廃墟の呼び声
“廃墟写真”というマニアックな趣味がある。
私はもうやめてしまったが、最近、引っ越しをきっかけに処分するアルバムを整理していて、写真のコレクションを眺めながら少し考えたことがあった。
最初は友達とつるんで行くような夏の肝試しだったのだが、連れ合いがいると、もうちょっと奥まで探索してみたいという気持ちを連れ合いの都合次第で妥協して帰らねばならないので、そのうちオバケを期待するでもなく、ただ頽廃的な雰囲気に浸りたくて、独りで廃墟に立ち入り写真を撮るようになった。立ち入り禁止の廃墟や海外の廃墟については、写真家のブログを見たり、書店で写真集を買ったりもした。
廃墟から足が遠のいた今、改めて見返すと、プロが撮影した芸術作品のほうはともかく、私の素人写真に映るボロボロの建物ときたら、いったい何だろう?廃旅館、廃ホテル、廃寺社、廃工場、廃校舎、廃病院、廃団地、廃村などなど……。天井や壁が剥がれ、建材が朽ち、窓ガラスが砕けて床に散らばる暗がりに、どんどん踏み込んでシャッターを切りまくり、不気味な写真をアルバムにまとめ何十冊もコレクションしていたのだから、あの頃の私は獲物を求めてさまようシリアルキラーのように、正気でなかったのに違いない。
しかしこうも思う。私が廃墟を漁っていたのではなく、廃墟が私を誘っていたのではないかと。あれらの建物はみな、かつて人間に必要とされ、いろいろな用途で人間のために奉仕する施設だった。解体されぬまま放棄されてしまったあとも、廃墟に立ち入る人間の中から波長の合う者を探し、「わたしたちのことを忘れないで」と、声なき声で呼びかけていたのではないだろうか。




