*目薬*
この作品はフィクションです。しかし、一ヶ所のみノンフィクションとなっております。どこでしょうか…
眼科に来てしまった。何年ぶりだろう。
絵里子は昔から視力だけはとても良かった。両目とも1.5か2.0で眼鏡もコンタクトレンズも不要だった。これといって目の病気もしたことがなかったので、眼科に来たのは小学生の時に結膜炎の治療にかかった時以来だろうか。
「角膜に傷が出来てますねー」白髪混じりの眼科医は、検査機を覗き込んでそう言った。
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絵里子は地方の小さな出版社で仕事をしていた。毎日パソコンに向かい、お決まりの原稿をひたすら打ち込んでいく。自分の目を過信していた絵里子は、何のケアもしていなかったので、急速に視力低下に陥った。絵里子のデスクから今までは、はっきり見えていたボードに書き込まれている営業のスケジュール。文字が見えない。上司に聞かれる度、とことこ近くまで歩いて見に行かなければならない。情けなかった。
でも、見えない事はメリットもあり、相手の目を見て上手く話せない絵里子には都合が良かった。今まで味わった事のなかった、ぼんやりと見える世界や輪郭しか分からない人間の顔、見たくないものは見えなくていい。見たいものも見えないけれど。敢えて眼鏡を作ろうとも思わなかった。とは言うものの、最近は目の奥は鈍痛がするし、肩凝りや頭痛も酷くなってきた。
ある日絵里子は仕事の帰りにドラッグストアーで目薬を買ってみた。それは、眼精疲労に効くと書いてある《黄色い容器の目薬》だった。帰宅する途中で絵里子は電話をかけて、バイトの面接の予約をした。「それでは、明後日の午前11時にお待ちしています」 調子のよさそうな中年の男の声が耳に残った。
今の職場も正社員ではなくアルバイトで入っているが、仕事も慣れてきたし人間関係も良好だ。不満といえば時給が安い事だった。今は実家にいるのだが、絵里子は一人暮らしをしたかった。今の仕事を続けながら、掛け持ちで出来るバイトを探していた。そんな時、友人の可奈からメールがきた。『デリヘルのバイトまたやらない?』(えっ デリヘル?)可奈とは以前一緒にデリバリーヘルスでバイトをしていた。でも、もう二度とやらないって決めたはずだった。でもお金は欲しい。(バッと稼いですぐやめればいいよね)
目薬をさすのは得意じゃなかった。うまく眼球に命中しない。絵里子は洗面所の鏡を見ながら(実際には見えないが)目薬をさす事にした。その方が何故か命中する率が高い。
「さて、寝なきゃ」最近はテレビの深夜番組にはまっていて、ついつい寝るタイミングを逃してしまい寝不足の日が続いていた。明日は仕事は休みだが、バイトの面接がある。今日は早く寝ようと思いつつも結局寝るのは朝方になってしまった。
〔ピピピピッ ピピピピッ ピピピピッ〕
携帯のアラームの電子音が鳴る。時刻はいつもと同じ午前6時45分。もう少し寝よう。絵里子ははアラームのスムーズ機能を解除して二度寝した。
「…はっ!」絵里子は目を覚ました。「やばっ 何時だ?」携帯を見るが、文字がぼやけて見えない。しばらく目を凝視させていると、午前9時38分だった。 「はぁー」
絵里子はふらふらと洗面所に向かった。胸の辺りまで伸びたウェーブの取れかかった髪の毛をシュシュで一つにまとめた。今お気に入りの固形石鹸を手早く泡立てて顔につけるとバシャバシャと水で洗い流した。
「化粧しなきゃだよね」 絵里子は呟くと面倒くさそうに化粧水の瓶を持ち上げた。
「あっ、目薬さそう」絵里子は化粧水の瓶を置くと目薬の容器を手に持った。洗面所の鏡の前でいつものように、天井を見上げ、いつものように右目から目薬をさす・・・
いつものように・・・
〔ぼ と っ 〕
「ぎ ゃ っ っ !!!!」
それは、今までに味わった事のない痛みだった。焼けた鉄串を束にして目に突き刺したような激痛だった。目が 目が 目が・・・
絵里子が手に持っていたものは――
《黄色いマニキュア》だった。手の爪にネイルするマニキュア。
絵里子はマニキュアを目に入れたのだ。
「ああ・ああ・ああ どーしよう」今の時間は誰も家にいない。一瞬、除光液を目に入れようかと考えた自分に顔がひきつった。とにかく水で流さなきゃ。絵里子はシャワーの水流を思いっきり上げて目にあてた。
痛い。 痛い。 痛い。痛みをこらえて必死にシャワーを目にあて続けた。何とか右目は開けられるようになった。しかし、洗面所の鏡に映った絵里子は黄色い目をしたエイリアンだった。
「これじゃ面接無理だよね」絵里子はデリヘルの面接ではなく眼科に行くはめになった。
角膜の傷はシャワーの水流を強くあてた為に出来たものだろう。絵里子は痛み止めや抗生物質の目薬を何種類も処方されて帰宅した。それにしても何故あんなバカな事をしてしまったのか。結局あれからデリヘルの面接には行かなかった。もしかしたら神様がいて、面接に行けないように仕向けたのか。それにしてはあまりにも痛すぎる代償だ。しばらく絵里子は黄色い涙を流していたが、やがて右目は無事完治した。
―――――――――
今日も絵里子は長時間、お決まりの原稿をパソコンで打ち込んでいく。
「ふっー 」顔を上げるとカレンダーの数字が二重に見えた。そろそろ本当に眼鏡を作ろうかと考えた。やはり、見えるものは、しっかり見なければならない。
《黄色い容器の目薬》は封印した。
黄色いマニキュアを目に入れたのは実話です。皆さん、マネしないで下さいね…するか←