3.ロザリオに込められたもの。
あの出来事を過去のものとして割り切り、語ることのできる思い出になるには圧倒的に時間が足りない。だから本当は城になど戻りたくないけれど、嫌だと言って背中を向けることも今の私にはできない。背中を見せて逃げるのは私の性分に反する。
いまは過去を過去として受け止めることができないのだから、自分でできることをしよう。
時折思い出しては胸を痛めている現実は、やっぱりまだ過去と流せることはできないのだ。
思い出として語ることもできなければ、口にさえできない。
自分の中で納得をして城に戻ることを決めたけれど、感情というのは時にして相反することだと改めて実感した。
「サクラ、大丈夫か?」
「ん、平気。王子に心配されるなんて、私もまだまだだね」
零れ落ちた涙をぬぐう私に、心配な表情をして覗き込んでいる王子。頬に触れてきた手をやんわりと払ってみたのだが、離れる気はないらしい。いつの間にか私の涙をぬぐうのは王子の指先にかわっていた。
涙が落ち着いて来れば、優しく触れてくる指先が手のひらに代わり、名残惜しそうに離れていった。
あれから宣言通り、王子は私に前と同じ頻度で会いに来ている。今まで通り魔法を使って。
「もうロディは一緒じゃないのね」
「その必要はないと思ったが、やはりロディもいたほうが安心するか?」
その言葉に返事ができない。
どちらでも構わないし、本当はいてほしいのかもしれない。
答えを出せず黙ってしまった私に、王子が謝る。
「ごめん、意地悪を言ってしまったな」
「いいよ、別に。倍にして返してあげるから」
「それでいいよ、そのほうがサクラらしい」
倍返しが私らしいと言われると複雑なんですけど、という気持ちを込めて睨んでみる。
しかし王子は軽くかわして優しく頭をなでてくる。簡単に手を伸ばしてこないでほしいんですけどという意味合いを込めて目を細めてみるが、王子は気づかないふりをしてしまう。
大人の対応を当たり前のようにできるようになった。できなかった時期を知っているからこそ驚きが出るというもので、見ていたはずなのに見ないふりをしていた罰が当たったのかもしれない。
誰だって成長するのだ、同じままではいられない。
「髪が伸びたな」
傷んでぱさぱさになっている黒髪は一つで括れるほど伸びていた。それだけ月日が流れたという証明として、後ろ髪は切らずにいた。
できればぱさぱさの髪を触らないでもらいたいのですが、と思い見上げてみれば、なぜか優しい瞳とかち合ってしまう。
「そうだね、ここに来たときを思えば伸びたと思うよ」
「初めて会ったとき、サクラの髪は肩よりも短かった」
「高校の入学式もあるからと、切ったばかりだったんだよ。あんまり短いとお母さんが男の子みたいだからって怒るから、ミディアムボブで妥協して……」
不意に思い出す、母の声。どんな声でも懐かしくて、忘れたくないし、忘れないように思い返している。
「初めて聞いたな、サクラの母上のこと」
懐かしい声を思い出し、気が緩んでしまった。本当は誰にも話したくなかったのに。
「不意打ちを食らったから口が滑っただけ。言うつもりなかったのに」
「サクラにとって大切な思い出だから?」
「それもあるけど、違うの。だって、お母さんの声を思い出すと会いたいって、もう無理だってわかってるのに帰りたくなるから……」
記憶の中にある母は、入学式の朝別れた時の笑顔の姿。学校で突如と消えてしまったアリサと私は、同じ時間の流れであれば一年以上も姿を見せていないのだから、失踪として処理されてしまっただろう。
きっと心配している。帰ってこない私を探しているかもしれないし、もう戻らないと泣いているかもしれない。そう考えるだけで胸が苦しい。
だって私たち、二人だけの親子なのに。
やっと止まったはずの涙が零れ落ちていく。
思い出したくないのに、忘れてしまいたくないのに、どうしてこのタイミングで。
「ごめん。ごめんな、サクラ」
零れ落ちる涙はもう止まらない。不意に訪れる焦燥は気づかぬふりをしてやり過ごしていた。本当は大声をあげて帰りたいと叫びたかったのに。
だからだろう、王子が恐々としながらもそっと抱きしめる腕から逃げなかったのは。
やめてほしい、そんなことを望んでいないのにと突っぱねてやりたいのに、体が言うことを聞かない。
「サクラ、声を押し殺して泣くな。頼むから声を上げてくれ、消えそうな声ではなくて、私のせいにしていいから、不満を口に出してくれ。でないと、君が壊れてしまわないか心配になる」
そんなことを今さら言わないでほしい。優しさは必要ないの、あなたはただそこにいるだけでいい存在のままでいて。
零れ落ちた涙が私だけのものなのだから。
絶対に声をあげてたまるか、と思っていたのに、嗚咽から声は漏れてしまう。
悲しい、悔しい、辛い。こんなところで一人でいたくないよ、本当は。
ずっと思ってた、でも考えないようにしてた。
帰りたいよ、お母さん。会いたいよ、抱きしめてよ。いつもみたいに喧嘩口調でもなんでもいいから私に声を聞かせて。ここにいたくないの。
ぐちゃぐちゃな感情が涙と一緒に零れ落ちたらいいのに、ずっと胸でくすぶったまま。
でも理性が働いているのかな、王子に感情をぶちまけることができない。この気持ちを王子に教えたくない。
ここにいるのは嫌いではなくなったけれど、どうせなら家に帰ってお母さんに抱きしめられたいなんて恥ずかしくて言えない。
大丈夫だよって、優しく慰めてほしい。大好きだよ、お母さんって抱きしめてあげたい。
いなくなって心配かけてごめんなさいって、謝りたい。
でも、もうきっとできない。戻ることなんてできないよ、お母さん。
死別したわけでもないのに会えなくなってしまった、大好きなお母さん。お父さんが死んでから苦労しながらも私を育ててくれたお母さんを、いつか支えるためだけに頑張ってきた努力は、どうしたらいいかな。
つらつらといろいろな感情が襲い掛かってくるけれど、結局は終息へと向かっていく。
もう無理だって、諦めなさいって私が言うの。母を困らせたくなくて理性を律する私が、自分でこうではないとストップをかける。
泣いても意味がない。考えても無理。だから放棄しなさいって。
悪魔の私がささやくのだ。何の解決も見いだせないことに蓋をしてみないふりをしろと。
相反する感情が入り混じって心の中を乱す。まだきっとこの気持ちに整理をつけることができないのだろう。だったら、今はまだ見ないふりをして蓋をしてしまう。いつかきっと落としどころが見るかるから。
止まることのできない涙が全部王子の服に吸い込まれていく。
汚れてしまうよって言おうとしてやめておいた。きっと王子は聞こえないように振る舞ってしまうから、言わない。
子供のように最後は泣きじゃくってしまってから、ああずっと私は泣きたかったんだって気づいた。
我慢をして我慢をして泣かずにいるとその思いが胸の中で濁った水のように溜まっていく。それを洗い流していくようだ。
泣いてしまうのは負けだと思って我慢をしていたけれど、泣いてしまえば気分も幾分かすっきりしていた。
やっと涙が止まったものの、どうしたらいいのかわからなくなった。今さらながらに王子の胸の中にいるのを思い出したから。
そんな私に気付いたのか、優しい声が頭上から聞こえてくる。
「落ち着いたか、サクラ」
「ん、もう平気」
つい冷たくなってしまうのは、気恥ずかしさからだ。そんな私の感情を読んでいるのだろう、王子はそっか、と答えるだけで腕を緩めることはなく、そのうちに片方の腕が頭を撫で始めている。
「ありがとう」
聞こえるか聞こえないかくらいのかすれた声だったのに、王子はそれをしっかりと拾っていた。
優しく撫でてくれるその手を、抱きしめてくれる腕の力を、どうやら私は嫌いではないらしい。
あれ、もしかして私ってば、少しだけ絆されてるのかも?
なんて思ったけれど、それも仕方のないことのなのかもしれない。
だって、人はだれかを傷つけずに生きてはいけないのだから……って、誰かのセリフであったよね。
開き直って、前に進めばいいのだろうけれど、それをやるにはまだ時間が足りない。
「サクラ、また泣きたくなったら胸を貸すから、遠慮なく言ってくれ」
尊大な態度を作っていう王子に、泣き笑いの笑顔を見せたのは、仕方のないことだと思う。
だって王子、せっかく決めたのに私の涙などで服が濡れてしまっているよ。台無しだよ、本当に。
落ち着いて王子と向かい合うのは、実は久方ぶりである。
私のわがままから始まったあの関係は最初に会った時の再現だから、外で会話をしてさよならをしていたので、家に呼んでお茶を出すのは珍しい。
正面から王子を見ていると、確かに一年前とは違い雰囲気がだいぶ落ち着いているように見えた。
端正な顔立ちは変わりはないが、仕事が忙しいせいもあるのか目元などクマができているし、哀愁をただ寄せるような疲れた色をしているのだが、それがまたいい味を出しているように感じる。
父親の教育のせいで、まるで小学生の男子のような性格だったあれは、女王陛下のおかげで年齢に見合った言動をすることができるようになった。
立ち居振る舞いが優雅になり、口調も穏やかになり、纏う雰囲気も以前のものとは違うことを理解することはできたが、簡単に認めるのは癪だ。
本来であれば少しずつそんな王子を見ることができていれば、今の状況は受け入れられたのかもしれない。
残念ながらあの頃は色々なことを受け入れるだけの心に余裕がなかったから、逃げてしまった。
だからあの朝の応酬を私が望んでしまったから。
本来ならしなくてもいい会話をずっとしていたのにもかかわらず、王子は私のわがままに付き合ってくれていた。その期間、半年。
ここまで来るのに数日かかり、旅装で薄汚れた王子が出来上がるはずなのに、私の目のみがそれを作り出していた。変なところでチートな能力を発揮させていたために起きた、私だけの現象。
実際にエミールが見ていた王子は軽装ではあるものの上等の服装を着て小奇麗な姿だ。だから本当はエミールも王子が魔法でここまで来てすぐに帰って行っているのだと知っている。なのに会話は毎回決まったように同じことを話しているのだから、不思議に思うのも仕方ない。
賢い子だから何も聞かなかったのだろうが、本当は子供特有の根掘り葉掘り、なんでなんでと聞いてみたかっただろうなと思ってる。
だけど、もしも王子と私の会話が毎回同じだとエミールが指摘してきても、申し訳ないけれど変えられなかった。王子が了承をしたのは私と会いたいためだと思う。私がそれを強要して、王子がそれを承諾した。だからこそ成り立っていた。
あの日の再現、とまではいわないが周囲に人がいたら毎回同じ会話をしているのだから驚いただろう。
何をしているのだろうと勘ぐり、ほかの人からいろいろとうわさ話に花が咲いていただろう。でも朝の早い時間帯だったから、エミール以外に見た人がいない。
現実はもっと簡単だ。王子は魔法剣士でもあるドミニクさんの魔法によって毎朝ここに瞬間移動していたのだから、時間なんてかかっていない。実際に馬に乗ってかけてきたわけではないのだから雨風にあたることがなく薄汚れたりなんてするわけがないのだ。
なんて茶番に付き合わせていたのだろう、半年も。無関係のロディも巻き込んで。
二人とも、ドミニクさんも入れれば三人とも私のせいでいらぬ時間を使っていたのかもしれない。
って、いやいや違う違う、王子がここに来なければそんなことをしなくてもよかったんだから、やっぱり私のせいじゃないのかもしれない。
嫌だな、泣いたせいで気持ちが弱ったのかも。危ない危ない、自分のせいにするところだった。
この件に関していえば、私は一切悪くない。やろうと実行していた王子の責任。よし、大丈夫。
「そういえば、サクラに話しておきたいことがある」
「なに?」
「ここ数日の間に、城下町では不穏な噂が流れ始めている」
「不穏な噂?」
「ああ。新魔王が現れたと」
その言葉を理解するのに少し時間がかかった。
魔王、魔王、新魔王? それはつまり。
「新しい魔王ってこと?」
「そう。あの魔王よりも数倍強いという噂だ」
あの魔王ですら五人がかりでやっと倒せたというのに、それ以上の強さを持つ相手というのは、もしかしなくても分が悪い。
第一、その噂話の信ぴょう性はどうなのだろうか。
「その出所は?」
「わかってはいない。でも、少しずつ魔族が活発になりつつあるんだ。もちろん、今のところ被害は出ていないから、アリサ姫も城から出ていない」
「でももしも」
「そう、それが真実であれば、私たちはまた新魔王のもとに出向かなくてはならない」
「そのメンバーの中に、私も?」
絶対に行けと言われたら行きたくないと言いたいけど、この世界の人のためには行きたいと思う。役立たずになったとしても。
「いや、サクラは関係ないと言える立場にいるから、行かなくてもいいよ」
意外な言葉だった。王子のことだから、私のチートな能力を使いまくり、なんて考えていると思ったのに、穏やかな表情で行かなくていいというなんて思わなかった。
「一緒に行って何かあると心配だから、私たちが帰るのを城で待っていてほしい」
「そう言ってもらえて光栄だと思うけど、私も一緒に行くよ。アリサのことが心配だし、エミールたちのためにも新魔王は倒さないといけないしね」
「そうだな。できたら前回のような被害が出る前に終わることを望むが、まだ調べている段階だ。前の魔王が人間の虐殺を厭わない考えだったから、新しい魔王も同じかもしれない。現段階ではっきりとしたことは言えないが、今から覚悟をしておかないといけないな」
被害が出る前に行動に移せればいいのだが、まだ何も起こっていない今では新魔王がどこにいるのかさえわからない。
覚悟を決めることも大事だけれど、噂話に翻弄もされたくないし難しいね。
しかし、また戦いかあ。できたら二度とやりたくなかったなあ。
あの魔王との戦いを思い出そうとして、あわてて首を振る。あの記憶は忘れてしまいたい黒歴史の一つだ。
「サクラ?」
「なんでもない」
突然目の前で頭を振り出し、机に突っ伏した私に王子が驚いたようだ。でも素直に言えるはずもなく、つい子供のように口をとがらせてしまった私に首を傾げていたが、王子も思い出したのか優しい目で見つめてくる。
あれは一生の不覚だ、あの一言さえ口にしなければパニックに陥らなかったのに。
「誰でも救いを求めるのは母親だろう」
穏やかな口調が私の心をえぐる。うう、どうして自分から墓穴を掘ってしまったのだろう。
いわなければ王子も口にはしなかったはずなのに、たぶん。
「……なんで言うのよ、王子は」
きっと顔は赤く染まっているだろう。それを隠しながらも隠せず、結局は睨むだけしかできない。
「サクラが初めて誰かを頼ったんだ、覚えているよ。それに、サクラには嫌な思い出かもしれないが、私には忘れたくても忘れられない思い出でもある」
「意地悪だね、相変わらず。しょうがないでしょう、やっぱり無意識の時に助けを求めるのはお母さんなんだから」
ぷいっとそっぽを向く。
あの時、魔王の攻撃を食らいそうになった私は、思わず母を思い出し叫んでしまった。
助けてお母さん、と。
その後、恥ずかしさから力が暴走し、最終的には王子にまで助けを呼んでしまうし。とっさにアリサが抱きしめに来てくれなかったらと思うと少しだけ怖い。
不本意ながら王子にも守ってもらっただけに思い出すと恥ずかしい。魔王との決戦の時、決して近くとは言えない位置にいた王子は、私の助けの声を聞くとありえない能力を発揮しながら私のもとへ駆けつけてくれた。ぶっちゃけ、本当によくこれたよね、あの状態から。そこは感心とともに尊敬もしている。
死への恐怖は今も心にはあるけれど、もう二度とパニックになって力は使ったりしないと心で誓う。
隠し持っていたロザリオを胸の位置まで持ってくると、ぎゅっと握りしめる。そのための祈りの用具なのだから。
かつての自分自身への戒めと、未来に訪れるだろう危機に対して、心を落ち着かせることができるように。




