壱の罪
何も覚えていない。ただ、目の前に広がる暗闇と、自分の中に渦巻く違和感。ここからすべてが始まる。
薄い霧の中で、俺は立っていた。
足元は、どこまでも続くコンクリートの床。
境目のない灰色が、視界を塗り潰している。
天井は見えない。空なのか、ただの暗闇なのかも分からなかった。
息を吸うと、湿った冷気が肺の奥にまとわりつく。
吐いた息だけが、白く浮かんで消えた。
「……ここ、どこだよ」
声が遅れて返ってくる。
反響というより、誰かに一拍遅れて真似されているみたいだった。
そのときだ。
目の前に、黒いカードが一枚、音もなく現れた。
宙に浮いたまま、ゆっくりと回転している。
《No.441》
《裁定者としての権限を付与します》
「……は?」
意味が分からない。
夢にしては、感覚がやけに生々しかった。
カードに手を伸ばすと、逃げることもなく、ひらりと回って指先に吸い付いた。
触れた瞬間、頭の奥を誰かに引き裂かれる。
視界が歪み、知らない映像が流れ込んできた。
狭いアパートの一室。
散らかった床。
泣き声。
幼い子どもが、隅で丸くなっている。
その前に立つ、大柄な男。
酒の匂いと、荒い息。
「うるせぇ……!」
鈍い音。
子どもの体が、壁に叩きつけられる。
「……やめろ……!」
思わず叫んだ瞬間、映像は途切れた。
代わりに、床に白い光の輪が浮かび上がる。
その中心に、人影が現れた。
中年の男だった。
安物のスーツに、脂ぎった髪。
周囲を見回し、状況が理解できないまま固まっている。
「……な、なんだよ……ここ……」
男は俺を見るなり、必死に駆け寄ってきた。
「助けてくれ! なあ、兄ちゃん!」
「金なら払う! 俺、仕事もしてるし……悪いことなんて……!」
言葉の途中で、男の身体がぴたりと止まった。
首元に、細い光の輪が巻き付く。
《対象:No.774》
《罪状:児童虐待致傷》
《証拠一致率:99.98%》
視界の端に、見えないはずの文字が浮かぶ。
「……待てよ」
喉が勝手に動いた。
「これ……俺が……?」
《はい》
《裁定者No.441が裁定を行ってください》
男の目が、俺を捉えた。
怯えと、焦りと、怒りがないまぜになった視線。
「おい……冗談だろ……?」
「しつけだよ、あれは……!」
「ガキなんて、殴らなきゃ言うこと聞かねぇんだ……!」
俺の手の中に、二枚のカードが現れる。
《有罪》
《無罪》
指が、わずかに震えた。
「……俺は……」
「ただの一般人だぞ……」
《裁定を拒否することはできません》
男の記憶が、また流れ込む。
――泣き声がうるさい。
――言うことを聞かせているだけだ。
――親なんだから、何をしてもいい。
胸の奥が、冷たくなる。
「……クソ……」
残り時間が、赤く点滅し始めた。
男が叫ぶ。
「頼む……!」
「一度だけだ……もうやらねぇ……!」
嘘だと、分かった。
理由はない。ただ、そう感じた。
俺は歯を食いしばり、《有罪》のカードに触れた。
光の輪が、一気に収縮する。
「ぎ……っ……!」
男の身体は音もなく崩れ、灰のように床へ溶けていった。
静寂。
膝が笑い、その場に座り込む。
「……殺した……」
《裁定完了》
そのとき、背後から拍手が聞こえた。
ぱち、ぱち、ぱち。
振り向くと、少し離れた場所に少女が立っていた。
中学生くらいの見た目。
フード付きのパーカーに、やけに大きなブーツ。
「初回にしては、悪くないね」
「……誰だよ……」
少女は、肩をすくめる。
「案内役」
「それ以上でも、それ以下でもないよ」
俺は、床に残った灰から目を逸らした。
「……なあ……」
「ここ……なんなんだよ……」
少女は、少しだけ笑った。
「裁きが行われる場所」
「そして――」
その先は、教えてくれなかった。
◆ ◆ ◆
少女は、俺の沈黙を待つこともなく歩き出した。
足音はほとんどしない。まるで、この床そのものに溶け込んでいるみたいだった。
「……聞いてる?」
「裁きが行われる場所、って言ったでしょ」
「それ以上でも以下でもないって言ったくせに」
自分の声が、やけに掠れて聞こえた。
喉の奥が、焼けるみたいに痛い。
少女は立ち止まり、振り返る。
「全部説明してほしい?」
「それとも、知りたくない?」
「……選べるのかよ」
「選べる“気がする”だけ」
そう言って、彼女は小さく笑った。
その瞬間、床に残っていた灰が、風もないのにふわりと舞い上がり、消えた。
まるで最初から、何もなかったみたいに。
《次の対象を選定中》
無機質な文字が、視界に浮かぶ。
「……まだやるのかよ」
「当たり前じゃん」
「一回だけで終わるなら、あなたを呼ぶ意味がない」
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
「俺、さっき……人を……」
「“裁いた”んでしょ」
少女は、あっさりと言い切った。
「殺した、とは違う」
「ここでは、それは“結果”でしかないから」
「……同じだろ……!」
声を荒げると、また遅れて反響が返ってきた。
怒りが、何倍にもなって自分に跳ね返ってくる。
少女は、少しだけ首を傾げる。
「じゃあ聞くけど」
「さっきの男、現実に戻した方がよかった?」
言葉に詰まる。
あの子どもの泣き声。
壁に叩きつけられる音。
何度も流れ込んできた、あの記憶。
「……それは……」
「答え出てるじゃん」
少女は、俺の胸の辺りを指で軽く突いた。
「あなたはもう、“裁いた側”なんだよ」
「自覚なくても、ね」
足元の床が、わずかに脈打つ。
心臓みたいに、どくん、と。
《準備完了》
遠くで、何かが“来る”気配がした。
「……なあ」
自分でも驚くほど、声が低かった。
「もし、俺が……」
「全部間違えたら、どうなる?」
少女は、少しだけ考える素振りをしてから答えた。
「その時は――」
一瞬、彼女の輪郭がノイズみたいに揺れる。
「あなた自身が、対象になる」
背中に、冷たいものが走った。
「……冗談だろ……」
「さあ?」
「それを決めるのも、人間だよ」
少女は歩き出す。
「ほら」
「次、来るよ」
逃げ場は、どこにもなかった。
床も、霧も、闇も――
全部、同じ場所に繋がっている。
俺は、無意識に拳を握りしめていた。
さっき触れた《有罪》の感触が、まだ指先に残っている。
そのことが、何よりも怖かった。
目を開けたその先に、まだ見ぬ世界の輪郭が揺れている。これは、審判の序章にすぎない




