聞きたくない悲鳴もまた聞かされた。次が限界かもなんて考えたくもないぞ。やったのは俺じゃない、アソウさんなんだからな!
「がっ!? ちょ・・・えっ?」
「そう焦るな。次の話で終いだ」
口調も目の色も変わった。おふざけ、というより実技期間もとっくの昔に切れていたのか。なら、“いい加減”敬語使うのも飽きた。
「ねぎらいはもう無しか?」
「そう、ここからはまた仕事の話だ。先程話した“母体”となる組織の潜入調査・・・、そして壊滅する事が今度の君の仕事だ。今から48時間後に捜査を開始してもらいたい・・・。質問は?」
「その『組織』の大きさは?」
相手の事は入り込めば分かるが、一応知っておきたい。小心者の弱みがまたここで這い上がってきた。目の前の男はこの事に気づいてるに違いない。
「組織自体規模が大きすぎる・・・。故に、大小で区別できるレベルではない」
「まさか・・・、最近住民居住区を頻繁に襲撃している奴らのか?」
―お前達ニンゲン共に何がワカル!! コノ荒廃した土地で、ドレホドノ苦痛と恐怖に怯えてヒッシニ生きてるワレワレノヒツウナ気持ちが!!―
「それと統制しているのなら間違いなくそうだ。反日本政府組織『ハモク』。今回、できれば君自身の命も掛けほしいほど最大の潜入捜査だ」
「できればね・・・・。潜入機関は? どうせ長いんだろ」
「捜査期間は無限。いや、君がその手で終わらせるか、命尽きるかで仕事は片付く。経費は自由に使っても構わない限りなくゼロに近いがね。通信手段は傍受されない限り、自由に使っても問題はない。但し、他国の諜報部員が組織に潜入している場合、そちらの判断で任せる」
―その場で始末もやむ負えないか・・・
コトギは無理に繕う事はしなかったが、アソウはコトギの表情の硬い事に気づいた
「気が向かないのは構わない。だが、私情で捜査を怠ってもらうのは好ましくない。それに諜報員がこちら側の最重要データを本国に持ち帰らせたりしたら、どうなるかは分かるな?」
「最良の処置をとれってか?」
わずかに痛む肩を慣らしながら、コトギはゆっくりと立ち上がった。今度は抵抗がなく、立ち上がるまでアソウはジッとこちらを見つめたまま何も言わなかった。
「君はこの5年間で、能力に十分磨きがかかったと思う・・・」
「何処の台詞だ? そういつは」
あのまま失格の印でも貰いたかったものだとばかりに吊り上げる目でアソウを見た。記録されようが知った事か、あと1日とちょっとでここから出て行くのだから。
「あんな“演習”で実戦に立てるとでも思っているのか? それに、こんなおきそうにないシナリオまで用意させて・・・。どう見ても政府の公認じゃないなこれは。あんたが仕組んだ事だろ? そういえば出世してましたねアソウ主任反論の処置でも」
そうだ。これは全て“肩書きの訓練”にしか価値がない。それほどまでに自分に対してこれほどの信頼を寄せるこいつの世間知らずのなさに反吐が出る。この世の中、昔みたいに上手くはいかない。
「下で動くお前が言えることではない。演習といっても十分な実戦教育だったはずだ」
「“現実”を知らねぇあんたが口を出すな。俺は、あんたら『ニンゲン』とは違うが、『記憶』と『経験』を持っている。まあ、そんな奴今じゃ一握りだしな。それだからだろう? 俺みたいな奴をここに引き込んだのは」
さらに声を出す事に熱が上がり、周りのニンゲンが動揺し始める。この支部唯一の人工体があの主任と大事があったのは今に始まったわけではない。5年前、二人の中でいざこざが起きたときも、ただで済むものではなかったからだ。
誰もがそう感じたとおり、アソウが目の前のコトギの胸倉をつかみ引き上げたが、コトギは何事もなかったようにその手を払い、アソウを思いっきり殴りつけた。到底自然物とは思えもしない草地に、アソウの体は投げ飛ばされた。
咽たように咳き込むアソウの姿をコトギは何も言わず軽視している。やがて落ち着きを取り戻したアソウが口を開く。
「その『記憶』も『経験』も、君が用いたものじゃない・・・。もはや、過去の遺産だ」
立ち上がるアソウ。何事も無かったように振舞う、周りのニンゲン達が虚しいほど滑稽だ。
「それの遺産とやらに必死にしがみ付いているのは何処の馬鹿だ・・・」
捨て台詞を吐き、その場から出ようとするが、ここで武装部隊の一隊がコトギを制止する。今の行動に何らかの問題があると判断したのだろうか、武装部隊の一人がこちらを見て首を横に振った。
一遍の淀みのない空気がふらりと風を呼んだ。作られた草原、木々が葉を揺らし、作り物の音を静かに奏でる。アソウはその間何も言わず只ジッと、コトギの目を見ていた。
「説明は以上だ・・・。操作準備に取り掛かる。撤収!!」
アソウの命令に沈黙の了解、ヒトが動く。機材が撤収され、あのボロ椅子も何処かへ持ってかれた。あの子にあとで謝りに行こうと辺りを見回すが、姿が無かった。
「私が後で言っておこう・・・」
「そうしてくれ・・・」
空を見上げる。太陽が既に昇り始めていた。空の色は青。でも、本当はそうじゃない。
「・・・・・・」
“失われた500年”からはや十数年、崩壊しかけたヒトの文明は何かにしがみつく様にまた地上に繁茂した。けれど、本当の空は青色でもなく、海は澄んだ色を出すわけもない。この泥のような世界からニンゲンはまた、逃げ出し始めたのだ。