伍の罪
選択の先にあるのは、解放か、それとも――。
裁定空間に、違和感があった。
床は相変わらず白く、どこまでも続いているはずなのに、妙に近い。
空間が、狭い。
息を吸うと、胸の内側にまで白が入り込んでくるような感覚がした。
「……なあ」
俺は、隣に立つ少女を見た。
「今回の“対象”は?」
少女は答えない。
ただ、静かにこちらを見ている。
その視線に、胸の奥がざわついた。
「……おい」
呼びかけた瞬間、床に光の輪が浮かび上がった。
いつもと同じはずの演出。
なのに、嫌な予感だけが消えない。
光が強くなり――
そこに、立っていたのは。
「……え?」
思わず、声が漏れた。
そこにいたのは、俺だった。
正確には、“俺によく似た男”。
同じ背丈。
同じ服装。
同じ、疲れた目。
鏡を見ているようで、でも決定的に違う。
あいつは――怯えていない。
「……冗談だろ」
喉が乾く。
《対象:No.441》
《罪状:未確定》
視界の端に、見慣れた文字が浮かぶ。
「……は?」
俺は、自分の手を見た。
カードは、まだ出ていない。
「ちょっと待て……」
「441って……それ、俺の番号だろ……?」
少女が、淡々と告げた。
「そう」
「……は?」
頭が追いつかない。
「お前……何言って……」
「俺は裁定者だぞ……?」
「今までは、ね」
少女の声は、静かだった。
目の前の“俺”が、口を開く。
「……なあ」
「これ、どういう状況?」
声まで、同じだった。
背筋が冷たくなる。
《裁定準備中》
《選択肢を生成します》
「やめろ……」
思わず、前に出る。
「やめろって言ってんだろ……!」
「対象がいないなら、今日は終わりだ……!」
少女は、首を振った。
「対象はいる」
「……違う……!」
胸の奥で、何かがひび割れた。
「俺は……」
「誰も殺してない……」
「盗みも、暴力も……!」
言葉が、途中で詰まる。
――本当に?
目の前の“俺”が、こちらをじっと見つめている。
「……そうだな」
「俺も、そう思ってた」
「……黙れ」
「でもさ」
そいつは、少しだけ笑った。
「見て見ぬふりは、得意だっただろ?」
心臓が、大きく跳ねた。
《選択肢生成完了》
俺の前に、二枚のカードが現れる。
《有罪》
《無罪》
指が、震える。
「……ふざけんな……」
声が、掠れた。
「こんなの……」
「裁定じゃない……!」
《残り60秒》
少女は、何も言わない。
ただ、その場に立って、俺を見ていた。
まるで――
ずっと、この瞬間を待っていたみたいに。
◆ ◆ ◆
《残り50秒》
数字が、やけに大きく見えた。
「……無罪だ」
俺は、即座に言った。
「こんな裁定、成立するわけがない」
「俺は……ただの一般人だ」
指を伸ばし、《無罪》のカードに触れようとする。
――触れない。
指先が、透明な壁にぶつかったみたいに弾かれた。
「……は?」
もう一度、強く押す。
反応は、同じ。
《無効》
《選択できません》
喉が鳴った。
「……なんでだ……」
目の前の“俺”が、静かに言う。
「そりゃそうだろ」
「……黙れ」
「無罪ってのはさ」
「“何もしなかった”って意味じゃない」
その言葉が、胸に刺さる。
《残り40秒》
視界が歪み、景色が切り替わった。
白い空間が、崩れる。
――駅のホーム。
――満員電車。
――押し合う人間。
見覚えがありすぎた。
目の前で、若い男が怒鳴られている。
スーツ姿の中年。
理不尽な言いがかり。
「……ちが……」
「俺じゃ……」
男の声は、かき消される。
俺は――
そこに、立っている。
ただ、見ているだけで。
「……あ……」
少女の声が、背後から響いた。
「止められたね」
場面が、切り替わる。
――夜道。
――酔った連中。
――蹲る誰か。
笑い声。
「やめとけよー」
「マジで泣いてんじゃん」
俺は、少し距離を取って、通り過ぎる。
「関わりたくない」
「面倒ごとは、嫌だ」
そう思いながら。
《残り30秒》
「……違う……」
声が、震えた。
「俺は……」
「俺が出ていっても……何も変わらない……」
目の前の“俺”が、首を傾げる。
「変わらないかどうかを」
「決める前に、逃げただろ?」
場面が、また切り替わる。
――職場。
――誰かが、吊し上げられている。
冗談みたいな噂。
責任の押し付け。
俺は、黙って書類を見ている。
「巻き込まれたくない」
「余計なことは言わない方がいい」
《残り20秒》
「……やめろ……」
膝が、震える。
「……それは……」
「罪じゃない……!」
「そうだな」
目の前の“俺”が、頷いた。
「法律的には、な」
心臓が、嫌な音を立てる。
「でもさ」
「それでも、誰かは壊れてた」
《残り15秒》
少女が、初めて口を開いた。
「あなたは」
「悪いことをした“人”を」
「一度も裁かなかった」
「……!」
「止めず、告げず、責めず」
「ただ、通り過ぎた」
《残り10秒》
「……それが……」
息が、うまく吸えない。
「……罪だって言うのか……?」
少女は、静かに頷いた。
「“自分は関係ない”と」
「思い続けたこと」
「……っ……」
《残り5秒》
カードが、重く感じる。
《有罪》だけが、やけに近い。
目の前の“俺”が、微笑った。
「なあ」
「他人を裁くの、楽しかったろ?」
言い返せなかった。
◆ ◆ ◆
《残り3秒》
「……待て……!」
俺は、縋るように《無罪》のカードへ手を伸ばした。
「違う……!」
「俺は……誰も……!」
《無効》
《選択できません》
指先が、空を掴む。
《残り2秒》
「クソ……!」
「こんなの……おかしいだろ……!」
声が裏返る。
「裁けって言ったのは……」
「お前らだろ……!」
少女は、ただ、見ていた。
怒りもない。
蔑みもない。
あるのは――長い時間を生きた者の目。
《残り1秒》
「……あなたの罪はね」
少女の声だけが、世界に残った。
「“選ばなかったこと”」
《時間切れ》
光が、弾ける。
喉に、あの輪が絡みつく。
呼吸が、できない。
「……っ……!」
少女は、淡々と言葉を重ねる。
「間違っていると分かっていたのに」
「声を上げなかった」
「誰かが傷つくのを見ても」
「関係ないふりをした」
視界に、映像が流れ込む。
――助けを求める目。
――視線を逸らす自分。
――何も言わず、去る背中。
「……それでも……」
喉が潰れた声で、必死に否定する。
「……俺は……」
「善人で……いようと……」
少女は、首を振った。
「善人じゃない」
「安全な場所に立っていただけ」
「……っ……」
「私も、同じだった」
ほんの一瞬だけ、少女の声が揺れた。
「最初に裁いたのは、他人じゃない」
一拍、間。
「――何も言えなかった、昔の私自身だった」
締め付けが、強くなる。
「裁く立場に立てば」
「自分は違うと思えるから」
「正しい側にいると」
「錯覚できるから」
視界が、白に溶けていく。
「……違う……」
「……そんなつもりじゃ……」
「つもりは」
「いつも、最後に無意味になる」
少女は、静かに言った。
「ここに来た裁定者は」
「みんな、同じだった」
「悩んで」
「苦しんで」
「――そして」
「自分は例外だと思い始める」
光が、俺を包む。
意識が、ほどけていく。
最後に見えたのは――
少女の、少しだけ伏せられた瞳だった。
───LOG.441-END───
――少女の視点。
白い空間から、また一つの気配が消えた。
《裁定完了》
私は、しばらく動かなかった。
「……また、だめだった」
独り言。
裁定者に選ばれ、
正しさを恐れ、
やがて、それに酔う。
「……一緒に……」
「できると思ったんだけどな」
ここは、長い孤独の場所だ。
裁く役目も、
見届ける役目も、
ずっと、私ひとり。
床に、新しい光の輪が浮かぶ。
次の“候補”。
正しさを疑わない目だった。
私は、ゆっくりと歩き出す。
「……次は」
光の向こうに、人影が揺れる。
「この人、かな」
白い世界に、足音が一つ。
裁定は、続く。
終わることなく。
そしてまた――
“自分は罪を犯していない”と信じている誰かが、
審判は終わった。しかし、真の戦いは、ここから始まるのかもしれない。




