ファレノプシス
血のつながった同性のきょうだいに恋をするというのは、許されないことなのだろうか。例えば彼/彼女がそのきょうだいからは遥か手の届かない遠くにいるとして。
私と姉は、時間の壁に隔てられている。また、生と死の壁にも隔たれている。要するに、私と姉は二度とつながることのない途切れた線上にいるのだ。
恋してもいいのだろうか? 愛しても?
五つ違いの姉は、私が一歳のときに交通事故で死んだ。虫が好きな少女だった。青虫が大好きで、両親からは『虫愛づる姫』と呼ばれていたそうだ。姉はその有名な古典の物語を知っていただろうか。
私とは違う。私はあまり虫が好きじゃない。蝶子姉さんとは名前も違う。私たちは別々の人間だった。だから余計に愛してしまうのかもしれない。
例えば彼女が生きていて、二十一歳の姉として家族の中に混じっていたとしたら、私は彼女を愛さないだろう。いや、姉として愛しはしても、今のように強く思慕したりはしない。彼女は死んでいるから素晴らしいのだ。死んでいるから恋しいのだ。
私はよく考える。交差点で白い乗用車にはねられたとき、姉の肉は美しく散っただろうか、と。普通、乗用車にはねられたくらいでは人体がばらばらにならないことは知っている。でも、想像するのだ。姉の小さな体が崩れるように散っていく様を。
私は陶酔する。姉のピンクの肉片に恋焦がれる。
この教師はどうして、口から硫黄の匂いがするのだろう。もしかしたら硫黄じゃないかもしれない。アンモニアの匂いがこんなふうだった気がする。
「それで、進路はどういうふうに考えてるんだ」
「まだ、考えてません」
私はへらっと笑った。教師はわざとらしくため息をつく。あ、やっぱり硫黄の匂いがする。歯槽膿漏かしら。とにかく臭い。公園の公衆トイレの匂いがする。
「一年生だからまだ大丈夫だと思ってるんだろうな。でもお前は成績がいいし、お母さんの血を引いてるんだろうな、国語は抜群だし、記憶力もいいし」
褒め殺して思い通りにする気だろうか。その手には乗らない。
「期待してるんだよ、俺は」
俺は、なんて言って親しみを込めた気でいるのだろうか。「先生は」なんて言われるよりはいいけれど。
「で、この問題集――」
と、教師は机の上にばっちり用意してあった難問で有名な問題集を手に持った。その途端、私は、
「あ、チャイムだ」
と言って職員室のドアに走った。チャイムは確かに鳴っている。「塩田!」と私を呼ぶ苛立った声が聞こえるが、気にしない。ただ、逃げるのみだ。
職員室前の廊下では、数人の生徒が焦って教室へと走っているところだった。その中に、私を待っていたのだろうか、さくらがいた。相変わらずスカートが短い。化粧も濃い。
「武田先生、何だって?」
「何か難しい問題集を押し付けられそうになった」
「やっぱり?」
「さくらも?」
ちら、とさくらを見る。走る彼女は茶色く染めた髪の毛からヘアコロンの香りを撒き散らしている。その匂いが鼻をくすぐる。いい香り。ジャスミンだ。
「私はどこどこの大学に行けって言われただけ」
「げーっ。横暴」
「決めてあるから平気だけどね」
きっとT大だ。さくらの成績なら、そうに違いない。
「あっ、先生来た。葉子、急ごう」
私たちはまだ廊下を歩いている英語教師がじろりと見るのを無視して、教室に滑り込んだ。
放課後になって、ようやく私たちは息をついた。私とさくらは案外真面目な生徒なのだ。授業をきちんと聞き、眠ったりもしない。その代わり、課題はあまりやらない。家でも勉強しない。塾や予備校に通わない。授業中の集中力のみで高い成績を保っているのだ。さすがにT大ともなると、上の学年に上がった時には何かしなければならないのだろうけれど。
私はこのさくらという友達を尊敬している。見た目は派手で、ちょっと肉感的な感じがありいかにもませているのだが、何事もきちんとしているし、何より空気が読める。聞いて欲しくない話をさせられたことは一度もない。本をよく読むことも、むしろ本の虫というべきところも、彼女の美点だと思う。
少し変な名前だと思うのだけど、それは私の名前が葉子だからそう感じるのだろう。私は花子と名づけられそうになって、古臭いという母の反対で葉子になった。だからなのか、花の名前を付けられている同級生を見ると少し哀れんでしまう。
「英次君とは、どうしてる?」
「ん、普通。普通にお茶して、普通に家に行って、普通にセックスしてる」
私は最後の言葉を聞いて、ちょっと苦笑いをした。それを見たさくらはにっこり笑って私の目を見つめた。
「陽一君とは、どこまで行った?」
目がらんらんと輝いている。私は戸惑いがちに、
「キスした」
と答えた。途端にさくらが身を乗り出す。
「何よ。そんなに驚くことじゃないでしょ」
私が笑うと、さくらはぶんぶんと首を振る。
「そんなことないわよ。へえ、あの陽一君がね。あの、花束の」
それを聞くと、奇妙な感情が起きて口の中が変な味になった。
陽一とは、日曜の映画館で出会った。ミニシアター系の有名でない作品ばかり見ている私は、いつもがらがらの観客席に座っていた。ある日、ラブストーリーの映画のときだっただろうか、隣に同い年くらいの男の子が掛けてきたのだ。いやだな、と思った。こんなに空いているのに隣に座るなんて。何かされなければ良いけれど。
結局、何もされなかった。だけど映画館のラウンジに誘われた。映画の話をポツポツして、一緒に帰り、帰りがけに花屋に寄って、白い薔薇を一本渡された。それだけでも恥ずかしいのに、彼はこう言ったのだ。
『塩田さん、白い薔薇の花言葉を知ってる? 純潔、って言うんだ。君にぴったりだよね』
その話を聞いたさくらは爆笑した。今時そんな男の子がいるなんて、と息も絶え絶えに言った。私は顔を赤らめて目をきょろきょろさせていた。それを見たさくらが、まさか、と言った。そのまさかだと答えると、ますますさくらは笑った。私はそれ以来、陽一と付き合うことになったのだ。
そんな話を知っているさくらは、陽一を気障でシャイで何事にも鈍重だと決め付けていた。確かに鈍重だった。よく転ぶし、遅刻するし、人の気持ちを読めないし、キスをするまでに半年もかかった。それでも私は陽一が好きだった。『彼女』ほどではないにしても、恋していた。
「へえ。あの陽一君がねえ。どんなキスだった?」
学校帰りに一緒に寄ったクレープ屋(ちなみに陽一の行きつけの店だ)から帰った時に、それは突然起こったのだった。秋の夕暮れで辺りは真っ赤で、足元は暗かった。私は今度一緒に見る映画の話だとか、さくらのことだとか、母のことだとかを話していた。黙っている陽一が不自然だった。だからちらっと彼を見たのだ。その時突然柔らかく濡れたものが唇に触れ、それから甘い匂いがした。陽一が食べた苺ホイップのクレープの匂い。唇はあっという間に離れた。
『今、キスした?』
と私は尋ねた。どきどきするよりまず驚いていた。陽一は夕暮れの赤なのか、自分の赤なのか、とにかく真っ赤な横顔で、無言でうなずいた。
「甘酸っぱいねー」
さくらが遠い目をして窓の外を見ていた。在りし日の自分のことでも思い浮かべているのだろうか。
私はキスについて、あまり深く考えてはいない。ただ、私もようやくファーストキスを済ませたのか、としみじみ思うばかりだ。さくらもそうだが、私は少々老成しているのかもしれない。陽一にとっては一大決心だったのだろうけれど。
「お母さんはどうしてる?」
不意にさくらが話を変えた。私は仏頂面で答える。
「売れない小説を書いてるよ」
またさくらが笑う。私の母は小説家だ。幻想小説というのか探偵小説というのか、エロ・グロ・ナンセンスとでもいうのか、大正時代の雑誌『新青年』めいた古臭い小説を書いている。今時『新青年』はないだろうと思うのだけれど、彼女の作品は本当に『新青年』的なのだ。さくらはファンなのだという。不思議な趣味だ。私はスマートな英米小説のほうが好きなので、彼女とは、いや母とも趣味が合わない。なんとも泥臭い趣味だと思う。
「十年がかりで仕上げた作品を公開するつもりだってさ」
「『ドグラ・マグラ』?」
さくらが身を乗り出す。私はまた笑う。本当に彼女はマニアだ。
「違うよ。そんな立派なものじゃないよ。『新青年』的少女小説、とか言ってた」
きゃああ、と悲鳴が聞こえる。ハスキーなさくらの声とは思えない黄色い声だ。
「読みたい!」
「もうすぐ読めるよ。待たずとも。なんなら家から一冊持ち出して来ようか?」
私の家は平凡な住宅街の平凡な一軒家だ。暗い夜道を一人で歩いていても、心配はない。痴漢に襲われてきゃあっと叫べば必ず人が飛び出してくる街なのだ。私は、会社帰りの近所のサラリーマンに挨拶をすると、灯りの燈った家に入った。
おかえり、とあわて気味に出てきた母が言った。妙にそわそわしていた。どこか嬉しそうだ。またこの間の本の話でもする気だろうか。私は気づかないふりをしながら、ただいま、と言った。
私と母とは二人暮らしだ。他の家族は皆死んだ。祖父も、祖母も、父も、そして姉も。どうしてこんなに死人が高いのか分からない。死んだ理由はてんでばらばらで、死んだ時期もばらばらだ。
私と母の二人だけが入っている、この五人分の家の寂しさといったらない。姉がいれば、と時々思う。姉がいれば私たちは普通のきょうだいのように学校帰りに話をしたり出来たのだろうか。そのときの家は今より賑やかだっただろうか。
今日の夕食はハヤシライスだった。母はハヤシライスが好きだ。それも、手作りではなくて、ルーから作る甘いハヤシライスが。私はそんなに好きじゃない。ハヤシライスは甘すぎる。カレーのほうがおいしい。そう考えると、自分の舌の貧しさに苦笑してしまう。
今日の母は無口だ。いつもならぺちゃくちゃといらないことまでしゃべってしまう人なのに。どうしたのだろう。よく見ると、隣の椅子が引いてある。私はぴんと来た。何かプレゼントを用意したのだ。原稿料が入ったから、勢いづいてまた何か買ったのだろう。
気づかないふりをしてやろう。私は何食わぬ顔で甘いハヤシのかかったご飯を口に入れた。
「あのね、葉子。これ、買っちゃった」
思ったとおりだ。夕食が終わって二人でお茶を飲んでいると、母は隣の椅子から透明な箱を取り出した。虫かごだ。
「やだ、虫? お姉ちゃんじゃあるまいし、虫なんて飼わないよ」
私は早速母を制した。大方庭から鈴虫でも取ってきたのだろう。私は虫が嫌いだから、いくら声がいいといっても鈴虫はお断りだった。母は慌てて首を振った。
「違う、違うのよ。これ、蝶子が可愛がってた虫なのよ」
「お姉ちゃんが……?」
私は虫かごの中をよく見た。小さなピンク色のものが中にいた。白っぽくて、羽のほうがうっすらと緑色で、カマの部分ははっきりピンク色をした、カマキリだ。きれいだ。私は思った。
「花カマキリっていうのよ。虫愛づる姫の蝶子は、お父さんにこれを買ってもらって、一番大事にしてたのよ」
「お父さんに……?」
花カマキリはカマキリにしてはとても小さくて可憐だった。ファイティングポーズをとって私のほうを見ている彼女は、とても弱弱しかった。
花カマキリだけが入った小さなプラスチックの箱を抱えて、そっと歩きながら二階の部屋に戻った。虫かごをテーブルの上に載せて、私は子供のころの本をしまってある棚から『虫の飼い方』という本を引っ張り出して、その中の『カマキリの飼い方』を開いた。
『カマキリは生餌を好みます。ゴキブリや、バッタ、トンボなどを生きたまま与えましょう』
私はうんざりした。何も、これから毎日庭で虫を採らなければならないのか、と馬鹿な想像をしたわけではない。餌なら釣具屋やペットショップで蛆虫やコオロギが簡単に手に入ることを知っているからだ。では何が嫌なのかというと、生きた虫を、花カマキリがむしゃむしゃと食べるその姿だ。生きた餌はもだえ苦しみながらカマキリの歯に砕かれていく。想像するだけで吐き気がする。姉はこんなものが本当に好きだったのだろうか。
何とかならないかと携帯電話でインターネットサーフィンをする。あった。『ハナカマキリの飼い方』。
『何も生餌だけがハナカマキリの餌ではありません。鳥のささ身や豚の赤身などを、ピンセットで生きているかのように見せながら食べさせましょう』
助かった。しかし何て面倒な生き物なのだろう。しかも高いものばかり食べる。十枚百円のハムでも良いだろうかと考えていると、他のことが心配になってきた。虫かごは本当に空っぽだ。何か置かなければならないのかもしれない。再び、『カマキリの飼い方』を開く。分かりやすい絵があって、長い草が水の入った瓶に入れられている。注意書きがある。
『枝や草など、つかまれるものを入れてあげましょう』
花カマキリなら花なのかもしれない。テレビで白い大きな花の中で擬態して、獲物をとらえている姿を見たことがある。真っ白なそれがさっと長いカマを鋭く繰り出す姿を見た時、何て美しい動物がいるのだろうかと思ったのだが、まさか自分の元にやってくるとは思わなかった。そして、そのせいでこんなに悩むことになるとも思ってもみなかった。絵の細部を見る。白いものが床に置いてある。
『脱脂綿に水を含ませて置いてあげましょう。カマキリはこれで水分補給をします』
また、面倒だなあ、と思う。毎日換えるのだろうか。脱脂綿ならすぐに乾くに違いない。毎日だ。動物を飼ったことのない私が毎日。何だかすぐに花カマキリを死なせてしまう予感に苛まれてしまう。
虫かごの中の花カマキリを見る。ピンク色の塊は全く動かない。カマを胸元で引き締めたままぴくりともしないのだ。疲れているのだろうか、と柄にもないことを考える。
「餌やるか」
私は重い腰を上げて階下に向かった。
台所では母がビールをちびちびとやっていた。私を見ると、嬉しそうに笑う。顔がほんのり赤い。酔っているようだ。
「花カマキリ、どう? 可愛いでしょ」
「可愛いけど……」
「可愛いけど、何よ」
「面倒くさい」
母が悲しそうな顔をする。
「蝶子ちゃんは喜んで世話してたわよ」
かっと頭に血が上る。
「私はお姉ちゃんじゃないもん」
「殺さないでね」
「出来るだけ殺さないようにします。ハム、ある?」
「あるわよ。でも生餌が良いでしょ。コオロギ買ってあるわよ」
さすがだ。花カマキリのことを知り尽くしている。
「ハムがいいの」
冷蔵庫を開ける。卵の下の段にハムはあった。一枚取り出し、それをぶらぶらさせながら台所を出る。母がため息をつく。
「蝶子なら生餌を食べさせるのに……」
私は聞こえないふりをした。
ハムを大体羽を広げたシジミチョウくらいの大きさに切り、百円ショップで買った、もう古い毛抜きでつまんだ。虫かごの窓を開け、ぼんやりしているように見える花カマキリの前でひらひらさせる。蝶に見えるだろうか。
淡い透明がかった色合いの彼女は、頭の上のそれに気づかないかのように動きを止めていた。
「ちょうちょですよー。肉色をしたちょうちょですよー」
頭上のあちこちでパタパタさせる。気づかない。しびれを切らして虫かごを持ち上げ、蓋を開けた。花カマキリは驚いたようにきょろきょろと辺りを見た。今だ、と目の前にハムを下ろす。カマキリは踊るハムをじっと見つめている。いつまでも、いつまでも見て、きりが無かった。もう諦めようかと思ったその時、花カマキリは唐突に両手をしゅっと伸ばしてハムを捕まえた。毛抜き(これからはピンセットと呼ぼう)を離すと、彼女はハムを後生大事にすると言わんばかりに抱きしめたまま動かなかった。そして、むしゃむしゃと小さな口元を動かして食べ始めた。
「やったあ」
私は彼女をじっと見つめた。私が食べ物を与えないと生きていられない弱い彼女。ピンク色の彼女。控えめな彼女。美しい彼女。なんて素敵なんだろう、と思った。そして私は彼女を蝶子と名づけた。カマキリに蝶と付けるのはおかしいかもしれないが、私には彼女のイメージが姉のそれと重なったのだ。
可愛い、可愛い、小さな蝶子。
私はふふふ、と声を出して笑った。
朝、学校に向かう途中で陽一と会った。彼はちょっと気まずそうに笑った。私も笑った。
「ねえ、今度またあのクレープ屋さんに連れてってよ。すごくおいしかった」
「そうだね」
沈黙が広がる。私は何の気兼ねもしていないのに、陽一はそうではないらしい。
「キス、初めてだった?」
私が聞くと、陽一は飛び上がり、真っ赤になった。それから浅くすばやくうなずく。
「私も、初めて。何か、変な感じだね」
「うん」
「照れてる?」
「まあね」
「ねえ、もう一回キスして」
陽一が立ち止まった。前を向いたまま、真剣な顔で、こっちを見ようともしない。陽一が小さな声を出す。
「えーっと」
私は彼の顔を覗き込む。耳まで真っ赤だ。
「また今度」
それだけ言うと、彼は逃げるように同じ学校の友達の中に飛び込んだ。不審に思ったのか、彼の友人が私を振り返る。そしてニヤニヤ笑う。可哀想に。陽一は今日一日からかわれるだろう。
キスして、とは言ってみたものの、本気ではなかった。第一あの恥ずかしがり屋の陽一が、同級生のたくさんいる街中でそんなことを出来るはずがない。いくら気障だといっても。ちょっと言ってみただけだ。
しばらく考え事をしながら歩いていると、すごい勢いで肩を掴まれた。何事だ、と思って振り返ると、さくらだった。
「何よ、いきなり」
「何切れてんのよ。ちょっと触っただけじゃない」
私は肩をすくめた。別に嫌なことがあったわけでもないのに、妙に苛立つ。私はさくらに謝った。さくらは屈託なく笑う。
「いいよ。ところで塩田信子先生の新作は?」
「あっ、忘れた!」
「えーっ」
「ごめん、明日はサインさせたの持ってくるから」
「それはいいけど、何かあったの?」
「何かってほどのものでもないけど……」
私はさくらに花カマキリのことを話した。昨日の夜、湿った脱脂綿を置く手ごろな皿が見つからなくててんやわんやしたことや、朝、手ごろな太い枝を、庭のイチョウの木から切り取ったことなどだ。もちろん花カマキリの餌の話をした。生餌の話をしたとき、案の定、さくらはいやな顔をした。
「やだ。気持ち悪い」
「気持ち悪いけど、ハムを動かして与えるのはすごく大変なのよね。いつかはコオロギをあげないといけなくなるかもしれない」
「やだやだ」
「お姉ちゃんも、物好きな」
私は軽いため息をついた。
でも、すごく可愛いの。
そのたった一言が出てこなかった。私は花カマキリをとても気に入っているというのに。私はこの気持ちを隠そうとしている。もやもやしているこの感情が、一体どこから来るものなのか、私には分からなかった。
ただいま、と言うとおかえり、と返ってきた。母は仕事部屋にいるようだ。そこに向かう。一階の奥、以前祖父母の部屋だった座敷は、今、母が小説を書く場所となっている。
障子を開けると、机に向かう、猫背気味の母の後ろ姿が見える。部屋はしっちゃかめっちゃかだ。部屋の両側にしつらえられた背の高い本棚にはぎっしり本が詰まっているのだが、そこから溢れた本が床に重ねられて塔を作り、未読の本もまた『積読』されて山を作っているのだ。だけど私は慣れている。私の部屋もきれいとは言えないし、さくらの部屋だって本だらけだ。ちなみに陽一の部屋はビデオやDVDやAV機器で溢れている。私の周りの人間は決して自分の部屋を『美しく』飾り立てたりしない。
「お母さん。新作刷り上ったんでしょ。贈呈用の本、一冊ちょうだい」
パソコンに向かったまま、母は手を止める。
「何にするの?」
「さくらにあげるの」
「いいわよ。あの子いい子だもんね」
「サインして」
「いいわよ。後で」
「ありがとう。あ、夜ご飯いらないよ。さくらとハンバーガー食べてきた」
「分かった」
じゃあ、と部屋を出ようとしたところ、母が、回転式の椅子を回していきなり振り向いた。
「花カマキリに餌あげといたわよ」
「どうして!」
私はびっくりした。というより突然悲しくなった。母が餌をやるとしたら、それは生きたコオロギを与えるということだろう。蝶子がコオロギを食べるという生々しい姿を、私は想像したくなかった。
母は不満そうに口を尖らせる。
「花カマキリは生餌がいいのよ。口に合わないものを食べたら吐いたり具合が悪くなったりするんだから」
「だからって」
「何よ」
「……部屋に勝手に入らないでよ!」
私は部屋を飛び出した。この間板の溝にロウを塗ったばかりなので、障子はスパン、と大きな音を立てた。
急いで自分の部屋に入ると、蝶子がコオロギを食べているところだった。頭からかじったらしく、コオロギは胴体しかない。黒光りする足が床に落ちている。小さく口をうごめかしながら、蝶子はおいしそうにそれを食べていた。
私はその光景をぼんやりと見ていた。ショックだった。だけど次の瞬間には、なんてエロティックなんだろう、という思いが生まれていた。ピンク色の小さな、私の手のひらにも満たない大きさの可憐な蝶子が、生き物を捕らえて食べている。それはもう、貪欲に。生きていく本能というものの強欲さを見た気がしていた。
最後まで食べきると、蝶子は満足そうに空を仰ぎ見た。その仕草が、雌を思わせた。
ねえ、蝶子姉さん。あなたはマスターベーションをしたことがありますか。この蝶子は、あなたの分身は、まるで自分を自分で慰めた時のように満ち足りていますよ。
不意に、さくらの声が聞こえた。笑い声だ。いや、違う。この声は幼い。姉だ。ハスキーで、大人びて、官能的な声。姉はこんな声だったのだろうか。
私はその幻聴にしばらく耳を傾けていた。
翌日、私と母は何事も無かったかのように談笑して朝食を食べた。
「花カマキリがコオロギを食べるところ、案外平気で見られたよ」
私は少し嘘をついた。母はそうだろうとうなずき、
「私も最初は気持ち悪かったけどね、蝶子が面白がって餌をあげているのを見ているうちに慣れちゃった」
「お姉ちゃん、面白がってたんだ」
「うん。コオロギはゴキブリと同じだからいい気味だ、って言ってたわ」
さくらにサイン入りの本を渡すと、彼女はまたあの、きゃああ、という黄色い悲鳴を上げた。全く、普段はひどく大人びているのに、本のこととなるといつもこうなる。
「分厚い! 読み応えありそう」
「好きなだけ読んで。さくらくらいしか読者がいないんだから」
「葉子は読んでないの?」
「読んでない」
「もったいない」
「いつか読むよ」
私は嘘をついた。母親の小説など恥ずかしくて読めない。小学生までは一生懸命読んでいたけれど、大人になるにつれて、一緒に暮らす母の考え方がなんとなく分かってくる。小説を読むとそれが随所に見えてきて、――それも奇妙な見え方をして――身内の恥ずかしさを感じてしまうのだ。だから私はもう、母の本を読まない。
さくらはぱらぱらと本をめくった。それから最初のページに目を通した。すると、表情を変えた。
「どうしたの?」
「何でもない」
本当に何でもなさそうに、さくらは笑った。
さくらはその日から、母の本について何も言わなくなった。私はそれが何故なのか、考えてもみなかった。
一週間後に母の本は売り出され、地味に売り上げを伸ばしていった。いつもよりは好調だな、と思っていた。母の本は一度もベストセラーになったことが無い。新人賞を取った時以来、母は文学賞を取ったこともない。
それがある日、母の小説が有名な女流文学賞の候補に推薦されたというのだ。母はひどく驚いているようだった。
「すごいじゃない」
母は照れたように笑った。
「一生懸命書いたからね。ノミネートされただけでもすごく嬉しい」
「そうだろうね。十年かけたんだもんね。ねえ、賞取れると良いね」
「そうだね」
母は微笑んだ。それはとても幸せそうな微笑だった。私はそれを見ながら、蝶子にコオロギをやらないと、と思っていた。生餌を鋭いカマで捕獲する。それをがっしりと抱え込み、食べる。いつしか蝶子のそんな行為が、私に快感を与えるようになっていた。
それに何より、蝶子を見ていると、蝶子姉さんの声が聞こえてくるのだ。蝶子姉さんはいつも笑っていた。
その日は陽一に会う日だったので、私はいつもの映画館に向かった。街は賑やかで、騒々しくて、粉っぽかった。雑踏のがやがやという声がうるさくて、私は耳を塞ぎそうになった。私は人ごみが嫌いだ。
「葉子」
陽一が映画館の入り口で手を振って待っていた。今日は花を持っていない、とほっとした。時々持っているのだ。私に渡して、その胸焼けがしそうなくらいロマンチックな花言葉を言いたがる。私は陽一のそんなところが恥ずかしいと思う反面、好きだ。こんな私も陽一同様、変わっているのかもしれない。
今日の映画はとても退屈で、私はあくびをかみ殺してばかりいた。陽一はそんな映画でも真剣に観ていて、どの場面も見逃すまいとしているかのように見えた。私は映画の筋を追うのを諦めて、蝶子のことを考えることにした。
一般的にもよく知られているが、カマキリは交尾の後に雌が雄を食べる。花カマキリも例外ではない。大きな雌が小さな雄を捕まえて、食料にするのだ。私はこの事実にうっとりする。
コオロギなどではなく、本当の雄を、つまり男を食べる蝶子はどんなに妖しい美しさを帯びているだろう。その鋭い目は、ピンク色の火照ったような体は、どんなに素晴らしい輝きを持っているだろう。
いつか蝶子に雄を与えてやろう。そしてそれを食べる姿を――セックスする姿を――最初から最後まで見届けてやろう。
冷たく湿ったものが私の手に触れた。陽一の大きな固い手だった。陽一は私の手をぎゅっと握り、前を向いたまま、動かなかった。映画を観ているような姿勢だけれど、観てはいないだろう。その意識は私たちのつながった部分に注意深く注がれているはずだ。
私はそんな陽一の横顔をじっと見詰めていた。高い鼻、骨ばった顔の輪郭。陽一は実際、整った顔立ちをしていた。彼は、初めて付き合ったのが私だということが意外なくらい、女の子にもてていた。というのも彼とは学校が違うのだが、登下校途中の道が重なる辺りで、陽一がよく女の子に声をかけられているのを見かけるのだ。私と一緒になると、その女の子は口惜しそうに私を睨む。――あからさまではないにしても。
どうして私を選んだのだろう、と時々思う。確かに私は陽一好みの女なのかもしれない。映画が好きで、本を読んでいる。だけどそれだけなら私以外にも誰かいるはずだ。
陽一はどうして私を選んだのだろう。あの日の映画館で、私の隣に腰掛けたのはなぜだろう。
陽一の手は見る見るうちに熱くなり、私が痛いと感じるくらいきつく手を握った。彼は何を考えているのだろう。どうして私に『純潔』の白い花など渡したのだろう。私の心は純潔なんかじゃないのに。
映画が終わっても、私たちは言葉すくなに話すだけだった。この間のキスの時と同じ、沈黙と気まずさが二人を邪魔していた。キスをした以上、私たちはもうずっとこうでいなくてはならないのかもしれない。そうなったら、もしかしたらこのまま、切れてしまうのかもしれない。
「映画、つまらなかったね」
「まあね」
「ちゃんと観てた?」
「観てたよ」
だって手を握っていたのに。あんなに強く。陽一は映画なんか観ていなかった。意識の中でずっと私を見ていたはずだ。
「私のこと、好き?」
陽一は黙り込んだ。それからこくんとうなずいた。小さな声で、
「好きだよ」
そう言った。
六時間目が終わると、私とさくらはいつものように窓際の席に座っておしゃべりを始めた。主にさくらの恋人の英治君の話だった。彼女はよく英治君とののろけ話をする。指環をプレゼントしてもらっただとか、一緒に日帰りで温泉に行っただとか。時にはあからさまにセックスの話をしたりする。
恋人を持たない女子は、よくそんな彼女を「自慢している」と言う。多分成績がよくて美人な彼女を妬んでいるのだろう。私はさくらが自慢をしているなんて思わない。彼女は英治君が好きだ。それだけなのだ。
「私ばっかり話してるね。陽一君はどうしてる?」
さくらが紅潮した顔で私に尋ねた。私は少し考え込んだが、いっそ打ち明ける事にした。
「陽一は、私とセックスしたいと思わないのかなあ」
さくらが目を丸くした。私はそれに戸惑いつつも続けた。
「だって昨日、映画館で手を握っただけなんだよ。この間はキスをしたのに、後退してるんじゃない?」
さくらがあはは、と笑った。
「本当、あんたたちって純情だね。大丈夫、キスしたんだからきっと次があるよ」
「違うの。セックスを期待してるわけじゃないの」
「え?」
「いつかセックスも済んで、それから、どうなるのかなあって」
本当は、陽一とセックスすることが嫌なのだ。私は陽一との交際を少しずつ、恐れ始めている。でも、陽一にはそんな気配は全くないので、私は先を見通すことが出来ないでいる。陽一に限って、そんなことはしないのかもしれない。甘い期待なのかもしれないが、私はそう信じたい。
母が例の文学賞を受賞した。青天の霹靂だ。そのお陰で我が家は大騒動となった。とは言っても、私や母や蝶子はただただ呆然としているだけだ。では何がそんなに騒がしいのかというと、祝電やお祝いの贈り物がどんどん贈られてくるのだ。
母の知り合いの編集者や作家や評論家がどんどんそんなものを送りつけてくる。幸いに、と言っていいのか、日本中で報道されるほど有名な賞ではないので、そういったものも話で聞くより少ない。祝電は多くて、一日では読みきれないほどだったが、大きな贈り物は二つだけだった。母の友人の詩人からウイスキー、新作の担当編集者から胡蝶蘭の鉢。
私はこの胡蝶蘭に目を奪われた。白い胡蝶蘭は完全に開いていて、いくつもある花は大小の差のある花弁によって本当に蝶のように形作られていた。とても美しく、また堂々としていた。花は高さが一メートルもあるのだ。
「お母さん、これちょうだい」
祝電を読んでいる母の後ろから声をかけると、振り向いて怪訝な顔をされた。
「駄目よ。せっかく私が頂いたものなんだから、義理が立たないでしょ」
「義理なんて古いこと言わないでよ。どうせ玄関にでも飾ってほったらかしにするんでしょ。すぐに枯れちゃう。熱帯の植物なんだよ。部屋に置かないと。ほら、私の部屋、花カマキリのために適温に保ってあるし、ぴったりでしょ。ねえ、お願い」
「部屋が狭くなるわよ」
「いいよ。お願い」
母は首を傾けてうーん、と考え込んだ。そしてすぐに、
「ま、いいか」
と言ったのだった。
私はすぐに胡蝶蘭を二階に運んだ。花を落とさないために、揺らさないように気をつけた。蝶の形をした胡蝶蘭の花は、羽ばたくようにかすかに揺れていた。私はそれに見とれながら階段を上った。
虫かごの中では、蝶子が木の上でぼんやりしているところだった。何を考えているのだろう。蝶子は、白みがかったピンク色の足を畳んでしゃがみこみ、カマで時々体を手入れしていた。
「蝶子、これあげる」
私は蝶子の虫かごの乗ったテーブルの横に胡蝶蘭を置いた。振動で、また花が揺れた。蝶子も驚いたらしく、はっとカマを構えた。
私は虫かごの蓋を開けて手を突っ込んだ。蝶子が反応して、カマを振りかざす。私はそれを避けて蝶子の首をつまんで持ち上げた。固くて、植物の茎のような感触だった。蝶子が抵抗してカマを後ろに回し、私の指にぎざぎざを突き立てる。痛かったが、慣れていた。私は時々彼女を手のひらに乗せるのだ。
蝶子を胡蝶蘭の花の一つに乗せると、花は少し小さかったけれども何とか収まった。これで通常の花カマキリの状態が出来上がった。花の中で獲物を待つ花カマキリの図。テレビや写真と一緒だった。私は嬉しくなって蝶子の首を撫でた。
彼女は胡蝶蘭の中に満足したらしい。しばらくそこに立ったまま動かなかった。それからおずおずと花を愛撫し始めた。ぎざぎざとしたカマでそっと撫でてみたり、顔を寄せてキスしたりするのだ。私はにこにこ笑っていた。この蝶子の前でコオロギをちらつかせたら、本当に面白いものが見られるだろうと思った。
蝶子はこの胡蝶蘭が気に入ったらしい。花の中で眠るようにしてうずくまった。まるで恋人同士だ。私は微笑んだ。
不意に、笑い声が聞こえた。隠微で、官能的な、子供の声。姉だった。
蝶子姉さん、何が嬉しいのですか。恋人を得たことがそんなに嬉しいのですか。
私の問いかけに、蝶子姉さんはまた笑い声を返した。花の中の蝶子と重なり、イメージが見える。
小さな女の子が唇にハムをくわえている。ぶらぶらと揺らして何かを誘っているように見える。よく見ると、花カマキリが彼女の目の前にいた。花カマキリはしゅっとカマを伸ばしてハムを掴む。同時に女の子が唇を開く。花カマキリはハムを抱え込み、むしゃむしゃと食べ始める。女の子はようやく笑う。そしてその唇で花カマキリの頭に触れる。
女の子は走る。その先には大人の男が立っている。女の子はだらしない感じのする笑顔を彼に向け、抱きついて唇にキスをする。
ああ、あれは姉だ。そして男は、父だ。親子のキスだというのに、なぜかそれは見てはいけないもののように見えた。
姉の笑い声が高らかに聞こえる。
朝、学校に行くと、さくらが待ち構えていた。何故だろう。真剣な顔で私を見ている。
「どうしたの?」
「お母さん、受賞したんだってね。おめでとう」
インターネットか何かで知ったのだろうか。情報が早い。
「ありがとう。でも私にはあんまり関係ないみたい。お祝いの胡蝶蘭を貰ったくらいで」
「関係、あるよ」
「え?」
「あのさ、葉子。こんなこと書かせていいの? それが賞なんか受賞して、皆に認められてるんだよ。いいの?」
何のことだか分からなかった。私はさくらに説明を求めた。さくらが悲しそうに眉根を寄せる。それから鞄から本を取り出す。母の本だ。
「お母さんの本じゃない。これがどうかしたの」
「読みなさい」
「読まないよ。読まないって決めてるの」
「いいから読みなさい」
有無を言わせない口調で本を押し付けられた。私は困ってさくらを見た。さくらは怒っていた。誰に対してだろう。私に対してでもありそうだけれど、それだけじゃない。とにかく読んでみようと思い、私は本を開いた。
『妹が死んで何年経っただろう。彼女が死んで、私はどんなに泣いたか分からない。あの事故は私のために起きたことだ。それなのに何故彼女が死んだのだろう』
何だろう、これは? それが始めに起こった疑問だった。妹? 事故? 死? 既視感のあるフレーズがいきなりぶつかってきて、私は戸惑った。
『私があの白い乗用車に必然のごとく遭遇した時、妹はベビーベッドの中ですやすやと眠っていた』
『私が痛みを感じることも無く跳ね飛ばされ、正しくただの肉塊となろうとしたとき、同時に妹は呼吸を止めた』
『死によって選ばれたのは何故か彼女だった。車にはね飛ばされた私は、右腕を複雑骨折したものの、命に別状はなかった』
『どうして妹は死んだのだろう。今なら分かる。生きるべきは妹ではなく、私だったのだ。吐き気を催すほど残酷に切り刻まれたゆりえを見たとき、彼女の魂を救えるのは私だけだと思った。それによって、胸の中のわだかまりはようやく解けた。生きるべきなのは、私なのだ』
私は声もなく、最初のページを見つめ続けていた。何だ、これは。信じられない。考えられない。どういうことだろう。わけが分からない。説明してほしい。誰か、教えてくれ。
母はこの小説の中で私を殺して姉を生かした。どうして分かるかというと、彼女はあの事件をそのままに、気分が悪くなるくらい詳細に描いているのだ。
迫り来る車。体をすくませたまま動けない姉。姉が跳ね飛ばされるのを声もなく見ていた母。眠っていた私。全てが姉の死んだ時のままだった。ただ違うのは、姉が軽症で済んだことと、私が原因不明の突然死を遂げていることだけだ。
「何これ」
私は震える声でそう言った。たくさんの感情が底のほうに沈み、同時に爆発している。この急激な感情の変化に、私はついていけなかった。そのお陰で、涙も出ない。
「さくら、何これ」
さくらは黙ったまま唇を強く噛んでいた。目が真っ赤だった。
「お母さん、私に死ねって思ってたのかな。お姉ちゃんじゃなくて私が死ねって。ねえ、そうなのかな」
「……ただの創作だよ」
さくらが口を開いた。私は怒りを覚えた。さっき言ったじゃないか。母にこんな作品を書かせて良いのかと詰め寄ったじゃないか。
「だってこんなにたくさん本当のことが書いてある。生きるべきなのはおねえちゃんだって書いてある」
「……ごめん、そうだね」
「じゃあ、これってお母さんの本音なんだよね」
私の目は血走っていただろう。頭に血が上って、何が何だか分からなかったのだ。胸の痛みが苦しくて、呼吸困難になりそうだった。
さくらはうなだれながら首を振った。
「ごめん、分かんないよ。それがあの人の本音かなんて。ただ、許せなかっただけ。娘を傷つけるようなことを書いて、平気で賞なんか受賞した葉子のお母さんに腹が立つだけ。本当のことかどうかなんて、一緒に暮らしてない私には分からない。でも、本気でこんなことを思ってるんなら、私、許さない」
「……本、貸して」
気遣わしそうなさくらを置いて、私は自分の席についた。鞄を机のフックにかけ、本を机の上に置く。ゆっくりと、ページをめくった。
物語は名前の明かされない主人公の女の語りで進む。女は恋人の妹が奇妙な殺され方をしたことを知り、恋人と共に事件を解決しようと奮闘する。女には使命感がある。それは自分が誰かに生かされているという自負から来ている。その自負は、自分が死ぬべき時に妹が死んだということだ。
母はこの陳腐な物語を、古めかしささえ感じる幻想と、官能と残虐さでうまくくるみ込み、傍目からはとても面白い作品に仕上げていた。私がもし事情を知らない読者だったら、夢中で読んだかもしれない。でもこの作品に対して私が感じるのは、ひたすらくだらないということだけだ。母の小説の特徴の一つである『ナンセンス』ではない。本当にくだらないのだ。
姉を陳腐な人間に仕立てたことが何よりも許せなかった。姉は、私が彼女と入れ替わるようにして死んだとしても、『生かされている』と考えたりはしない。姉は神など信じない。『魂を救うために』なんて言葉は、姉の舌に合わない。
母が許せなかった。姉を主人公に仕立てたつまらない小説を発表するなんて、姉への侮辱だ。もし母が、さっき私が思ったように、私が死んで姉が助かればよかったと思っていたとして、それでもまともな作品を書いてくれたならば、私は少しだけ救われる。
母は姉を愛しているのだろうか。母は私を憎んでいるのだろうか。同じ質問ばかりが、頭の中をぐるぐると回る。
「塩田!」
教師の声で意識が飛んだ。ここはどこだ。教室だ。クラスメイトたちが私を見ている。それもひどく驚いたような顔で。
「塩田。お前、ホームルームでもそうだったけど、一時間目も二時間目も本ばかり読んでたそうだな」
教師は私が机の下に隠して読んでいた本を指して怒鳴る。ああ、うるさい。うるさい。どうしてこの教師は怒鳴るのだろう。私は本の続きが読みたいのに。
「いくら成績がいいからって余裕ぶってるんじゃないぞ。他の生徒は一生懸命頑張ってるんだ」
いつもの私ならあんたの授業だってきちんと聞いている。他の生徒よりだ。だから本の世界に戻してくれ。私の苦しみの原因であるこの本から、救いを探させてくれ。
「いいか、塩田。この本は没収だ」
「……あ」
本は舞うように飛んで、教師の手に収まった。力が抜ける。救いの道を、奪われた。
もうあの小説を読む気力は失われていた。放課後、教師から本を返されても、私はすぐにさくらに渡した。さくらは最後まで読めという。だけど私は出来なかった。もう読みたくない。母の顔も見たくない。だけど、帰らないと蝶子が死んでしまう。彼女は私が居ないと生きていられないのだ。
一人でいたかったけれど、さくらが離れようとしないので一緒に帰った。お互い黙りがちだった。さくらは結局私にかけるべき言葉が見つからないまま、別れ道で私と別れた。
「ただいま」
「おかえり」
母の声は華やいでいた。昨日の夜から数日後の授賞式での衣装を選んでいるのだ。地味な顔立ちの彼女は、見かけによらず華やかなことが好きだ。私が帰ってくるなり、派手な襟飾りのパンツスーツを持ってくる。ニコニコ笑って愛想を振りまいていて、醜い。蝶子といたほうがずっとましだ。私はそう思いながらも微笑を返し、よりいっそうみっともない服を選んで薦めた。
姉がくすくすと笑って、私を勇気付けてくれた。
「葉子は最近、時々変になるね」
母の授賞式が終わって数日がたつ、ある日の映画館のラウンジで、ホットドックをかじりながら陽一が言った。最近はよく話すようになった。私の心配は少しだけ減った。
「何を考えてるの?」
「……何も」
「嘘だろ?」
陽一が面白い冗談を言われたかのように笑う。私はそんな彼を見て悲しくなる。陽一は私のことを分かってない。でも、私も陽一に分からせようとしない。出来ないのだ。
「ねえ、キスして」
突然の発言に、陽一が凍りつく。前にも言ったのに。面白い。
「何でそういうことを言うの?」
陽一が真剣な顔でそう言うので、私は吹き出してしまった。意味なんか無い。意味なんか、私は求めてない。求めたくも無い。
陽一は笑う私をじっと見つめた。映画が始まるまで、私たちは黙って見詰め合っていた。陽一は真剣に。私は不真面目に。
今日の映画もハズレだった。フランス映画なのだが、悪い意味でフランス映画らしい作品だった。とても退屈なのだ。始まって一時間もすると、私は冗談で陽一にしなだれかかって邪魔をするようになった。いつもはそんなことをしないので、陽一は驚いているようだった。
陽一の肩に頭を乗せた。彼の手を握る。それだけで彼が照れているのが分かる。手が見る見るうちに湿って、滑り出すのだ。
「何やってんの」
「別に」
「映画の邪魔だよ」
「見てないくせに」
「何でこんなことするの?」
「ねえ、キスして」
急に、陽一の抵抗する動きが止まった。どうしたのだろうと私は彼に顔を向ける。途端に、あごを強引に引き寄せられる。
唇が触れた。触れただけではなくてつぶれた。歯がぶつかってカチッと鳴る。陽一の太い舌が口の中に進入してくる。私の口腔が侵される。陽一の舌は、私の口の中をまさぐる。
私は体を離そうとした。だけど陽一の両手は私の顔を掴んだまま放さなかった。息が漏れる。苦しい息。すると陽一は私の舌に自分の舌を巻きつける。私の舌は逃げる。私自身も逃げる。
力任せに離れると、私は隣の椅子に倒れこんだ。体を起すと、陽一は目をぎらぎらさせながら私を見下ろしている。立とうとはしない。それを幸いに、私は彼から逃げた。
暗い中、転びそうになりながら私は走った。口の中に陽一の感触が残っている。涙が出た。涙はすっと頬を伝い、産毛をくしけずった。
家に帰ると、すぐに蝶子のもとに走った。「おかえり」は聞こえてこない。母とは最近あまりまともに話していない。母に執筆依頼が殺到して忙しくなったということもあるが、あの小説から起こったわだかまりは彼女から私を遠ざけていた。
涼しげな芳香を放つ胡蝶蘭の横の虫かごの中で、蝶子はカマで体を撫でていた。まるで女がセックスの前に手入れをしているときのように。私はそんな蝶子を見ると、心が落ち着いた。
セックスするのは私じゃない。蝶子だ。
蝶子を虫かごから出して、胡蝶蘭の花の中に乗せた。暴れて私に抵抗していた蝶子は途端に大人しくなり、花に体をうずくまらせた。そして花を慈しむ。キスをし、体をこすりつけ、花粉を体に付ける。今日はいつもよりいっそうエロティックだ。
いつもの幻聴が訪れる。姉の声だ。そして幻視が現れる。父の背中が見える。その上にまたがって後ろから父の首に抱きついた姉が見える。二人は笑っている。
『ねえ、お父さん。蝶子のこと、好き?』
初めて聞く、具体的な姉の言葉。甘ったるい、恋人に話しかけるような媚びた声。
『うん。好きだよ』
父の声。五年前に死んだ父の声。懐かしい声だ。父は五年前、胃がんで死んだ。私が小学五年生のときだった。とても悲しかった。しばらく、不登校になったほどだ。
その父が私の前で話をしている。死んだ姉と共に。だけど不思議だ。姉の姿は実際の人間のようにくっきりしているが、父は少しぼやけている。
父について覚えていることは、案外少ないかもしれない。平凡なサラリーマンであったこと。大きな手で、私の頭を撫でてくれたこと。低い声で話したこと。これだけだ。私の中の姉のイメージの半分にも満たない。父は私にとってどんな存在だっただろうか。家族として大切な人だったことは覚えているのだが。
『お父さん。蝶子のこと、愛してる?』
姉が小首を傾げて尋ねる。父は腹ばいになって新聞を読みながら、少し苦しそうに答える。
『もちろん、愛してるよ』
『葉子よりも?』
私の胸が高鳴った。
『比べられないなあ。どっちのことも愛してるよ』
『嘘。最近葉子のことばっかり可愛がってる。蝶子のこと、忘れてる』
姉の声がヒステリックに高まる。父は困ったように笑う。
『葉子は赤ちゃんだから、何から何まで世話しなきゃいけないんだよ。蝶子にはそんなこと必要ないだろ?』
『じゃあ、蝶子のこと、好き?』
『好きだよ』
『お父さんのお嫁さんになっていい?』
『いいよ』
『キスしよう』
『うん』
父が起き上がって姉を振り返った。姉は父の首に腕を回し――まるで大人の女のように――唇を父の唇につけた。しばらくそのままでいた後、二人は離れた。唇と唇の間で涎がが糸を引いた。
姉はセックスをしたことがあるだろうか。ふとそんなことを思いついた。
父のイメージが頭から離れない。誰もいない居間に行って、私は古いアルバムをテレビの下の棚から取り出した。アルバムなんて、この数年一冊も作っていない。母と私だけになったこの家族は、もう写真というものを必要としていなかった。覚えるべき相手はお互い一人だけ。そんな家族に記録なんて役立つだろうか。
父は幼い私を肩車して、どこか遠くを見つめて笑っていた。目じりのしわ、黒目がちの大きな目、高い鼻、骨ばった輪郭。――陽一に似ていた。
どっと涙が出た。止まらない。これが何という感情なのか、私は名前が分からなかった。陽一はどうしているだろう。あの時何を考えていたのだろう。アルバムのビニールにぽたぽた涙が落ちて、流れる。私は名づけようのない感情の波に押し流され、溺れていた。
期末テストが始まった。周囲は急にざわめいて、落ち着かないものとなった。周りの生徒は皆必死で教科書を読んでいる。それに対して、さくらは平気な顔で小説を読んでいた。予備校ではトップだという噂の女子が、私のところにやってくる。いつもは滅多に私に話しかけたりしないのに、馴れ馴れしく話しかける。
「さくらちゃん、余裕だよね」
「そうだね」
「家では滅茶苦茶勉強してるんだもん。当然だよね」
私はきょとんと彼女を見た。彼女は引きつった笑いを顔に貼り付けている。
「さくらは勉強してないよ。授業は真面目に聞くけど」
「そんなわけないじゃん」
私は黙った。これ以上言ったら、さくらの評判が悪くなりそうだと判断したのだ。だけどうなずきもしない。嘘なんかつきたくない。
「葉子ちゃんも余裕だね。何もしてないもん」
確かに私は机でぼんやりしていた。だけど彼女の言っている通りではなかった。
「チャイム鳴るよ。机についたら?」
で、いつもみたいに必死に勉強したら? そう言いたいのを呑み込んで、私は彼女ににっこり笑いかけた。
私はテストを半分白紙で出した。当然の結果だった。私は授業を聞いてもいなかったし、教科書を開いてさえいなかった。母と父と姉と、陽一。私は彼らのことばかり考えていたから。
きっと教師に呼び出されるだろう。そして、進路だとか大学だとか、つまらないことでえんえんと説教されるだろう。私は、『今』それどころではないのに。『今』苦しんでいるのに。
さくらがちらりと私を見た。
「葉子、最近変だよ」
ファミリーレストランで、私たちはオレンジジュースを飲んでいた。いつもならここで夕食にするところだが、私は食欲がなかった。さくらは私に合わせてジュースしか頼んでいなかった。
私はふっと笑う。
「それ、陽一にも言われた」
「陽一君に?」
「私、変?」
さくらが悲しそうな顔をして私を見つめていた。そしてこっくりとうなずいた。
「お母さんの本なんて、読ませなければ良かったね。葉子がこんなに傷つくこと、想像もしないで、頭に血が上ったまま本を読ませちゃった。本当なら、葉子は知らないままで済んだのにね」
母の本のことは、今や問題の一部にしか過ぎなかった。父と姉のこと、父自身のこと、陽一のこと、それらは問題をより大きくしていた。私はそれに押しつぶされそうになっていた。
「陽一にね、キスされた」
「え?」
「舌入れられた」
さくらが、それがどうしたんだという目で私を見ている。目が熱い。
「すごく悲しかった」
「葉子?」
「さくらは分かんないよね。そんなこと、慣れてるもんね。私、怖かった。すごく怖かった。陽一がいつもと違う人みたいだった。――ねえ、陽一はさくらが言うみたいに変わった奴じゃなかったよ。普通の男なんだよ」
「落ち着いて、葉子」
さくらが私の手を握る。その手は小さくて、心地よかった。途端に別の問題が頭をもたげる。
「お父さんもね、お姉ちゃんのほうが好きだったの」
「え?」
「私が小さい頃、お姉ちゃんに言ってた」
「ちょっとまって、お姉さんって葉子が一歳の時に亡くなって……」
「覚えてるの!」
「そんなわけないでしょ。葉子」
「信じないの?」
私はさくらをきっと睨んだ。さくらは困ったように私を見、目を動揺させて、
「変だよ、葉子」
「変じゃない」
「葉子、お母さんの本、ちゃんと読んだ?」
「読んだよ」
「途中まででしょ? 最後まで読めば?」
「嫌だ」
「あのね、主人公は事件を解決した後突然……」
「いいってば!」
私はさくらの手を払った。さくらは傷ついた顔をしていた。小さな声が聞こえる。
「もういい」
さくらの声だった。低くて、静かな怒りを含んだ声。
「勝手にすれば」
さくらは席を立ち、勢いよく歩いていった。
胡蝶蘭の中の蝶子に、死んだコオロギを与える。箱の隅で死んでいたコオロギは、体全体を縮こまらせて、私のピンセットを待っていた。つまんで、蝶子の前で生きているように見せかける。蝶子は用心深そうにそれを見つめ、やっと決心してカマを繰り出す。蝶子はコオロギを捕まえる。そしてそれを頭からかじる。
何故だろう。蝶子がコオロギを食べていると落ち着く。何もかも代わりにやってくれている気がするのだ。食事も、キスも、マスターベーションも、セックスも。お陰で私はきれいな存在でいられる。汚れないで済む。
携帯電話のバイブレーションが鳴る。蝶子が驚いたように顔を上げる。私はそんな蝶子を見つめたまま、動かなかった。バイブレーションは止まらなかった。それから三十秒ほど鳴り続けたが、急に振動が止まった。
私はようやく携帯電話を手に取った。画面を開くと、陽一からだった。私は電話をかけ直さなかった。何を話せばいいのか、分からなかった。
次の日もテストだった。朝、偶然顔を合わせたものの、さくらは無表情に私を避けて机についた。まだ怒っているのだろうか。
一時間目の教科は得意の国語だった。これなら何とか八十点くらいは取れるだろう。私は久しぶりに意識を集中させて問題に挑んだ。頭が緊張する、この感覚が心地いい。私は文字の世界に没頭した。
『ねえ、お父さん。蝶子のこと好きなんでしょ』
姉の声が聞こえる。
『好きだよ。それがどうしたの』
父の声も聞こえる。
『なら、いらないんじゃない』
『何が?』
『葉子なんか、いらないんじゃない』
『何を言ってるんだ』
やや怒気を含んだ声。
『お父さんには両方とも大事な娘だよ。妹のことをそんな風に言うんじゃない』
『じゃあ、お父さんは葉子の方を愛してるんだ』
『違うよ。両方とも愛してるんだ』
『本当?』
『本当だよ』
一瞬、時間が止まったかのように静かになる。そして。
『嘘つきーー!』
金切り声が頭に響き渡る。痛い。頭が痛い。これは何だ。姉はどうしたんだ。大好きな姉が、化け物のように叫んでいる。こんなの蝶子姉さんじゃない。本当の蝶子姉さんは、私のことをいらないなんて言ったりしない。
「塩田。大丈夫か」
教師が戸惑ったように私の席にやってくる。私は頭を抱えて机に突っ伏していた。
「大丈夫です」
「頭が痛いのか」
「大丈夫、です」
「顔が真っ青だぞ。保健室に行くか?」
「……はい」
私は教師に支えられて教室を出た。他の生徒がテストに集中している中、さくらがシャープペンシルを持ったまま、じっと私を見ていた。
私は保健室のベッドで、半日こんこんと眠り続けていた。気持ち悪かった。姉が父にまとわりつく、いつもの夢を見ていた。
『ごめんね、お父さん。もう葉子がいなくなればいいなんて言わない』
『当たり前だ。もう言うなよ』
父が苛立っている。姉の媚び方がよりあからさまになる。
『うん。葉子のこと、大好きだから』
『そうか』
『だからね、お父さん、キスしよう』
父が振り返る。困ったような顔をしている。しゃがんで、姉の小さな顔に高さを合わせる。
『蝶子、もうキスしないよ』
『どうして!』
姉が絶望的な声を上げる。今にも泣きそうだ。
『もう六歳だろう? だったらもうそろそろお父さんから卒業しなきゃ』
『卒業?』
『お父さんと蝶子はね、結婚できないんだよ』
そのまま父が消える。そして突然大写しになって私の目の前に現れる。急に私の画面が揺れる。
『葉子、いい子だね。ほら、蝶子。お姉さんになったんだから妹に優しくしないと』
暖かい手。優しい手。懐かしい手。大きな手で私は包まれていた。心地よかった。今まで忘れていた気持ちが湧き上がってきた。
姉が私を見ている。その顔には表情がない。
父が消える。それを見届けた姉が私に近づいてくる。大きく見える姉。彼女は近くで見ると、私が神聖視していたほどには美しくなかった。何より口元にしまりが無い。だらしない女の口だ。
コオロギを捕らえる花カマキリのカマのように、その手はすばやく私の首を掴んだ。締め付ける。本気の力で。
苦しい、助けて。私は姉に訴えかけた。姉は笑っていた。嬉しそうに笑っていた。これであんたがいなくなる、とその目は言っていた。怖い。殺される。
『蝶子、何やってるんだ!』
姉が父に突き飛ばされる。姉が視界から消える。ひっくとしゃっくりの音が聞こえた後、赤ん坊がけたたましく泣き始める。
「葉子」
目を覚ますと、さくらが目の前にいた。私は涙を流していた。今の夢は何度も頭の中で繰り返された。苦しい。声も出ないほどに。
「テスト、終わっちゃったよ」
気遣わしそうなさくらの声。私は呆然としたままうなずく。
「残念だったね。でもしょうがないよ。具合悪かったんだもんね」
もう一度、うなずく。
「あのね、もういいって言われるかもしれないけど、お母さんの小説の最後の部分、教えるね。きっと問題は解決するから。主人公は恋人と事件を解決して、最後に道路を二人で歩くの。恋人らしい会話を交わしながら。そこに白い乗用車が現れるの。主人公は既視感に襲われて、そのまま足がすくんで動けない。そして、はねられる。主人公は宙を舞う。そしたらここで急に空間が捻じ曲げられるの。時間は戻って、戻って、最初に白い乗用車にはねられそうになったときに戻る。そしてはねられる。主人公は即死。赤ん坊は息を吹き返す。ね? ひどいことを書いてるけど、葉子は助かるんだよ。お母さんは話のために葉子を殺したけど、生き返るんだから、嫌われてるわけじゃないと思うよ。最初の主人公の独白だって、主人公っていう登場人物のものなんだからお母さんの意見だなんて分かんないよ。初めから言えば良かったね」
さくらはにっこりと笑いかけた。私は笑わなかった。
それがどうしたというのだ? まず私が殺され、姉が殺された。母が作ったそんな物語のどこに救いを見出せばいいのだ? 私はじっとさくらを見つめていた。あまりに長い間見ているものだから、さくらは面食らったように笑顔を消した。
「……帰る」
私はベッドから降りた。体中が綿になったように重かった。
家に帰ると、「おかえり」と聞こえてきた。母がパタパタと足音を鳴らして現れる。その顔はひどく焦燥している。
「ごめんね、葉子」
私は無言で彼女を見た。母は何も気づかぬ様子で続ける。
「花カマキリにコオロギをあげたんだけど、急に様子がおかしくなって……」
はっとして、靴を脱いで二階に駆け上がった。部屋のドアを開ける。胡蝶蘭の涼しげな香りと、生ぬるい空気が流れてくる。テーブルの上の虫かごは、蓋が開いていた。その中で、蝶子が倒れていた。口からどろどろした黒いものを吐き出している。ぴくりともしない。死んでいるからだ。
母が部屋の中に入ってきた。冷や汗をかいているのが分かる。
「ごめんね、葉子」
「出てって」
私の一言で、母はため息をついて部屋を出た。その背中は全く悪びれていないように見えた。
「蝶子」
声をかけても、蝶子は決して動かなかった。ピンク色の体は、ただの冷えた死体に変わっていた。
「お姉ちゃん」
吐息で蝶子のはみ出した薄羽がはたはたとなびいた。
姉は死んだ。ようやく、私の中で。もう憧れたりしない。恋焦がれたりしない。愛したりしない。姉はただの人間だった。生々しいまでの。
やっとそれが分かった。遅すぎるくらいだった。今までの私は何だったのだろう。死んだ人間を美化したりして、何を見返りに求めていたのだろう。
ふと、芳香が鼻孔をくすぐった。胡蝶蘭の香りだった。胡蝶蘭は蝶の形をした花を一杯につけて、私のほうを向いていた。
「お父さん」
胡蝶蘭を撫でた。花が一つ、ぽつりと落ちた。父の声が聞こえてくるような気がしたが、それは訪れなかった。父は姉と同じように、私とは遥かに離れた遠いところにいるのだ。
「お父さん、会いたいよ」
涙が出た。いつまでもいつまでも止まらなかった。
携帯電話のバイブレーションが鳴る。画面には、『陽一』と表示されていた。
《了》