第30話 そして、新しい朝のメロディ
事件のあと、世界は驚くほど普通の顔で続いた。
ニュースでは、大規模フェスでの一時的な混乱として処理された。
機材トラブル、照明系統の異常、群衆心理による局地的パニック、SNSでは集団幻覚だったのではという雑なまとめまで出た。映像はいくつも上がったが、肝心なところはどれもノイズに潰れ、都合の悪いものほど光の異常や音飛びとして片づけられていった。
誰かが全部を説明しきれたわけじゃない。でも、世界というのはそういうものだ。
説明のつかない出来事が起きても、表向きの名前を貼れば、人はだいたい前に進める。
それでいいのかもしれない、と弦は思う。少なくとも、あの夜の客たちが毎日王の音を思い出して立ち止まるよりは、その方がましだ。
ただ、知っている人間は知っている。音の底には、まだ何かが潜んでいる。
完全に消えたわけじゃない。街のざわめきの奥、ライブハウスの暗がり、会社の空調、スマートフォンの通知音、そういう現代の音の裏側に、まだ薄く残っているものはある。
それでも今は、前より少しだけマシだ。少なくとも、こちらにはそれを聞き取る耳と、返す音がある。
地の空気は、数か月前とそんなに変わらなかった。
換気扇は相変わらず少しうるさい。機材はきちんと片づいている時と、そうでもない時がある。コンビニの袋は時々机の端に溜まり、誰かがまとめて捨てる。壁のスケジュール表は前よりちゃんと更新されるようになったが、澪の赤ペンの跡は相変わらず容赦がない。
そして、地下室の真ん中には今夜も四人がいた。
「おい、それ俺のプリンやろ」
蓮が冷蔵ケースの前で言う。
「名前書いてない」
駆が端末を見たまま返す。
「名前書く文化のバンド、嫌やわ」
「じゃあ取られる文化で生きろ」
「お前ほんま無愛想の質が悪いな」
蓮のその言い方に、弦はギターを抱えたまま少しだけ笑った。
うるさい。相変わらず、蓮はうるさい。でも前より喉を雑に使わない。声を張る前に一瞬だけ呼吸を置く癖が、もう普通の会話にも出ている。
駆は相変わらず無愛想だ。だが、無愛想なまま前よりよく見る。地のどこに何がいるか、小さなノイズがどこへ溜まるか、言わなくても先に気づいていることが増えた。
澪は机の上の資料を見ながら言う。
「来週の現場、入り時間朝九時だから遅れないで」
「朝九時て」
蓮が嫌そうな顔をする。
「人の生活に向いてへん」
「夜型を免罪符にするのやめて」
「免罪符やなくて体質や」
「その体質を現場が考慮する義理はない」
相変わらず現実的だ。でも、その現実感が前より少しだけやわらかくなった気がしないでもない。たぶん、気のせいではない。
澪は相変わらず厳しい。ただ、四人の中で言葉を削らなくていい場所と、削るべき場所の使い分けが前より自然になった。
地はもう、敗北の残響を引きずる地下室ではなかった。もちろん、あの夜のことが消えたわけではない。でも、敗北も別離も再集結も全部通った上で、また続いている場所へ戻ってきていた。
今夜のライブは、小箱だった。
渋谷の地下。キャパ七十。売れたとはまだ言えない。客は多くない。三十人も入ればいい方だ。
数万人のフェスを経たあとにこの数字を見ると、坂本あたりなら昔なら自虐の一つも飛ばしたかもしれない。でも弦は、いまはそれを悪いとは思わなかった。
少ない客の顔が見える。呼吸が見える。どこで熱が上がり、どこで不安が混じるかも見える。
大きい場を知ったあとだからこそ、小さい場の輪郭が前よりはっきり見える。
「緊張してる?」
澪が楽屋口で聞いた。
弦はレスポールのストラップを直しながら言う。
「少し」
「いい傾向」
「褒めてる?」
「たぶん」
その返しに、弦は少しだけ笑う。
前より深みを増したのは、音だけじゃないかもしれない。四人のこういう短い会話の噛み方も、前より少し静かで強くなっている。
蓮は喉を一度鳴らしてから、マイクを持ち上げた。
「今日の新曲、最初はあんま飛ばさへんから」
「分かってる」
弦が答える。
「前に出すな、やろ」
「そういうことや」
駆はPA卓の方へ目をやったまま、短く言った。
「今日は箱が素直だ」
「珍しく優しいな」
蓮が言う。
「素直な箱は、壊れやすい」
「撤回するわ」
そんなやりとりをしながら、四人はステージへ向かった。
照明は強くない。天井は低い。客席との距離は近い。それがいいと思える夜だった。
最初の曲をやる。客が揺れる。箱の呼吸が少しずつ合ってくる。何も起きない。それは退屈ではなく、むしろ大切なことだった。
二曲目のあと、弦はギターのボリュームを少し落とした。
蓮がマイクへ寄る。
「次、新曲」
客席が少しざわつく。知らない曲へのざわめきだ。期待と不安が半分ずつ混じる、あの感じ。
「タイトルは」
蓮が少しだけ間を置いた。
「『暁』」
その言葉が落ちる。
弦はレスポールのネックを握る。
暁。不退転のレクイエムが戻すための戦いの曲なら、こちらはそのあとに来る朝のための曲だ。
派手な勝利宣言じゃない。全部が晴れたみたいな明るさでもない。長い夜のあとで、それでも少しだけ輪郭が見える時間の曲。
駆が拍を置く。以前よりずっと少ない音数。でも、そこにあるべき空白まで含めて拍になっている。
弦は最初の一音を鳴らした。
高い。だが、昔の弦ならもっと前へ出していた。
今は違う。深く通る。小さな箱の奥まで、音量ではなく温度で届く感じがある。
その瞬間、弦は少しだけ息を止めた。
返ってくる。前にも、音が返ってこなかったわけじゃない。ライブハウスなら壁は近い。アンプを鳴らせば、反響はいくらでもある。でも今感じたそれは、壁の跳ね返りじゃなかった。
客の呼吸だった。
前列の一人が、そこでふっと顔を上げる。右端で腕を組んでいた男が、半拍遅れて肩の力を抜く。後ろで様子を見ていた女が、ほんの少しだけ足の置き方を変える。その全部が、音のあとに返ってくる。
押しつけていない。なのに届いている。
弦はそこで、ようやく身体の方で分かった。自分の音は、もう前みたいに一人で前へ突っ込む音じゃない。
蓮の言葉が場を開き、駆の拍が足元を支え、澪の目が箱の呼吸を守っている。その上を、自分の一音が通っていく。
一人で鳴らしているんじゃない。四人で通して、その先の客まで含めて、はじめて曲になっている。
昔、「独りよがりだ」と言われた時、何も言い返せなかった。悔しかった。腹が立った。でも本当は、自分でも少し怖かったのだと思う。届いていないのに、届いていることにしていたんじゃないかと。
今は違う。
――ああ、届いてる。
派手な確信じゃなかった。勝ち名乗りみたいな気持ちよさでもない。もっと静かで、もっと深い手応えだった。
独りよがりじゃない。少なくとも今この瞬間、自分の音はちゃんと誰かへ渡って、誰かから返ってきている。
蓮の言葉が、そのあとへ置かれる。
真言ほど強くない。でも、ただの歌詞でもない。夜を全部否定せず、そのまま朝へ繋ぐための言葉。
澪はステージ袖で、客の動きと照明の返りを見ていた。今日は怪異の気配は薄い。でもゼロではない。
音の底にまだ潜むものへ、四人の音がここには入れないと静かに線を引いているのが分かる。
駆の配置が少し変わる。箱の左奥、前なら小さなONIが好みそうな影の溜まりへ、わざとノイズを一歩だけずらす。
そこへ弦の高音が通る。蓮の一節が落ちる。見えない何かが、そこで静かに散る。
客は気づかない。気づかなくていい。ただ、今夜の箱の空気は最後までちゃんと生きたまま残る。それで十分だった。
『暁』を通し終えたあと、箱の中には少しだけ長い静けさがあった。
悪い静けさではない。次に何を言えばいいか、誰もすぐには決められない時の静けさだ。
弦は客席を見た。多くない。それでも、一人一人の顔が見える。
前列の女が少し涙ぐんでいる。後ろの男は腕を組んだまま、でも目だけはさっきよりやわらかい。カウンター寄りの二人組は、曲の途中からふざけるのをやめていた。
数万人を前にした夜を知っている。世界の底が揺れる音も知っている。
それでも、この三十人に届くことの方が、今はずっと確かに思えた。
拍手が起こる。大きくはない。でも、ちゃんとその人たち自身の体から出た音だった。
弦は小さく頭を下げた。
一度世界を救った者にしか出せない重み、なんて、自分では思いたくない。だが、あの夜をくぐった音は、やっぱり前のままとは違う。
無邪気ではいられない。でもそのぶんだけ、軽くない。それでいい。
さっき感じた手応えは、気のせいじゃなかった。自分の音は、ちゃんと一人を抜けて、誰かへ届く音になっていた。
ライブのあと、地に戻ると、やっぱり機材とコンビニ飯が少し散らばった。
蓮が「今日のはようやく俺の詩心が世界に追いついたな」とか言い出し、駆が「追いついてない」と即答し、澪が「片づけてから喋って」とまとめて切る。
弦はレスポールを膝に置いたまま、そのやりとりを聞いていた。
うるさい。無愛想だ。現実的だ。全部相変わらずだ。
でも、それが前より少しだけ愛おしいと思った。
たぶん、続いていくものはこういう形をしている。
全部をきれいに終わらせるんじゃなくて、少し散らかったまま、次の音のために残っている。
スマートフォンが机の端で震える。
澪が画面を見る。短いメッセージ。新しい現場の話らしい。
「来た?」
弦が聞く。
澪は頷く。
「小さいライブバー。音が変だって」
「変って雑やな」
蓮が笑う。
「雑な依頼ほど当たりやすい」
澪の返しは相変わらずだ。
駆が端末を閉じる。
「行くのは明日でいい」
「珍しくやさしいやん」
「今日はもう食って寝ろ」
「今のちょっと感動したわ」
「気のせいだ」
その会話の最中、弦はレスポールの弦を一本だけ鳴らした。
カラン、と乾いた高音が地下室に落ちる。
前より少し深い。でも、まだ完成ではない。その未完成さが、むしろありがたかった。
物語はまだ続く。
音の底には、まだ何かが潜んでいる。世界はまた普通の顔で朝を迎えるだろう。その裏で、四人はまた次の現場へ行く。
弦はギターを抱えたまま、地の薄い天井を見上げた。
夜は終わる。でも音は終わらない。
その先に、ほんの少し新しい朝の匂いがした。




