2章 2話 冒険者ギルドへ
初登場人物紹介
ーーーモブ枠ーーー
アカリ:20歳ぐらいの女性。美人。優しい
宿主:アカリの父。
アーク:中堅の冒険者。悪いやつではないが酒が入ると厄介者
ーーー通常枠ーーー
エミリン:受付嬢。どこのギルドに行っても必ず彼女はいる。
ジエンペラー(怒鬼):S級冒険者。最強の名を冠する
ーーーーーー
固有名詞
『沈まぬ影』:この国サンセットに蔓延る裏ギルド。この国のすべての悪事にかかわっているとか。
「……ねえ、ユラ。本当になんなのよ、この屈辱的な状況は!」
門から少し離れた街道の脇で、ファイが地団駄を踏んだ。乾いた音が、踏み固められた土の上に何度も響く。サンセットの街へ続く巨大な石造りの門の前には、入国を待つ人々の長い列ができている。旅装の冒険者、商人の馬車、行商人の小さな荷車――本来なら雑多で騒がしいはずのその列は、しかし、不自然なほど「ある一点」を避けるようにして歪んでいた。
その中心にいるのは、不機嫌をそのまま形にしたような美少女と、その傍らでふよふよと宙に浮いている奇妙なぬいぐるみ(僕……もとい、今はアールだ)。
「どうしようね? これじゃ冒険者協会に行くどころか、街にすら入れない。あ、それと、この姿のときはユラじゃなくてアールと呼んでね」
僕がのんきな調子で言うと、ファイはさらに眉間のしわを深くした。
門番の話によれば、身分証がない場合は「信頼ある身分証保持者」に保証人になってもらえば入国できるらしい。制度としては筋が通っている。けれど、それはあくまで紙の上の話だ。
「もし保証した相手が街で不祥事を起こせば、責任はすべて保証人に降りかかる」
門番が淡々と口にしたその一言が、今も耳に残っている。
そんな爆弾を抱え込むような真似を、見ず知らずの旅人が引き受けてくれるはずがない。ましてや、ついさっきまで門前で大騒ぎを起こしていた僕たち相手に、だ。
しかも、状況をここまで最悪にしたのは、他ならぬファイ本人だった。
さっき、門番に入国を拒否された瞬間。
人間を見下す彼女のプライドが、乾いた音を立てて盛大に爆発したのだ。
「この私を誰だと思っているのよ! たかが人間が作った石造りの入り口を通るのに、なぜ許可がいるのよ!」
その絶叫と同時に、周囲の空気が一気に張り詰めた。
精霊である彼女が無意識に漏らした魔力は、目に見えない圧力となって大気を震わせ、重たい鉄板を被せたかのように周囲を押し潰した。
並んでいた馬車の馬たちは悲鳴を上げ、泡を吹いてその場に崩れ落ちる。
門番たちは顔から血の気を失い、腰を抜かして地面にへたり込み、まるで怪物でも目の前に現れたかのように震え上がっていた。
……ついでに、先ほどのインチキくさいクッキー男を勢いよく吹き飛ばしたのが、完全にトドメだった。
今では、さっきの大立ち回りを目撃していた旅人や商人たちが、ファイと目が合わないよう必死で視線を逸らし、どうか関わりませんようにと祈るような足取りで、遠巻きに列を進んでいる。
ファイは苛立ちを隠そうともせずにいう。
「ねえ、こんなルール守る必要あるの? 力で認識を狂わせるなり、空から飛び越えるなり、バレないように入国することぐらい簡単でしょ?」
「もちろん。ぬいぐるみに不可能はないもん」
冗談めかして言いながら、僕は頭の中で可能な手段をいくつも思い浮かべていた。
塀を飛び越える。門番の視界から存在を消す。人混みに紛れて堂々と通過する。はたまた、塀を破壊して突き進む。
正直、どれも難しくはない。この最高のぬいぐるみアールの身体能力と、僕自身のフィジカルを持ってすればなんでも出来るだろう。
「でも、冒険者になる前に問題を起こすと、そもそも登録を断られるかもしれない。少しくらいは普通の冒険者活動もしてみたいじゃん」
それに、と僕は続ける。
「何より、僕たちはこれから『表の活動』を始めるんだから、最初から指名手配されるのはスマートじゃないよ。不法入国者の肩書きじゃ、土地や権利を買うときに、確実に足元を見られる」
僕たちが今回目指しているのは、「ぬいトピア」の建設のための土台だ。主に必要なことは、冒険者として、正当な手続きを踏んで権利を積み上げていく必要がある。
よくを言えば、偉い人と会って交渉して、良い関係プラス広大な土地がもらえたらなんて。
最初の一歩で「お尋ね者」になってしまうのは、あまりにも効率が悪すぎる。
「でも、どうしようかな。保証人になってくれそうな人、全然見当たらないし」
僕は周囲に並んでいる人たちへ、つぶらな瞳を向けてみた。
一人の商人と目が合いそうになった、その瞬間。
「ヒィッ!」
短い悲鳴を上げて、彼は慌てて荷馬車の影に隠れてしまった。
……うん、だめだね。
もはや、僕たちはこの場にいる旅人たちにとって「歩く時限爆弾」扱いだ。
さっきファイが放った威圧の余韻が、まだ空気の底に沈殿していて、誰の顔にも「関わりたくない」とはっきり書いてある。
中には、列から完全に離れて引き返していく者までいた。
門をくぐるよりも、僕たちと同じ空間に留まる方がよほど危険だと、本気で思われているらしい。
子どもを連れた親は抱き寄せるように背を向け、商人は荷車の陰から恐る恐るこちらを窺い、門番でさえ「仕事だから」という義務感だけで、この場を去りたいのにここに踏みとどまっているのがよく分かる。
――この場にいる全員が、同じ認識を共有していた。
関われば、ただでは済まない、と。
そして、本当にそうなりかねない発言をファイはするわけで
「……無理やり保証人になってもらう?」
ファイが、まるで天気の話でもするみたいな調子で、物騒な提案を口にした。
「断ったらどうなるか分かってるわね?」とでも脅迫するつもりだろう。
「うーん、それはちょっと賢くないよ、ファイ。効率が悪い」
僕は首を横に振った。 別に、善悪の基準で反対しているわけじゃない。正直、そこはどうでもいいんだ。 ただ、脅して無理やり判を押させたとしても、後で役所に「あいつらに脅されたんです!」と泣きつかれたら面倒なことになる。反感を買うのは、後々のリベンジのリスクという面倒ごとを抱えることと同義だ。
「それじゃあどうするのよ」
「そうだね……」
不正解が「強迫による反感」なら、正解はその真逆だ。 「感謝による進んでの協力」。 向こうから「ぜひ保証人にならせてください!」と言ってくるような状況を、こちらで作ってしまえばいい。
「恩を売って入る作戦で行こう」
僕はパチン、とぬいぐるみの短い指(指何て存在しない)を鳴らした。もちろん音は鳴らないけど、気分だ。
「手頃な魔物を呼び寄せて、この行列を襲わせる。それを僕たちが颯爽と助けるんだ。そうすれば、恩を盾に保証人なしでも快く街に入れてくれるし、なんならちょっとした有名人になれるかもしれない。一石二鳥、いや三鳥だね」
僕は想像して、ぬいぐるみの口角(縫い目)が上がるのを感じた。 「どの魔物が一番『絶望感』があるかな? やっぱり、少し大きめで見た目が威圧感あるやつがいいよね。その方が、僕たちが倒した時のありがたみが増すし」
楽しげに足をパタパタさせる僕を見て、ファイが少し引き攣った顔をした。
「……何その作戦。脅すよりたちが悪そうじゃない。そんな可愛い顔をして、よくもまあそんな外道なこと思いつくわね」
「そう? 誰も傷つかないし、みんなハッピーだよ。魔物以外は」
マッチポンプに自作自演。 聖職者が聞けば卒倒しそうな策だけど、僕にとってはただの「最適解」だ。 僕はわくわくしながら、近くの森の奥に潜んでいるであろう「獲物」の気配を探り始めた。
「ちなみに、その手軽な魔物はどうするの?」
「森から捕まえてくればいいんじゃないかな。ここに来る途中、いくつか手頃な森があったでしょ? ということで、ファイ。任せたよ」
僕がさらりと言うと、ファイは絶句した。
「えっ……まさか、私一人で!?」
「うん。僕もついていくけど、その間は僕もいろいろと忙しいんだ。遊んでくる……じゃなくて、冒険という名のフィールドワークをしなきゃいけないからね」
ファイは今にも爆発しそうな表情を浮かべたけれど、数秒後には諦めたように肩を落とした。 「……分かったわよ」 ため息混じりの返事。
彼女も短期間の付き合いで、僕がどれだけ自分の理屈で動く「自分勝手」な存在かを、理解し始めたんだろう。
それに、ファイにとって僕は、世界の理という不自由な鎖から解放した恩人でもある。
……もっとも、恩義よりも「逆らうと何されるか分からない」という本能的な恐怖の方が勝っている気もするけど。正確にいえば僕の友達のリュシエルに対して。ファイはいつもリュシエルに対して盛大に怯えてるし。
もしかすると、何かしら釘を刺されているのかもしれない。
ーーーーーーーーー
というわけで、僕たちは街道を少し戻って鬱蒼とした森の中へと足を踏み入れた。
現在は、魔物の生け捕りに苦戦するファイを、僕が特等席から高みの見物……もとい、温かく見守っているところだ。
「ほらファイ、しっかりして。これは『人間の体の使い方』を学ぶための、とっても大事な訓練なんだから」
もっともらしい名目を口にしながら、僕はアールの短い手足で器用に木の根を蹴り、時折ふよふよと重力を無視して移動する。 本当は単に、魔物の生け捕りなんていう泥臭い重労働を自分でしたくないだけなんだけど……まあ、それは言わぬが花というやつだね。
「言うのは簡単よね! この肉体、魔力の通りが良すぎて、ちょっと力を入れただけで……ああっ、もう!」
ファイが苛立ち紛れに振り抜いた拳が、不運にも近くを通りかかった巨大な角ウナギを掠めた。 本来なら生け捕りにしたかったはずなのに、出力制御を放棄した彼女の腕は「掠めた」だけで致命的だった。角ウナギは悲鳴を上げる間もなく跡形もなく消し飛び、衝撃の余波で背後の大木までもが派手に粉砕される。
「あ、オーバーキル。もっと加減して、愛護団体に怒られない程度の威力にしないと」
「うるさいわね! これでも加減してるのよ!」
ズドォォォン、とまた派手な音が森に響く。
慣れない肉体で空振りして地面を陥没させたり、慌てて放った魔法で森の一角を消し飛ばしたり。
ファイのおかげで、さっきまで静かだった森は今や大パニックだ。鳥たちは一斉に飛び立ち、獣たちは逃げ惑い、地響きが何度も重なって周囲に鳴り渡っている。
「頑張ってね、ファイ。捕まえたら教えて。僕はちょっと自分のやりたいことに集中するから」
「一人だけ遊ぶのはずるい! せめて、コツの一つや二つ教えなさいよ!」
背後から恨めしそうな声が飛んできた気がしたけれど、僕は聞こえないふりをして、すっかり遠足気分で探検を楽しんでいた。
この森は僕の家の周辺とは生態系がまるで違うから、見るものすべてが新鮮だ。見たこともない極彩色の植物、やたらと目つきの悪い小動物、妙に動きの鈍い昆虫。
その中で、僕が一番に目をつけたのは、角付きで全身がギザギザの体毛に覆われた「アライグマもどき」だった。
見た目のトゲトゲしさに反して、触り心地は驚くほどふわふわ。
「いい素材になりそうだな」なんて思って、つい手を伸ばしたんだけど――こいつ、見た目の可愛らしさに反して性格が最悪だった。
「シャーッ!」
可愛くない鳴き声を上げたかと思うと、鋭い爪と牙で僕の腕に襲いかかってきた。
……噛まれた。
ぬいぐるみの体だから痛くはないけど、僕の「お眼鏡」にかなったものが、こんなに攻撃的だなんて、なんだか心が傷つく。
しかも、噛みついて離れない。しつこい。
少しイラっとして、ポイっと放り投げたら、今度は仲間意識が強いのか、どこからともなくワラワラと同じアライグマもどきが現れて、僕を取り囲み始めた。
……うん、完全に敵認定されたっぽい。
「……もう、可愛さよりうざさが勝ってきた。まとめて消し飛ばしちゃおうか」
そう思っていた時だった。別行動をしてから約3時間経った頃合い。ようやくファイが何かを生け捕り(?)にしてきた。
「見て! たくさん捕まえてきたわよ。これでいいかしら?」
戦闘直後なのか、大剣に炎をまとわせたファイが、少し誇らしげに胸を張る。
刃から立ち上る熱で周囲の空気が揺らめいている。正直、そのまま森に引火しないか心配になるけれど、そこは最低限、制御できているらしい。
……本当に最低限、だけど。
それでも、最初に比べればずいぶんマシだ。
さっきまでみたいに、歩くだけで地面を砕いたり、振り向いただけで木を薙ぎ倒したりはしていない。
魔力の流れに体を合わせる感覚を、少しずつ掴み始めているのは確かだった。
そして、ファイの背後。
僕を囲んでいたアライグマもどきたちは、彼女の炎に怯えたのか、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
そこは評価してあげてもいい。うん、怖がらせる役としては十分合格点だ。
……ただ。
「……え、ファイ。何それ」
思わず、間の抜けた声が出た。
ファイの後ろには、手のひらサイズの赤い小鳥たちが、まるで訓練された兵隊みたいに綺麗に列を作って並んでいた。全部で五羽。
つぶらな瞳、ふわふわの羽毛、つやつやのくちばし。どう見ても無害。どう見ても可愛い。
可愛すぎる。
「ファイ、魔物を捕まえてきてって言ったよね? それ、ただの可愛い鳥じゃない?」
「失礼ね。これでもれっきとした魔物よ……たぶん」
たぶん、って今言った。
「この子たちが一番賢かったの。まだ子供みたいで強そうには見えないけど、潜在的な魔力量は他の魔物よりずっと高いわ、きっと。成長すれば凄まじい力を持つはずよ……たぶんね」
「……ちなみに、他の魔物は?」
僕がジト目で聞くと、ファイは一瞬だけ視線を逸らした。
「いたわよ。狼とか、大きいトカゲとか……でも、すぐ襲ってくるから。反射的に叩き伏せちゃって、その……」
嫌な予感がする。
「……みんな肉塊になっちゃったのよ」
ああ、うん。
だろうね。
脳裏に、さっきまでの森の惨状が浮かぶ。抉れた地面、倒れた巨木、焦げ跡。
「というか、魔物全体のレベルが低いのがいけないのよ。一撃すら耐えられない雑魚ばかりじゃない。」
ついには、自分のせいでなく魔物の弱さのせいにした。
自分の出力調整が原因だと分かっていても、認めるのは癪で、
だから、環境か相手のせいにする。
いかにもプライドが無駄に高いファイが言いそうなことで、もはや安心感すらある思考回路だ。
それにしても、子鳥たちはファイに懐いている。
ちょうど生まれて間もなくて、たまたま最初に目にしたのがファイで、小鳥たちがファイを親と認識しているような感じだ。
ファイに魔力を吸収しているからか赤い羽毛。
それも、可愛らしさを上げている。
「……」
胸の奥に、よく分からないモヤっとした感情が湧いた。
さっきまで僕が追いかけ回されていたアライグマもどきより、
ファイが連れてきた鳥の方が、明らかに賢そうで、可愛い。
本来なら、ファイに面倒な役目を押し付けたはずだった。
なのに、結果だけ見れば、ファイの方が“当たり”を引いている。
別に競争していたわけじゃない。
……けど、なんだか負けた気分になるのは事実だった。
でも。
今、僕たちが必要としているのは、街の人間に「危険だ」と認識される存在だ。
門の前で騒ぎになり、冒険者や騎士が出動する程度には脅威でなければならない。
可愛らしい雛鳥の群れじゃ、どう考えても役不足だ。
「……ファイ。この小鳥たちは、ファイのペットにするとして。作戦には使えない」
「えっ!? あんなに苦労したのに!?」
「当然でしょ。この子たちに襲わせても、可愛いだけじゃん。それに……戦わせるの?」
ファイは反論しかけて、そこで言葉に詰まった。
小鳥たちは無邪気に彼女の影から顔を出し、ぴい、と鳴いている。
「……確かに」
渋々といった様子で視線を逸らす。
その反応を見て、僕は内心ちょっとだけ溜飲が下がった。
よし。ここからは僕の番だ。
面倒だけどこのままじゃ僕がファイに負けたみたいで、とーっても癪だ。
挽回してファイを驚かせないと気が済まない。
それに、正直、ファイに任せていたら永遠に終わらないことはもう分かったし。
ここは、ファイのお手本になろう。
僕は、森の至る所に散らばっている僕のぬいぐるみ――「ぬいレイ」たちの意識とリンクした。
視界の端が、じわりと滲むように増えていく。
木の上、地面の影、岩陰、茂みの奥。
それぞれの視点から流れ込む映像と気配が、一斉に頭の中で重なった。
「……いた」
「……え、もう?」
入り口付近。ぬいレイによると、森と街道の境目あたりに、明らかに周囲の魔物と格の違う反応、この森の頂点的な存在がいるそう。
強いかは、微妙だけど、あれなら――条件にちょうどいい。
僕は移動の手間を省くため、ひょいとファイの頭の上に飛び乗り、
その柔らかい赤髪にしっかりとしがみついた。
ファイは人の見た目をしてはいるけれど、元は僕が丹精込めて作ったぬいぐるみだ。
その頭の上は、僕にとって世界で一番居心地のいい特等席だったりする。
「ちょ、ちょっと!? いきなり乗らないでよ!」
「そんなことより、森の入り口付近に大物が居座ってるから、そこに向かって出発」
「入り口付近!? ここからじゃ影も見えないじゃない。一体どうやって分かるのよ!」
「ぬいぐるみはなんでもできるんだよ、ファイ」
「理由になってるような、なってないような……!」
文句を言いながらも、ファイはちゃんと指示通りに走り出す。
小鳥たちは慌てて彼女の肩や背中にしがみつき、必死にバランスを取っていた。
「そのうち分かるよ。たぶんね」
ぬいぐるみの可能性は無限大なのだ。
……などと、のんびり会話していた、その途中だった。
「……あれ、何?」
視界の先、木々の間に、妙に不自然な“形”がぶら下がっている。
よく見れば、蔦に足を絡め取られ、逆さまで木に吊り下げられている女性のオブジェだった。 いや、ただの木じゃない。あれは一種の木の魔物だ。蔦そのものが生き物のように蠢き、獲物を離さない。ただ、気にならないほど弱そうな個体だけど。
そんな雑魚魔物に、今まさに片足を見事に拘束され、逆さまに吊るされている女性が一人。 涙目で必死にスカートの裾を押さえているけれど、重力には勝てていない。 拘束されてからかなりの時間が経っているのか、縛られた足はかなり痛そうだった。
アカリside
彼女は今ユラたちが入国しようとしているサンセットという国の東町に住んでいて、父が経営する宿屋『陽だまり亭』の看板娘だ。名前はアカリ。二十歳。そんな彼女は周囲に噂が広まるほどの、町一番……いや、国一番と言っても過言ではない人気を誇る美人だった。
夜の帳を溶かしたような艶やかな黒髪は、揺れるたびに夜空の星を散らしたように煌めき、陽光を宿した黄金色の瞳は、見つめられた者の心象風景を一瞬で春に変えてしまう。そのしなやかで均整の取れた肢体は、使い古された粗末なエプロン姿ですら、最高級のシルクで誂えた王族のドレスのように見せてしまうほどの気品を放っていた。
だが、彼女が「街の宝」と称される真の理由は、その類まれなる美貌以上に、聖母のごとき慈愛に満ちた振る舞いにあった。
ある時は、怪我をして動けなくなった野良猫を自らのハンカチを惜しげもなく裂いて手当てし、またある時は、道端で泣いている迷子を見かけるやいなや、その小さな手を優しく包み込んで母親を見つけるまで寄り添い続ける。さらには、一文無しで行き倒れた新米冒険者に「出世払いでいいわ」と特製の熱々シチューを振る舞うこともしばしば。
アカリは困っている人を見かけるたび、慈悲深い笑みを浮かべて手を差し伸べるのだ。そんな彼女の脳裏には、常に一つの揺るぎない確信があった。
(……それにしても私ってば、今日も恐ろしく優しくて美しくて完璧だわ。神様も、私という傑作を地上に降ろして誇らしいでしょうね。ふふ、美しいうえに性格まで聖女級だなんて、罪深い女だわ……っ!)
そんな自分の輝きに酔いしれる「自信の塊」であることも、彼女をより魅力的に(そして少しだけコミカルに)見せている一因だった。
そんな娘を、宿の主である父は、毎日拝むような勢いで見守っている。
ある日の早朝。まだ、太陽が地平線から顔を覗かせたばかりの清々しい時間帯に、アカリはすでに爽やかに活動を開始していた。 宿の経営は朝が命だ。部屋の掃除、花への水やり、そして何より宿泊客の胃袋を掴む朝食の準備。 アカリは鼻歌まじりに、今日作る予定のメニューを脳内で組み立てながら食材倉庫の扉を開けた。
そこで彼女の完璧な眉が、わずかにピクリと動く。
「……あら? おかしいですね。私の計算では、ここにはもっと『豊穣の女神』が微笑んでいるはずだったのだけれど」
そこに並んでいたのは、微笑みというにはあまりに寂しい、底を突きかけた棚だった。
「お父様ー! 在庫がもう限界、というか絶滅寸前です。今日を乗り切れるかも怪しいですよ。どこか予備の倉庫にでも食材を隠していませんか?」
「すまんすまん! 最近の繁盛っぷりに目が回って、仕入れの予定がスコーンと抜けてたよ」
帳簿と睨めっこしていたアカリが声を上げると、奥から宿主である父が、照れくさそうに頭を掻きながら顔を出した。
「もう。お父様がしっかりしてくれないと困ります。確かに最近は忙しかったですけど、昨日はお休みだったんですから、チャンスはあったでしょう?」
ジト目で見つめるアカリに、父は「ははは、返す言葉もないな」と豪快に笑って胡麻化すと、壁に掛かった大きな背負い籠を手に取った。
「よし、今から森へ一走りして、キノコや山の幸を調達してくるよ。それだけあれば、名物の煮込み料理は何とかなるだろう!」
「待って、私も行きます」
父の勇ましい背中を見送ることなく、アカリは素早くエプロンを脱ぎ捨て、外に行く準備をする。
「二人の方が効率がいいですし、何よりお父様一人だと、また『見た目だけは最高に美味しそうな毒キノコ』に騙されるのがオチです。私の鋭い審美眼と、幸運を引き寄せる私自身が必要でしょ?」
「おお、アカリが来てくれるか! 助かるよ。やっぱりお前は世界一自慢の娘だな」
「当然です。私以上に美しくて気が利いて、おまけに毒キノコまで見抜ける娘なんて、この国をひっくり返しても見つかりませんから!」
二人は軽口を叩き合い、笑い声を響かせながら、朝日が差し込む街へと繰り出した。
親子二人の穏やかな採取。それはいつも通りの、平和な光景になるはずだった。 森の入り口付近。木漏れ日がダンスを踊るような穏やかな場所で、アカリは籠を手に、優雅な足取りで歩を進める。しかし、今日の森は、何かが決定的に違っていた。
いつもならアカリの美声に答えるはずの小鳥の囀りが、ぷつりと途絶えている。 代わりに流れてくるのは、肌にまとわりつくような、湿った重い風。そして、どこか遠くで響く、大地を揺らすような低い震動。
アカリたちが知る由もなかったが、この時、森の深淵では精霊ファイによる一方的な「蹂躙」が行われていた。そのせいで理性を失った凶悪な魔物たちが、一部、生存本能のままに本来のテリトリーを逸脱し、入り口付近まで雪崩を打って押し寄せていたのだ。
「アカリ……今日はもう切り上げよう。すぐに帰るぞ」
少し離れたところで山菜を採っていた父の声が、氷のように低く、鋭い警戒を帯びて響く。 (お父様も、この異様な気配に気づいたのね……) 胸の鼓動が速くなる。籠の中身はまだ半分ほどだったが、アカリの生存本能が「早くここを去れ」と警鐘を鳴らしていた。アカリは素直に頷き、父の元へ駆け寄ろうと大きく息を吸い込んだ。
「はーい! わかりました、今すぐ行きます!」
鈴を転がすような、凛としてよく通る声。 普段なら客を癒やすその美声が、この瞬間だけは、最悪の呼び鈴となってしまった。
「アカリ!? 後ろだ、後ろを見ろッ!!」
父の、喉を引き裂かんばかりの悲鳴。 「え……?」
振り返る暇さえなかった。 背後の茂みが爆ぜるように裂け、狂乱状態の「木の魔物」が姿を現したのだ。 ファイの蹂躙から命からがら逃げ延び、極限の恐怖で理性を失ったその魔物は、八つ当たりでもするかのように、鞭のような蔦を素早く伸ばしてアカリへと襲いかかった。
「あ、あああぁっ!」
一瞬にして足首を強固に絡め取られ、アカリの体は軽々と宙に吊り上げられた。
逆さまになった視界の中で、父がなりふり構わず腰のナイフを抜き、巨大な魔物へと躍りかかるのが見える。
「うおおおっ! 娘を放せっ!」
だが、使い古された錆びたナイフは、魔物の硬い樹皮に虚しく弾かれ、甲高い音を立てて真っ二つに折れた。数メートルを超す巨躯を誇る森の魔物に対し、素人の宿主では、あまりにも、あまりにも絶望的な戦力差だった。
この個体は、攻撃手段を一本の強力な蔦に特化させた変異種だった。獲物を捕らえ、吊り下げ、その精髄を吸い尽くす――それだけに全魔力を注いでいるため、防御力だけは異常なまでに高い。父が折れたナイフの破片で何度叩こうが、魔物は微動だにせず、ただ無機質にアカリを高い枝へと吊るし上げ続けた。
「クッソ! 焼石に水だ、どうすれば……どうすればいいんだ!」
血の滲むような父の叫びに、さらなる絶望が追い打ちをかける。
ズシン、ズシンと地を這うような重い震動。森の奥から、明らかにこのトレントよりも巨大な「何か」が、凄まじい勢いで木々をなぎ倒しながらこちらへ近づいてくる音が聞こえてきた。
「……お父様、逃げて。私はいいから、お願い、逃げて!」
アカリは必死に叫んだ。 この状況下でも、冷静な分析と判断力は持ち揃えていた。
痛みや恐怖はとてつもない。
たが、私は大丈夫と安心させるように落ち着かせるように微笑む。
しっかり出来ず、苦しい微笑みになっているかもしれないことを否めないけど。
「アカリ! くそっ、待っていろ……っ! 俺じゃあ、そいつには……!」
お父さんは苦渋に満ちた表情で唇を噛み切った。彼は断腸の思いで背を向けると、娘を救うための唯一の希望を求めて、街道へと駆け出していった。
「すぐに街へ戻って、腕利きの冒険者を連れてくる! 絶対に、絶対に見捨てたりしないからな! 死ぬなよ、アカリッ!!」
遠ざかるお父さんの足音。 一人取り残されたアカリは、逆さまの世界で激しく揺れながら、必死にスカートの裾を両手で押さえていた。
(……お父様、信じてるわ。私、待ってるから……。こんなに美しくて可憐な私を、神様がこのまま魔物の餌にするはずがないもの……!)
だが、彼女のそんな祈りとは裏腹に、事態は残酷な方向へと転がっていく。
それが、地獄のような「三時間」の始まりだった。
ーーーーーーーーーーーー
地獄のような三時間が経過した。
あの地響きを発生させていたのは、この森の主と思われる巨大なイノシシの魔物だった。 不幸中の幸いか、自分を拘束している木の魔物が持つ「森への同化能力」のおかげで、主の目に留まることはなかった。だが、そんな安堵も束の間。逆さまに拘束され続けるという、想像を絶する苦痛が彼女のすべてを蝕み始める。
逆さまに吊るされた体は、もはや自分のものではないように重く、遠い。足首から先は完全に感覚がなく、そこが本当に自分の身体と繋がっているのかさえ分からない。代わりに、頭の奥だけが内側から押し潰されるように脈打ち、鼓動のたびに視界が赤黒く明滅した。
血液が重力に従って脳へと溜まり、景色は波打つ水面のように歪んでいる。木々の輪郭は溶け、空と地面の境目も曖昧で、どこまでが現実で、どこからが幻覚なのか判断がつかない。
息を吸うたび、内臓が喉の方へとせり上がってくる感覚がした。肺は押し潰され、呼吸は浅く、ひゅう、ひゅうと壊れた笛のような音しか出ない。
最初のうちは、父のことだけを考えていた。
(すぐ戻ってきてくれる……お父様は、絶対に……)
町までは遠くない。冒険者を連れて戻るのに、そんなに時間がかかるはずがない。そう信じて、痛みを無視して、必死に耐えていた。
だが、森は静まり返ったままだった。
松明の光も、足音も、叫び声もない。ただ、魔物の吐息のような湿った風と、遠くで何かが踏み鳴らす鈍い振動だけが、延々と続いている。
そして、あまりに遅い父が魔物に道中襲われたのではないかと心配になる。自分のことより他人を思いやれる余裕がこの時はまだあった。
一時間が過ぎた頃、祈りは不安に変わった。
(……遅い。どうして……)
二時間が過ぎた頃、胸の奥に、黒い疑念が芽生えた。
(……本当に、来てくれるの……?)
三時間が近づくにつれ、思考はほとんど痛みと恐怖に塗り潰されていた。
父の無事を願う余裕も、もう残っていない。
あるのはただ一つ。
生きたい。
この苦しみから、今すぐ解放されたい。
(誰でもいい……お願い……助けて……)
声にならない祈りが、喉の奥で擦り切れて消えていく。
その時だった。
カサリ。
カサリ。
場違いなほど軽い足音が、森の奥から近づいてくる。
逆さまの、血に滲んだ視界の中に、ふわりと少女の姿が浮かび上がった。
その隣には、空中に浮かぶ、小さなぬいぐるみのような存在。
(……人?)
一瞬で、胸の奥に火が灯った。
生きている人だ。
魔物じゃない。
あんな危険な場所から、無傷で、汚れ一つなく現れるなんて。 尋常ではない。きっと、あの恐ろしい木の魔物だって、彼女たちなら一捻りのはずだ。
助かる。
この人たちなら、きっと助けてくれる。
「……あ、あ……たす、けて……っ」
アカリは死にかけた喉を震わせ、血の味がする吐息と共に、最後の力を振り絞って声を絞り出した。 逆さまの視界の中で、一人と一匹が、ゆっくりとこちらを見据える。
期待に胸が震えた。助かる。ようやく、この地獄が終わる。 誰に対しても優しく、完璧に生きてきた私を、神様は見捨てなかったんだ。この救い主こそが、私の正しさを証明してくれる――。
だが。
「……?」
ふよふよと浮いていたぬいぐるみが、逆さまになったアカリの鼻先まで降りてきた。 それは興味深そうに首を傾げると、ふにふにとした短い手足で、アカリの頬をツンツンと突いた。まるで道端に転がっている珍しい石ころでも検分するかのような、あまりにも無遠慮で、あまりにも無邪気な手つき。
アカリは、焦点の合わない瞳で必死にぬいぐるみを追う。これが「救い」の始まりだと、そう信じて。
しかし、現実はアカリの淡い期待を、あざ笑うかのように裏切った。
鼻先で自分を検分していた人形は、飽きた子供のようにひょいと離れると、少女の元へ戻ってしまった。少女の方はといえば、吊るされているアカリに一瞥すら向けない。視界の端を通り過ぎていくその横顔は、アカリという「一人の人間」を、そこに生えている雑草や転がっている石ころと寸分違わぬ「背景の一部」として処理していた。
「……待って……!? ねえ、待って……っ!」
千切れそうな喉で絞り出した叫びも、彼女たちの背中には届かない。人形は楽しげに語らい、少女もまた、淡々と歩を進めていく。
(どうして……? 見えてるよね? 私、ここにいるよ……っ! 死にそうな人間が、目の前にいるのに……!)
今まで、アカリの世界は「相互の善意」という歯車で回っていた。 自分が優しくすれば、周りも優しくしてくれる。困っている者がいれば手を差し伸べるのが「世界の常識」であり、揺るぎない理だと信じて疑わなかった。 だが、遠ざかっていく二人の背中にあったのは、悪意ですらなかった。
ただそこに横たわる、あまりにも絶対的な「無関心」。
彼女の誇りだった美貌も、積み重ねてきた善行も、死に物狂いの懇願も。彼女たちにとっては、道端の草が風に揺れた程度の、取るに足らない事象でしかなかったのだ。
「う、うあああぁ……っ! 助けて、置いていかないで! お願い、死んじゃう、私、死んじゃうの……っ!」
溢れ出した涙が逆さまの顔を伝い、額へと流れて視界をどろどろに歪ませる。すでに感覚のない足首が、絶望に抗おうと身悶えしたせいで、ミじり……と嫌な音を立てた。
「嘘よ……っ、助けてくれるのが、普通でしょ……っ!? 待って……行かないでっ!!」
アカリの絶望に満ちた悲鳴を置き去りにして、二人の足音は無情にも遠ざかり、森の静寂の中へと完全に消えていった。 後に残されたのは、意識の灯火が消えかけたアカリと、相変わらず無機質に立ち尽くす木の魔物だけ。
(ああ……お父様も、誰も……来ない……。私は、ここで、誰にも知られずに枯れるんだわ……)
信じていた「世界の優しさ」は、今、音を立てて砕け散った。 絶望という名の闇が、彼女の意識をゆっくりと、冷たく塗り潰していく。
ーーーーー
ユラside
「……ねえ、ちょっと。本当に良かったの? あのまま行っちゃって。私は人間なんかに興味ないから、あの子がどうなろうと気にしないけど」
ファイが、隣で宙に浮いているぬいぐるみの僕をつかんで、ぐいっと顔の前に引き寄せた。
「何が?」
僕は歩きながら、間の抜けた返事をする。
「何がってさすがにわかるでしょ。 さっきの人間についてよ。 どう見たって三途の川の入り口で反復横跳びしてたじゃない。『恩を売って入国する』っていう作戦、あの子を助ければ一発解決だったんじゃないの? 魔物をわざわざ捕まえてくる手間が省けたのに」
至極もっともな指摘だ。
実際、その選択肢が最初に浮かばなかったわけじゃない。
僕は布でできた手で、アールの柔らかい髪を無造作に弄りながら答えた。
「んー、確かに効率だけで言えばそうだね。でもさ、ファイ。あんな、ただの『歩く薪』みたいな魔物に、普通、そこまで完璧に拘束されると思う?」
「……まあ、確かに」
二人の基準は、一般人のそれとは致命的なまでにズレている。
並の人間にとっては十分すぎる脅威でも、僕らから見れば、あの魔物はあまりにも鈍く、弱かった。
「近くで観察したけど、あの魔物、できることといえばツタを少し動かすのと、ノロノロ歩くのと、ちょっと体力を吸い取るくらい。……正直、弱々な僕の本体でも捕まらないレベルだよ。捕まっても簡単に抜け出せるし。だから」
だから、あの状況が成立していること自体が、僕には不自然に見えた。
僕の言葉には、微塵の冗談も混じっていなかった。あんな攻撃力も機動力も欠いた「動く植物」に捕まり、抵抗も脱出もできずに吊るされているというのは、僕の合理主義的な思考回路からすれば、計算式の答えが合わない時のような……言葉を選ばずに言えば「気味の悪さ」を感じる事態なんだ。
「……どう見ても助けが必要な、ただの無力な人間に見えたけど。もしかして、あれが演技だったということなの?」
ファイが怪訝そうに聞き返してくる。僕はアールの髪をくるりと指に巻き付けながら、淡々と結論を口にした。
「多分そうじゃないかな。わざと捕まったふりをして、お人好しな獲物を誘い込む——。例えば『餌』を演じる盗賊か、あるいはもっと質の悪い詐欺師。絶対にとは言えないけど、その手の連中の可能性も十分あるよ。物騒な土地だしね」
そう、僕の見立てではあの女性は「救うべき弱者」ではなく、「不審な設置型トラップ」(?)でしかなかったのだ。
「最初からそんなことまで考えていたの!? というか、人間って生き物はそんな悪知恵を働かせるものなの?」
「うん。当然だよ」
「人間って言う種族はかなり危ない種族ね……」
ファイはすんなり僕の言葉を信じる。僕のせいで、彼女の中の「人間」という種族全体の評価がみるみる下がっていくのが分かった。
「でも、一つだけ訂正させて。あなたの本体は確かに身体能力こそ『世界最弱』かもしれないけど、持っている魔力量と操作精度は異常なのよ。私から言わせれば、あなたの本体だって十分すぎるほど怪物よ。自分を基準にしちゃダメだわ」
「そうかなあ?」
僕の本体は、この最強の依代であるアールの体とは正反対だ。重い荷物は持てないし、走ればすぐに息が切れる。段差で少し転んだだけで、意識が遠のくほどの衝撃を受けることもある。同い年の平均にすら遠く及ばない、ひどく弱い体なんだ。
(……確かに、魔力で無理やり身体強化すれば人並みにかそれ以上には動けるけど。それでも『普通よりちょっと弱い子』になる程度じゃないかな)
そんな僕の内心を見透かしたように、ファイがわざとらしく溜息をついた。
「ふん、自覚がないのは罪ね。まあいいわ。……それより、理由はそれだけなの?」
ファイが探るような視線を向けてくる。
「それだけって?」
「あの人間、顔はかなり良かったじゃない。てっきり、あの女を新しいぬいぐるみのモデルにするために助けるんだとばかり思っていたわ。いつもなら、そうしてるでしょ? どうして今回はしなかったの?」
その問いには、僕も少しだけ考え込むような素振りを見せた。あのアカリのような顔がいい人をスルーするのは、僕としても珍しいことだから改めて理由を考えることにした。
「確かに顔は整ってたけど、ちょっと惜しいんだよね。ぬいぐるみに必要なのは『可愛さ』。決して、造形的な美しさやステータスじゃないんだ。あの人は美しさという項目はカンストしてるけど、可愛さという重要なステータスが個人的に及第点止まり。それに……そう、ぬいぐるみにするには主張が強すぎた」
「主張?」
「そう。あの人、胸が大きすぎたんだ。目測でF……いや、Gはあるかな。僕の設計思想から言わせれば、ぬいぐるみの完璧なフォルムにあんな突発的な起伏は不要だよ。抱き心地の邪魔になるし、全体のシルエットが歪んでしまう。むしろ、あんなの無いほうがいい。だから、ぬいぐるみの素体という観点で見れば、総合評価は35点。僕の貴重な時間を割いてまで再現する価値は……残念ながら見出せなかったかな」
「なるほどね。そう言われるとそうかも……ぬいぐるみって、意外と奥深いのね……」
精霊であるファイですら、ユラのあまりに偏執的で、かつ一片の迷いもない「ぬい美学」の濁流に飲み込まれ、不覚にも納得させられそうになっていた。
その後、二人が「設置型トラップ」かもしれないアカリを放置し、目的の場所へと足を進めると、不意に湿った風に乗って重苦しい唸り声と、何かが激しく砕ける音が響き渡った。
「……何かしら。また別の騒ぎ?」 ファイが眉を寄せる。
「声が聞こえるね。あっちから」
二人が茂みを抜けると、そこには自然の要害ともいえる小さな岩の洞窟があった。だが、その入り口は今、絶望的な状況にさらされている。
「くっそ……! あんな魔物が、こんな入り口近くにまで降りてきているなんて……。娘を、アカリを助けに行かねばならないのに……っ!」
洞窟の奥から、血を吐くような男の呻き声が漏れ聞こえていた。
岩陰に身を潜めているのは、宿主の男――アカリの父だ。脚には深い傷が刻まれ、どろりとした鮮血が止めどなく流れ、岩肌を赤黒く染めている。町へ助けを呼びに走る途中、不運にも強力な魔物と遭遇し、ここまで追い詰められていたのだ。
宿主(アカリの父)side
「この場所も……もう長くは持たないな。俺の命はどうなってもいい……だが、アカリは……あの子だけは……っ!」
男の視線の先には、一頭の巨大な魔物がいた。
――グレート・ボア。
鋼鉄のように硬い剛毛と、岩盤すら粉砕する巨大な牙を備えた、この森の食物連鎖の頂点に君臨するイノシシの魔物。
ドォォォォン!!
凄まじい衝撃音が森に轟く。
ボアがその巨体で洞窟の岩壁に突進したのだ。本来ならびくともしないはずの岩が、一撃でひび割れ、破片が雨のように降り注ぐ。
「ユラ? あれがこの森で一番強い魔物なの?」
拍子抜けしたような声で、ファイが尋ねた。
「そうらしいよ。僕もびっくりだけど。僕たちの家の周りには、あれを前菜にするような魔物がうじゃうじゃいるのに……。この辺りの魔物は、なんだかすごく残念な強さだね。でも、威圧感は満点をあげられるね」
あまりにも場違いな囁き声。
それが、死を覚悟した男の耳に、かすかに届いた。
(……会話? まさか、近くに誰かいるのか!?)
霞む視界を、男は必死に動かす。 背後ではボアの牙が岩を削る不快な音が迫り、死神の吐息のような獣臭が立ち込めていた。
「誰か……誰かいるのか!? いるのなら助けてくれ! 頼む、このままでは死ねないんだ!」
必死の叫び。俺は娘を、アカリを助けに行かなければならない。あの忌々しい木の魔物から娘を奪い返せるほどの、強力な冒険者か国の兵士を連れてこなければ。 すでに三時間が経過している。一刻の猶予もない。俺がここで果てることは、アカリの死を意味するのだ。
だが、その血を吐くような悲願に対して返ってきたのは、状況の深刻さを一欠片も理解していないような、あまりに場違いで、冷ややかなほど無垢な少女の声だった。
「えー。助けるメリットがないし、どうしようかな。ねえファイ、どう思う?」
「どうでもいいわ。それより、見本を見せてくれるんじゃないの?」
(少女の声……? 逃げ遅れた子供か? いや、さすがに違うよな。しかし、……こんな場所で、あの魔物の近くにいて正気でいられるとなると……!つまり、ベテランの冒険者!)
男は藁にもすがる思いで、洞窟の隙間から声を絞り出した。
姿は見えない。信用できる相手かも分からない。
だが、もし彼女たちがこの魔物を退ける力を持っているのなら――あるいは、逃げ切る脚を持っているのなら――。
「な、なんでもする! 助けてくれるなら、全財産でも、この後の人生すべてでも捧げる! だから……お願いだ……!」
「なんでも?」
弾むような声。
ユラ――いや、アールの声だった。
「ああ、約束する! 俺にできる範囲なら、なんだってやる! だから……っ!」
「ふーん。悪くないね。いいよ、契約成立。それで、願い事は何? 一つだけね」
まるで悪魔との取引だ。そして突きつけられた「一つだけ」という非情な条件。 男の脳裏に、最悪の天秤が浮かぶ。自分か、娘か。どちらか一人の命を選ばなければいけない、ということか。
(……いや、迷う余地などない。二人とも助かる道は、俺が生き残り、その足でアカリを救うことだけだ。だが……仮に俺がここで拾い上げられたとして、この足でアカリを救い出せるか? 街へ助けを呼びに戻り、再びあの場所へ辿り着くまで、あの子の命が持つか? ……答えは否だ。俺が生き延びることは、あの子を見捨てることと同義だ)
ならば、最初から選択肢なんて一つしかない。 男は震える拳を地面に叩きつけ、魂を削り出すように叫んだ。
「……ならば、頼みがある。せめて娘を……アカリを助けてくれ! この先の森で、魔物に捕らわれているはずなんだ。俺のことはいい、ここで捨て置いて構わない!」
「了解ー」
その願いを受け止めたのは、拍子抜けするほど気の抜けた返事だった。 直後、空気が変わる。 グレート・ボアの標的が、ゆっくりと切り替わったのだ。
ユラたちの存在に気づき、巨体が軋む音を立てながら振り向いたのだ。
洞窟の入り口を塞いでいた絶望の壁が動いた。その隙間から、男はついに「声の主」たちの姿を目にする。
だが、そこにいたのは、彼が想像していた重装備の冒険者でも、屈強な騎士団でもなかった。
立っていたのは、娘のアカリよりもさらに幼く見える、赤髪の美少女――ファイ。
そして、その隣で、重力を無視するかのようにふよふよと浮かぶ、小さなぬいぐるみ――アールことユラ。
(……なんだ、あれは? 俺は、夢でも見ているのか?)
激痛に歪む顔のまま、男は目を見開いた。
彼女たちはあまりにも無防備だった。鎧もなければ、防具すらない。剣も、杖も持っていない。ただ、散歩に出てきたかのような軽装で、とても戦えるようには見えない。
(まずい……! あんな子たちが、このボアに敵うはずがない!)
ボアが鼻から熱気を噴き出し、地面を蹄で削る。
突進の予備動作。
その殺意が、完全に少女たちへ向けられたことを、男は悟った。
「逃げろ! 早く、逃げるんだ……っ!」
叫びながら、男は立ち上がろうとする。
脚の傷が裂ける痛みも構わず、せめて囮になろうとした。
一人の子を持つ親として、子供のような彼女たちが目の前で蹂躙されるのを、見過ごすことなどできなかった。
だが――。
「ぐ、あぁ……っ!」
現実は無情だった。
失血した脚は鉛のように重く、男は再び地面へと崩れ落ちる。
その視線の先で、
グレート・ボアが大地を蹴った。
数トンの肉塊が、爆発的な速度で突進する。
それはもはや生物ではない。
巨大な鉄球が、少女たちへ向かって放たれたのと同じだった。
――人間が受け止められる代物では、決してない。
突進が少女たちに当たる――
男が反射的に目を逸らそうとした、その瞬間だった。
「まずは、引き寄せて」
場違いなほど、のんびりとした声が響く。
次の瞬間、男の鼓膜を打ったのは、肉が潰れる音でも、悲鳴でもなかった。
ドォォォォォン!!
巨大な鉄板同士が正面衝突したかのような、重く硬い衝撃音だった。
――信じられない光景が、そこにあった。
あの小さな「ぬいぐるみ」が、片手を無造作に突き出し、己の数百倍はあろうかという質量のグレート・ボアの突進を、真正面から受け止めていたのだ。
衝撃に耐えきれず、ボアの足元で地面がクレーターのように爆ぜる。
だが、ぬいぐるみの腕は微動だにしない。
それどころか、その巨体を力任せに押し止め、ねじ伏せているようにすら見えた。
「ファイ。手加減っていうのはね、こうやるんだよ」
ぬいぐるみは、空いているもう片方の手を軽く振るった。
それは、あまりにも雑な――羽虫を払うかのような「ビンタ」。
だが、その一撃は、もはや「攻撃」という言葉では表現できない。
衝突の瞬間、衝撃波が炸裂し、周囲の木々がまとめてなぎ倒された。
グレート・ボアの巨体は、紙屑のように宙を舞い、数十メートル後方の巨岩へと叩きつけられる。
轟音。
岩が砕け散り、魔物の悲鳴すら上がらない。
(……な、なんだ……? 今、何が起きた……?)
男の思考は、完全に停止していた。
――手加減といったよな?
あれが、手加減だというのか。
布でできた、手のひらサイズの存在が、この森の王を文字通り「吹き飛ばした」。
そのとき、目の前の存在の力を目の当たりにした男の脳裏に、以前、街の大きな商会で耳にした「ぬいぐるみ」の話がよぎる。人形ではなくてぬいぐるみだ。そして、国でここ最近有名な動くぬいぐるみの話がかみ合う。
(……まさか、あれか? 最近、噂になっている指名手配中の『ぬいぐるみの魔王』……!)
隣には「残念なメイド」が控えている、という噂だった。
だが、目の前の少女は、どう見てもメイドではない。どちらかといえば、貴族の令嬢だ。
それでも、この異常な強さ、自我を持つぬいぐるみ。
多少の齟齬を無視すれば、それ以外の正体が思いつかなかった。
――だが。
今は、そんなことはどうでもよかった。
彼らが善人か、悪魔か。
世界を救う存在か、滅ぼす存在か。
そんな評価に、意味はない。
今この瞬間、娘を救うと約束し、そしてその力を証明してみせた。
それだけで十分だった。
噂で語られる理不尽なまでの強者が、約束してくれたのだ。
これ以上の安心が、どこにある。
男が、安堵に包まれた――その時。
メキメキ……と、不吉な音が、頭上から響いた。
「……あ」
ボアの破壊か、先ほどまでの衝撃の蓄積か。
洞窟の入り口を支えていた巨大な岩盤が、ついに限界を迎え、崩落を始めたのだ。
視界が、巨大な影に覆われる。
男は、動かない脚を見捨て、ただ最後の瞬間に娘の顔を思い浮かべた。
(……ああ。俺はここまでか。
でも、アカリは大丈夫だ。
あのぬいぐるみが助けてくれる……)
崩落の轟音が、すべてを飲み込もうとする。
死を覚悟し、目を閉じた――その瞬間。
いつまで経っても、衝撃は来なかった。
代わりに、首の後ろを乱暴に掴み上げられ、風を切る浮遊感。
「ぐえっ……息が……!」
「全く。死なれたら困るよ」
気づけば、男は崩れ落ちた岩の山から数メートル離れた、安全な場所に転がされていた。
そして、間髪入れず、温かな光が全身を包み込む。
(……なんだ? 痛みが……消えていく……?)
男は自分の脚を見て愕然とした。骨まで見えていたはずの深い裂傷が、まるで時間を巻き戻したかのように一瞬で塞がり、新しい皮膚が再生していく。これほどの高位回復魔法、王都の聖堂騎士団お抱えの治癒術師でも使えるかどうか。
男は、思わず苦笑した。
(動くぬいぐるみの魔王……。巷の噂じゃ、出会う者すべてを蹂躙する非道な存在だと聞いていたが。……どうやら、困っている者を見捨てられない優しさも持ち合わせているらしい。噂なんて当てにならないものだな。まさか、俺も命を救ってくれて傷まで癒してくれるなんて)
男が救世主を拝むような目で見つめていると、ぬいぐるみのユラはアールの短い手を腰に当て、呆れたような声を上げた。
「なんでもやってくれるって言ったでしょ? 勝手に死んじゃダメだよ。死ぬんならしっかり約束を守ってからにして」
「……あ、ああ。すまない。助かった、恩に着る」
心配してくれたというよりは「契約の不履行」を懸念されたようだが、それでも命を救われた事実に変わりはない。 その時、傍観していた赤髪の少女、ファイが鼻先で笑った。
「ねえ、ユラ。そんなことしているうちに、あの魔物、息絶えたわよ?」
「え?」
見れば、吹き飛ばされたグレート・ボアは、パニックのあまり意識を失う直前の力で逃げようと全力疾走していた。しかし、あまりの恐怖に方向を誤り、崩落する岩の直下へと自ら突っ込んで下敷きになっていたのだ。巨大な魔物の命の灯火が、見事な「自爆」によって消え失せた。
「えーーっ!? 意味わかんない! なんでそうなるの!? せっかく、完璧に『気絶』させるくらいの手加減ができたと思ったのに……。入国のための騒ぎを起こすために生け捕りにしたかったのに、これじゃ台無しだよ!」
ユラがじたばたと足を動かして悔しがる。 その言葉を聞いて、男の背中に一筋の冷たい汗が流れた。
(……ん? 今、聞き間違いだよな? 入国のために『生け捕りにして街を襲わせようとしていた』なんて、そんな外道な考え……いや、まさかな。きっと、生きた魔物を売った大金で、正当な身分を買って入国しようとしてるんだ。そうに違いない。うん、そう思うことにしよう)
男は必死に自分を納得させた。この圧倒的な力を持つ存在を、悪人と定義するのはあまりにも恐ろしすぎた。
「まあ、でも、代わりの手段が見つかったからいいか。ねえ、そこの人。なんでも頼み事を聞いてくれるんだよね? 入国の際、僕たちの保証人になってくれるってことで問題なしだよね?」
(話から推測できたがやはり、保証人か。少々……いや、かなり不安はあるが、命の恩人なのは確かだ。それに、想定してたようなレベルの頼み事ではなく簡単なことだ。命を救ってもらったのに対して安すぎるくらいだ。)
「もちろんだ。約束する。俺にできることならほかにも何でも協力しよう。だが、それより、娘を助けてくれ! 頼む、あの子はこの森の奥にいるんだ!」
「もちろん。約束だしね。僕は約束をしっかり守る誠実なぬいぐるみだから、安心して」
「本当に? 時と場合によりすぎて、私の記憶にある誠実さとは随分かけ離れてるけど」
ファイの痛烈なツッコミを、ユラは器用に聞き流した。
「ということで、案内して。この世界で最強で最可愛な僕が、責任を持って助けてあげよう」
ユラは入国するための保証人が思わぬ形でゲットできて調子に乗っていた。
「ああ、来てくれ! 案内する。……こっちだ!」
男は、回復してもらったとはいえ疲労の残る身体を無理やり動かし、娘の元へ向かって全力で駆け出した。
-------------------
男に案内されて到着した場所。そこは、ユラたちがつい数分前に「不審な設置型トラップ」と切り捨てて通り過ぎた、あのある意味因縁の場所だった。
「ねえ、全然罠とかじゃないじゃない!やっぱりただ捕まっていただけじゃん!」
僕としたことがファイに冷たい視線を伴うツッコミをもらってしまう。
「そうだね。まさか、自作自演じゃないとは。ビックリ」
「あんたが疑い深すぎるのよ」
そんなことないと思うんだけど。よく言うじゃん。疑い深すぎるのがちょうどいいって。とは思ったものの、さすがに今は少しだけ居心地が悪い。
「ちょっと気まずいね?」
「自業自得でしょ。私はかかわらないからね」
「えー。手伝ってよ。気まずいから。お願い」
そう僕が頼むと結局は手伝ってくれるわけで
「仕方ないわね。少しだけよ。でも、なんかあの人間気絶しいてない?意識ないわよ?大丈夫なの?」
「ほんとだ!生きてるようだけど早く助けないとね」
と二人でぼそぼそと聞こえないように会話する。
一方、父親は半狂乱で娘の元へ駆け寄る。
「アカリ! 大丈夫か! 遅れてすまない、今助けるぞ!」
必死の叫び。しかし、三時間の地獄に耐え続けたアカリは、もはや頷くことすらできなかった。うっ血し、青白くなった顔でぐったりと項垂れている。かろうじて胸が上下しているが、意識はとうに闇の底だ。
「アカリ? アカリ! 返事をしてくれ!」
父親が絶望的な声を上げる中、他人の情緒などどこ吹く風の二人は、まるでおやつの相談でもするかのように呑気に作業を開始した。
「ファイ、あの子を降ろしてあげて。あ、一応死なせないようにね。保証人が悲しむから」 「わかってるわよ。こんな薪みたいな魔物……『手加減』して燃やせばいいんでしょ?」
ファイが指先を向ける。彼女なりに気を遣い、出力を極限まで絞ったはずの火属性魔法。だが、中位精霊にとっての「微弱」は、人間基準では「災害」に等しい。
「えい」
放たれた紅蓮の炎は、相性最悪な木の魔物を一瞬で巨大な松明へと変えた。
激しい火群は、そのまま拘束されていたアカリの身体をも飲み込む。
「アカリーーー!!!」
父親の、裂けるような悲鳴が森に響く。
目の前で愛娘が火に包まれる光景に、男は膝から崩れ落ちた。
「……ちょっと、何叫んでるの?」
アールの短い手で耳を塞ぎながら、ユラが不思議そうに首を傾げる。
「何って……! アカリが……アカリが焼かれて……!!」
「ん? 無事だよ?」
あっさりとした返答。
「当然でしょ。僕が約束を破るわけないじゃん。それに――」
ちらりとファイを見る。
「ファイがそんな繊細な力加減できるわけないのも、最初から想定済みだし」
「なっ、ひどい! 私だってできるわよ、それくらい! 今日はちょっと魔力の機嫌が悪かっただけ!」
むくれて反論するファイ。
その直後――
燃え盛る炎の中心から、ゆらりと一つの水球が浮かび上がった。
透明な水の膜に包まれ、その中でアカリは、髪の毛一本焦がすことなく静かに眠っている。
ユラが、炎の着弾と同時に魔法で隔離・保護していたのだ。
「はい。お届け物」
水球が弾け、アカリの身体が父親の腕の中へと、そっと落とされる。
男は呆然としながら、娘の温もりを確かめた。
――生きている。
それを理解した瞬間、言葉にならない安堵と喜びが込み上げる。
さらに、ユラが淡い光を放つと、うっ血していたアカリの顔色はみるみる健康的な桜色へと戻っていった。そして、わずかに意識が戻ったようでかすれた声を出す。
「……お、父……様……?」
「アカリ……!」
男は安堵のあまり力が抜け、抱えていた娘を――落とした。
「……あ」
限界を超えた疲労。
人一人を支える体力は、もう残っていなかったのだ。
「うっ」
その衝撃で、アカリは再び気絶。
「アカリーーー!!」
再度、悲痛な叫び。
「……」
当然、死なれちゃ困るので必要ないと思うけど僕は予想外なことに呆れながら一応再度回復魔法をかける。ついでに、その男の人の頭にも念入りに。さすがにそこで落とすのは僕でもちょっと引くレベル。
……ほんと、手がかかる。
その光景を見ながら、僕はふと、数分前の光景を思い出していた。
ツタに絡め取られて、逆さまに吊るされていたあの時の姿。
(……罠じゃなかったか)
結果だけ見れば、僕の推測は外れていた。
ただ捕まっていただけの、普通の人間。
設置型トラップでも、盗賊の誘い水でもなかった。
……でも。
(だからって、あの時点で助けるべきだったかって言われると、別にそうでもない)
だって、あの状況では判断材料が足りなかった。
森の入り口付近。弱すぎる魔物。妙に都合のいい位置。
疑う方が合理的だ。
結果論で「助けておけばよかった」なんて言うのは、後出しジャンケンだし、
僕は後悔しない主義だ。
それに――
(どうせ、助けるなら今でも間に合ったし)
実際、間に合っている。
だったら、何の問題もない。
僕はもう一度、男の腕の中で浅く上下する女の人の胸に視線を落とす。
呼吸はある。色も戻っている。――うん、生存確認、完了。
そこでようやく、僕は男に向けられているファイの冷たい視線に気づいた。
「何をやっているのかしら。
一人で漫才でもしてるの? それとも、新しい拷問?」
声音は低く、温度がなかった。
怒っているというより、理解できないものを見る目だ。
「どっちにしても最低ね。
あの状況で落とすなんて」
言葉の棘が、男の胸に突き刺さるのが分かる。
彼の肩が、びくりと跳ねた。
男は思う。――確かに。
危うく娘を焼きかけた張本人に、言いたいことがないわけじゃない。
だが、現実として。
娘を落としたのは、自分だ。
男は何も言い返せず、ただ娘を抱きしめるしかなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
ようやく入国 (サンセットという国の東部に)
入国の手続きは、あの男——『陽だまり亭』の主人である宿主の尽力によって、驚くほどスムーズに終わった。門番たちは、さっきまで自分たちを震え上がらせていた「歩く時限爆弾」が、街で信頼の厚いガルドを連れて戻ってきたことに目を剥いていたが、彼の必死の保証に抗う術はなかった。
街に足を踏み入れると、そこには異国情緒あふれる光景が広がっていた。
ファイは、見るものすべてが珍しいようで、まるで初めて外の世界を知った幼子のように、あちこちへ視線を飛ばしてはしゃいでいる。
僕も、アールの視界を通じて街並みを眺め、内心で高揚感を覚えていた。日本の機能的なビル群とは対極にある、歴史と生活感が混ざり合った独特の建築様式。 かつて前世で写真に見た、インドの「ブルーシティー」を彷彿とさせる光景だ。空の鮮やかさをそのまま壁に塗りつけたようなコバルトブルーの家々が、迷路のように入り組んで並んでいる。その色彩の暴力とも言える美しさは、実際に目にすると肌に刺さるような迫力があった。
「二人とも、ここに来るのは初めてなのか?」
未だにぐったりと意識を失ったままのアカリを大切そうに抱えながら、ガルドが僕たちに問いかけてきた。
「うん、初めてだね。豪華絢爛ってわけじゃないし、なんだか少し頼りなさそうな建物で地震とか起きたら崩壊しそうだけど、ファンタジー感あふれるいい雰囲気」
「そうね」 ファイも、屋根の上を飛び跳ねるように視線を動かしながら同意する。 「確かに、住んでいるところと比べると一軒一軒が小さいし、私の一撃ですぐ壊れそうな家ばかりだけど、見た目の色彩感覚だけは悪くないわ」
「……それは、一応褒めているのか?」 ガルドが引き攣った笑顔で聞き返してくる。
「もちろん」 「ええ、心から」
即答。
ガルドは、深いため息をついた。
「……そうか。だがな、この辺の建物は別に小さくも柔くもない。石造りで、普通に頑丈だぞ。一体お前たちは、どんな基準で生きてるんだ?」
訝しげな視線が、僕たちを往復する。
「発展した他国から来たのか? それとも……実はどこぞのお貴族様だったりしないだろうな?」
(おお、すごいね。正解だよ。僕の元の家は公爵家だし、前世はさらに発展した日本という国にいた。推理力は完璧だね。……まあ、教えるつもりは一ミリもないけど)
僕はとぼけて答えることにした。
「違うよ。僕はぬいぐるみであり、それ以上でも以下でもない。なぜなら、ぬいぐるみは既に至高の存在だからね。」
「……そうか」
声には、隠しきれない呆れが混じっていた。
「信じてないでしょ」
「いや。信じてないわけじゃないさ」
ガルドは苦笑しつつ続ける。
「俺は、お前ほど底の知れない“強さ”を持った存在を他に知らない。至高だって言われても、完全には否定できん。ただ……」
(このぬいぐるみ、言動が常識外れすぎて、共感できる要素が一つもないんだよな……。
だが、ここで否定して機嫌を損ねるのは論外だ。黙っておこう)
賢明にも、それ以上は口にせず、ガルドは一軒の建物の前で足を止めた。
「それより、着いたぞ。ここだ」
三階建ての風格ある建物。
街全体を覆う「青」に自然と溶け込みながらも、手入れの行き届いた清潔感と、宿特有の活気が感じられる。
「悪くはないわね」
ファイが、値踏みするように見上げる。
「うん。合格点だ。ここが僕たちの拠点の第一候補かな」
その言葉に、ガルドは少し誇らしげに――それでいて、どこか疲れた笑みを浮かべた。
「褒めてくれて嬉しいよ。俺が建てたわけじゃないが、先祖代々守ってきた自慢の宿だ。……まあ、とにかく入ってくれ。すぐに一番いい部屋を用意するから」
僕たちは、この宿『陽だまり亭』に有効期限なしの食事付き、いわゆる「永久無料招待」というVIP待遇で泊まれることになった。
正直、僕としては入国の保証人になってくれればそれで「契約完了」のつもりだったんだけど、宿主の方が引かなかったんだ。 「これだけでいいのか? もう少し何かさせてくれ。娘の命だけでなく俺まで助けてもらったんだ」 そう言って、彼はこう提案してきた。 「俺は宿を経営している。初めて入国したなら泊まる場所もないだろ。恩人たちからは金はとらない。好きなだけ泊まってくれ」
もちろん、そこには裏があった。 「恩をしっかり返すことは重要だが、それ以上に、あんたたちに良い印象を持ってもらいたいんだ」 要するに、僕たちほどの可愛く最強なものを繋ぎ止めておけば、また何かあった時に助けてもらえるかもしれないという下心だ。僕がそこを指摘したら、彼はあっさり「……まあ、正直に言えばそうだ」と白状した。正直な人は嫌いじゃない。それに、拠点としての利便性も高いから、ありがたく甘えることにした。
ちなみに、彼の名前は……忘れた。
さっき自己紹介してもらった気がするけれど、固有名詞を覚えるのって本当に難しい。
とりあえず「宿主」と命名しておこう。
それにしても、宿主からは想定以上に手厚い対価をもらってしまった。
なので、礼儀正しいぬいぐるみである僕としても、少しばかり「お返し」をすることにした。
まず一つ。あのグレート・ボアを丸ごとプレゼントした。 もちろん、大きすぎて捌くのが面倒だから押し付けた、なんてことは――
……あるわけがない。たぶん。きっと。
肉は高級食材になるし、毛皮や牙もいい素材になる。宿の経営に役立ててほしいという純粋な親切心だ。 宿主は「おお、これは……すごいな。う、うれしいな……」と、顔を引き攣らせながら喜んでくれた。 (これどうやって捌けばいいんだ? 確かに金にはなるが、こりゃ今夜は徹夜だぞ。はあ……) なんて呟きが聞こえた気もするけど、きっと嬉しさのあまり出た独り言だろう。
そして二つ目。僕の特製「ぬいレイ」のプレゼントだ。 決して街の情報収集用の端末を配置したわけじゃない。殺風景な(青いけど)宿の入り口に、僕が魂を込めて作った「可愛さ」を提供してあげたのだ。入り口の両脇に二体。これでこの宿のグレードも一段階上がるはずだ。
宿主が裏庭で巨大なイノシシと格闘(解体)に励んでいる頃、僕とファイは用意された部屋でくつろいでいた。
テーブルには、この宿自慢の料理が並んでいる。 まあ、僕は食べられないんだけどね。アールの体には消化器官なんて野蛮な機能はつけていない。その代わり、ファイはぬいぐるみとはいえ、僕がこだわって「人間の肉体」を完璧に再現して作った傑作だ。味覚もあれば、食事を楽しむ心も持っている。
「……ん! これ、美味しいわね。あの薪の近くで採れたキノコかしら」
ファイは見た目こそクールな美少女だが、今は年相応に目を輝かせてシチューを頬張っている。
そんな時、宿主の娘、アカリがようやく目を覚ました。
「あれ……? ここ、うちの宿? ……私、生きてる?」
朦朧とした意識で辺りを見回していた彼女だったが、視界に僕たちが入り込んだ瞬間、その黄金色の瞳がカッと見開かれた。
「あーーーっ!! 私を! あの絶望的な状況で見捨てて、スタスタと歩いて行った人たち!! 何でうちにいるんですか!」
「見捨てたんじゃないよ。あえて『放置』したの。全く失礼な」
「あの状況で放置も同じことでしょ! 殺す気だったんですか!」
僕はアールの短い手を横に振って、心外だというポーズをとった。
「だって、あんな雑魚な魔物に三時間も捕まってるなんて不自然じゃん。てっきり、わざと捕まって善意で近づいてきたお人好しを襲おうとしている、狡猾な盗賊の罠だと思ったんだよ」
「あなたには私があんなに必死に助けを求めているのに、そう見えたのですか!? どう見ても、可哀想で美しすぎる被害者でしょ! ……というか、何であなたたちがうちの宿にいるわけですか?」
僕はこれまでの経緯――宿主を助け、契約を交わし、この宿の「特別待遇ゲスト」になったことを淡々と説明した。ちなみに、ファイは「これ、中にベリーが入ってる!」と、目新しいパイを食べるのに夢中で、会話に加わる気配すらない。
アカリは僕の説明を聞き終えると、深い溜息をついて肩を落とした。
「……そうなのですね。私だけでなく、お父様まで助けてくださったのね。それは……一応、ありがとうございます。で、す、が!」
ぐっと拳を握りしめ、再び僕を睨みつける。
「助けてくださるなら、一回目で助けてください! 本当に、本当に死ぬかと思ったんですからね! 動くたびに足が引きちぎれそうに痛くて、視界もぼやけて……それでも、誰か来るって信じて……っ!」
声が震え、言葉が詰まる。
「……でも、あのまま誰も来なくて、お父様も来なくて……私の心が、どれだけボロボロになったか……っ!」
涙をぽろぽろと零しながら、彼女は僕を掴んで揺さぶってくる。
その必死さは、宿主が語っていた「物静かで聖女のような娘」の面影を、きれいさっぱり吹き飛ばしていた。
正論で言えば、今でも僕の判断は合理的だったと思っている。
けれど、こうして泣きながらしがみついてくるのを前にすると、胸の奥のどこかが、ほんの少しだけ軋んだ。
……本当に、感情というのは厄介だ。
「何か聞いてた話と違うね。もっと物静かで、誰にでも優しい完璧な女性だって聞いてたんだけど、宿主に」
「……っ!
そ、それは……あなた方のせいです!
常識外れな行動をなさるから、私の完璧なセルフコントロールが乱されているだけです!」
ちらりと、彼女はファイを見る。
「そちらの方は、そもそも話を聞いてすらいませんし……。
ですが、最終的に助けていただいたことは事実です。
感謝すべきだとは理解しています……いますけれど!」
「釈然としない、と」
「その通りです! 分かってるんじゃないですか!」
僕はアひそかに口元を緩めた。
(この女性、揶揄うと反応が面白いな。良い暇つぶしになりそうだ)
「ドンマイ」
「……っ!」
アカリの頭上に、今にも見えそうな怒りマークが浮かぶ。
だが彼女は、ぐっと唇を噛みしめ、深呼吸をひとつ。
(落ち着きなさい、アカリ。
相手は……ぬいぐるみ。
幼い少女のようなものです。
この程度の無作法を許すのが、慈悲深い私の務め……)
自分に言い聞かせるように頷きながら、
「よしよし」と呟いて、僕の頭に手を伸ばしてくる。
――が。
なでられるのは嫌いじゃない。
けれど、知らない人に急に触られるのは、正直ちょっと嫌だ。
僕はひらりと身をかわし、彼女の手首を掴むと、
そのまま彼女自身の髪を、わしゃわしゃとかき乱した。
ぼさぼさになるアカリの髪。
(……っ! 落ち着け、相手はぬいぐるみの少女。
可愛がるのが普通。これが普通。……ん? 普通?
ぬいぐるみが、さっきから流暢に喋って、浮いて、動いている……?)
自分の感情で手一杯だったアカリが、
ようやく根本的な異常に気づいたようだった。
「……今さらですが。
あなたは、一体何者なのですか?
ぬいぐるみが、普通に動いたり話したりするはず……ありませんわよね?」
「ぬいぐるみは、普通に動くよ?」
「なわけないでしょ! ぬいぐるみは綿と布でできた人形でしょう!
エドナ商会で売られているぬいぐるみは、みんなそうでした!
……それが、動いて、喋って……ま、まさか……」
彼女の顔が、みるみる青ざめる。
「あなた……巷で噂になっている、極悪非道の
『ぬいぐるみの魔王』ことアールだったりしないわよね!?」
(……“極悪非道”はさすがに言い過ぎじゃない?
せめて“自由奔放”くらいにしてほしいな)
内心でそんなことを思いながら、僕は視線を逸らした。
「…………そんなわけないよ。
確かに名前は同じだけど、ぬいぐるみ違いだね」
「そんなわけないでしょ! 返答の間が長すぎるし、
もう認めているようなものじゃないそれ! バレバレよ!
隠す気あるの!?」
「え!?」
「『え!?』じゃないわよ。でも……そうね。
噂に聞くような『出会う者すべてを絶望に叩き落とす邪悪な魔王』って感じでもないし、
性格のひん曲がったぬいぐるみ、っていう方が近いわね。
一度はひどい見捨てられ方をしたけど、結局助けてくれたわけだし」
呆れたように肩をすくめるアカリ。
僕は、あくまでしらばっくれる方針を貫くことにした。
「どうして僕がその『ぬいぐるみの魔王』とやらと
同一人物って前提で話が進んでいるの?
僕の瞳を見て。嘘ついてるように見える?」
「見えるわ。むしろ、その怪しい瞳でよくそんな白々しいことが言えるわね。
まあ、助けてくれた恩人なのは事実だし、正体が何者だろうと今は気にしないことにするわ。
でも、それで正体を隠すつもりなら、まず無理があると思うわよ?」
「ちなみに、どうすればいいと思う?
まあ、ぬいぐるみ違いには変わりないけどね?」
「まず、偽名を使うことです」
即答だった。
「その見た目で『アール』と名乗っていたら、
この国の人間なら誰でも真っ先に、
指名手配中のぬいぐるみの魔王を連想すると思うよ」
「なるほど……」
言われてみれば、確かにその通りだ。
偽名のひとつくらい、最初から用意しておくべきだったかもしれない。
「『なるほど』って……まさか、自分では完璧な変装だと思っていたのですか?
それに、そもそもぬいぐるみが動いて喋ること自体が、もう十分『異常』でしょう。
正体を隠したいなら、極力喋らない、動かない、そのくらい努力なさっては?」
(髪型も変えてるんだけどな……)
仕方ない。
僕は別の手段を試すことにした。
声ではなく、念話で。
(――どう?)
「ひゃっ!?」
アカリが小さく跳ねる。
「……な、何ですか、今の。
頭の中に、直接……声が……?」
(念話だよ。
これなら喋ってるようには見えない。完璧でしょ?)
「……はいはい。
それほど便利な能力があるなら、最初からそうなさるべきでしたでしょうに」
じとっとした視線。
「本当に……
能力の使いどころが、いちいちズレてるね」
(そうかな?あ、そうだ。ついでに、この国の常識を教えてよ。いいでしょ、僕は恩人なんだし)
「……すがすがしいほど恩着せがましいですね、あなた」
(教えてくれないの? いや、まさか……この国の常識をこの国に来たばかりの僕以上に知らないの!? 住んでいるのに!?僕よりお年よりなのに)
「そんなわけないでしょ! いちいちイラつかせるわね、あなた! というか、お年よりじゃないわよ!言い方!私はまだ20なの。一番完璧な年齢なの。せめて、普通年上という言い方にしなさいよ。全く。」
「口調が崩れているよ?」
「あなたのせいでしょ!もう。いいわ、仕方ないから教えてあげるます。何が知りたいのですか?」
アカリは「やれやれ」と額を押さえながらも、教卓に立つ教師のような(あるいは完璧な淑女のような)居住まいを正した。
(それじゃあ、まずは『冒険者』について。それと、この国の子供でも知っているような『最も重要な常識』を教えてほしいな)
それから、三つのことを教えてもらう流れになった。
途中で何度かいたずらを仕掛けて揶揄ってみたけれど、どうやら耐性がついたらしく、反応は徐々に薄くなっていく。少し残念だ。怒りを必死に我慢している顔、けっこう面白かったのに。
まあ、それより今は情報だ。
まず一つ目は、冒険者について。
この国――サンセット王国には冒険者協会、いわゆるギルドが存在し、そこには伝説級の強者たちが名を連ねているらしい。
「いい? よく聞きなさい。この国で絶対に怒らせちゃいけないのは、Sランクの面々よ」
アカリは指を折って数え始める。
一人目は、『創剣のリンネ』。
魔力であらゆる武器をその場で創り出す、変幻自在の女剣士。
――この人は、すでに会ったことがあるし、モデルにしたぬいぐるみももう作ってある。
二人目は、『灯のバルドル』。(※モブ枠なので気にしなくていい)
一対一で敵う者はいないと謳われる片手剣の使い手で、その剣に宿る烈火は不浄を一切残さないという。
そして、ギルドを取り仕切るギルドマスター。
単純に強く、立場的にも厄介な人物。
さらに今、この国で「最強」の名を欲しいままにしているのが、『ジ・エンペラー』。
正体は謎に包まれているが、彼――あるいは彼女――が通った後には、必ず伝説が残ると噂されているそうだ。
「登録の流れはこうよ。個人情報を書いて、魔力測定。それと実技試験。その結果で初期ランクが決まるわ」
(なるほど。魔力測定ね。僕が本気を出したら水晶が爆発するかも。
登録するときは偽名を使おう。『レア』……うん、悪くない)
二つ目は、この国の仕組み。
この国の頂点に立つのは王ではなく、「青の神」と呼ばれる絶対的な神性だ。
街も国も青に染まっているのは、その神の加護によるものらしい。
(神か……どのくらいの魔力量なんだろう。一度、本気で戦ってみたいな)
そう考えた瞬間、深層意識にリュシエルの呆れた声が響いた。
『ユラちゃん、それはまだ早いわよ。今のあなたなら負けはしないでしょうけど、勝つのも簡単じゃないわ。相手にするなら、もう少し“可愛いぬいぐるみ”としての経験値を積んでからにしなさい』
「……そんなに強いんだ。ちなみにリュシエルなら勝てる?」
『当然でしょ』
だそうだ。
ちなみに神はめったに姿を現さず、実際の国政は国王が担っているらしい。
そして三つ目――。
それを教わっている最中に、その「騒ぎ」は起きた。
宿の表から、宿主の悲痛な叫びと、下品な男たちの笑い声が響いてきたのだ。
「――っ! またあいつら!」
アカリが血相を変えて部屋を飛び出す。
僕も体を浮かせ、その後を追った。
玄関先に辿り着くと、そこには「青の街」の穏やかな空気を切り裂くような、重苦しい圧迫感が渦巻いていた。
「……っ、待ってくれ。 明日になれば、ギルドからこのボアの解体費用が振り込まれるんだ。そうすれば、利子をつけてきっちり払う!」
宿主の前に立つのは、街のコバルトブルーとは似ても似つかない、泥色の革鎧を纏った男たち。
中央の男が、集金袋をわざとらしく鳴らしながら、下卑た笑みを浮かべている。
「ハッ。明日じゃ遅ぇんだよ。俺たちの『ボス』は気が短くてな。
今日払えねぇなら、その誠意ってやつを別の形で見せてもらわねぇと。
土地を手放すとか、奴隷落ちするとか、どうだ?」
「それは……っ」
そのとき、ちょうどアカリが駆けつけた。
だが、割って入れるはずもなく、ただその場に立ち尽くす。
男の視線が、彼女の全身を値踏みするように這い回る。
「おやおや、噂の看板娘じゃねぇか。
……なるほどな。こいつを連れていけば、借金の帳消しくらいは考えてくれるかもしれねぇ」
アカリの顔から、さっと血の気が引いた。
(……逆らっちゃダメ。相手は『沈まぬ影』の人間。
ここで抵抗すれば、宿は灰になる。
私が……私が行けば、この場は収まる……)
「お父様、私……」
「アカリ! よせ! 行くんじゃない、絶対にだ!」
宿主の叫び。
アカリは震える手で、背後の僕を制するように言った。
「お願い、何もしないで。彼らはただのチンピラじゃない。
組織の人間なの。手出しをすれば、私たちはこの街にいられなくなる……。
それと……お父様を、お願い」
必死の忠告。
けれど、残念ながら僕は、彼女の詳しい解説をちゃんと聞いていた記憶がない。
それに、この場の重苦しさも、正直ほとんど伝わってこなかった。
ただ一言で言うなら――面白そうだな、と。
そしてユラは、堂々と宿主と男たちの間に割って入った。
「やっほー。今どういう状況? 宿主、説明して。
この派手な人たち、宿主の友達? ファッションセンス、独特だね」
「なっ……! ぬいぐるみの方!」宿主が叫ぶ。
「来ちゃだめだと言ったのに!」
アカリの悲鳴を背に、僕はぬいぐるみの短い手を振った。
「宿主。僕は『レア』っていう立派な名前があるんだ。
これからはそう呼んでね。間違えちゃだめだよ」
「……今、偽名って言いかけなかったか!? いや、それどころじゃない!
レア殿、ここは気にしないで部屋へ戻ってくれ。あんたたちまで巻き込めん!」
だが、その願いは届かなかった。
なぜなら、目の前の男が、自分で自分の寿命を削るような言葉を吐いたからだ。
「あぁ? 動く人形だと?
……ケッ。こんな気味の悪い見世物小屋の余り物を客にしてるたぁ、
ずいぶん程度の低い宿だな。ゴミはゴミ箱へ帰れよ」
その言葉を聞いた瞬間、思考が凍りついた。
胸の奥で、何かが静かに、しかし確実に砕ける音がした。
僕は僕自身を侮辱される程度は構わない。
でも――アールを。
僕のすべてで、世界で一番大切な存在を、ゴミと呼んだ。これだけは許せるわけがない
ああ、なるほど。
それはもう、ヤッていい理由としては十分すぎた。
隣で冷めた目で見ていたファイが、やれやれと首を振った。 「あーあ……あの人間、終わったわね。ユラの逆鱗がどこにあるかも知らないで。お気の毒さま」
「な、何をブツブツと……ぐあっ!?」
男が反応する間もなかった。男が何か言おうと口を開いた、その瞬間。
世界から音が消えた。
次の瞬間には、僕はもう男の懐にいた。
ズドォォォォン!!!
まるで大砲の直撃を受けたかのように、男の体はへの字に折れ曲がり、背後にいた数人の取り巻きを巻き込みながら、文字通り「弾丸」となって吹き飛んだ。
「は? ぐはぁっ!?」
男たちは大通りを何十メートルも跳ね転がり、
露店の屋台を吹き飛ばし、通行人の悲鳴を巻き込みながら、
最後は噴水の縁を砕いて沈黙した。
静寂。 宿の入り口には、唖然として口を開けたままの宿主と、アカリだけが残された。
「ゴミ掃除完了。それで、結局どういう状況だったの?」
僕がぬいぐるみの短い手をパンパンと払いながら尋ねると、宿主は魂が抜けたような顔で口をパクパクさせるばかりで、言葉になっていなかった。
代わりに、アカリが激しく頭を抱えながら、絶叫に近い声を上げる。
「あの人たちが!さっき話していた、この国の犯罪を統括する裏ギルドの一員なの!だから、何もしないでって言ったじゃない!!」
(……何だっけ?)
「さっき教えたばかりでしょ!? まさか一文字も聞いてなかったの!? まあ、話の途中だったからあれだけど、こういうことが起きる前に警告する予定だったのよ! どうしてこうも、私の想定を軽々と飛び越えて最悪な展開を作るのよ、このぬいぐるみは!」
「何か不味いの?」
「本当に……一ミリも話を聞いてなかったのね……」
アカリは頭を抱え、ほとんど呻くように言った。
「いい? よく聞いて。あの男たちが所属している裏ギルド『沈まぬ影』は、この国で最も巨大な犯罪組織なの。国ですら対策に手を焼くほど、強力で、根が深い。そんな連中に目を付けられたら、たとえあなたがどれだけ強くても、数と規模で押し潰されるわ。だから……だから『絶対に手を出さないで』って言うつもりだったのよ!」
アカリの必死の形相を前に、僕はアールの首をこてんと傾け、素直に頷いた。
「なるほど。つまり、僕の活動資金になるために存在してる、便利な組織ってことだね?」
「……ねえ。私の言葉、ちゃんと共通語として認識されてる?
国ですら対策できない組織なのよ? 総合力で言えば、小国一つ分の勢力なのよ!?」
「ちなみにさ、なんで彼らはわざわざここに来てたの?」
僕が平然と話題を変えると、ようやく正気を取り戻した宿主が、重い口を開いた。
「……俺から説明しよう。レア殿」
その顔には、助かった安堵よりも、これから訪れる破滅を悟ったような影が落ちていた。
「あいつらは、この街で宿や店を構えている俺たちみたいな経営者から、『自警団の活動費』って名目で金を取っていくんだ」
「不正に?」
「ああ、もちろん非公式だ。俺たちはきちんと国に税を払ってる。二重課税もいいところだ。
だが……払わないわけにはいかない。目を付けられたら、夜道で刺されるか、店に火をつけられるか……そんな想像も難くない」
(意外だね。もっと根こそぎ持っていくのかと思ったけど)
宿主は僕の考えを見透かしたように、力なく首を振った。
「金額自体は、そこまでじゃない。だがな……毎回、こっちの懐が一番厳しい時を狙って来る。期限は当日まで。
いつもは何とか工面するが……今日は無理だった。一日中外にいて、ギルドも閉まってて、金も借りられない。正直、助かったが……」
「それならいいじゃん。というか、不正にお金を取ってくるのはイラつくね。ぬいぐるみとして許せないよ」
「ああ……だが、そのせいで今度はレア殿が目を付けられる。本当に、すまない……」
どうやら、僕の身を案じてくれているらしい。
「それは大丈夫。僕は最強だから。あ、そうだ」
僕は、吹き飛んだリーダー格の男に巻き込まれず、ただ呆然と固まっていた取り巻きの二人――便宜上、取り巻き4号と5号と呼ぼう――に、ふわふわと浮きながら近づいた。
(手を出して)
「へ? あ、はいっ!」 恐怖と困惑で思考が止まっている彼らは、反射的に両手を出した。その掌の上に、僕はジャラジャラと金貨を数枚ずつ載せていく。
「へっ? こ、これは……?」
(これだけあれば、宿主の今後の分の税とやらは足りるでしょ? これを持って帰るといいよ。ただし、今後この宿に手出しするのは厳禁だよ。わかった?)
その言葉を聞いた宿主とアカリは、信じられないものを見るような目で僕を見つめた。
「何とお礼を言ったらいいか……!」 「私たちのために、そこまでしてくださるなんて……!」
二人の目には、この時の僕が後光の差す慈悲深い聖者のように見えたに違いない。しかし、その感謝のまなざしの雲行きはとちゅから怪しくなる。特に、ユラに散々からかわれたアカリはユラが他人のために何かするというのに違和感を感じる。
(それと、これとは別に追加でこれをあげよう。君たち個人にね) さらに金貨を数枚、彼らの手に握らせる。
(……言いたいことは、わかるよね?)
「え……? あ、あああ、はいっ! わ、わかります! わかってますとも!」 (わかるわけがない。だって僕、特に何も考えてないし。なんとなくかっこいいから含みを持たせていっただけだし)だが、彼らは勝手に『何かをしたらこのぬいぐるみに消される』と疑心暗鬼になって、今後悪事ができなくなるなったしするのだがユラが知る由もない
(ちなみに、断るんなら……)
僕は、遠くの噴水で白目を剥いている「元」リーダーに目線を向けた。 見ると、いつの間にか彼の胴体には、どこから持ってきたのか「指名手配書」と、丁寧に『自首します』と書かれた張り紙が貼り付けられていた。どうやら裏ギルドの中堅幹部で、なかなかの賞金首だったらしい。張り紙の横には、ぬいレイによるものと思われるファンシーな落書きや悪戯まで添えられている。
それを見た取り巻きたちは、千切れんばかりに首を縦に振った。
(よし。それじゃあ、行ってよし。組織の人たちには僕のことを……じゃなくて、こっちのファイのことをよろしく言っといてね。この子が全部やったって)
「ちょっ、何よそれ! 押し付けないでよ!」 ファイがシチューの最後の一口を飲み込みながら抗議するが、時すでに遅し。
「ヒィィィッ! し、失礼しますッ!」
金貨を握りしめた彼らは、脱兎のごとく、かつ全力で逃げ去っていった。
その光景を横で見ていたアカリは、絶望的な状況を救われた感謝こそあれど、あまりにも手慣れた「悪役」のようなユラのやり取りを前にして、思わずファイに耳打ちした。
「……ねえ。これ、もしかして私たちのために怒ってくれたわけじゃないのかしら?」
ファイは最後の一口だったパンを飲み込むと、憐れみすら混じった瞳でアカリを見た。
「当然でしょ。まず第一に、あの子が他人に一ミクロンのメリットもなく無償でお金を渡すわけないじゃない。……多分だけど、あの金貨、何か仕掛けたわね?」
「すごい言いがかりだね、ファイ。プンプン。」
「違うの?」
「もちろん。あってるよ。ということで後で一緒に行こう。あの金貨が何千倍……いや、何万倍になって戻ってくる予定だからさ。君も来る? えーっと、アカリん……だっけ?」
ピキッ。
アカリの眉間が、音がしそうなほど引きつった。
「もう私の名前を忘れたのですか!?
アカリんじゃなくて、アカリです! ア・カ・リ!
何回も名乗りましたし、ついさっきも言いました! 名前くらい数分は覚えておいてください!」
怒涛の訂正。
「……というか、本当に裏ギルドとやり合う気なんですの? 正気ですか?」
「もちろん。カモが大金背負って歩いてきたんだよ? 狩らない理由がないでしょ。
その『沈まぬ影』とかいうネーミングセンス皆無の組織は、記念すべき僕のお財布第X号に選ばれたってわけ」
「第X号って……?」
「今までお財布になった相手や組織の数なんて覚えてないから」
「……いったい、どれだけそんなことをしてきたの!? まさか、私も……!」
「いや、しないよ。関わりある人からはさすがにやらない」
「でも、冒険者とか一般人とかにも襲ってるって噂、聞きますけど……」
「……」
(それは赤の他人だし)
アカリは深く、深く溜息をついた。
ついさっきまで、
「この人たちを巻き込んではいけない」
そう思って震えていた自分が、急に馬鹿らしくなってきた。
(……ああ、そう。そうよね。
このぬいぐるみ、心配するだけ無駄だったわ。
どっちが犯罪者だかわかりゃしないじゃない……)
「アカリ、何を突っ立ってるの? 部屋戻るよ。さっきの常識の説明の続きして」
(……本当に人使いが荒いわね、この子。
しかも見た目通り、私より年下なんでしょう? それでこの態度って……)
そう思いながらも、背中を向けて歩き出した小さなぬいぐるみを見て、
結局アカリは溜息をつきつつ、その後を追った。
放っておけないと思ってしまった時点で、もう負けなのだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
そして翌日。僕たちはサンセット王国の冒険者ギルドへと向かった。
昨日の夜は、アカリから「沈まぬ影」という犯罪組織の恐ろしさをたっぷりと叩き込まれた。彼女曰く、この国で起こる悪事はすべて彼らが糸を引いていると言っても過言ではなく、国の上層部や冒険者ギルドの内部にさえ、その毒牙が入り込んでいる可能性があるらしい。
「いい? 誰が敵か分からないんだから、本当に気をつけてよね」
そんなアカリの忠告を昨日に続き今朝も受けること数分。宿を出て彼女が説明してくれた通りの道を進むと、すぐに目的地が見えてきた。
「――冒険者ギルド」
看板には無骨な文字でそう刻まれている。
二階建ての堅牢な石造りの建物で、入り口からは剣を帯びた荒くれ者や、魔導具を携えた魔法使いなど、大勢の冒険者たちが慌ただしく出入りしている。
この時、僕はファイの右上でふよふよと無重力に浮いていた。そして、ある「方針」いやミッションを固めていた。
それは、「ただの無害で動かないぬいぐるみを演じきること」だ。 「動かないぬいぐるみ」を演じている。そのあと動いてみんなを驚かせる。とっても面白そうでしょ。備考として昨日、アカリに「ぬいぐるみが喋って動くのは異常」だと指摘されたのを、僕なりに真摯に受け止めた結果でもある。喋る必要がある時は念話で特定の人にだけ話し、それ以外は虚無の瞳で宙を漂うだけの存在に徹する。
それに、これには二つのメリットがある。 一つは、僕が「ぬいぐるみの魔王」だと結び付けられるリスクを減らすこと。 そしてもう一つは……面倒な交渉や手続きを、すべてファイに押し付けられることだ。
(ということで、あとは頼んだよファイ。僕はファイの右上から、慈愛に満ちた瞳で見守っているからね。ファイなら、この程度の雑務、完璧にこなせると信じているよ(大嘘))心の中では、ファイの人間を見下す性格的に面倒ごとが起きる予感しかしないが、面白そうだしあえて伏せる。
念話でそう告げると、ファイはすぐに不敵な笑みを浮かべて胸を張った。
「当然よ。この程度の人間たちの巣窟、私一人で十分だわ。大船に乗ったつもりで見てなさい」
ファイはそう言うと、冒険者たちの視線が集まるギルドの重厚な扉を勢いよく蹴破る……もとい、堂々と押し開けて中へと踏み込んだ。
ギルドの重厚な木製の扉を押し開けた瞬間、独特の熱気が僕たちを包み込んだ。
中は喧騒に満ちている。大半はどこにでもいそうなパッとしない冒険者たちだが、中には全身から殺気を放つ者や、見るからに質の悪い笑みを浮かべる輩も混じっている。
そんな中、受付カウンターに目をやると、数名分ある窓口のうち、なぜか稼働しているのは一箇所だけ。そこには一人の女性が、恐ろしい速度で書類を捌きながら座っていた。まさか、ギルド全体の事務を一人で……?
僕たちが一歩踏み出した瞬間、波が引くようにざわめきが止まった。 視線の先にあるのは、顔を隠すようにフードを深く被った謎の美少女と、その傍らで物理法則を無視してプカプカと浮遊する、ぬいぐるみ(僕)。注目されるのは必然だった。
「おやおや、見慣れないツラだな。新人か?」
沈黙を破ったのは、ひげ面に刻まれた深い傷跡がいかにも「ベテラン」を物語る大柄な男だった。テーブルで仲間とジョッキを傾けていた彼は、下卑た笑いを浮かべながら立ち上がり、わざとらしく腰の剣に手をかけた。
「フードを深く被って、コソコソと怪しいじゃねえか、嬢ちゃん。それに、横に浮いてるその不気味な人形……。一体何者だ。おい、フードを取れ。このベテランの俺が直々にツラを拝んでやろう」
男の名はアーク。腕は確かだが、酒が入ると新人に絡む悪癖を持つ、ギルドの名物(厄介者)だ。 だが、そんなベテランの威圧も、ファイには「風景」にすら映っていなかった。彼女はアークを一瞥すらすることなく、優雅な足取りで受付カウンターへと直進する。
(テンプレみたいに、なんか頭の悪そうなモブが来た!どうなるかワクワク。不気味な人形といわれたことに少しイラっとしたけど僕はただの何の変哲もないぬいぐるみを演じ切ることがミッションなのだ。ここは水に流してあげよう) 僕は、わくわくしながらただ浮いているぬいぐるみを演じ続け、ファイがどうこうするか興味深く見守る。
「おい、無視してんのか! この俺が言ってんだぞ! 嬢ちゃん、いい度胸じゃねえか!」
無視されたことに激昂したアークが、大股でファイの前に立ちはだかる。酒の臭いと威圧感がファイの鼻先をかすめた。
当然ファイはこれに対して不快に思うわけで。
「なに? 邪魔なんだけど。どいて、邪魔人A」
一瞬、ギルド内が凍りついた。 ベテランとして長年この場所で幅を利かせてきたアークが、見ず知らずの小娘に「邪魔な通行人その1」程度の認識で切り捨てられたのだ。
「……あ、あ? いま……なんて言った、このガキ……ッ!!」
アークの顔は、一気に茹で上がったタコのように真っ赤に染まり、首筋には太い血管が浮き上がった。 ちなみに、この「邪魔人A」という言い方は、僕が固有名詞を覚えるのが面倒で「通行人A」や「村人B」と適当に識別していた癖が、知らず知らずのうちにファイにうつってしまった結果だ。
それにしても、思わず吹き出しそうになったのを我慢した僕のことをほめてほしいぐらいだ。
周囲の冒険者たちは息を呑む。 アークの挑発の弱さは有名だ。そして、今この瞬間、彼の理性は完全に限界を超えていた。
「このアマ……ッ! 誰に口を叩いてるか教えてやるよ!!」
アークが叫びと共に剣を抜き放った瞬間、それに反応したファイのとてつもない殺気がギルド全体に吹き荒れる。 それは、普通の人間には耐えがたいほどの生存本能が警鐘を鳴らす、尋常ではない殺気だった。格下である人間、それも酒臭い「邪魔人A」に道を阻まれた。彼女の中の精霊としてのプライドが、我慢が限界だった。
ファイの周囲の空気が陽炎のように揺らぎ、足元の石畳には極小の魔法陣が火花を散らしながら展開される。彼女が放とうとしているのは、牽制でも警告でもない。最初から相手を塵も残さず消滅させるための魔法だ。
(あーファイが魔法を放ったら目の前の男どころかこれはギルド全体が灰にかな。下手したら僕自身にまで被害が及ぶ……ま、僕は空気だから。観客に徹させてもらおう。一応身体強化しておこ)
僕は念話すら送らず、ただの浮遊物としてその光景を見守る。止めようと思えば、いくらでも方法はある。でも今はぬいぐるみミッション中。この後のストーリーを観客として見守る。
周囲の冒険者たちは、ファイから放たれる圧倒的なプレッシャーに、本能的な恐怖を覚えて後退した。中には足の震えが止まらず、その場に崩れ落ちる者や、泡を吹いて気絶する者までいた。
しかし、自称ベテランのアークは、その殺気の渦を正面から受けながらも、辛うじて意識を保っていた。
「舐めるなぁぁぁ!!」
己の恐怖を塗りつぶすように咆哮し、アークが剣を振り下ろす。
「死になさい、無礼な人間……!」
ファイが無慈悲に、召喚するように取り出した大剣を迎え撃つように構えた。 力の調整すらままならない彼女が、初めて手にする大剣で一撃を放とうとしている。このまま激突すれば、男の命どころか、この頑丈なギルドの建物ごと吹き飛ぶのは火を見るより明らかだった。
――だが、破滅の直前、一つの「影」がその間に割り込んだ。
「そこまでです! アークさん!」
一人の女性の手が、アークの剣を持つ腕を掴み、その動きを完全に封じ込めたのだ。
声の主は、先ほどまで一人で業務をこなしていたあの受付嬢だった。 彼女は、ファイの殺気が渦巻く死の境界線に、恐怖の色一つ見せずに割って入ったのだ。ファイも、流石に無関係な者を巻き込むわけにはいかないと判断したのか、衝突の寸前で大剣の軌道を強引に逸らした。床にわずかにかすめただけで、石畳が深くえぐり取られる。
「……っ、危なかったわ」 ファイが小さく毒づきながら、大剣を下ろす。
「ギルド内での私闘は、規則違反です! 剣を納めてください!」
「うるせぇ! エミリー! 見てわかんねぇのか! こいつらが先に俺を侮辱したんだ!」
どうやらあの受付嬢はエミリーというらしい。アークは顔を真っ赤にして叫びに対しても、エミリーと呼ばれた受付嬢は一歩も引かなかった。
「侮辱されたかどうかは、ここでは関係ありません! 規則は規則です! それに……」
エミリーはフードを深く被ったファイをまるで分析するように一瞥し、凛とした声で続ける。
「あなたも、力を収めてください。ここは、あなたの私怨を晴らす場所ではありません。……ご用件は、冒険者登録ですね?」
彼女はファイが単なる「気の強い小娘」ではないことを、その肌を刺すような魔力の余波から察したようで、なるべく丁寧に言葉を紡ぐ。
だが、一度火がついたファイとアークの熱は、そう簡単には引かない。ファイの指先にはまだ小さな火花が爆ぜ、アークは剣を握る手に力を込めている。
(……。僕が『何の変哲もない普通のぬいぐるみ』のふりをしている間に、ギルドが灰になっちゃいそうだ。それに、今の状況ってなんやかんやちょうど僕が動いたら面白くなりそうな展開じゃないかな?。みんなファイたちに注目していることだし、背後から魔法を派手に使ってみんなを驚かしながら登場なんて面白いかもしれない。ということでこのタイミングで、ちょっとだけ介入して……)
僕が動こうとした、その時だった。
ギルドに踏み込んできた「何か」の気配によって、場の一切の温度が急速に奪われた。思わず僕も動きを止めてしまう。
ガラン、と誰かのジョッキが床に落ちる音がやけに大きく響く。 扉から差し込む陽光を背負って現れたのは、もはや圧迫感という言葉すら生ぬるい、巨大な影だった。
(……ふーん?)
僕は思わず、目を細めた。 その男が放つオーラ。それは、あの天才で苛烈なリア姉の威圧感すら上回るほど、研ぎ澄まされたものだった。暴力的なまでの魔力の密度。一歩踏み込むごとに、床の石畳がその重圧に悲鳴を上げているかのようだ。
ギルド中の冒険者たちが、蛇に睨まれた蛙のように沈黙する。
「……来たぞ」
誰かが喉の奥で、ひりつくような声を絞り出した。
扉から現れたのは、金の髪を鈍く輝かせた、岩山のような体躯を持つ男。 その片頬に刻まれた深い刀傷が、彼が潜り抜けてきた死線の数を物語っている。 無言のまま彼が歩を進めるだけで、空気の密度が一段と重く沈み、彼が視線を向けた方向では、屈強な冒険者たちですら呼吸する音を忘れた。
――この国サンセットにおけるギルド最強のSランク冒険者。
数々の伝説を作り、瞬く間にsランク冒険者になった男。
その名は、《ジエンペラー》鬼怒。
アークが慌てて剣を引っ込め、頭を下げる。
他の冒険者たちも次々とざわめき始めた。
「ジエンペラー様……! 本物だ……!」
「いつもながら、とてつもないオーラだ。今回は一体どんな伝説が」
「Sランクが直接出てくるなんて、いつ以来だ……」
歓声とともに、畏怖を帯びた興奮が、波のように広がっていく。
それでも鬼怒は、誰の言葉にも反応せず、静かに場を見渡す。
ファイは、彼と視線を交わした瞬間――呼吸が止まった。
わずかな一瞥。その眼光に込められた圧は、言葉にできない重さだった。
その男が立っているだけで、ファイのさっきすら凌駕するオーラなのだ。
(……この男、ただの者じゃない。強い。それも、おそらく私以上に。
本当に意味わからない。人がたどり着ける強さを優に超えているわよ!)
ファイの中で、明確な警戒が芽生える。
そのとき、周囲の冒険者たちは、完全に同じ考えに満ちていた。
ジエンペラーがすべていいように終わらせてくれると。周囲からの期待は強者から弱者、そして、ガラの悪い者からそうでないものまで絶大だった。
「ジエンペラー様! その生意気な女、懲らしめてくださいよ!」
「冒険者の力ってのを、思い知らせてやってください!」
「どうなるか賭けの時間だ!お前らどうなると思うか?」
歓声が渦を巻く。
鬼怒は何も言わない。ただ、その喧騒を数秒ほど黙って聞いていた。
そして――低く、一言。
「……訓練場を借りる。観客はなしだ」
それだけ言うと、彼は踵を返し、奥の廊下へと歩き出した。
ざわめきが一瞬で凍りつく。彼の言葉の一言一言に重みがあるのだ。そして、誰も逆らわない。
逆らえない。せっかくだから観戦しようと思っていた者も、当然であるかのようにあきらめる。
「おい、女。震えて声も出ねぇか? 特別だぞ、今回は特別にこのギルドで最強のSランク冒険者、《ジ・エンペラー》様が直接ご指導してくださるそうだ。冒険者になる前に、精々死なないように気張るんだな!」
周囲の冒険者たちも「この後どうなっているか見ものだぜ」「格の違いを思い知るだろうよ」と口々に囃し立てる。しかし、ファイの耳にはそんな雑音は一切届いていなかった。彼女の意識は、目の前を歩く男の背中に放たれる、重苦しいほど純度の高い「強者の気配」にのみ注がれていた。
ユラは、アールのぬいぐるみの体の中で、その光景を冷静に分析していた。
(……間違いないね。あのオーラ、完全に“頂点”を知る者のそれだ。威圧感の質が違う。リア姉をも凌ぐ圧倒的な力。……さすがにリュシエルほどではないにせよ、人間がたどり着ける頂点に位置していると言ってもいい。僕でも勝てるかわからないと思ってしまうほどの)
ジ・エンペラーこと鬼怒は、一度も振り返ることなく、ただ無機質な声を落とした。
「来い」
その一言には、一切の感情が排されていた。しかし、逆らうことなど到底許されない、絶対的な王の命令のような重みがあった。
ファイは、吸い込まれるように一歩前へ踏み出した。 受付嬢のエミリーが何かを言いかけて、けれどその場の空気に気圧されるように手を止める。もう、誰にもこの流れを止めることはできなかった。
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ジエンペラーは、無言のまま中央に立っていた。
その全身から立ちのぼる“圧”は異常だ。
殺気というよりも――存在そのものが脅威。
まるで巨大な獣が人の皮を被っているような、理屈を超えた重圧だった。
(ほんとうに……すごい。確かにこの人、リア姉より強い覇気。いや、“重い”。
でも……なんだろう、この違和感。オーラだけなら僕より強いと思わせる感じなんだけど、僕が戦えば絶対に勝てるだろうなという前世からある勘がささやいている)
僕は、まだじっと動かないで彼を見つめながら、頭の中で冷静に解析していた。
圧倒的な威圧感。けれど――その中心には、奇妙な空虚がある気がする。
ジエンペラーが、静かに口を開く。
「……どうする。このまま戦うか?
俺とて、無駄な戦いは好まん。逃げてくれても、一向にかまわんが」
その声音は低く、地の底を這うような響きだった。
ただ話しているだけなのに、訓練場の空気が一段と冷たくなる。
ファイは一瞬、息を飲んだ。
その顔は、真剣そのものだった。
「……いいえ。逃げるなんてできないわ。そんなこと、私のプライドが許さない」
ファイの指先がわずかに震える。
それでも彼女は、覚悟を固めた眼差しで男を見据えていた。
ジエンペラーは、わずかに眉を動かす。
「本当に、いいのだな。戦いは一瞬で終わる。始まれば――無事では済まん」
(……“一瞬で終わる”。
その言葉、どういう意味だろう?)
僕は、胸の奥でそう呟いた。今僕の中ではある仮説が二つある。
とりあえず、ファイを守る準備も一応しておく。ファイが殺されるわけにはいかないし。
ファイは静かに目を閉じ、そして息を整える。
彼女の脳裏には、あのリュシエルの笑みがよぎっていた。
逃げたら――あの女神ですらかすむような化け物に何を言われるかわからない。
恐怖は目の前の格上を相手にすることの恐怖と絶対的な存在リュシエルに対する恐怖の二重に重なり、ファイの心を逆に燃やしていた。自暴自棄になっていたともいう。
「……そうかもしれないわね。なら、最初から全力で行かせてもらうわ!」
ファイは、僕が以前作って渡した大剣を構える。
瞬間、紅蓮の炎が彼女の全身を包み込んだ。
炎は生き物のように唸り、床石を溶かしながら周囲を焦がしていく。さすがは、元赤の中位精霊といったところだ。
訓練場の天井が、揺れた。
「行くわ――!」
大地を蹴り、ファイは一瞬で距離を詰める。
赤熱する剣が、ジエンペラーの胴をまっすぐ狙った。
納得いくような内容がいまいちかけていません。多分、説明過多になっているかも。
書く力を身に着けたのち書き直しが出来たらと思っています。




