弐の罪
選択は、いつも重くのしかかる。真実か偽りか。己の審判が、静かに動き出す。
意識が、唐突に切り替わった。
さっきまで漂っていた霧も、灰も、少女の声もない。
気づけば俺は、また同じ白い床の上に立っていた。
「……戻った……?」
《裁定者No.441》
《次の対象を転送します》
間髪入れず、床に白い光の輪が浮かび上がる。
「ちょ、待――」
言い終わる前に、人影が現れた。
若い男だった。
二十歳そこそこ。
細身で、少し背中を丸めて立っている。
安っぽいジャケットに、擦り切れたスニーカー。
街中ですれ違っても、まず気に留めないタイプ。
「……え……?」
男は周囲を見回し、最後に俺を見て、固まった。
「……あの……ここ……どこですか……?」
声が震えている。
怯えはしているが、取り繕う余裕もなさそうだった。
《対象:No.812》
《罪状:殺人》
《証拠一致率:62.31%》
「……は?」
思わず声が漏れる。
「殺人……?」
「こいつが……?」
男の顔から、一気に血の気が引いた。
「ち、違います……!」
「俺……そんな……!」
その必死さが、逆に胸に刺さる。
少女が、いつの間にか横に立っていた。
「まあまあ」
「まだ裁いてないでしょ」
「いや……」
「一致率、低すぎだろ……」
数字を指差す。
「六割って……」
「ほぼグレーじゃねぇか……」
「うん」
「だから、今回は“選択”になる」
嫌な言葉だった。
男は、縋るように俺を見る。
「お願いです……!」
「俺……本当に……!」
その瞬間、まただ。
頭の奥に、知らない記憶が流れ込んでくる。
――夜の路地。
――雨音。
――濡れたアスファルト。
フードを被った男が、ナイフを握っている。
目の前には、怯えた青年――目の前の“彼”だ。
――「金を出せ」
――「やめてください……!」
押し合いになる。
足がもつれる。
視界が揺れる。
「……っ……」
映像は続く。
――突き飛ばした。
――ただ、それだけ。
――相手が、後ろに倒れ――
鈍い音。
――動かなくなった。
俺は、無意識に息を止めていた。
男が、震える声で言う。
「……俺……」
「逃げようとしただけなんです……」
「殺すつもりなんて……本当に……」
嘘かどうかは、分からない。
でも――
さっきの男とは、明らかに違う。
《制限時間:30秒》
視界の端で、赤い数字が点滅し始めた。
喉の奥が、ひりつく。
俺の手の中に、カードが現れる。
《有罪》
《無罪》
「……クソ……」
正解なんて、どこにもない。
それでも――
選ばなきゃいけない。
俺は、その事実から
もう、目を逸らせなくなっていた。
◆ ◆ ◆
時間の音が、やけに大きく聞こえた。
《残り20秒》
心臓の鼓動と、赤い数字が重なる。
青年は、膝が抜けたみたいにその場に座り込んだ。
「……お願いします……」
「俺……人を殺すような人間じゃ……」
その言葉に、胸の奥がひくりと引きつる。
――さっきの映像。
――突き飛ばした腕の感触。
――倒れる瞬間の、相手の目。
「……殺すつもりは、なかった……」
俺が呟くと、少女がちらりとこちらを見る。
「“つもり”はね」
「結果の前では、あんまり意味ないよ」
「……っ……」
分かってる。
分かってるけど――。
《残り15秒》
もう一度、記憶が流れ込む。
今度は、事件の“あと”。
――雨の中、立ち尽くす青年。
――倒れた男の脈に、触れる。
――微かに首を振る。
――「……うそだろ……」
スマホを取り出す。
震える指。
だが――画面を見つめたまま、動かない。
――逃げる。
――振り返らない。
「……呼べなかった……」
青年が、嗚咽混じりに言った。
「救急車……」
「警察……」
「頭では分かってたのに……」
《残り10秒》
俺は、歯を食いしばった。
「……それで……」
「一生、背負うつもりだったのか……?」
青年は、黙って頷いた。
その目は、怯えよりも――
諦めに近かった。
「……毎日……」
「ニュースが怖くて……」
「人の顔、まともに見れなくなって……」
少女が、淡々と言う。
「でもね」
「それで、死んだ人は戻らない」
《残り5秒》
正論だ。
反論できない。
でも――
俺の頭に、最初の男の顔が浮かんだ。
子どもを殴りながら、
自分を正当化していた、あの目。
そして、今目の前にいる青年の、
壊れそうな表情。
「……クソ……」
俺は、カードを見つめた。
《有罪》
《無罪》
“結果”だけを見れば、有罪。
でも――
俺が裁いているのは、
本当に“罪”なのか。
それとも――
“人”なのか。
《残り1秒》
俺は、震える指で――
一枚のカードに触れた。
光が、空間を満たす。
青年の目が、大きく見開かれる。
「……え……?」
「……ちょ、待――」
言葉は、最後まで形にならなかった。
身体が、ゆっくりと光にほどけていく。
悲鳴でも、感謝でもない、
意味を持たない息だけが漏れた。
次の瞬間、そこには何も残らなかった。
静寂。
《裁定完了》
俺は、しばらく動けなかった。
「……今の……」
「……俺が……」
言葉が続かない。
少女が、いつの間にか隣に立っていた。
「後悔する?」
「……分かんねぇよ……」
「そう」
少女は、それ以上何も言わなかった。
終わりのない問いに、答えはまだない。次の審判が、静かに迫っている。




