第8話 輪入道ハイウェイ
深夜の高速道路は、昼間よりも音がよく見える。
窓の外は暗い。街の灯はとっくに背後へ沈み、いま見えているのは等間隔に立つ照明と、先を走るトラックの赤いテールランプだけだ。アスファルトの上をタイヤが流れていく音。風が車体の側面を撫でる音。遠くから追い越していく大型車の唸り。その全部が、眠りかけた神経にはやけにはっきり届く。
弦は後部座席で窓に頭を預けたまま、ぼんやりとフロントガラスの向こうを見ていた。
運転席には澪。助手席に駆。弦の隣には蓮が座っている。地方案件の帰りだった。大きな戦いではなかったが、小さな現場でも神経は削られる。全員、黙っているわけではない。けれど元気でもない。疲れている人間の会話が、車内を低く転がっていた。
「次の現場、何日空くんだっけ」
蓮がスマートフォンを見ながら言う。
「二日」
澪が前を向いたまま答える。
「正確には、一日半。明後日の夕方に仮押さえ」
「一日半を二日って言わせてくれよ」
「仕事の世界では、それは二日じゃないから」
「現実主義がすぎるなあ」
蓮がそうぼやくと、駆が助手席で小さく言った。
「お前が曖昧すぎる」
「曖昧で生きてきたんや、こっちは」
「それでよく真言を扱えるな」
「真言は曖昧やない。俺が曖昧なんや」
わけの分からない会話だったが、弦は少しだけ笑った。こういうどうでもいい言葉のやりとりが、最近は前より自然に続く。地を拠点にし始めてから、とくにそうだった。
車内には小さく音楽が流れている。駆が適当に選んだ、リズムだけ薄く残るようなインストだった。眠気を誘うほど単調ではなく、会話の邪魔をするほど主張もしない。そのバランスが、いかにも駆らしい。
弦は目を閉じかけて、また開いた。
妙な感覚があった。音が、ひとつ多い。
ロードノイズでも、エンジンでも、カーオーディオでもない。もっと低い、鈍い唸り。遠くからついてくるような音だった。大きくはない。だが、腹の底に触れてくる。
助手席で、駆が少しだけ顔を上げた。同じものを聞いた顔だった。
「……澪」
駆が言う。
「聞こえるか」
「何が」
「下にいる」
その言葉で、弦の眠気はきれいに飛んだ。蓮も姿勢を起こす。
「来たか?」
「まだ見えない。でもいる」
駆はダッシュボードに置いていた小型のレコーダーを起動した。手際が早い。迷いがない。こういう時、駆は感情を挟まない。先に記録し、先に確かめる。
澪の視線がミラーへ走る。
「視認は」
「まだ」
駆は短く答えた。
「ただ、ロードノイズの底に別の帯域が混じってる。回転系だ」
「回転系?」
弦が聞いた。
「円の音。しかも熱を持ってる」
それは説明になっているようで、半分も分からない。だが駆がそう言うなら、もう何かは始まっているのだ。
蓮が窓の外を見た。
「嫌な言い方すると、心当たりはある」
その直後だった。
助手席側のサイドミラーに、赤い輪が一瞬だけ映った。
光ではない。炎だった。車輪のように回る、赤黒い火の輪。その中心に、人の顔めいたものが貼りついている。いや、人の顔ではない。鬼だ。目だけが異様にぎらつき、口が裂け、歯が焼けた鉄みたいに並んでいる。
映ったのは一秒もなかった。追い越し車線の闇へ滲むように消えた。
弦は思わず身を起こした。
「見たぞ」
「俺も」
蓮が言う。
「輪入道やな」
その名が出た瞬間、形がはっきりした。
輪入道。古い絵巻に描かれた、燃える車輪の中に鬼の顔を持つ怪異。道に現れ、人を呪い、夜の通りを焼きながら転がる化け物。だが、いまこの高速道路を追ってきているやつは、絵巻のままではない。もっと現代の夜に寄っていた。タイヤ痕の焦げた匂い、ブレーキの金属音、道路そのものが持つ疲労と速度をまとっている。
澪が落ち着いた声で言った。
「全員、まだ大きく動かないで。ここで本格的にやると事故る」
その言葉の途中で、車体が小さく震えた。
路面の継ぎ目に乗ったのとは違う。下から叩かれたような振動。タイヤの回転が一瞬だけ狂い、ハンドルがぶれる。澪がすぐ立て直す。
「来た」
駆が言う。
背後から、低い唸りが近づいた。
今度は誰にでも分かるくらい、はっきりしている。トラックのエンジン音より低く、地を這うような音。バックミラーの奥で、赤い火の輪が大きくなってくる。追い越してこない。ぴたりと後ろにつき、じわじわ距離を詰めてくる。
輪の中央の鬼面が、笑ったように見えた。
「うわ、感じ悪……!」
蓮が言いながら、すでに数珠を巻き直していた。
「駆、何か乗せられるか」
「最低限だけ」
駆は助手席で端末を繋ぎ、車内スピーカーの入力を一つ奪った。
鳴らしたのは派手なビートではない。ウインカーのカチ、という乾いた音を刻み直した、極端に簡素な拍だ。その下に、エンジンの回転音のうち一番安定している帯域だけを薄く拾って敷く。戦うための土台ではない。崩れないための骨組みだ。
蓮がそこへ、短い真言ラップを重ねる。
言葉は少ない。高速では、長いフレーズは呼吸を乱す。車内の狭さもある。だから短く、切るように。音そのものより、場を保つための言葉だった。
弦はギターケースへ手を伸ばした。
「出す」
「最小限で」
澪が即座に言う。
「窓は開けない。車内で鳴らせる範囲だけ。いまは撃退じゃなくて寄せつけないのが先」
弦はうなずき、レスポールを膝の上へ引き出した。アンプはない。シールドも通さない。だが生音でも、ゼロではない。指先へ意識を落とし、弦を短く打つ。
硬い音が車内で鳴った。それだけで、後方の唸りがわずかに揺らぐ。
効く。だが浅い。傷をつける音ではない。近づきすぎるのを嫌がらせる程度だ。
輪入道が車線を変えた。
右へ出る。追い抜くのかと思った次の瞬間、車体の横に並ぶ。窓の向こう、夜の闇の中で、巨大な火の輪が半分だけ見えた。中央の鬼面が、こちらをまっすぐ向く。目が合った気がした。
腹の底が、ぞわりと冷えた。
輪の外側には、タイヤだけではないものが絡んでいる。溶けたヘッドライト、千切れたドア、ボディパネルの歪んだ破片。事故車の残骸みたいなものを引きずり込んで、怪物は巨大化していた。
鬼面が大きく口を開く。
次の瞬間、横殴りの圧が来た。
「っ!」
車体が左へ流される。澪がハンドルを切り返し、ガードレールとの距離をぎりぎりで戻した。
「風じゃない、道路の圧だ!」
駆が叫ぶ。
「走行してるものの振動を持っていく!」
輪入道がまた後方へ戻る。追突はしてこない。ただ、ぴたりと背後につき、道そのもののリズムを狂わせてくる。タイヤが路面を噛む感覚が、わずかにズレる。それだけで高速走行中の車は十分危うい。
前方では一般車が一台、ふらりと蛇行した。急にブレーキランプが点く。運転手も何か妙なものを感じているのかもしれない。だが見えてはいない。ただ不快感だけが伝わっている。
「このままは無理やな」
蓮が低く言う。
「ああ」
弦も答えた。
本格的に戦えば勝てるかもしれない。だがその前に事故る。自分たちだけならまだしも、周囲の車を巻き込む。それは駄目だった。
澪がカーナビへ目を走らせる。
「次のサービスエリアまで何キロ」
「四・八」
駆が即答した。
「行けるか」
「行かせる」
澪の声は静かだったが、強かった。
「ここで勝つんじゃない。場所を変える」
弦はその一言で、妙にはっきり納得した。
戦場を選ぶ。いままでの自分たちは、出た場所で戦っていた。だが、勝てる場所へ持っていくことも戦いなのだと、澪は最初から知っている。
「駆」
「分かってる」
駆が指を走らせる。車内のスピーカーから流れる拍が変わった。ウインカー音に、ロードノイズのうち一定間隔で跳ね返る成分を重ねる。道路の継ぎ目、車線変更時の摩擦、エンジンの回転、その全部から持たせるためのビートだけを抜く。
蓮も合わせた。今度はラップではなく、もっと短い。息継ぎごとに区切った真言の断片。呼吸を乱さないための言葉だった。
弦はレスポールを抱えたまま、必要な時だけ音を打つ。
一撃。二撃。輪入道が車体の近くへ寄りすぎた瞬間だけ、硬く短く弦を鳴らす。追い払うのではなく、距離を保たせる。
高速道路の夜が、長く感じた。
たった数キロのはずなのに、ひどく遠い。輪入道は背後に張りつき、時々横へ回り込み、一般車へも薄く影響を与え始める。追い越しざまのトラックが妙に長く見えた。白線の流れが一瞬だけ遅くなった気がした。道そのものが怪物の側へ寄っている。
「見えた」
澪が言う。前方に、サービスエリアの案内標識が光っていた。
緑の板がやけに心強く見える。人間の側が作った休憩の場所。明るく、区切られ、止まることを前提にした場所。高速の流れから外れるための場所。
輪入道が唸った。
気づいたのだろう。こちらが逃げるつもりではなく、場所を選ぼうとしていることを。
「来るぞ」
駆が言った瞬間、背後の唸りが倍になった。
輪入道が一気に距離を詰める。火の輪の赤がバックミラーを埋め、鬼面が口を裂く。車体後部へ衝撃。澪がハンドルを握り直す。蓮の真言が一瞬乱れ、弦はレスポールを抱えたまま前へ持っていかれそうになる。
「っ、やば!」
「落ち着いて!」
澪の声が飛ぶ。
「出口レーン入る!」
ウインカー。減速。左へ寄る。輪入道もついてくる。むしろ喜んでいるように見えた。止まれば喰えると思っているのかもしれない。だがその考えが甘いのだと、こちらもまだ証明していない。
サービスエリアは、深夜特有の白さを持っていた。
駐車場の照明が明るすぎる。自販機の列がやけに浮いて見える。トラックの列。眠そうな運転手。閉まりかけの売店。ガラス張りのフードコート。高速道路の途中にあるだけなのに、少しだけ現実から外れた場所みたいだった。
澪は滑り込むように駐車スペースへ入れた。
「弦、蓮、外。駆は私と一回来て」
命令が早い。
「何する」
弦が聞きながらドアを開ける。
「人を逃がす」
澪はもうシートベルトを外していた。
「ここで客巻き込んだら意味がない」
四人は一斉に動いた。
夜気が肌に刺さる。高速の風と違い、止まった場所の風は冷たさがはっきりしていた。輪入道の唸りはまだ遠くない。出口レーンの向こうで、赤い火の輪が回りながら近づいてくる。
「館内の人を中へ!」
澪がスタッフらしき男へ走り寄る。
「駐車場には出さないで! 照明は全部落とさない、外周をつけたまま! 館内放送、すぐ使わせて!」
現場の人間は最初、ぽかんとした顔をした。だが澪の声には迷いがない。説明される前に身体が動く種類の声だった。男は慌てて頷き、店内へ走る。
駆はすでに自販機の低いモーター音、トラックのアイドリング、換気扇の唸りを拾っていた。レコーダーと小型パッドを繋ぎ、拍の素材を切り出していく。
「使えるか」
弦が聞く。
「使う」
駆は短く答える。
蓮は館内放送のマイクを受け取りながら、澪へ目で確認を取る。澪は一度だけうなずいた。
「客の耳を先にこっちへ寄せる。いきなり戦うな。拍を作ってから」
「了解」
蓮の声色が変わる。
弦は駐車場の中央へ歩き出た。白線。アスファルト。照明に照らされた薄い影。戦うには開けすぎている。だが、見通しがいいということでもあった。
サービスエリアの入口から、輪入道が転がり込んできた。
完全な姿が、そこで初めて見えた。
巨大な火の輪。だがタイヤだけではない。事故車の金属片、千切れたバンパー、ヘッドライトの割れた破片、焼けたゴムの塊、それらがぐちゃぐちゃに絡み合って一つの円を作っている。中央には鬼面。髪の代わりに黒煙が揺れ、歯の間からは火花が散っていた。目だけがぎらぎらと生きている。輪の外周には細い腕のようなものが何本も生え、地面をひっかくたびに焦げた匂いが立つ。
古い輪入道が、現代の高速道路を喰って肥大した姿だった。だが、ただ肥えただけには見えなかった。事故車の残骸も、焼けた部品も、まるで同じ癖の悪さで選んで集めたみたいに噛み合っている。自然に膨れた怪異というより、道路のいちばん嫌な記憶だけを寄せて育てた姿だった。
怪物は転がりながら、サービスエリアの路面を試すように回った。その回転が、さっきまでよりわずかに鈍い。
弦は気づいた。走行レーンではないからだ。道そのものの連続したリズムがここにはない。駐車場の白線、停止したトラック、区切られたマス目。高速の上ほど自由に力を引き出せない。
「やっぱり弱る」
駆が言った。
「走ってる道路の振動が一番の餌だ」
「なら、ここで止めるぞ」
弦はレスポールを構えた。
輪入道が唸る。低い。だが高速上ほどの圧ではない。代わりに、止まったものをもう一度動かそうとするような嫌な力があった。停車中のトラックの車体が、わずかに軋む。自販機のガラスが震える。
「駆!」
「もう来る!」
駆がパッドを叩いた。
鳴ったのは、トラックのアイドリングを核にした重いビートだった。走るための低音ではない。止まっているエンジンの、じっと耐える音。その上に自販機のモーター音が細く回り、サービスエリア全体の白い照明の唸りまで混ざる。
地面が固定される感覚があった。
蓮が館内放送のマイクへ口を寄せる。
スピーカーから声が広がる。ライブハウスと違い、音は散る。反響も不均一だ。だが澪がさっき位置を指定した意味が分かった。駐車場の壁面、屋根の軒、ガラスの反射、その全部を使って、声が散らばるのではなく巡るように回っていく。
「止まれ
逸れるな
ここはお前の道じゃない」
短い言葉が、サービスエリア全体へ落ちる。
輪入道の回転が一瞬だけぶれた。
そこへ弦のギターが入る。
最初は高め。車輪の外周を削るための音。金属片が弾ける。火花が散る。だが輪入道は止まらない。むしろ鬼面が嗤い、急加速してこちらへ突っ込んでくる。
速い。
高速道路の直線と違い、ここでは急な軌道変更ができる。輪入道は駐車スペースの白線を滑るように曲がり、右から左へ、左から右へと進路を変える。見た目よりずっといやらしい。
「弦、正面受けるな!」
澪の声。
弦は半歩ずれてかわしざまにギターを打つ。火の輪が肩を掠める。熱い。だが深くは入っていない。
駆のビートが一段深くなる。
「今のままだと速さに負ける!」
「じゃあ止めろ!」
蓮が言い返す。
「やってる!」
館内放送のスピーカーがもう一度鳴る。今度の真言は短くない。息を深く使う。語尾を伸ばし、言葉そのものを輪の進路へ絡ませる。
輪入道が強引にそれを引きちぎる。
鬼面が口を開き、黒い火花を吐いた。それが路面へ落ちた瞬間、アスファルトの底から鈍い震えが返る。駐車場の止まっている気配そのものを揺らして、再び速度を取り戻そうとしているのだ。
「しつこいな……!」
蓮が歯を食いしばる。
澪は駐車場全体を見ていた。人はもうほとんど屋内へ避難している。照明の明暗。トラックの位置。自販機の並び。視線が走る。
「駆、アイドリングだけじゃ足りない!」
「分かってる!」
「定常音じゃなくて、停止の拍を作って!」
その言葉で、駆の目が変わった。
パッドを叩き、今度はトラックのエアブレーキ音、駐車した車のハザード音、自販機の取り出し口が閉まるときの硬い音まで混ぜる。止まる、待つ、閉じる。そういう停止の音だけでビートを再構成する。
サービスエリアの空気が、そこで一度固まった。
輪入道の回転が明らかに鈍る。
「今!」
澪が叫ぶ。
「弦、影を見て!」
弦は反射的に照明の下へ視線を落とした。
輪入道の影が路面へ落ちている。火の輪そのものより少し遅れて、黒い円が回る。その円の一箇所だけ、照明の反射が欠けていた。継ぎ目だ。外周の破片が噛み合っていない場所。つまり、いまこの怪物を保っている芯のずれ。
弦は深く息を吸った。
高ぶらせるのではなく、静める。指先だけを細くする。目の前の火ではなく、その奥のずれだけを見る。
温かいものが流れてくる。
古い夜道。車輪ではなく、木の車。火。旅人の恐れ。道に現れる鬼を、ただ一音で断つための手つき。
弦はレスポールを振り抜いた。
鋭い高音ではない。もっと乾いた、芯を持つ音。琵琶に近い一撃が、輪入道の影の継ぎ目へ真っ直ぐ落ちた。
同時に蓮の声が響く。
「還れ。ここは、走り続ける道じゃない」
駆の停止の拍がそこへ噛む。
輪入道が止まった。ほんの一瞬だが、完全に。
次の瞬間、鬼面が苦しげに歪む。輪の外周に絡んでいた事故車の破片が浮き、内側から火が噴き出した。回転しようとして回れない。進もうとして進めない。停止の音と、蓮の言葉と、弦の一撃が、怪物の走り続ける呪いを逆から縛っている。
「もう一発!」
澪の声。
弦は迷わなかった。
同じ場所へ、もう一度。乾いた一音が落ちる。今度は鬼面そのものに亀裂が入った。蓮の真言がその亀裂へ食い込み、駆のビートが輪の回転を完全に止める。
輪入道は高い悲鳴を上げた。
人のものでも、機械のものでもない。タイヤが焼ける音、ブレーキが悲鳴を上げる音、夜道で事故を見た人間の息が混ざったような、嫌な声だった。
そして砕けた。
輪が崩れる。金属片が地面へ散る。だがそれはすぐに灰のように軽くなり、焦げ跡だけを残して消えていく。中央の鬼面は最後までこちらを睨んでいたが、蓮の言葉がそれを包み、黒い煙になって空へ抜けた。
静かになった。
トラックのアイドリングだけが残る。自販機のモーター音。遠くの自動ドア。サービスエリア本来の生活音が、少し遅れて戻ってくる。
弦は息を吐いた。
肩が重い。腕も少し痺れている。だが立っている。さっきまで高速の上で持ちこたえるだけだったのが、ここではちゃんと勝ちに行けた。
蓮が館内放送のマイクを下ろし、汗を拭う。
「やっぱ高速の上でやらんで正解やったな」
「当たり前」
澪が即答する。
「勝てる場所で戦わないと、勝っても意味がないでしょ」
その言い方は澪らしかった。冷たいようでいて、少しも間違っていない。
駆は駐車場の焦げ跡を見ながら言った。
「記録できた。道路の連続振動に依存してた。やっぱり場所を切ると弱る」
弦はレスポールを少し下げた。
「つまり、逃げたんじゃなくて、持っていったわけか」
「そう」
澪がようやく、少しだけ笑った。
「戦う場所、間違えなかったでしょ」
その言葉に、弦は小さく笑い返した。
サービスエリアの館内から、事情の分からない運転手たちが少しずつ顔を出し始める。誰も輪入道そのものは見えていないのかもしれない。ただ、妙に嫌な風と振動が通り過ぎたことだけは覚えているようだった。自販機が一台壊れ、駐車場のアスファルトには円形の焦げ跡が残っている。
それで十分だった。
全部を理解される必要はない。ただ、誰も死ななかった。それがいまは大事だった。
蓮が伸びをする。
「疲れた……深夜のSAで鬼退治って、字面だけ見るとかなり終わってるな」
「お前の感想はだいたい軽い」
駆が言う。
「軽く言わんとやってられんやろ」
「それは分かる」
弦が言うと、蓮が少し笑った。
澪は壊れた自販機の前に立ち、館内スタッフへ短く頭を下げていた。事情を全部話すわけではない。ただ、現場を戻すための言葉だけを選んでいる。その背中を見て、弦は思う。
この人は戦わない。けれど、この人がいないと勝ち方が変わる。たぶん、自分たちはまだ倒すことしか考えていない。澪はもっと先――勝ったあとに人が戻れるかどうかまで見ている。
それが少し、頼もしかった。
高速道路の向こうでは、まだ夜が続いている。
暗い道。流れる車。どこまでも続く白線。そのどこかに、また別の怪異が潜んでいるのかもしれない。だが今夜は、一つ分かったことがある。
出た場所で殴るだけが戦いじゃない。
勝てる場所へ持っていくことも、音の仕事だ。
弦はレスポールをケースへ戻しながら、焦げた路面をもう一度見た。
初めて、少しだけ勝ちに行った感じがした。ただ、あの輪がただの夜道の怪異ではなく、もっと嫌な記憶だけを選んで太らされたものだという感じだけは、最後まで消えなかった。




