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「来なさい、小梅」
目が合った小梅に向かって、できるだけ低く、ハッキリとした声を出す。甘さのない声に、怒られると思っているのか小梅の耳を伏せていた。その姿に恵は、口角が持ち上がりそうになるのを必死で我慢する。けれど小梅が足元に到着した途端、抑えこむのを止めた。
「いい仔、いい仔。お利口さんだよ、小梅」
あらかじめ外しておいたリードを首輪に装着したが、それでも安心できなかったため、逃げ出さないように小梅を抱きかかえることにした。
(よし、今のうちに逃げよう)
くるりと集団から背を向ける。だが、そのまま歩き出そうとする恵を止める声が聞こえた。
「お待ち下さい」
無視することもできない。ましてや逃げ出すこともできそうにない。恵は深い溜息をつき、彼らに向き直った。
「そのお方をお放し下さい」
男性の声だろうか。百六十㎝ある恵より顔一つ分以上高い位置から聞こえてくる、低くて柔らかい声。丁寧な言葉使いだが、声質とは違って冷たく機械じみて聞こえた。恵たちを引き止めた声は、一人だけ近づいてきていた白い服の人だったようだ。
顔が隠れているため年齢はわからない。が、声を聞いた限りでは若く思えた。フードの隙間から零れ出ている銀色の長い髪が、恵に冷たさを感じさせた。向けられている視線も品定めされているような嫌な気分になる。恵は警戒心を強め、小梅を放すものかと力を少し強めて抱き締め直した。そんな恵の異変に、小梅が小さく唸り始める。
「大丈夫よ」
恵は小梅を宥めるように抱きしめたまま、右前足をなでた。その声と手のぬくもりに安心したのか、小さく唸っていた小梅の声が止んだ。
この人たちは一体何者なのだろうか。小梅に話しかけたり、なでたりするたびにざわめきが大きくなる。小さな声だから、内容は全くわからないが好意的な言葉ではないように思える。こちらを見据えている視線が、どうしても友好的なものに感じられなかったからだ。
「ティヒア様を早くお放しなさい」
一向に動き出そうとしない恵に痺れを切らしたのか、後ろの集団の中からも声をかけられた。その声を皮切りに、同意する声が大きくなった。だが、恵には内容がさっぱり頭に入ってこない。そもそもティヒアとは誰のことだろう。この場所には小梅と自分しかいない。何か勘違いをしているのだろうか。
「あのー、この仔は小梅といいまして、私はこの仔の飼い主で篠山恵といいま……」
「なんと、恐れ多いことを!」
恵の話を遮る大きな声と、より一層大きくなるざわめき。恵には、自分の言動によって引き起こされた混乱をどう収拾したらいいのか、わからなかった。