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いつか色のない夢のはなしをしよう

そうして見上げたそらの色を、オレに教えてくれないか

作者: 湖月ゆず

《ある医師のカルテより》

 歩きかたを忘れたのなら立ち止まればいい。立ちかたを忘れたのならば座ればいい。座りかたを忘れたのなら寝ころべばいい。

 そうして見上げたそらの色を、オレに教えてくれないか。

 ここは彼の地。どこよりも遠く、どこよりも近い場所。

 天に広がるは紺の帳。帳を飾るは金糸銀糸の星の子たち。地に広がるのは形のないもの。風が揺れるたびに姿を変え、形を変え、岩に、木々に、草花に、砂に、波に、風景を変える。

 優しく吹く風がオトナシの外套を揺らす。星が輝く天を見上げて歩いていたオトナシは、風に交じって聞えてきた音に足を止めた。寄せては返す波の音が聞こえてくる。

 それを意識した瞬間、足元の感覚が変化した。視線を下げれば、黒いブーツは白い砂の上を歩いていた。さざ波の音が大きくなる。顔を上げる。深い紺色をした海が月に照らされてチラチラと輝きながら揺れていた。

「オァ」

 形容しがたい声を零してオトナシはヘッドホンを撫でる。

 オトナシは医師だ。とは言っても病気を治したり怪我を治したりするわけではないから本当の意味での医師とは異なる。それ以外に良い言葉が見当たらないから医師と呼ばれているに過ぎない。

 ヘッドホンの頭を持つからオトナシ。本当は別の名前があるけれど、皆がそう呼ぶからそれでいいとオトナシは思っていた。頭の代わりに宙に浮く黒にも見える深い藍のヘッドホン、首元にヘッドホンと同じ色のラインが入った白い外套を羽織って、足元には黒いブーツ。それがオトナシのお決まりの格好だ。

 少し辺りを見回して、オトナシは患者を見つけた。砂浜の波がギリギリ届かないような場所に座り込んで、じっと海を見つめている。

 オトナシは小さく吐息を零して患者に歩み寄る。こちらも患者と呼ばれているだけで、本質的には患者ではない。医師と呼ばれる存在がいるから相対的にそう呼ばれているに過ぎない。彼らは皆、同じ姿だ。黒いコートに黒いズボン、黒いブーツと黒づくし。頭はなくて、代わりに切れた首から必ず気体が漂っていた。具合が悪くなればなるほど色は黒く変化していく。状態によってキリ、カスミ、クモ、ケムリと4つの呼ばれ方をされていて、キリが1番軽症の、ケムリが最も危険な状態の患者のことをさした。

「こんにちは。横、いいっスかね」

 驚かせないように患者の頭を覗き込む。そこに浮かぶのは雲のようだ。小さな鱗雲が潮風に飛ばされそうになりながらゆらゆらと揺れている。患者はクモらしい。

「どうぞ」

 そっと静かな声がした。オトナシはどうも、と言いながら患者の横に腰を下ろす。

 しばらく、2人で海を見つめていた。海は穏やかに揺れている。月にチラチラと輝いて、宝石箱を見ているようだ。

「立たなきゃいけないんだ」

 ふと患者が口を開いた。オトナシは患者の方を向く。

「本当はね、立たなきゃいけないんだ。でも、立ち方を忘れちゃった」

 感情の読み取れない声音を潮風がどこかへと連れていく。患者が膝を抱いた。

「悪い子だね。ほんとダメな子」

 自嘲するように患者が言う。オトナシは海に向き直った。そうして呟くように答える。

「立ちかたがわからないなら座ってればいいんスよ」

 思いもよらぬ言葉だったのだろう。え、と呟く声がオトナシに届く。オトナシは海のほうを向いたまま言葉を続けた。

「わかんないのにムリに思い出す必要、ないと思いますよ。残念ながらひとっていうのは忘れるようにできてるもんです」

 オトナシが患者の方を向く。患者はじっとこちらを向いていた。

「だから、アンタは悪い子でも、ダメな子でもない」

 優しくてどこか力強い声に患者は困ったように小首を傾げた。俯きながら、でも、と呟く患者は、それ以上うまく言葉を紡げないまま黙り込む。

 ざざぁ、ざざぁと一際大きく波が揺れる。患者のブーツにしぶきがかかる。

「あー」

 突然、声を上げてオトナシが背後に倒れた。驚いて跳ねるように頭を上げた患者の方を向いて、オトナシはシシシと笑った。

「寝転がりましょ? ほら、早く早く」

 急かすように誘われて、患者は言われるがまま横になった。

「上見て」

 オトナシが天を指す。体の向きを上にした患者はわっと声を零した。

 星が輝いていた。黒い帳を飾るように無数の星がキラキラと輝いている。金に、銀に、赤に、青に、白に、大きく小さく輝いて、天を埋め尽くしている。

「立ちかたがわかんないときは、座って、なんなら寝ころんだってかまわないんス」

 オトナシがそっと言う。

「そういう時はね、あれこれ考えずに、鳥の声を聴いて、風を感じて、空の色に目を細めればいい。それだけで十分なんスよ」

 さざ波が、天の星が、ゆらゆら、きらきら、揺れて、揺れて。不安そうに輝きながら、けれど決して消えたりしない。

「立ちかたは、時が来ればおのずと思い出せます。それまでゆっくりしてればいい」

 小さな沈黙が訪れた。深呼吸をするような沈黙だった。深い呼吸のその後に、患者がそっと口を開く。

「いいのかな」

「いいんスよ」

 オトナシは即答する。そうして、そっと念を押すように、それでいいんス、と続けた。

「……そっか」

 囁くような声がそっと答えて、さざ波の音に掻き消された。

 オトナシが次に横を見た時、患者の姿はそこになかった。風景もいつも通り。風が揺れるたびに、岩に、木々に、草花に、砂に、波に、姿を変え、形を変える。

 オトナシは小さく息を吐き出して、寝転がったまま頭の後ろで手を組んだ。そうしてそっと呟く。

「アンタの見た天の色、いつか教えてくださいね」

 その声に答えるようにちかりと星が輝いて、黒い帳の上を尾を引いて走っていった。

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