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ひねくれエルフと噓つき少女 下

 次の日の朝。空は分厚い雲に覆われ、今にも雨が降り出しそうな曇天が広がっていた。冬から春に変わる季節ということもあり、強い風が天候を荒らしている。春一番の大風は、森の木々の枝を大きく唸らせていた。鉄色の雲は遥か頭上にのしかかり、その下で暮らす人々の気持ちを春らしくない沈んだ気分へと向かわせていた。

 そんな、外に一歩踏み出すだけでも項垂れてしまいそうな日の朝、リュウはいつもより一時間近く遅い時間に起床を迎えた。心地いい疲労感が布団の下に溶けだしていくような感覚に酔いながら、彼は眠気を振り切って上体を起こす。起き抜けに軽く布団を整えると、寝巻を脱いで外出用の和装に着替え、そのまま顔を洗いに行こうと自室の襖を開いた。

 廊下に出ると、曇天の下を駆け抜ける強い風がリュウの自室に吹き込む。外の状況を全く知らなかったリュウは、思わず目を細めて空を見上げた。すると、今にも地上の全てを吸い込んでしまいそうな暗い空が、彼を迎える。とはいえ、リュウがその空を見上げて思うことと言えば、天気が悪いとリアといられる時間が短くなりそうだな、くらいのものだ。

 だが、リュウがそんな呑気に構えていられる時間は短かった。

「あなたは里から他の医者も呼んできて! 私はシュウ様を……」

「……ん?」

 リュウが何の気なしに歩いていると、廊下の角で屋敷の従者達が話し合っているのが目に留まる。彼らの顔はみな蒼白に染まり、各々に指示を飛ばすとまるで鳥が飛ぶように駆けていった。その尋常ならざる様子を遠目に見たリュウは、今の状況を確認するために彼らの元まで走り寄ろうとした。しかし、その前にリュウの背に声がかかる。

「リュウ様!」

「……ミズハ」

 リュウが振り返った先にいたのは、同じく屋敷の従者のミズハだった。彼の元まで走ってきたのか、その肩は激しく上下している。

「大丈夫かい? すごい慌ててるみたいだけど」

「私のことはどうでもいいんです! それより、大変なことが起きて……!!」

 リュウの気遣いを弾き飛ばすと、ミズハは荒れた息のまま、屋敷で起きた出来事について簡潔かつ直接的な言葉で告げた。

「ユリ様が血を吐いて倒れたんです!!」

「…………は?」

 母が倒れたという凶報。リュウはそれを耳にした瞬間、自分の中の時間が止まったように感じた。眼球の映し出す映像が遠くに映り、彼の思考を埋め尽くしたのは自分と母のこれまでの記憶。直近の険悪な関係から、仲にヒビが入る以前の楽しい思い出まで、数多ある記憶の渦がリュウの頭の中を駆け巡る。それら全てに意識を通した後で、リュウの思いは決まった。彼が決断を下すまでにかかった時間はほんの一瞬だった。リュウは自分の中の意志を固めると、隣に居るミズハに詳しい状況について問う。

「母上の意識は?」

「それが、意識はあるようなのですが……高熱と咳が止まらず、今も苦しんでいます」

「分かった。母上の部屋に行こう」

 リュウは荒波のようにうねる気持ちを胸の奥に押しとどめ、冷静に事を運ぼうとミズハに淡々と言葉を告げる。その後で、彼は実際に母の容態を確かめようと、廊下を迷いなく駆け始める。状況をいち早く知っていたミズハですら、彼の勢いについていくのでやっとだった。彼女は廊下を走るリュウの背にやっとのことで追いつくと、彼の意図について問う。

「リュウ様! その、ユリ様のところに行って、どうされるつもりですか? まさか……」

「医者に状況を聞いて、それが芳しくなければ……いや、ある程度状況が良かろうとも……」

 リュウが結論を告げる前に、二人はユリの部屋に辿り着く。そして、彼らが渦中に飛び込もうとしたちょうどその時、向かいの廊下から大きな足音を立ててシュウがやってくる。顔が蒼白に染まっているのを見るに、彼も悪い報せを既に聞いたのだろう。シュウは息子と顔を合わせると、走り寄ってその肩に手を置く。

「リュウ、お前も聞いたか」

「うん」

「そうか。……行くぞ」

 父と子は短い言葉のやり取りを交わすと、同時にユリの部屋の襖を開いた。

 中では、四人の従者と一人の医者がユリの治療に当たっていた。リュウとシュウが覗く場所以外を全て閉め切ったその部屋には、息の詰まるような緊張が満ちている。中にいた者達はその全員が布で口を覆い、玉のような汗を顔に浮かべて咳き込むユリの治療を行っている。シュウは妻が実際に倒れているのを目にすると、拳を堅く握りしめながら、感情を抑えて医者に声をかける。

「病状について聞かせてくれるか。手の空いた時で構わない」

「シュウ様……はい、かしこまりました。ただいま」

 医者は里長の声がかかると、薬の調合に関する作業の手を止め、一度部屋から出る。彼はリュウとシュウの目の前まですぐにやってくると、襖の奥に見える患者の方へ幾度も目を流しながら現在の状況について説明する。

「吐血や咳、高熱の症状を見るに、ユリ様は重い肺の病を患っているようです。今は熱と咳を抑える薬を飲んでもらい、回復を待っている状態になります」

「……助かる見込みはどの程度だ」

「このまま現在の治療を続けていけば……ユリ様自身の体が病に打ち勝つ他ありません。ですから、ご本人の体力次第、ということになります」

 シュウの問いに対して、医者は病への対抗策を口にするのみだった。その反応を見るに、病状は快方に向かってはいないのだろう。察しがいい分、その事実をハッキリと理解したシュウは、頭を抱えて喉の奥から言葉にならない嗚咽を漏らす。

だが、父の隣で同じように医者の見解を聞いていたリュウは、絶望の表情など浮かべてはいなかった。彼は自分達の無力を嘆くシュウ達に対し、以前と同じ案を投げかける。

「そんな風に諦めるのは早いよ。僕が外から医者を連れてくる。当てがあるんだ」

 リュウは体を震わせることもなく、言葉を詰まらせることもなく、ハッキリと自分の意見を表明する。耳に覚えのある彼の提案を聞いたシュウは、光を失いかけていた目にもう一度光を取り戻す。

 だが、その時だ。

「やめろッ!!!」

 心臓を握り潰されるかのような圧を伴った声が響く。その声を発したのは、部屋の中央で病床に臥せっていたはずのユリだ。彼女はいつの間にか上体を起こし、汗でぐっしょりと濡れた顔を息子の方に向けていた。目は赤く血走り、口元には喀血の痕が残っている。布団から半身をのぞかせて息子を睨む彼女の姿は、まるで鬼のようだった。

「そんなことをするのは絶対に許さんぞ、リュウ。この際、考えの違いがどうこうなぞどうでもいい! もし外の人間を里に入れてみろ……この私が叩き斬る!! ゴホッゴホッ……!」

「お、落ち着いてくださいユリ様!」

 咳込み始めたユリは、傍についていた従者達によって再び布団に寝かされる。彼女の容態を見た医者は、シュウとリュウに軽く一礼すると部屋に戻っていく。彼の手によって襖が閉め切られるまで、ユリの目はずっとリュウのことを見据えていた。

 自分の命を奪うかもしれない病に侵されていてなお、ユリの意志が歪むことはなかった。どこまでも一方向のみに伸びる彼女の確固たる思想に、覚悟を決めていたはずのリュウも流石に驚愕する。だが、それは彼が意志を折ることと同義ではなかった。

「僕は行くよ、父さん」

 リュウは冷静な表情で告げると、そのままぶれることのない足取りで屋敷の外へ向かっていく。シュウはその離れていく息子の背を、すぐに追いかけることができなかった。親子のすぐそばで控えていたミズハは、慌てふためきながらシュウの背中を押そうと早口でまくし立てる。

「行きましょう、シュウ様! このままだと、リュウ様は黙って行ってしまいますよ」

「だが、ユリは……」

「今はユリ様のことを気にしていても仕方ないんじゃないですか? 見送るか止めるか、どっちを選ぶにしたって、まずはリュウ様に追いつかないと話になりません!」

 シュウの心の中では、依然として答えは出ていなかった。息子の意見か、それとも妻の意見か。彼は真反対を向く二人の考えの間で、そのどちらに寄り添うべきかをずっと考えてきた。しかし、事ここに至っては考えを決めることよりも重要なことがある。

「……そうだったな。感謝する、ミズハ」

 頭を捻り過ぎて目の前が見えなくなっていたシュウは、とにかく走ることを選択する。迷ったままでも対話はできる。彼は出ていった息子に追いつこうと、年甲斐もなく必死に走った。


※※ ※


 シュウがリュウに追いついたのは、屋敷を出たすぐのところだった。リュウは腰に刀を提げ、医者が身内にいると話していたリアの元まで向かおうとしていた。

だが、そんな彼の背をシュウが呼び止める。

「待て、リュウ。聞きたいことがある」

「……父さん」

 リュウは曇天の下で父の方を振り向いた。彼の顔には一切の迷いがない。その目には、幾度も熱し冷やされ、打ち直されてきた刀のような光が宿っている。彼の前に立つシュウに、そこまでの芯はない。だが、彼は答えを出せずにいるからこそ、心根からの問いを息子に投げる。

「俺には分からないんだ。今更お前とユリの考えの違いについて話す気はない。だが、どうしても……本人が心底嫌だということをして、そこを乗り越えてまで助けようとするまでの気持ちが……俺には分からない」

「……うん」

 シュウは顔を手で抑えて歯を食いしばり、涙までをも浮かべながら震える声で語った。

「アラヤの時もそうだった。あいつも、ユリと同じくらい外を憎んでいた。外の人間を頼るくらいなら、腹を切ると……。だから俺は踏み出せなかった。心の底ではリュウ、お前の選択に希望を見出していながら、それでも……選べなかった。怖かったんだ。もしうまくいったとしても、憎まれるのが……恐ろしかった。利口な言葉を並べて逃げていれば、選択した気でいられると思っていたんだ」

「…………うん」

「だから聞きたい。リュウ……どうしてそこまで真っ直ぐでいられる? どうしてそこまで、自分の心に正直でいられるんだ」

 今にも崩れ落ちそうな声でシュウは問う。親と子としてではなく、一人の人として、彼は心の底からの疑問をリュウにぶつけた。決して定まった答えのある問いではないと、彼自身分かってはいたが、それでも問わずにはいられなかった。

対するリュウは、これまで自分が強さの象徴としても見ていた父が涙を流しているのを見て、始めは驚きに目を見はる。しかし、彼がシュウの心の動きを察するのは早かった。そして、その答えも自ずとすぐに掴むことができた。

「それは僕が馬鹿で無知で世間知らずで……その上、とんでもなくラッキーだからだよ」

 リュウの突拍子もない言葉に、シュウは涙を拭うことすら忘れて顔から手を離す。涙で歪む彼の視界には、固い決意を持ちながらも、常と変わらない笑みを浮かべるリュウがいた。

「僕は実際のところ、エルフがどういう差別を受けたかとか、どういう歴史があるのかなんて全く知らない。街に行った時も、運よくそういうのには出くわさなかった。だから、母さんがどうしてあそこまでするのか分からないし、父さんみたいに考えを巡らせることはできない。でも、そんな何も知らない子供だから、こんな無鉄砲で無神経なことを続けられるんだと思う」

 それに、とリュウは言葉を続ける。彼の顔には、曇天の下にいるとは思えないほどの自信と、決意と、そして感謝があった。それは暗い空の下で眩い光のようにシュウの目には映った。

「厳しさで過酷な現実から守ってくれた母さんと、自由な選択を許してくれた父さん。そして、勇気を持つために背を押してくれた友達がいたから、僕は今、この選択ができるんだ」

「……行くのか」

「うん。父さんは母さんと一緒に待ってて」

 大風が吹く。大地に根を張る大木も、人造の建物も揺らぐような強い風だ。しかし、リュウの意志は折れることも揺らぐこともなかった。彼は父に背を向けると、自分自身に言い聞かせるように、自分の行動と決意を改めて口にする。

「母さんの意志を踏みにじってでも、母さんの命を助ける。了承なんて後からいくらでも得てやる。絶対に死なせたりなんかしない」

 リュウは言葉を終えると、誰の言葉を待つこともなくその場から駆け出した。彼は放たれた一本の矢のように里を飛び出す。暴風の中を真っ直ぐ飛翔する征矢と化したリュウは、一寸の迷いすらなくあの場所へと向かうのだった。


※※ ※


 強風が吹く中、リアはいつもの憩い場で友を待っていた。悪天候ということもあり、ベッドから起き上がった時には無理に行く必要もないかと思っていた彼女だったが、結局ここに来た。相手と連絡が取れないということもあるが、何より、つい昨日にあのような空気でまた明日と言い合った手前、それを破るわけにもいかなかったというのが大きい。ある意味この彼女の判断がリュウ達の大きな助けとなったのだが、彼女は微塵もそんなことを知らない。今のリアの頭を悩ませているのは、昨日の浮いた空気の中で口走った恥ずかしい言葉をどうやって誤魔化すか、ということだけだった。

 しかし、そんな彼女の下らない悩みはすぐに吹き飛ぶことになる。いつもの切り株に腰を下ろして待っていたリアの目の前に、リュウが信じられない速度で走ってやってきたのだ。これまでの人生で一度も出したことがないと胸を張って言えるほどの勢いで走ってきた彼は、憩い場に辿り着くなり急ブレーキを踏んだ。急停止した彼の足元に生えていた草が、無残にも少し散ってしまう。

「リュウ? そんな急いでどうしたの?」

「はぁっ……はぁっ。助けて、もらいたいんだ」

 里からこの場所まで常にトップスピードを維持して走ってきたのか、リュウの顔は上気して赤くなっていた。リアはそんな彼の横に立ってその荒い息が早く収まるようにと、激しく上下する肩に手を置きながらゆっくりと話を聞き出す。

「私に助けを求めに来たってことは……リュウの里の中じゃ解決できないことなの?」

「はぁ、ふう。そうなんだ。母上が病気で倒れて……」

「……なるほど、そういうことね」

 リアはリュウの言葉を一言聞いただけで、その裏にある事情や状況を軽く把握した。彼女は直前まで頭に置いていた悩みを吹き飛ばし、真剣な顔で最小限の確認を取る。

「里にいる医者達は皆お手上げだったの?」

「多分そう」

「外の人を呼ぶってことには反対されなかった? 直接里に入れちゃっても大丈夫?」

「僕と父さんが何とかする」

「分かった。……うん、お父さんならリュウの里の状況を聞いても助けてくれると思う。行こ」

 リアはリュウに無理をさせないように最低限の言葉のやり取りで求められる人物を絞り込んだ。彼女はリュウに歩きながら息を整えるようにと手を引いて伝えると、風に揺れる森の土を踏みながら具体的な内容を共有する。

「お父さん……私と実際に血が繋がってるわけじゃないけど、きっと手を貸してくれるはず。優秀な医者だから、きっとリュウのお母さんの病気も治せると思う。口案内だけじゃ私もお父さんもエルフの里まで行けないから、孤児院まで一緒に来てもらうよ」

「うん、それで大丈夫。……ふぅ、やっと落ち着いてきた」

 実際に診てもらうまでは分からないが、少なくとも目に見える希望を掴むことはできた。リアの気遣いと状況の明確な変化のおかげで、リュウの体力もいつも通りの状態に戻ってくる。疲労のせいで曲がっていた背筋を伸ばしたリュウは、軽く肩を動かしてもう一度走り出せるようにと体を軽く跳ねさせた。隣の彼の動きを目の端で捉えたリアは、その意図を察して一足先に走り出す。

「早く行こう。診察はできるだけ早い方がいいから」

「分かってる。何から何までありがとう、リア」

「ううん、大切な友達のためだから」

 二人は強い横殴りの風が吹く森の中を、ピッタリと並んで駆けていく。


※※ ※


 憩い場を走って飛び出した二人は、すぐにリアの暮らしている街にまで辿り着く。彼らは昨日に合流地点として選んだ通りへ向かい、そこから孤児院に向かうルートを選択していた。二人は以前に他愛のない話をしながらゆっくりと歩いたそこを、今度は必死になって駆け抜ける。

「こっち!」

 街の中に入ってからリュウを先導していたリアは、孤児院まであとほんの少しのところまで来ると、自然と走る速度を速める。それは彼女の後ろに続くリュウも同じだった。二人にとって、ユリという存在はそれぞれ全く違うものとして映る人物だったが、彼女を救いたいという気持ちは完全に一致している。二人は歩幅と思いを合わせて、灰色の空の下で鈍色に染まる街を疾走していた。

 だが、二人が見覚えのある通りに差し掛かり、角を曲がったその時だ。曲がり角の先には、歩道を遮るように横並びになった五人の男達が立っていた。行く手を阻まれたリアは、咄嗟に顔を上げて進路の邪魔をする相手を見上げる。

「っ……誰」

 二人が足を止めても、五人の男達が道から退くことはなかった。話し合うでもなく何かに夢中になるでもなく、ただ道に広がって立つ彼らを前に、リアは確実な意図と悪意を感じ取る。その五人の男達の中央には、顔に傷のある男が立っていた。リアとリュウはその人物の顔に覚えがない。先頭に立つその男を見て彼らが何者なのか分からなかったリュウは、自然と彼の後ろに控える別の男の顔に目を向けた。そして、その瞬間に気付く。

「下がってリア!!」

「えっ、なん……」

 それは、両者が見合ってから二秒の間の出来事だった。リュウが声を張り上げた直後、顔に傷のある男がリアの首に腕を回し、彼女の自由を奪う。その一瞬の動きに反応したリュウは、帯から刀を抜き放って男の手を打ち払おうとする。しかし、彼の攻撃は後ろに控えていた別の男の腕に阻まれた。最初の一撃をいなされると、その隙にリアを取り押さえた男は部下の男達を壁にして後ろに下がる。

「あ、ぐっ……!」

 リアは自分の首を拘束する男の腕に指を立て、必死に抵抗しようとした。しかし、顔に傷のあるその男は、彼女の形になっていない抵抗に対し、腕に加える力を強める。喉の気道に外から無理な圧力が加わると、リアは口から呼吸とすら言えないかすれた嗚咽を漏らす。

「かっ、ぁ……」

「リアッ!!」

 リュウは右の手に刀を握り締め、それを振り上げてリアを奪還しようとした。しかし、彼の動きをいち早く察知した傷の男は、悠々と懐からナイフを取り出し、リアの白い首筋にそれを突き付ける。その瞬間、リュウの動きは石像のように固まった。

「……っ!?」

「利口じゃないか。エルフは全員世間知らずって話だったが、まともな判断はできるらしい」

「……お前達は、昨日の」

 リアを人質に取られたリュウは身じろぎ一つせず、手に収まった刀をただただ強く握りしめるのみだった。彼の眼前には、傷の男の部下らしき四人の男達が立ちはだかる。彼らは、昨日リュウが打倒した四人だ。倉庫で見張りをしていた男、リュウ達を追跡してきた三人。その全員が顔に酷い傷と痣を負っていたせいで、リュウは彼らが何者か、一瞬気付けなかったのだ。

「こいつらに聞いたぜ? 昨日の一件はお前らガキ二人が仕組んだことだってな。ウチの商品を勝手に逃がしやがって、よくもやってくれたな」

「……お前が、こいつらの頭目か」

「ああそうよ。ったく、昨日は心が痛んだぜ。ヘマこいたこいつらのケジメ、つけなくちゃならなかったからよぉ。かわいそうに、お前らの幼稚な正義感のせいでこいつら殴られたんだぜ?」

 ヘラヘラとした口調で頭目は部下の男達を示す。彼らは一様に、どす黒い敵意をリュウ一人に向けていた。昨日の一件のせいで起きた事を、少年一人の正義感に押し付けるつもりらしい。彼らの憎しみを前にしたリュウは、それでも臆さずリアを助け出す機会をうかがっていた。

「逆恨みだ。僕やリアが恨まれる謂れなんてない」

「そうつれないこと言うなよ。こいつら、昨日の一件が終わってから血眼になってお前らのこと探してたんだぜ? 徹夜までしちゃってよ。ツイてなかったな、お前ら」

 煽るような言葉をわざと選び、頭目はリュウを挑発する。だが、リュウが感情に任せて彼らに飛び掛かっていくことはできない。リアは依然として頭目の腕に拘束されたままだ。彼女の安全を確保しない限り、抵抗などできるわけもない。それをいいことに、頭目の男は部下達をたきつける。

「おい、骨は折るなよ。価値が下がる。逆に言えばそれ以外なら何してもいい」

 許可を得た四人は顔を見合わせると、揃ってリュウに近付いた。これから、何をされるかなど明白だ。いくら里にこもって暮らしていようとも、そのくらいの想像は容易にできた。

しかし、リュウはその場に立ったまま動かない。逃げることも抵抗することもリアの危険につながる可能性がある以上、動くわけにはいかなかった。

「逃げて、リュウ!!」

 リアの悲痛な叫び声が通りに響く。だが、彼女の言葉は人攫いの男達にも、リュウにも届くことはなかった。

その場に立ち尽くしているリュウの肩を近くにいた男が掴み、彼の腹に膝蹴りを食らわせる。強い痛みと鈍い圧迫感に襲われたリュウはその場に膝をついた。続けざまに、別の男が位置の下がったリュウの顔を蹴る。正面からそれを受けたリュウの体は、街灯に背中から勢いよく叩きつけられた。灯りのついていないランプが、口から血を流すリュウの頭上で揺れ動く。彼の手から、軽い音を立てて刀が滑り落ちた。

「なん、で……どうして、そんな……」

 自由を奪われたままのリアは、酷い被虐に黙ったまま耐えるリュウを前にして、何もすることができなかった。彼女がどれほど心を痛めて叫ぼうとも、どれだけ今の状況を招いた過去の選択を恨もうとも、何も変わらない。たった今、眼前で両肩を押さえられて顔を殴られるリュウに、転機が訪れるわけでもない。リアは自分の心にヒビの入る音を耳にした。

 空を暗雲が包む。それはどこまでも分厚くて、平穏の中で過ごしていた小鳥達が立ち向かうには重すぎる試練のように思えた。退路もなく、弱々しい存在の目の前に広がるのは、慈悲を持ち合わせていない黒雲のみ。とても、二人の力だけで太刀打ちできる壁ではなかった。

 しかし、突風が吹く。

「誰か、誰かこっちに来てくださいッ! 人が襲われてますッ!!」

 通りに甲高い女性の声が響く。それを耳にした頭目の男は、リュウをいたぶり続けている部下達に引くよう手と言葉で示した。

「おい、馬鹿共。さっさとズラかるぞ。カタギの連中に見つかるのは面倒だ」

「こいつはどうします?」

 頭目の言葉を受けて手を止めた部下達は、自分達の足元で膝をつくリュウを睨んだ。彼は今に至るまで暴力の限りを受けていたというのに、まだ意識を失わず、その両目でリアを拘束する頭目の顔を見ていた。彼のその目を見た頭目は、口角を釣りあげ、歯を見せて笑う。

「構うな、どうせ追ってくる。……俺達は昨日の倉庫にいるからよ。小娘を取り返したかったら、一人で来るんだな」

 頭目はリュウに言葉を残しながら、手近な路地裏の影に消えていく。リアは彼の腕の中で必死に身をよじっていたが、年も体格も一回り以上違う相手に敵うわけもない。彼女は街の影に消えていく最中、幾度も殴られて血だらけになったリュウを見た。同時にリュウもリアのことを見上げる。

「…………ふ」

 痛みと息苦しさで意識が朦朧とする中、リュウはリアの口が動くのを見ていた。声を発してはいなかったが、ヒビの入ったガラスのような笑みと、その目から零れ落ちる涙を見たリュウは、リアの言いたかったことを心で理解した。そして、血に濡れた口で少し笑う。

「君にしては下手な嘘だ。うっ、くぅ……」

 リュウは笑った勢いでそのまま立ち上がろうとしたが、数々の虐待を受けて悲鳴を上げる体が彼の気持ちについてこない。リュウは再び両膝と片手を地面につき、なんとか体力が回復するのを待とうとした。

「リュウ様!」

 苦悶に耐えている彼の名を、聞き馴染みのある声が呼ぶ。リュウが重たい頭を持ち上げて頭上を見上げると、そこにはミズハが立っていた。彼女は今にも泣き出しそうな顔でリュウに歩み寄ると、彼の全身の怪我を見てその凄惨さに息を飲む。

「こんなことが……リュウ様、立てますか?」

「まだ、無理……。さっきの悲鳴は君だったんだね、ミズハ。どうして、来てくれたの……」

「しゃ、喋らないでください! ……嫌な予感がしたので、ユリ様とシュウ様に黙ってついてきたんです。そうしたら、リュウ様があんな……どうすればいいのか分からず、必死で……」

「助かったよ。くっ……」

 何はともあれ、ミズハの存在が状況を変えたのは事実だ。そして、彼女の存在が今ここにあるおかげで、取れる対応も大きく変わってくる。リュウの体を侵す痛みと倦怠感は全く引く気配がなかったが、彼の心には希望の光が差し込み始めていた。リュウはその心の光に従い、痛みを拒もうとする体を黙らせて立ち上がった。

「ぐっ、くく……痛いな」

「だ、大丈夫ですか!? 連れてかれた子のことは心配ですが、今は一度里に戻って……」

「いや、駄目だ」

 血と胃液の混じった塊を吐き捨てながら、リュウは断言する。彼は視界の邪魔になる血を袖で拭い、先ほど手放してしまった刀をもう一度手に持つ。その姿を目にしたミズハは、彼の意図を勘で察し、その無謀さに従者として制止の声を投げかける。

「まさか、一人で助けに行くつもりですか?」

「…………」

「あまりに無茶すぎます。あなたが傷ついて、死んで……そうしたら、どれだけの人が悲しむと思っているんですか」

「ミズハ。僕が一度言ったら聞かないって、よく分かってるでしょ? こういうところは母さんによく似てるんだ」

「あ、あなたは……」

 リュウの性分など、屋敷に長く仕えていたミズハはとっくに理解していた。その上で投げた問いに、流す血とは似合わない笑顔でリュウは答える。彼のその自己中にも思える無鉄砲な笑みを前にしたミズハは、呆れと否定の言葉を喉の奥で飲み込み、頷いた。

「分かりました。では、私はシュウ様を呼びに行きます。あの方がいれば、あんな連中すぐに片付けてくれるでしょう」

「……いいのかい? 父さんどころか、母さんにも外に出てたことがバレるかもしれないのに」

「四の五の言ってはいられないでしょう。リュウ様は、シュウ様が到着される前にあの子の保護をお願いします。ですが、無理はしないでくださいね」

「……善処するさ」

 リュウはミズハの言葉に頷きはしないまま、人攫い達とリアが消えていった路地へと向かう。彼の目には、その路地裏が宿す街の闇が、昨日より何倍も深くなっているように映った。しかし、リュウはそこに踏み込むことを厭わない。

「一つ、頼みがあります」

「……ん、まだ何かあった?」

 暴風吹きすさぶ竜巻に飛び込む決意を固めたリュウの後ろで、再びミズハが声を上げる。リュウが振り返ると、彼女はこの場に似つかわしくないものを手に持ち、それをリュウに差し出していた。


※※ ※


 落雷や雨を降らせることはなかったが、街と森のはるか上空では黒い雲がとぐろを巻いていた。強風という悪天候のせいか、路地はもちろん、街の通りにもほとんど人の気配がない。そんな暗い色に染まる街の、その最奥部へ、リュウは向かっていた。昨日は親友と共に訪れたために恐れはなかったが、今は一人だ。鉄火場へ孤独に向かうという行為が生む向かい風は、血がこびりついたリュウの髪を荒く撫でる。影は彼の心の奥底に巣くう恐怖を掻き立てるように長く伸びていた。それでもリュウは、一本の刀をその手に固く握りしめ、親友のもとへと向かう。

「……着いた」

 リュウはあの薄汚れた倉庫の前に辿り着くと、大きくため息をついて体を一度楽にする。骨折などの重傷を負ってこそいなかったが、至る所にできた傷と痣は、歩くだけでも明確に彼の精神と体力を削っていた。しかし、彼は一呼吸の安息を取るのみで、それ以降は恐怖で躊躇うこともせず、倉庫の正面出入口へと向かう。

「よし、行こう」

 リュウは自分に言い聞かせるように小さく呟くと、倉庫の扉を開いた。鉄と錆の擦れる嫌な音が周囲に鳴り響くのと同時に、死地への道が開かれる。

 倉庫の中には、雑に数えても二十人は超えている男達が集まっていた。彼らは人の手が行き届かなくなって久しい雑多に物が積まれている倉庫の中で、適当な場所に座って時間を潰していた。だが、リュウという部外者が正面から入ってくると、彼らの騒々しい喧騒が一瞬にしてピタリと止む。大雨が自分の踏み込んだ一歩で完全に止まったかのような、奇妙な感覚がリュウを襲う。

「ビビらず来たんだな。見上げた根性じゃねえか」

 静寂に包まれた倉庫の中で、常に笑いが見え隠れするような不快な声が響く。リュウの正面、倉庫の中央奥側だ。そこには、ボロボロに革が剥げたソファに腰を下ろす頭目の男がいた。彼はリュウがこの場に姿を見せると、眉を寄せながら口元には笑みを浮かべる。

「死ぬかもしれねえ場所に、よくまあノコノコ顔を出せたもんだ」

「リアはどこだ」

「せっかちだねぇ。そこにいるだろ」

 頭目の男が首を振って示した先には、両手を拘束されたリアが人間の男に刃物を突き付けられているのがあった。男は頭目と目を合わせると、人質のリアを連れてソファの横に控える。

「……大丈夫って言ったのに」

 自由を奪われた状態で刃物を背に突き付けられているリアは、失意に染まった暗い顔で呟く。彼女はリュウとは別のことを願っていたらしい。彼女の思いを捻じ曲げたのは、紛れもなくこの場に飽和する恐怖と暴力のせいだろう。リュウはその根源たる人攫い達の頭目の男を睨み、手に持った刀を構える。

「おい、そんな刀一本でどうするつもりだ? この嬢ちゃんが傷ついてもいいのかよ」

「考えてみれば、お前達は既に他の人達に逃げられている。今の時点で赤字なのに、必死こいて捕まえた相手を殺すなんてことはしないはずだろ。やるとしても、本当に最終手段のはずだ」

「……けっ、ガキが小手先でもの言ってんじゃねえよ。人質が無効だから、この人数相手に勝てるとでも?」

「やるさ」

 頭目はソファの背もたれから体を離し、前のめりになってリュウの目を見る。リュウは、恐怖や恐れといった足を引っ張る感情とは無縁の目をしていた。彼の手は刀の柄に置かれ、鍔には指がかかっている。頭目の目には、リュウの存在が火種を有する火薬箱のように映った。

「その昔、五百人程度のエルフの里を殲滅するのに、二千人の兵士と半月の時間を要したことがあるらしい。その歴史と教訓を鑑みるに、お前みたいなガキでもエルフは敵に回さない方がいいのかもな」

「だったら黙ってリアを返せ」

「そりゃあ流石に無理だぜ。可能性があるってだけで、実際の利益を手放すわけにもいかない。本当は無抵抗のテメエをそのまま捕らえて、どっちも商品にできればよかったんだが……」

 頭目は自分達の手元にあるリアと敵対するリュウを冷えた目で見比べると、その間に悪意を挟み込むように言葉を選ぶ。

「ところでお前、この小娘の出自は知ってるか?」

「……そんなことが今関係あるのか?」

「……クク、ああそうか。やっぱり言ってなかったんだなぁ」

 唐突な問いかけにリュウは眉を寄せるも、弱みを見せまいと語気を強くして返す。だが、彼のその反応を見ると、頭目の男の口角が吊り上がり、目尻は指で押し潰したかのように歪む。底の見えない悪意を含んだ笑みだ。それを前にしたリュウは、不退転の意志を決めていたのに、心の底の怯えをかき立てられたかのように一歩下がった。だが、今更出自程度で意志を曲げるようなことはない。リュウは再び心を固めてその場に踏みとどまる。

 しかし、頭目の言葉に影響を受けたのは、リュウ一人ではなかった。

「やめてッ!!」

 倉庫の中にリアの甲高い悲鳴が響く。彼女は拘束された両手を後ろで押さえられながら、それでも身をよじって声を上げる。その顔には、普段の彼女からは考えられない引き裂かれた悲痛そのもののような絶望の表情があった。金の髪を振り乱し、目を見開いて喉の奥からあらん限りの声を発する彼女を目にすると、頭目は面倒そうに部下に指示を投げる。

「黙らせろ」

「やめて、嫌だッ!! リュウには……リュウにだけは知られたくな……むぐっ!?」

 頭目の指示を受けて、男達はリアの口に布を噛ませた。その暴挙を前にしたリュウは、いよいよ我慢できずに刀を鞘から抜き放とうとする。

「やめろッ!!」

「教えてやるよ。こいつは……」

 銀色の刃が黒漆から姿を現す。リュウは白刃を露にした刀を改めて構え、その場を飛び出そうとした。

しかし、彼のその攻勢を頭目が言葉で止める。

「この小娘は人間じゃない」

「…………!?」

 リュウの足が止まる。リアを害する者達を倒して助け出すという決意にこそ曇りはなかったが、頭目の突拍子もない言葉に疑念を覚え、その先を聞きたいと思ってしまった。その機会を見逃さず、真相を知る男は言葉を繋ぐ。

「人間でも、エルフのような亜人ですらない。その顔を見るに、お前は何一つ知らないんだろ?」

「……何が言いたい」

「お前はずっと、小娘に騙されてたんだよ」

 足を止めたリュウは自然とリアの方に目をやり、彼女の顔や体に目を通す。どこからどう見ても、彼女は人間にしか見えない。街を行き来する亜人達は体のどこかに明確な特徴を持っていたが、リアの体にそんなものはなかった。頭目の男は、リュウのその探るような目を見ると、効果十分とばかりに笑みを浮かべて話を続ける。

「こいつの正体は、潜在特殊亜人だ」

「……なんだ、それ」

 聞きなれない単語にリュウは眉を寄せる。彼の視界の端では、リアが小さい嗚咽と共に項垂れていた。今の今まで隠し通してきた秘密を他人の口によって暴かれた彼女が、どんな顔をしているのかを見ることはできない。リュウは彼女に心配を向けながらも、頭目の男の話に耳を傾けた。

「この世界には人間と、百種類を超える亜人が生息している。数と技術のある人間が頂点に立ち、その他有象無象の亜人はその下で暮らしてるわけだが……それで、考えたことはなかったか? 別種の亜人同士や、亜人と人間が子供をつくったら、どうなるか」

「…………」

「エルフってのは本当に世間知らずだな。答えは、奇形の亜人が生まれる、だ。体の構造が違うもんを無理矢理合わせてんだから、歪なものが生み出されるのは当然だろ? で、その中でも特に稀なケースこそが、潜在特殊亜人」

「リア……」

 頭目の男が話を始めてからというもの、リアは微動だにしていなかった。床に足をつけて立っていながら、彼女の体は一寸たりとも動かない。それをいいことに、頭目はリュウに対し、彼の意志がリアから離れるように説明を続ける。

「どこからどう見ても人間にしか見えないのに、流れる血は亜人そのもの。となればその生活はとことん惨めなものになる。人間からはヒトの皮を被った亜人と言われ、亜人からは人間の特権を利用する裏切り者のように扱われる。種族検査が手軽になった今の時代、自分の種族を誤魔化すなんて無理な話だ。書類づくりで検査、検問で検査……こいつらが生きてくためには、それこそ泥水すすって汚いことに手を染めなくちゃならなかっただろうな。お前も、この小娘の手癖の悪さに覚えがあるんじゃねえか?」

 頭目の言葉はリュウの頭の奥深くに入り込み、水底に投げ込まれた小石のように細かい記憶の粒を巻き上げる。倒れた見張りの男の所持品を探る時や、人攫い達の行く先を追跡した時。普通の生活をしていれば触れることのない状況にも、リアはすぐに順応していた。言葉の隙間に嘘を織り込んで相手を欺く技術も、十代半ばとは思えない練度だ。リュウは頭目の言葉を、自分のこれまでの経験と合わせて嘘偽りのないものだと判断する。

「分かったか? お前はこの小娘にずっと騙されてたんだよ。こいつは何一つ、お前に本当のことを見せちゃいなかった」

「…………はぁ」

 頭目の煽るような言葉を受けると、リュウは大きなため息をつき、抜き身の刀を鞘に戻す。金属と木製の鞘の擦れる音が倉庫に響き渡った。聞き覚えのあるその音とリュウのため息を耳にしたリアは、ハッとして目を見開く。彼女の涙を浮かべた瞳には、白けた顔をしているリュウが映り込んだ。リアの目には彼のその顔が、失った代価に相応しくない報酬を前にして失意を覚えたかのような表情に見えた。

「エルフのガキ。今日のところは特別にお前を見逃してやるよ。この小娘みたいな亜人にはうんと高い値がつく。お前らが逃がした連中なんか計算に入らなくなるくらいの大金だ。俺達にとっては貴重なボーナスよ。この小娘に比べりゃ、お前ははした金。大金のもとを抱えてる今、リスクを冒して手を伸ばすほどのこともない。さあ、どうする?」

 頭目の男はリュウに選択を強いる。リアと同じようにリュウの感情の機微に目を光らせていた彼は、リュウの呆れと失意の混ざった光のない目を見ると、交渉の成功を確信した。そして、頭目は最後まで抜かりなく自分に都合がいいように言葉を選び、問いを重ねる。

「ずっとお前を騙し続けた薄汚い小娘のために命を張るのか、そのまま帰って平穏な日々に戻るのか。賢明な選択をすれば、俺達はお前に今後一切手を出さないと約束しよう」

 頭目の男は再びソファの背もたれに体を預ける。そして、リュウの選択を待った。どちらにせよ対応の準備はできているが、大金を前にした状況ではそれを取りこぼす障害は少なければ少ないほどいい。男は確かな手応えと共に、足を組みながらその成果を見守る。

 沈黙が広がってから、五秒ほどが経過した。リュウは手に持っていた刀を静かに帯に戻す。

「利口な判断だ」

 リュウは戦闘態勢を解くと、そのまま倉庫の出口へと歩み始めた。その動きには一切の躊躇がない。リアは自分から離れていくリュウの背を目にした瞬間、胸の奥に針が刺さったような痛みを感じた。その痛みを受けて、口が勝手に動く。

「行かないで」

 だが、噛まされた布のせいで声はろくに出なかった。喉の奥からほんの少しだけ音が漏れ出るが、それがリュウの足を止めることもない。彼はそのまま倉庫の外へと出ると、一度も倉庫の中を、リアを振り返ることもせず、扉を後ろ手に閉めるのだった。

「あ……ぁ」

 重い鉄の擦れる音が響き、リュウの姿は完全に見えなくなった。その瞬間、リアは自分の体から全ての力が消えたように感じ、その場に膝をつく。

(これでいい。最初から、これを望んでたはず……これで、リュウが危険に晒されることも……)

 リアはずっと、リュウの消えていった倉庫の出口を見つめながら自分にそう言い聞かせた。周囲の男達が話している声も、彼らの足音も、その全てが遠くに聞こえる。時間の流れすら遅くなったように感じられた。掃除の行き届いていない倉庫の中に埃が舞い上がる。リアはその一粒一粒に意味もなく目をやりながら、虚ろな頭で思考を無為に回す。

(ここで売られたって、どうせ昔の汚れた生活に戻るだけ。リュウがそれで助かるなら、こんなことで助けられるのなら、これで……これでいい)

 口に咥えさせられていた布を外されると、腕を引かれて無理矢理に立たされる。リアは人攫いの男に腕を引かれるまま、成り行きで足を動かした。最早、誰に逆らう気力もない。声を上げる気すら起きなかった。状況を理解する努力すらしたくない。

 ただの肉の詰まった袋と化したリアは、倉庫の一室にもののように放り込まれた。窓があることから、真っ当な使い方がされていた時には休憩室にでも使われていたのだろう。その部屋に、リアは一人で横たわっていた。

(これでいい……はずなのに)

 リアは見えない糸に引っ張られるように上体を起こし、扉に背を預けて床に座った。起き上がった彼女の両目からは、ボロボロと涙がこぼれ落ちる。自分に意識的に嘘をつき続けてきた彼女は、自分が何故泣いているのかも分からず、涙を拭うこともできなかった。ただただ胸を刺す痛みだけが確かな現実となり、彼女の心から血を流す。いつしか、流した赤い血が心を覆いつくすと、リアは自分の心すら騙せなくなった。

(ああ、そうだ。私は……ずっとリュウと一緒にいたかった)

 強風にあおられ地面に叩きつけられた薄い木の板のように、リアの心はバラバラになった。最早どこからどこまでが自分の意志かも分からなくなった彼女は、虚実に塗れながらも、たった一つの願いを口にする。

「助けて、リュウ」

 誰にも届かない、届ける機会も嘘と強がりのせいで見過ごしてしまったこの願い。リアがそれを口にしたその瞬間のことだ。

部屋にガラスの叩き割れる音が響く。雲間を突き抜けるかのようなその音を耳にしたリアは、咄嗟に顔を上げて目の前を見上げる。そこには、リュウが立っていた。

「……なっ、なん……で」

 見慣れた顔。そして、絶対にここにはいないはずのその顔。とめどなく溢れる涙をしきりに拭いながら、リアは自分の目に間違いがないかを確認しようとする。だが、リアが歪む視界を元に戻すよりも前に、とても聞き慣れた声が彼女の問いに答えた。

「君の嘘がすごく下手だったから」

 言いながら、リュウはリアの両手を拘束する縄を解き、彼女が背にしている扉の鍵を閉める。彼はそのまま、自分が叩き割って飛び込んできたガラス窓を振り返りつつ、周囲の状況に軽く目を通した。

「これで多少の足止めにはなるはず。少ししたら助けが来るから、それまで僕達はここで時間を稼いで……」

 リュウは淡々と今の状況においてするべきことを続け、平坦な声で当面の目標を語ろうとした。

だが、彼の言葉が最後を迎える前に、リアは自分の感情を抑えていることができなくなった。彼女は覚束ない足取りで立ち上がると、涙で崩れ切った顔のまま、リュウの胸に飛び込む。

「えっ……り、リア? もしかして、泣いてるの?」

 人攫い達を退けようと必死になっていたリュウは、肝心のリアにほとんど目を向けていなかった。リアが自分の胸にしがみついてすすり泣きの声を上げると、彼はようやくそのことに気が付く。

「こわ……こわ、がった……リュウが、私を……見捨てたんじゃ、ないかって」

 リアは何度も喉を詰まらせながら、涙で歪む声を絞り出す。聞き取ることすら困難なほどグズグズのその声は、紛れもなくリアの本心だった。これまでに見たことも想像したこともない親友の姿を前にすると、リュウはどう言葉を返していいのか分からず、彼もまた本心で返す。

「僕がリアを見捨てるなんて、あるわけないでしょ? 約束したんだから」

「それは……そう、そうだけっ……どぉ……。だって、私がずっと、嘘をついてたのは……本当のこと、だから」

 リュウは自分の言葉がリアの心を軽くすると思っていた。しかし、彼の背に回されたリアの腕の力は強まるばかりだ。まるで、崖際で命を繋ぐために必死に捕まっているかのように、リアはリュウの存在にしがみつく。乱れた彼女の髪を見下ろすと、リュウは口を挟むのをやめ、彼女の発する言葉に静かに耳を傾けた。外の喧騒は遠く聞こえ、部屋の中にはリアのすすり泣く声だけが響く。

「ずっと、ずっと嘘をついてた。自分のことも、森に来た理由も、種族を気にしてるのかってことも……。本当は私が一番気にしてた。ずっとそれが理由で拒まれ続けてきたから、もしかしたら、それがバレたら……また、拒まれるんじゃないかって。どれだけ仲良くなっても、どれだけ絆を深めても、それ一つで全てが台無しになっちゃう気がして……」

 リュウはリアの背を静かに撫でながら彼女の話を聞き続ける。息の詰まりはなくなっても、言葉の震えはずっと残っていた。

「だから、私の正体がリュウに知られた時は……本当に、本当に……これまでの全部が消えちゃう気がしたの。呆れられて、失望されて、また一人になるんだって。リュウに見限られても何も言えないようなことをした。だから、君が離れていくのを止めることなんてできなくて、でも絶対に離れたくなくて……前の苦しい生活に戻ることより、何より……リュウから離れたくなかった。でも、私のせいでリュウが傷つくのはもっと嫌だった。だから、助けてなんて言えなくて……」

 リアは脈絡や語調などには目を向けず、ただただ自分の心に浮かび上がってきた言葉をそのまま口にする。冬の木に残された一枚の葉のような心。リュウはそれを両手で優しく摘み取るように、震えるリアの肩を抱き締めた。

「正直に話してくれてありがとう。それと、ごめん。さっき一回外に出たのは合理的な選択だったかもしれないけど、リアの気持ちを全然考えてなかった」

「ち、ちがっ……そんなこと、いいの。嘘をついてきたのは私で、リュウが謝ることじゃ……!」

「リア」

 リュウは自分の胸に顔を押し当てて泣いていたリアの肩を少し離すと、彼女と真正面から向き合う。そして、彼女の真っ赤に泣きはらした目をしっかりと見据えて自分の気持ちを語った。

「僕はこれからも、リアとずっと一緒にいたい。いや、ずっと一緒にいよう」

「……っ!」

「これから僕達は互いにたくさんの嘘をつくことになる。強がり、繕い、都合……一つ一つで謝ったりするのが下らなくなるくらい、ずっとずっと一緒にいるんだ。だから、今日までの嘘だっていつか笑い飛ばせる。最初の何週間かの嘘なんて、それ以外のかけがえのない何十年に比べたら、すごくちっぽけなことだってさ!」

「……ふっぐ、うぅ……リュウ!!」

 リュウは満開の笑顔でリアに笑いかける。彼の嘘偽りのない、どこまでも真っ直ぐ過ぎる言葉を聞いたリアは、胸の奥から熱い何かが迸るのを感じ、それに従って再びリュウの胸に飛び込む。リアの流す涙の意味は、既に全く違うものとなっていた。彼女の心を暗く覆っていた暗雲は、一陣の風によって吹き飛ばされた。

 しかし、リュウとリアの思いに整理がついたからといって、今の状況が急に好転するわけではない。二人が部屋の中で時間を忘れて空気に酔っていると、外から荒い物音が聞こえてくる。倉庫内へつながるドアと、リュウが割って入ってきた窓の外からだ。ドアの方からは荒々しいノックとノブを雑に捻る乱暴な音が合わせて鳴り響き、外からは複数人の慌ただしい足音が聞こえてきていた。

「ど、どうしよう!?」

 外敵の存在が思考に飛び込んでくると、リアはハッとして涙を拭う。つい先ほどまで捕らえられていた彼女に策らしい策はなかった。彼女は慌てて部屋から安全に出る作戦を考えようと、ほとんど何も置かれていない部屋の中を見渡し始める。

「早くここから逃げないと! 何か役に立ちそうなものは……」

「リア、落ち着いて」

「りゅ、リュウ……?」

 自分達の助けとなるものを必死に見つけようとしていたリアの肩に、リュウは優しく手を置く。彼は絶体絶命の手前とも言えるこの状況でも、自信に溢れた笑みを浮かべていた。

「助けを呼んである。僕の読みが正しければ、あと五分かちょっとでここに来るはずだ。それまで、この倉庫で耐え切る」

「耐え切るって……そんなことができるの?」

「やってやるさ。リアは僕の背から離れないで」

 リュウは敵が最も多くいるはずの倉庫側に繋がるドアの前に立ち、後ろのリアを振り返る。

「絶対に勝って、二人で無事に戻ろう」

「……分かった」

 恐怖や不安を根こそぎ吹き飛ばすようなリュウの言葉に、リアは全力で身を任せることにした。

 人攫い達が外部からの侵入に気付き、二人のいる部屋を前後から挟もうとしてから二十秒程度が経過。リュウは自分の調子と呼吸の調律を済ませると、未だ乱暴に叩かれているドアのノブに手をかけ、後ろを振り返る。彼の視線での最終確認に対し、リアはこくりと頷いた。

「……ふぅ、行くよ」

 静かに音頭を取ると、リュウは鍵を開けてノブを捻り、扉を一気に押し開いた。瞬間、外から扉を破ろうとしていた人攫い達が数人部屋に飛び込んでくる。彼らを前にしたその瞬間、リュウは帯から刀を鞘ごと抜き放つ。そして、その穂先が捉えたのは……

「お前らどけッ!! こいつがどうなってもいいのか!!?」

 リアの首筋だった。リュウは男達に見えやすいよう自分の刀をリアの白い首に押し当てると、倉庫全体に響くような大声を張り上げながら部屋を出る。

「大事な商品なんだろ! 傷がついて、頭目にケジメつけさせられるようなことにはなりなくないよなあッ!!?」

「なっ、なんだこいつ……!?」

「イカれちまったのか?」

 部屋の中に入って侵入者を捕らえようとしていた男達は、リュウの突然の奇行に一瞬怯む。後ろに控えていた者達ですら、あまりにも唐突な急展開に冷静な判断を下せなくなった。彼らの脳内では、何故と理由を考える思考に大幅なリソースが割かれ、目の前の問題に対処しようとする思考が麻痺していた。その一瞬の機会の内にリュウは呆然とする男達の間を縫い、リアを引き連れて倉庫の角まで向かう。

「ほらどけ、どけって言ってんだよッ!!」

「う、うわー……た、助けてー?」

 リュウが役に入り切って刀をブンブンと頭上で振り回しているのに反し、後ろのリアは彼のテンションについていけず、棒読みの悲鳴を上げる。どう見ても二人の温度差は違和感に溢れていたが、リュウの電撃的な策は功を奏し、背後を壁で囲われた角に辿り着くことができた。

 しかし次の瞬間、彼の薄っぺらな策を消し飛ばす声が倉庫内に響き渡る。

「おいおいテメエら何してんだ? ふざけんのも大概にしろよ」

 人攫いの男達が集まっている後ろから、顔に傷のある頭目が再び姿を現す。彼はリュウとその背に守られるリアを見ると、舌打ちをして自分の後ろに控える部下達に叱責を飛ばす。

「あんなのハッタリに決まってんだろうが。チンタラしてんじゃねえぞ」

「で、ですがあまりにも急なことでして、商品に傷をつけてしまうことを考えると……」

「言い訳は後で聞いてやる」

 部下との会話を早々に打ち切った頭目は、懐からナイフを取り出してその刃先をリュウに向ける。彼の行動に応じるように、リュウもまた刀を構えた。

「……まさかとは思ったが、本当にそんな女のために命を懸けるとはな。薄汚いドブで育ったような女だぞ。自分をずっと騙してきた奴のために体を張るとは……健気なのか、それともまだ聞こえのいい嘘で騙されてるのか。哀れで仕方ねえよ」

 頭目の男は手元のナイフを弄びながら、嘲るような笑みを浮かべた。頬までしわを刻むかのように口角を釣りあげた彼を前に、リアは小さく体を震わせる。そこには、心のあちこちに深い根を張る恐怖があった。リュウはリアのその些細な恐れを目の端に捉えると、彼女の代わりに頭目に言葉を返す。

「抜かしてろ、害虫が」

「……なに?」

「何が本当で何が嘘かなんて僕が自分で判断する。それに、もしリアが僕に嘘を言ってたとして、それがなんだ? 人はみんな、多かれ少なかれ嘘をついて生きてる。リアを拒む理由には絶対にならない。それに、お前が長々と説明してくれた云々は全部些末事だ。亜人だのなんだの、僕にとっては知ったことじゃない」

 リュウの目は前に向いていながら、その言葉は背の方に向かっているように思えた。彼の言葉は嘘つきの少女の心に確かに届き、その胸に巣食う無意味な恐れを拭い去る。ひねくれたリュウらしい曲がりくねったやり方だったが、彼は背に受けた信頼を確かに感じ取った。

「そうかい。じゃ、別にいいぜ。お前ら!」

 相容れないと言葉で示された人攫い達の頭目は、倉庫の中全体に声を張り上げる。彼の声に応じ、後ろに控えていた部下の男達がそれぞれの得物を手に構えた。三十人程度はいる彼らが敵意を向けるのは、たった二人の少女とエルフ。

「信じてる」

「うん」

 リアの疑いようのない信頼を受け、リュウは刀を抜き放った。研ぎ澄まされた白刃は淀んだ空気の中でも鋭く輝く。

「やれッ!!」

 頭目の号令を受け、前線に立っていた男達がリュウに走って向かってくる。彼らは各々の手に持った刃物や鈍器を振り上げ、一撃でも命を奪いかねない暴力を繰り出した。それを前にしたリュウは姿勢を低く構えると、銀の刃を最も近い一人へと振るう。瞬間、刀は男の足をほとんど抵抗なく通過し、血を噴出させた。

「あああぁッ!!」

 悲鳴が響くのと同時に、彼は走った勢いのまま前に倒れていく。リュウはそれを避けると、続けざまに襲い来る二人目が振り下ろしてくるバットを刀で受け止めた。重みのある金属同士がぶつかる嫌な音が倉庫に響き、両者の腕に深い痺れを与える。だが、リュウはそんなことでは怯まない。彼は負荷のかかった腕での攻撃を諦め、隙を晒している男の顎に蹴りを入れる。顎に真横から躊躇のない蹴りをもらった男は、まるで支えを失った案山子のように沈黙したまま倒れ伏した。

「ガキがッ!」

 同時に向かってきた二人を一息に片付けると、今度はまた別の男が左方からナイフを突き出してくる。刀を右に構えているリュウに対し、武器のない側からならば隙を突けると判断したのだろう。だが、彼の思惑は道半ばにすら届かない。リュウは目の端で自分に攻撃が迫っているのを捉えると、咄嗟に腰の帯に差していた鞘を引き抜き、刃物の軌道を逸らした。予想外の手で返された男が思考を停止したのに対し、リュウは帯から抜いた鞘の石突で男の喉を突く。

「ウッ……ぐぅ」

 一瞬とはいえ気道を貫かれた男は、口から唾液を漏らしながら俯せに倒れた。こうして第一陣の三人を息も乱さずに倒したリュウは、続けて向かってくる敵に対し、再び刀と鞘を用いて応戦する。迷いの無い彼の剣技は血肉の汚れをも置き去りにし、刀が持つ銀の輝きを維持し続けていた。

 部下達に戦わせ、その様子を遠巻きから観察していた頭目の男は、リュウの戦いぶりを見て眉根を寄せる。

「チッ……どこまでも生意気なガキだ。始末が面倒だが仕方ねえ」

 この場を切り抜けられる可能性が万が一にもあると判断した頭目は、舌打ちと共に懐から銃を取り出す。彼はそのまま一切の躊躇なく撃鉄を起こすと、未だ敵をさばき続けているリュウに照準を向けた。

「撃ち殺すからどけ」

 頭目が指示を出すと、今の今までリュウと戦っていた男達は自分に流れ弾が当たらないようにと咄嗟に横にはける。銃の恐ろしさを知っている人間ならば、その弾道に残りたいと思う訳はない。

 だが、リュウは目の前の男達の行動の意図を掴めなかった。それもそのはず、彼は銃という存在そのものを知らない。リュウにとって、頭目の男の行為は全く読めないものであり、男達が何故自分を避けたのかも分からなかった。彼はその鉄の塊からのぞく黒い穴が何を意味しているのかも分からず、ただその場に立ち尽くす。

 次の瞬間だ。倉庫内に乾いた破裂音が響く。刹那、リュウは想像もしていなかった浮遊感に襲われ、その場に倒れた。

「ぐっ……ぅ」

「り、リア? 一体何が……」

 リュウが反射的に起き上がると、彼の目の前では左肩から血を流すリアが膝をついていた。どうやら、銃が発射される直前に彼女がリュウを横に突き飛ばしたらしい。リアが言葉で危機を知らせることを選択していれば、行動が遅れて今の結果にはならなかっただろう。リュウの無知を察した彼女の咄嗟の機転ではあったが、肝心のリュウは何が起こったのかを全く理解していなかった。

「な、何が起こって……?」

 状況の急変にリュウの思考は全く追いつかない。彼は心の動くままに肩を負傷したリアを支えようとするが、その動きすら最後まで行うことはかなわなかった。

また、破裂音が響く。瞬間、リュウの腹に殴打を食らったような熱さと衝撃が走った。

「うぐっ……ぁ。な、ん……」

「リュウッ!!」

 腹に銃弾を受け、リュウはその場に倒れる。暴風に根を折られた細い樹木のように彼が倒れたのを見ると、リアは悲鳴を上げて彼に駆け寄った。激しい痛みのせいで意識が朦朧とするリュウは、自分の体を揺らすリアの泣き顔を前にしながらも、何が起こったのかを考えていた。

(何が、どう……見えない何かでお腹を殴られた? とにかく、リアを守らない……と)

 だが、体が意志に追いつかない。元より集団暴行を受けた体に鞭を打って動かしていたのが、今の銃弾で決定的な打撃を受ける。

「まさか銃も知らないとはな。最初からこうしておくべきだった」

 リュウが傷だらけの体で立ち上がろうとしているのに対し、頭目は最後のとどめを刺そうと再び撃鉄を起こして銃口をリュウに向ける。

だが、彼が引き金に指をかけるより前に、射線にリアが割って入った。彼女は両腕を広げ、何が何でもリュウを守ろうと銃の前に立ち続ける。

「……チッ。どけ小娘」

 頭目は苛立ちの感情のままにリアをのけようと、二人のもとへ詰め寄ろうとした。

 だが、リュウとリアにとって絶体絶命のこの瞬間、突如、倉庫に錆びた鉄の擦れる音が響き渡る。それは、倉庫の出入り口の扉が開かれる音だ。薄暗い空気に満ちていた倉庫に、外から淡い光が差し込んでくる。

「……新手か?」

 この場にいた全員が音のした方へと目を向ける。倉庫の出入り口には、一人のエルフの男が立っていた。シュウだ。彼は倉庫内に入ると、首を回して状況を即座に把握し、リュウと同じ所作で刀を手に持つ。

「息子が世話になったらしいな」

 傷だらけで膝をつくリュウ達を目にし、シュウは歩き始めた。床に積もっていた埃を静かに舞い上がらせる彼の歩を前にした人攫い達は、その尋常ならざる怒りと闘気に息を飲む。リュウや自分達の従う頭目とは一線を画す常人離れした空気が、シュウが一歩踏み込んだ瞬間に流れたのだ。彼の怒りを向けられた者達は、各々の首筋に冷たい刃を当てられているような錯覚に陥り、一歩下がった。

「エルフ……チッ」

 頭目は急転した場で優位を取ろうと、手に持っていた銃を再びリュウ達に向ける。

「テメエ、こいつを撃たれたくなかったらそれ以上近付くんじゃ……」

 彼はシュウの接近を阻むため、脅迫の言葉を口にしようとした。

だが、彼はその口上を言い終えるよりも前に、銃を持つ右手に鋭い痛みが走ったのを感じる。あまりにも唐突なそれに、彼は悲鳴を上げるでもなく、ただ口を閉ざして痛む個所に目をやった。彼の右手はナイフに貫かれていた。手を貫通して多量の血を流すナイフの柄を握っていたのは、リアだ。

「アンタが言ったのよ。私の手癖が悪いって……!」

「ぐっ……このガキッ!!」

 ナイフが突き刺されると、頭目の手から銃が滑り落ちる。リアはそれが再び敵の手に落ちないよう、床に落ちたそれを遠くに蹴飛ばす。しかし、頭目は彼女のその隙を見逃さない。彼は痛みと怒りに背を押されるがまま、足元のリアを襲おうと両腕を振り上げる。

 その瞬間だ。リアの後ろで膝をついていたリュウが、親友の危機に立ち上がって腰の刀を引き抜く。黒漆から刹那の間に姿を現した白刃は、銀の弧を描き、再び鞘にその身を隠す。リュウの刀は、瞬く間に頭目の男を袈裟がけに斬り付けた。目で追うことすら困難な居合の早業だった。

「うぐっ……あ」

 一息遅れて胸に痛みと熱さを覚えた頭目の男は、血を流しながら仰向けに倒れる。

「なっ……頭目が、やられた!?」

「もう商品なんざどうでもいい! ガキどもをやっちまえッ!!」

 頭を失った人攫いの男達は、自分達の利益を度外視した破滅的な行動に出る。先ほどまではリアの確保を最優先にした戦力の分割投入だったのが、今度は一気に十数人が動き始めた。彼らのその極端な行動に対し、リュウとリアは打開の手を繰り出すことができず、ただただ顔を見合わせて後ろに下がった。二人は最早これまでかと、ギュッと手を繋いで目をつむる。

 だが、実際のところ、現状は二人が悲観するほどそう悪いものではない。寧ろ、これ以上ないほど強い追い風が二人の背には吹いていた。

「下がっていろ」

 リュウとリアの前にシュウが立つ。彼は倉庫の入り口から中央まで、ほとんど一息で移動すると、鞘に納めたままの刀を構えた。彼の眼前には、リュウとリアを害そうと武器を振り上げる男達が十人ほども迫ってくる。しかし、シュウは彼ら雑兵共に一切怯むことなく、その手の刀を大きく横に振るった。

「ぬうぁッ!!!」

 気合の声と同時に振るわれたシュウの刀は、まるで竜巻に打ち上げられた大木が地面を薙ぐかのような威力を伴っていた。彼の正面に立っていた前線の男達は、たった一撃でその全員が吹き飛ばされる。

「なっ、なんだこいつ……化け物かッ!?」

 最前線を走っていた者達が一斉に吹き飛ばされると、後ろに続こうとしていた男達はその足を止める。人数の有利を大幅にとっていながら、彼らは目の前のシュウという一人のエルフを倒せる想定が一切できなかった。それほどまでに、先ほどの彼の一撃は人外じみていた。シュウの庇護下にあるリュウとリアも、先ほどの一撃の威力に口をあんぐりと開けて圧倒される。

「何あれ……あの人がリュウのお父さんなの?」

「ま、まあ……」

「漫画でも見てるみたい……」

 倉庫内の驚愕を一身に受けるシュウは、息一つ乱さず最初の構えに戻ると、堂々とした足取りでまだ半分以上の人数を残す人攫いの集団へと単身で向かっていく。だが、男達は既に戦意を喪失していた。ある者は足を震わせ、ある者は逃げ道を探して周囲を探っている。そんな彼らに対し、シュウは刀の柄に手を置きながら語った。

「俺達エルフは命を重んじる。今ここでお前達を殺しはしない。だが、よく覚えておくことだ」

 語り口の途中、シュウは前に一歩深く踏み込み、腰を落として構えた。瞬間、彼は体の捻りを解くと同時に刀を抜き放ち、倉庫の鉄壁に刃を走らせる。倉庫内には耳を裂くような轟音が響き渡った。それは、分厚い鉄の壁が一本の刀によって斬られた音。その場にいたシュウ以外の全員が目を見はる。彼が斬った倉庫の壁には、まるで空想上の龍が巨大な爪で引き裂いたかのような巨大な穴ができていた。

「俺の息子とその友人にもう一度手を出してみろ。その時は……」

 シュウは刀を鞘に納めると同時に言葉を結んだ。

「俺が殺す」

 刀を納めたというのに、シュウの目は未だ研ぎたての刀のように鋭い。彼のその圧倒的な敵意と実力を目にした人攫い達は、悲鳴を上げて倉庫から去っていく。既に気を失い倒れている者達もいたが、彼らはそんなことには目もくれず、我が身一番というように逃げ出していった。

 たった二振りで場を納めたシュウは一つ大きな息を吐くと、普段通りの調子に戻って後ろを振り返る。彼の後ろには、笑顔で父を迎えるリュウと、その背で少し体を小さくしているリアがいた。

「遅いよ、父さん。もっと早く来てくれると思ってた」

「仕方ないだろ。目印の雑誌がちょっとずつ風で飛んでたんだ。そのせいで何度か道を間違えてな」

 言いながら、シュウは懐からページをバラされた雑誌を取り出して示す。それは、以前リュウがミズハと共に離れ座敷で鑑賞していたものだ。リュウが倉庫へと向かう際、ミズハはこれを渡して後続に道が伝わるよう経路に残せと彼に頼んでいたのだ。

「それにしてももう少し早く来てほしかったよ。いいところだけ持ってってさぁ」

「無茶言うな。……ん?」

 息子との会話の途中、シュウはふとリュウの後ろで縮こまっていたリアを目にする。どうやら知り合いの家族を前にして緊張しているらしい。シュウはそれを一目で察すると、小さく屈んで自分から声をかけに行く。

「君がリュウと仲良くしてくれている……」

「り、リアです……」

「そうか。さっきはありがとう」

 シュウはリアの肩に手を置き、彼女の行為を称える。

「リア君の機転と勇気が、俺達親子を助けてくれた。本当に感謝している」

「いやっそんな……私なんて何も……リュウの方が私を助けてくれてます」

「ああ、男が女を助けるのは当然のことだ。別に感謝しなくていい」

「父さん? 僕の顔見える? 血だらけなんだけど」

 自分の健闘をコケにされたリュウは、こめかみに青筋を立てて父親を睨む。対するシュウは、豪快に笑いながら息子の肩を叩いて冗談だと笑って返した。二人は里での出来事を引きずってなどいないらしい。そんな親密な親子のやり取りを、リアは一歩置いたところで見ていた。

が、彼女はリュウの血に濡れた顔を見た瞬間、重要なことを思い出して悲鳴を上げる。

「りゅっ、リュウ! そういえば、さっき撃たれてたよね!?」

「え、打たれる……? 殴られたのは結構前のことだけど」

「いやそうじゃなくて、銃! さっき、お腹を撃たれてたでしょ!?」

 銃の概念すらほとんど知らないリュウは、撃たれると聞いてもパッとせずに首を傾げていた。だが、彼の横に立っていたシュウは、リアの言葉を聞くと顔を真っ青にする。

「りっ、リア君、それは本当か!?」

「はい、本当にさっきのことで……」

「リュウ、傷を見せろ!」

 基本は里から出ないエルフとはいっても、シュウはリュウの倍以上は生きている。銃のことを知っていた彼は、当事者意識の欠けた間抜けな顔をしているリュウの上着を剥ぎ取ろうと詰め寄る。だが、リュウは急に脱がそうとしてくる父を拒もうと暴れた。

「ちょ、ちょっとやめてよ父さん! リアの前なんだから……」

「馬鹿かお前は!!? 命に関わることなんだぞ!」

「な、なんだよ……。銃って、さっきのアレ? 確かに痛かったけど、そこまでじゃ……」

 命に関わるという言葉と、後ろから切実な目を向けてくるリアを見て、リュウはようやく大人しくなる。彼の抵抗が治まると、シュウは焦りと不安に揺れる両手で息子の傷を確認した。

「血は流れていないが……ん、これは?」

 服に円形の弾痕が残っている部分を触っていたシュウは、すぐに手元の違和感に気付く。彼はその異常の正体を探ろうと、リュウの懐に手を入れて中を探った。すると、すぐにその異変は姿を現した。

「これは……写真?」

「あっ、これは……その、昨日リアと一緒にいた時の……」

 シュウが取り出したのは、三十枚程度は重なっている写真の束だ。全体を確認してみると、その中央には焼け焦げた跡と共に銃弾が残っている。合わせてリュウの腹部を見てみれば、写真をしまっていた辺りに淡い色の青あざがあった。シュウは息子の安全を知ると、大きく安堵のため息をつく。

「本当によかった。二人の思い出が、お前を守ってくれたみたいだな」

「……?」

「はぁ……昨日という日は、やっぱり忘れられる一日にはならなさそうかもね」

 一日という短い間の思い出の記録だったが、それは確かにリュウの命の危機を退けてくれた。当人であるはずのリュウは父の言葉に首を傾げていたが、彼の隣に立つリアは静かに微笑むのだった。

 こうして、リュウとリアが苦難を乗り越えで勝ち取った平穏の中で過ごしていると、不意にシュウがハッとして声を上げる。

「目の前のことで精一杯だったが……リュウ、ユリを診てくれるという医者の当てには、既に会うことができたのか?」

「……あ」

 シュウの言葉を耳にすると、リュウはサーッと顔を青ざめさせる。彼は父の一言を聞くこの瞬間まで、母の病気に関する一切合切を忘れていたらしい。自分と親友の命がかかったやりとりをしていれば、それも当然のことだろう。彼の気まずそうな顔を見たリアは、代わりに返事をする。

「私の面倒を見てくれている人が医者なんです」

「そうか。また二人が妙な連中に目を付けられる可能性もある。俺もついていこう。二人共、怪我は大丈夫か?」

「私は肩をかすっただけだから大丈夫。リュウは?」

「……まあ、あと少しなら平気かな」

「無理はしないでね。じゃあ……案内します!」

 多くの打撃を受けたリュウの体はまだ常に痛みの走るような状態だったが、運動自体には問題ないと彼は頷く。彼の首肯を見たリアは、シュウにも軽く目配せすると、親友の母を救うために再びエルフ達を先導するのだった。


※※ ※


 危機を脱したリュウ達は、リアの案内に従って彼女の暮らしている孤児院まで急行する。ユリのために先を急ぐ彼らの行く手を遮る者は、人攫い達を退けて以降は現れなかった。三人はすぐに、救命の助けとなる者のいる場所へと辿り着く。

 リアは孤児院の玄関口にまで向かうと、くぐり慣れた扉を焦燥と共に開け放ち、大声を上げる。

「お父さん! 急で悪いんだけどお願いがあるの!!」

 リアは後ろに控えるエルフ親子を玄関ホールに入れながら、彼女が父と呼ぶ人物の反応を待つ。広くはあるものの閑散とした空気が満ちる孤児院の中に、助けを求めるリアの声が響いてしばらく。入ってすぐの廊下、その最奥にある階段から、一歩一歩をゆっくりと踏み込む足音が聞こえてくる。間もなく三人の前に現れたのは、よれた服を身に纏う黒髪の人間の男だった。

「柄にもない大声上げてどうした? 惚気話ならもう聞き……飽き、た……?」

 気だるそうに欠伸をしながら階段を下りてきた男は、玄関で集まっている三人の顔を見た瞬間、口をあんぐりと開ける。怪我をしているリアに、その後ろに立つエルフ二人。そしてその小さい方は血だらけになるほどの負傷を負っているときた。あまりにも突然すぎる状況に、男は自分の中で確認するように言葉を発しながら三人に歩み寄る。

「リア、肩を怪我したのか? というか、後ろ二人はエルフ……。いや、それよりなにより後ろの少年は大丈夫なのか!?」

「落ち着いて、お父さん。頼みがあるの。まずはこの子……リュウの応急処置をしてあげて」

「いや言われずともやるが……」

「ありがとう。それで……」

 リアは状況を説明しようと、後ろを振り返った。だが、彼女が思考をまとめて口を動かし始めるより前に、シュウが一つ前へと進み出る。

「私はシュウという者だ。あなたの名前を聞きたい」

「……ハングだ」

「ハングさん。頼みというのは他でもない、俺の息子と妻を助けてもらいたいのだ」

 シュウはハングの目の前に立つと、その頭を深々と下げて胸の内にある頼みを包み隠さず口にする。後ろで父の姿を見ていたリュウは彼の行動に目を見はった。これまで里長としての父を里でずっと見てきたリュウにとって、シュウがこうして頭を下げたことは驚き以外の何物でもなかった。それも、彼と母が長年嫌悪してきた人間に対してだ。リュウはここ数日間の父の変化に思わず固まってしまう。

「シュウさん、頭を上げてくれ。私は医者だ。必要とされる場所に行くのは当然のことだ」

「それでは……」

「最善を尽くそう」

「……恩に着る」

 ハングはシュウに頭を上げさせると、抽象的だった話を問いによって深めていく。

「息子さんは見ての通りみたいだが……奥さんとやらは?」

「ここからほど近い里にいる。肺を患っているようなんだが……こちら側の都合で街に連れてくることができない」

「オーケー、問題ない。人間とエルフの身体的構造は似通っているから、きっとうまくいく。まずは診察を済ませよう。もし本格的な治療が必要そうなら、私の知り合いに場を整えてもらう。それでいいな?」

「ああ、何から何まですまない」

「いいさ。じゃ、まずは……」

 ハングが最初に見せていた気だるそうな表情は消え、彼は赤の他人のために尽力しようとしていた。そして、彼はまず手始めにと、シュウの後ろで小さくなっていたリュウに手を差し出す。

「アンタの息子さん、それとリアの応急処置をここで済ませてしまおう」


※※ ※


 昼を過ぎたほどの時分、目的を達したリュウ達はハングを連れて里にとんぼ返りしていた。ここまで弾丸的な行き来を繰り返していたリュウとリアは、次第に体を重く感じるようになってくる。だが、二人はこのエルフの里への疾走が最後になると意気込み、疲労を溜めた体に鞭を打つのだった。

 里に入ると、通りがかるエルフの住人達はリアとハングの存在を疑いと驚きのこもった目線で見つめてくる。人間との関わりを断ってきた里の者達にとって、彼らは異物に見えたのだろう。しかし、声を上げる者は一人としていなかった。それは、里長であるシュウとその息子が人間の傍についていたためだろう。リュウ達四人は孤児院から屋敷まで、大きな困難に遭うこともなく戻ることができた。

 屋敷に入ると、シュウはハング達を先導して患者の待つ部屋まで駆ける。ユリの治療を行っているその部屋まで辿り着くと、襖の前には落ち着かない様子のミズハが立っていた。彼女は視界の端に四人を捉えてリュウとシュウの帰りを知ると、歓喜を顔に浮かべて二人を迎えた。

「ご無事でしたか……! お二人が戻ってきて何よりです」

「ミズハ、母さんの具合はどう?」

 先頭を走っていたリュウは、里に一足早く戻っていたミズハに母の状況を問う。彼の質問に対し、ミズハは顔を曇らせ、奥にユリがいるだろう襖を横目で見ながら答えた。

「それが……病はまだ治まっていませんが、体調は安定してきています」

「よかった。それなら診察も問題なく……」

「で、ですがその……」

 リュウの喜びも束の間、ミズハが逆接を口にして補足する。

「ユリ様が、その……自分が寝ているすぐ傍に、刀を持ち出していて」

「……え?」

「おっ、恐らくですが……リュウ様が里を出ていく前に言っていたあの言葉。あれを、本当にやるつもりなのだと思います」

 ミズハの見解を聞いたリュウとシュウは、思わず顔を見合わせて渋い表情を浮かべる。ユリの言っていた言葉とは、外から人間を連れてきたらこの手で叩き斬る、といった内容のものだ。このままリアやハングを部屋に入れれば、最悪の事態が発生することすら予見される。

「どうかしたの?」

「病はいち早くの診察が大事だ。そこに奥さんがいるのなら早く診たいのだが……」

 事情を知らない二人は、リュウ達のえも言えぬ顔を見て疑心を抱く。一足早く冷静さを取り戻したシュウは、外部から来た二人に軽くユリという人物の人柄について説明した。

「妻……ユリは、外の世界を拒絶し続けていて、その……考えが極端なんだ」

「あ、ああ……確かリュウもそんなこと言ってたっけ」

「このままユリの部屋に入れば二人が危険かもしれない。まずは、俺が一人で説得に向かおう」

 シュウはリアとハングにここで待つように伝えると、ユリのいる部屋へ入ろうと歩き始めた。その彼の歩みに、リュウもついていこうとする。

「僕も行くよ。元はと言えば、僕が言い出したことなんだから」

「……いや、お前は駄目だ」

「な、なんで!?」

 拒絶されるなどとは考えもしていなかったリュウは、驚きと疑問で声を上ずらせる。それに対し、一歩引いた視点で状況を俯瞰していたシュウは、理由を完結に口にして息子の提案を拒む。

「今のリュウがユリの前に出ていったら無駄に刺激するだけだ。ただ外から人を連れて来たというだけならまだしも、その全身の怪我。今のユリが見たら気を失いかねない。説得する段階に行けたとしても、リュウの傷を理由にまた拒まれる可能性だってある」

「うっ……わ、分かったよ」

 理路整然としたシュウの言葉を受けると、リュウは不服を示しながらもその言葉に頷いた。一応という形でシュウが目線を向けたハングとリアも、問題ないと首を縦に振る。彼らの了承を得たシュウは大きく深呼吸をすると、妻の待つ部屋の襖をゆっくりと開いた。

 部屋の中央では、以前と変わらずユリが布団に横たわっている。病状が安定しているからか、傍には医者や従者がいない。別の部屋で控えているのだろう。

だが、それらの些事よりも目を引いたのは、ユリの寝ているすぐ横に置かれた刀だ。黒い鞘に覆われてこそいるが、それが放つ異物感と威圧感は、抜き身のものとほとんど変わらないほどだった。それを目にしたシュウは、息を飲みながら後ろ手に襖を閉め切り、部屋と外界との繋がりを断つ。

「戻ったぞ、ユリ。具合はどうだ」

「ああ……私達二人で百人の人間を相手にした時よりはマシだな」

 夫の帰りを知ったユリは、おもむろに上体を持ち上げる。シュウは彼女の目の前の畳に胡坐をかいて座り、楽にしていていいと手で示しながら妻と向き合った。

「なら、まだ大分キツいのか」

「そうだな。呼吸は依然として重い……喉も痛む。熱はある程度引きはしたが、体のだるさは残り続けている。まあ……」

 ユリは自分の胸に手を当てて己の体の調子を探る。まだ決定的なところまで病が進行していないということを知ったシュウは、ひとまず安堵の息をついた。

 だが、彼の安心はまたすぐに発生した別の不安によって吹き飛ばされる。

「ヤワな余所者を二人、追い出すくらいはわけない」

「……それは、どういう」

 夫の疑いの目を受けながら、ユリは白い掛け布団を脇に退ける。露になった彼女の白い腕が掴むのは、鞘に覆われた刀の腹だ。その動きを見たシュウは、妻の極端な行動をいつでも止められるよう咄嗟に身構える。

「足音が四人分聞こえた。うち二つは聞き慣れた家族のもの。そして残り二つは、どの屋敷の従者とも違う調子を持っていた。その二人が余所者、間違っていないな?」

「…………っ」

 ユリは布団の隣に置いていた刀を、すぐに構えられるように自分の目の前に移動させた。彼女のその所作と問いに対し、シュウはどう返答するべきかを迷う。しかし、ユリは彼の動揺が解けるのを待ちはしない。

「リュウの足音がいつもと違っていた。恐らく打撲か……体の一部をかばう偏った歩き方。さては、外に行ったことがきっかけでリュウが怪我をしたな?」

「そ、それは……」

「答えてくれ、シュウ。でなければ、私は襖越しでも余所者を斬ってしまいかねない。私の病を治すためだか知らんが、余計な真似をしてくれたものだ」

 一つ目の問いに答えられなかった時点で、ユリは刀を左手に持っていた。その気になれば、柄に手を置き、刀を抜き放つことが一瞬の間で可能だろう。病床に臥せっていながら刀を構える妻を前に、シュウは思わず息を飲んだ。ユリの心は既に、外敵を排除するという意志を固めていた。自分の命を捨てるような行為でありながらそこまでの決意を持つ彼女を、シュウはどう止めればいいのか分からなかった。

 だが、その時だ。シュウが背にしていた襖がピシャリと両側に開く。外の廊下に立っていたのは、リアだ。障子の奥から淡い陽光が差し込むのと同時に、廊下に控えていたリアは部屋に一歩踏み込んだ。

「失礼します」

 リアの突然の来室に、シュウは驚いて彼女の背後を見やる。リアの後ろの方では、リュウとミズハが一様に首を横に振っているのがあった。まるで、自分達のせいではないとでも言いたげな顔だ。

「すみません、シュウさん。でも、これはもう直接顔を合わせて話すしかないと思ったんです」

 シュウやリュウ達の疑問を察し、リアは口で問われるよりも前に答える。彼女はシュウの斜め後ろまで歩いて向かうと、その場に正座で座り、病床に臥すユリに目を向けた。青ざめた顔に汗を浮かべる彼女は、それでも目だけは凛とリアを見据えている。よく見知った相手の母を前に、リアは小さく頭を下げて挨拶から始めた。

「ユリさん、私はリアといいます。話を始める前に、まずはいくつか謝らせてください」

「私達の会話を廊下で盗み聞きしていたことか?」

「それもありますが、何より……私のせいで、リュウが傷ついてしまったことです。彼は私を守ろうとして、あんなにも……」

「構わん」

 リアの言葉を、ユリは強い言葉で斬り落とした。彼女は廊下で話を聞いているリュウの姿を見ながら、ハッキリと自分の立場を示す。

「察するに、馬鹿な連中に絡まれてリュウがお前を庇ったのだろう。なれば、お前が頭を下げる理由など一切ない。リュウがお前に守る価値を見出し、そのように行動した。その責任は本人が負うべきものだ。息子に傷をつけたクズ共を憎みこそすれ、お前に敵意を向けることは絶対にない」

「……ありがとうございます」

「礼を言われることでは、ゴホッ……ない。それで、お前は謝罪をしに来たのではないだろう」

 ユリは口を手で抑えて咳き込みながら、話の続きをするように促した。リアはそれに応じ、下げていた頭を持ち上げてユリの目を真っ直ぐ見ながら語り始める。

「では単刀直入に言います、ユリさん。私のお父さんの診察を受け入れてください」

「断る。私がもし、外から来た技術や医者によって助かったのなら……里全体が外との交流を受け入れることにも繋がってしまう。そしてそれは、将来的にはこの里を滅ぼすことにすら発展する」

「里の皆さんがあなたの治療と同じことを求めたり、それを機に内と外のやりとりが盛んになって、その内……ということですか?」

 リアの言葉に、ユリは首を縦に振る。これらの話は、既にリュウとの問答でも通ったところだ。あの憩い場での会話でユリの主張の大まかな内容を知っていたリアは、改めてその意志がどの程度まで強いものかを確認する。

「もし今の病で、あなた自身が命を落とすことになっても……意見は変わりませんか?」

「ああ」

 自分の命の関わる問いに対し、ユリは全く迷うことなく首肯する。思考を捨てているというよりは、既に擦り切れるほどの思考を重ねて辿り着いた結論を口にするかのような即答だった。彼女のその答えに、この場にいる全員が驚愕する。ユリの考えが偏っているということは以前から周知の事実ではあったが、まさかここまでとは思っていなかったのだろう。

 だが、ユリと正面から向き合っているリアは、その鉱石のように固まった意志に対し、メスを入れようとする。

「凄惨な過去の集積と、未来に生きる人々のための熟考が、今のあなたの考えを形作ったんですね。私はそれを、ただ想像することしかできませんが……」

「気持ちはわかるが間違っている、と?」

「いえ、理屈では理解できますが、あなたの気持ちは全く分かりません」

 ユリが眉を顰めるのには構わず、リアは彼女の凝り固まった思考を穿とうと言葉を続ける。

「確かにユリさんの考え通りに事が運べば、この里の安寧が長く保たれるのは想像できます。しかし、それはあなたを失って悲しむ人達の感情よりも優先するべきことなんですか?」

「何が言いたい」

「リュウやシュウさん、その他大勢のこの里に住む人々が、ユリさんの死を悲しみます。あなたの死は、あなただけのものではないんです」

「そんなことは理解している。だが、もし外との交流が始まり、それが外部の侵攻を招いた場合、その時に失われる命は……」

「複雑な話はしないでください。今しているのは理屈の話ではなく、感情の話です」

 リアはユリの語り口を押さえ、自分の話を紡ぎ続ける。彼女は目の前の相手が刀を持って構えている人物ということも忘れ、ただひたすらに口を動かすことをやめなかった。

「逆に考えてください。リュウや、シュウさんが死んでしまう未来を。彼らを救える手立てが将来に多少の暗雲をもたらすものだったとして、本当にその手段を取らずにいられるんですか?」

「……苦渋の選択ではあるが、私は決断する」

「ちゃんと、想像してますか? 長く連れ添ってきた夫が、少し思い切れば選べたはずの選択肢を取らなかったせいで目の前で亡くなる。ずっと見守ってきた息子を、助ける手段があったと知りながら見送る。ユリさんの死は、二人にとってそういうものなんですよ」

「っ……黙れ」

 ユリの刀を持つ手に力が加わる。今にも振り上げんばかりの殺気だ。ユリの隣と後ろに控えるリュウとシュウは、家族の暴挙をいつでも止められるようにと身構える。

 だが、この場で最も敵意を向けられているはずのリアは、ユリの気迫に全く怯えることなく、自分が決めた姿勢をずっと貫き続けていた。

「私の両親はエルフと人間でした。今はもう、二人共死んでいますが」

「っ……それは」

「私の出産は過酷を極めたものだったそうで、エルフの母は私が産まれてすぐに亡くなりました。父は……あまり思い出したくありませんが、母のことを心底愛していました。ですから、娘の私にはあまり興味がなく……私を家に置いてどこかに消えました。私にとって、あの人はもう死んでいるも同然です」

 淡々とした口調で、リアは自分の壮絶な過去を語る。彼女の過去をなんとなくでしか知らなかったリュウは、その悲惨な状況に思いを馳せて拳を握る。今でこそ居場所を見つけられているが、生まれのこともあり、リアの過去は暗い闇に包まれていたようだった。

 だが、今のリアはその闇に囚われてはいない。彼女は自分の過去のことを踏まえて、リュウ達家族の明るい将来を願う。

「私の家族は極端でしたが、ユリさん達はバラバラにならないでいられるはずです。ユリさん、もう一度……利益や将来のことを度外視して、自分の心に正直になって、考え直してみてくれませんか?」

 ユリの刀を持つ手から、自然と力が抜けていく。彼女はその手に持っていた刀を元の位置に戻し、大きくため息をついた。布団の上に置かれた手を軽く握るユリの顔には、少しの諦念と不安があった。シュウは妻のその顔を見ると、立ち上がって彼女の肩に手を置く。

「いずれ限界が来ることは、分かっていたはずだろ?」

「シュウ、だが……」

「もしここで受け入れない選択をしても、いずれ変化は訪れる。内から来るか外から来るかは分からないが……いずれ来るのなら、俺は家族全員でそれを迎えたい。ユリを失いたくはない」

 ユリは長く同じ道を歩んできた夫の言葉を聞き、続けてその後ろに控えている息子の顔を視界の中央に置く。リュウは以前にも増して実直な目線を母に向けていた。家族二人の意志をその身に受けたユリは、静かに目を閉じ、彼らと共に過ごしてきた日々と、これから行く道を心に思い浮かべる。

「……分かった」

しばらく沈黙の時間が続いた後、ユリは病に侵されてからずっと俯いていた顔を上げる。そうして、彼女はかけがえのない家族と、自身の意地にヒビを入れたリアを順に見やり、その場で深々と頭を下げた。

「私の命を助けてくれ」

 時節にすら流されない大地に深く根ざした大木が、その表情を変える。風が暖かさを纏い始める春前のことだった。


※ ※ ※


 二週間後、エルフの里の墓地にて、一人の少年が一基の墓の前で静かに目を閉じていた。春に入ったとはいえ、まだ朝の時間の風は冷たさを伴う。冷気が髪を撫でる中で、彼はその墓の主に向き合い続けていた。

「ここにいたのか、リュウ」

 身近な人物の声を耳にすると、静寂の中で死者と向き合っていたリュウは自分の名を呼ぶ声の方に目をやる。そこには、彼の父であるシュウが立っていた。彼は息子が墓参りをしているその隣に並び立つと、一様に同じ死者へと意識を向ける。

「今の俺達には、こいつの死を悼む権利があると思うか?」

「……うん。少なくとも、同じ理由で亡くなる人を増やすようなことはしなかった」

「そうか。……アラヤ」

 リュウの隣から一歩進み出て、シュウは墓石に触れる。

「頼りになる息子のおかげで、これからは毎日お前に言い訳しなくて済みそうだ」

 墓の主は、長くシュウと歩んできた人物であり、何より彼が助けられなかった人物でもあった。死者との思い出に浸りながら、シュウは春の空気を肺いっぱいに吸い込み、ゆっくり、静かに吐き出す。そうした後で、彼は意を決したように墓に背を向け、息子の隣に戻る。

「ユリの体調はもう大分よさそうだ。今日なんて、自分からリア君を呼んで話す席を設けていたぞ。少し前じゃ考えられない進歩だな」

「母さんがリアを呼んだの? ……え、どんな話するのか想像つかないな」

「んぅ、確かに。わざわざ呼び出すってことは、世間話というわけでもなさそうだが……まあ、そんなことは二人に任せとけばいい」

 親子は墓前で近況について話し合う。二人の間には、死者を前にしているとは思えない緩やかな空気が流れていた。

そんな時、不意にリュウの脳裏にある疑問が浮かんだ。彼はそれを包み隠すことなく、すぐに隣の父に問う。

「父さん、聞きたいことがあるんだけど、いいかな」

「どうした? なんでも答えるぞ」

「母さんが経験してきたことについて」

 リュウの口から出てきた一言に、シュウは顔を曇らせた。春の麗らかな日和とは対照的な父のその表情を目にしたリュウは、なんとか自分の問いの答えを聞き出そうと言葉を積み重ねる。

「僕がリアと一緒に外に出た時も、結局、人間や他の亜人が僕達をどう見てるのかはよく分からなかった。僕らを襲ってきたあいつらは……別に、誰に対してもあんな感じなんだろうし。だから、知っておきたいんだ。これからのために、昔何があったのかを」

「……そうだな。今のリュウになら、話しても構わないか」

 シュウは息子の真っ直ぐな視線を目に入れると、憂鬱そうな深いため息をついて妻の過去のことを語り出す。

「ユリの暮らしていた故郷は、人間によって滅ぼされた」

「っ……」

「きっかけは外部との交流をとり始めたことだったらしい。外から入り込んできた人間とのトラブルが災厄を招いた。井戸に毒を流され、襲撃が来た時には抵抗する余力もなかったと聞いている。俺がユリと会ったのは、彼女が逃げ延びて放浪していた時だ。……当人ではないから、俺はこの程度しか知らない」

 シュウはまるで自分のことを語るかのように、ユリの凄惨な過去を語る。隣でその話を聞いていたリュウもまた、彼女の当時の苦しみに思いを馳せ、固く口を閉ざしていた。二人の間には、春の心地いい空気でも誤魔化せない重い沈黙が横たわる。シュウはそれを取り払おうと、息をついてから軽い口調で語り出す。

「まあこれは過去の話だ。今の俺達の選択を否定するものではない。それより、考えなくちゃならないのはこれからのことだ」

「これから……っていうと、何かあったっけ?」

「里長である俺の妻が外の技術で助かったんだ。当然、里の他の皆も同じ恩恵を得たいと思うはずだ。同時に、ユリと似たような考えを持つ者からの反発も予想される」

 シュウは隣の息子の肩に手を置き、里に戻ろうと示す。リュウはそれに黙ったままで頷き、二人は墓に背を向けて歩きながらこれからの話をする。

「じゃあ、僕ってやっぱり結構大変なことしちゃったんだね」

「その通り。でも、良い方向に行くか、悪い方向に行くかはこれからの俺達次第だ。色々忙しくなるぞ」

「……うん」

 未来の話をしていると、リュウの足取りは自然と軽やかなものになる。今まではただ一定の閉じた世界で一方向に進む未来だったのが、今や多くの枝分かれした道が前に伸びている。リュウはその困難を前に、笑顔を浮かべていた。

 そうして、親子二人が足並みを揃えて歩いていた時だ。シュウが急に足を止めて声を上げる。

「大事なことを忘れていた」

「え、どうしたの?」

「いやほら、あの倉庫でのことだ。俺としたことが、すっかりタイミングを見失ってたな」

 リュウは突然足を止めたシュウを不思議に思って振り返る。その時だ。一切の前触れなく、彼の頭に父の手が置かれる。あまりにも唐突な出来事に、リュウは目をまん丸にして変な声を上げた。

「へっ……?」

「あの時は俺が来るまでよく一人で頑張ったな。偉いぞ」

「なっ…………っんだよ急に!?」

 父からの急な惜しみのない称賛に、リュウは顔を真っ赤にする。彼は反射的に父の大きな手を跳ねのけて距離を取ると、笑っているのか緊張しているのか分からない震える声を張り上げた。

「あっ、あの時は男が女を助けるのは当然、とか言ってたじゃないか!? なんでその時じゃなくて今更なんだよ!」

「ん、俺なりに気をつかったつもりだったんだが……。どうせあの時に今と同じことをしたら、うわぁリアの前でそんなことやめてよ~……って、言ってただろ?」

 わざとらしい声真似をしながら、シュウは口元に楽しそうな笑みを浮かべる。リアとの関係をいじられたリュウは、赤く染まった顔を更に紅潮させた。彼は熟れた果実のような顔を手で押さえながら歯を食いしばる。

「……いい性格してるよね、父さんは」

「まあな。でも、今言った気遣いは本当のことだぞ。感謝してくれ」

「それ、本当だったとして僕が喜ぶと思ってるの? 馬鹿にしてる?」

「してる。思春期真っ盛りの息子をからかうのは楽しいからな」

「……ぶっ飛ばす」

 ヘラヘラとした顔で挑発を続ける父、それによって、遂にリュウの堪忍袋の緒が切れる。彼は腰の刀を鞘ごと抜き放ち、それをシュウの頭に向かって真正面から振り下ろそうとした。


※※ ※


 場所は変わって、エルフの里長の屋敷。その広間では、家主のユリが来客であるリアのことを出迎えていた。

「あの時ぶりだな。確か、リアだったか」

「ど、どうも……」

「そうかしこまらなくていい。お前は来客で、今回は礼をするために来てもらったのだからな」

 ユリは悠然とした態度で畳に直に腰を下ろす。適切な治療と時間が、彼女の体から病魔を拭い去ったようだ。今の彼女には以前のような弱々しさはない。そんなユリに向かい合うリアは、表情を若干引きつらせながら正座で座った。二週間前のあの時は土壇場だからこそ緊張を拭いきれたが、平時ではそううまくはいかないようだ。リアは足の上で手指を忙しなく動かしながら、相手の表情をうかがっている。

「楽にしていいと言ってるんだ。少し長くなるかもしれん」

「え、うぁ……は、はい。そうします、ね……」

 長くなるという言葉に軽く絶望したリアは、かくついた動きで足を崩す。彼女のその明らかにぎこちない動きを見ると、ユリは二人の脇で控えている従者のミズハに協力を促す。

「久方ぶりの来客にこうも顔を青くされたのではこちらも申し訳が立たない。ミズハ」

「はい、何でしょう」

「芸でもして場を和ませてくれ」

「……はっ?」

 あまりに突然且つ無茶な頼みにミズハは素っ頓狂な声を上げる。直前まで全身を固まらせていたリアですら、その藪から棒具合に純粋な気持ちで首を傾げた。そんな二人の反応を見たユリはというと、表情を崩さないままで言葉を続ける。

「冗談だ。場が和んだだろう?」

「……え? そ、それは……」

 ユリから真っ直ぐな目で問われると、リアは視線を横に流してしまう。つまらないとも、緊張したままとも言いづらい。返事に迷う来客の顔を見たミズハは、呆れた様子でリアに横から助け舟を出す。

「あまり固くならなくてもいいですよ、リアさん。今みたいにユリ様が変なことを言い出したら、私が代わりに答えますから」

「え……あ、ありがとうございます?」

 どこかズレていると言えなくもないミズハのフォローに、リアは戸惑いながらもちょこんと頭を下げる。そんな二人のやり取りを見ていたユリは、軽く咳払いをして話に区切りをつけた。

「そろそろ本題に入ろう。毎日診察に来てくれていたハング殿には礼を言えていたが、お前にはまだだった。今回の一件の功労者に直接礼を言えていないのはまずいと思い、今回この席を用意した。改めて礼を言う、ありがとう」

「……あの日に一番頑張ったのはリュウだと思います。私はそんな、お礼を言われるようなことはしていません」

「あの日だけのことを言っているのではない。リュウと仲を深め、あの子が心底から頼る相手として認める者になってくれた。感謝している」

 相変わらず表情を一変もさせないまま、ユリはリアに対して礼を述べる。彼女のその無機質な調子が常のものであると察すると、リアの緊張も自然と拭われていく。何より、二人には共通の大切に思う相手がいるのだから、そこまで張り詰める必要もない。二人の間の空気が最初より随分マシになったのを見たミズハは、安心して一息つく。

 しかし、その空気はすぐに破られてしまう。

「だが、だからこそお前に直接確認したいことがある」

 平坦なはずのユリの声が、一段低くなったように感じられた。彼女の目は、まるで射貫くかのような眼光でリアのことを見据えている。戦いを前にした剣士を思わせるその表情で、ユリは問いの続きを口にした。

「あの時の話、お前は私に嘘を言っていたな?」

 その一言が場に放たれた瞬間、広間には沈黙が広がる。ユリは全てを見透かすような目をリアに向けたままだ。どんな誤魔化しも時間稼ぎも通用しそうにない。リアは首筋に冷や汗を滲ませながら、慎重に言葉を選ぶ。

「いつから気付いていたんですか?」

「疑いは最初からあった。あの時のお前には常に、偽りを口にする者特有の匂いがしていた。確信を得たのはつい今しがただ」

「……そんなことが分かるものなんですね。正直、驚きました」

 リアの言葉を受けたユリは、腕を組んで深くため息をつく。

「嘘をつかれる機会がそれだけ多かったというだけの話だ。……まあいい。さて、ではお前の話を聞こうか」

 自分についての話をすぐに横に流すと、ユリは改めてリアを問い詰める。彼女があの土壇場でついた嘘とは何なのか。話の渦中にはいなかったミズハも、息を飲んでこの場を見守る。

少しの静寂の後で、リアは語り始めた。

「嘘をついた、というより言わなかったことがあるんです」

「偽りではなく隠し事というわけか。続けてくれ」

「外で生きる人達ならほとんどが知っていることですが……近年、開発の手がどんどんと早くなっています。森や山の色々な場所が開かれ、そこに新しく街や施設をつくるという動きが活発になっているんです」

 リアは淡々と自分が隠していた知識について説明を重ねる。今の彼女には、何かを隠したり誤魔化そうという意志はなかった。

「それらの場所には、人里離れた場所で生活している亜人達がいることもあったんですが、彼らは軒並み退けられています。もちろん、ニュースをずっと見ているわけではないので、詳しい件数や地域などについては分かりませんが……」

「つまり、このエルフの里にもそういった干渉が来る可能性がある……と、そういうことか?」

 ユリの総括に、リアは静かに頷いて示した。一連の内容は、二週間前のあの場だけではなく、エルフの里全体にとっても重要と言えるものだった。

この話に一番動揺したのは、里を外敵から守る意識が最も高かったユリではなく、二人の話を横で聞いていたミズハだ。彼女は自分達の安寧が脅かされる可能性があることを知ると、顔を真っ青にして早口で喋り出す。

「たっ、大変じゃないですか!? もしそんなことが現実になったら、私達の生活はどうなるんです? 里がなくなっちゃって、野宿でもする羽目になるんじゃあ……退けられたっていう方達の生活はどうなったんですか?」

「具体的なことは分からない。けど、穏便に話がついているところもあれば、強硬手段で話を進めているところもある。死人が出たっていうニュースも間々あったと思う」

「そ、そんな……! 私達、一体どうすればいいんですか!?」

 先ほどまでは深く話に干渉してこなかったミズハは、この一件で明らかに取り乱す。波風立たない平穏な暮らしを望む彼女にとって、この報せは何よりもショッキングなものだったのだろう。

「落ち着け、ミズハ。まだ私達がそうなると決まったわけではない」

「で、ですがユリ様……」

 ユリは小動物のように体を震わせているミズハの恐れを、泰然とした態度で払う。

「本当にそういう事態が目の前に来るとすれば、その時には前兆があるはずだ。それに、開発と言ったってすぐに作業が進むわけではない。こういう言い方はアレだが、既に他の地域が標的になってこの里の身代わりになってくれている以上、少なくとも数年単位、あるいは十年近い時間の余裕があるかもしれない」

「え、えっと……私は外に詳しくないですけど、ユリ様がそう言うなら、しばらくは安心なんでしょうか?」

「ああ。それに、私達は今回の一件で、そういう事態があるということを事前に知ることができた。こちらから積極的に何か対策を立てることができたなら、最悪の事態は回避できるだろう」

 ユリは腕を組んで思考を回しながら、ミズハの焦りを解消するように言葉を選ぶ。危機がすぐにやってくるものではないと知ったミズハは、ホッと息をついて肩から力を抜いた。

 ただ、従者の彼女が気を抜いても、ユリの表情には不服があった。彼女はその感情を心の内にとどめることなく、言葉にしてリアに投げる。

「リア、何故この話をあの時にしなかった?」

「それは……」

「遅かれ早かれ、私達は生存戦略を変える必要があった。それに足る情報をあの時点で出していれば、私の説得がもっとうまくいくとは考えなかったのか? お前なら、すぐに思い至りそうなものだが」

 隠し事の内容が分かっても、リアがどうしてその説明をしなかったのか。ユリはそこに意識を向けて、再び問いを重ねた。対するリアは、この場の深刻さとは打って変わった軽い表情で事も無げに答える。

「あの時、私が言ったじゃないですか。理屈の話ではなく、感情の話をしようと」

「確かに、言っていたが……」

「なんとなく、不相応な気がしたからです。リュウやシュウさんの気持ちじゃなくて、損得という基準であなたを説得するのが。詰めが甘いと言われればそれまでですが、それでも、あの場では感情を優先したかったんです」

 病床に臥せっていたユリに対面していた時の光景を思い返しながら、リアは自分の気持ちを吐露する。彼女の話は、言うなれば理を欠いた感情論だった。だが、リアのその心情について知ったユリは、久方ぶりに歯を見せて笑う。

「クク、酔狂だな。こんなに厄介な姑になりそうな女を、一番いいやり方で救おうとするとは」

「………………はっ??」

 冗談交じりのユリの言葉に、リアは一瞬反応できなかった。唐突ということもあったが、それ以上に頭に大量発生する疑問符に思考を奪われたのだ。彼女がユリの意図に気が付いたのは、静寂が広がってから五秒ほど経った時のこと。瞬間、リアの顔が真っ赤に染まる。

「ちょっ、まっ、やっ……何言ってるんですかッ!!?」

「何って別に、私はお前の姑になるだろうとは一言も言ってないぞ」

「なんっ……はぐぁ……!?」

 自分の言葉が墓穴を掘ったことに後から気付くと、リアは己の視界がグルグルと渦巻いているかのように感じた。その後、彼女は立ち上がって後退りながら、隣で気まずそうに目を逸らしているミズハに助けを求める。

「私はその、ですから……み、ミズハさん!」

「いや、私に振られましても……結構バレバレでしたよ? ここのところ、リュウ様はリアさんの話ばっかりしてましたから。多分、バレていないと思っていたのはお二方だけです」

「あぅ、あぁ……」

 この場に味方がいないことを知ると、リアは真っ赤になった顔を両手で隠して嗚咽を漏らす。決してリュウの前では見せないような姿だ。ミズハはリアの痴態を前に呆れ顔で首を横に振り、ユリは楽しそうに口元を歪める。シュウとは対照的なようでいて、実は似通った部分もある夫婦だったらしい。

 そんな時だ。当初の緊張とはまた違った空気が支配するこの広間に、紙を思い切り突き破るような耳障りな音が響く。廊下との仕切りを担っていた襖が外から破られたようだ。快晴の陽光が差し込むのと同時に広間に飛び込んできたのは、刀を持ったリュウと、彼に追い回されるシュウだ。

「おいおい! こっちは刀持ってないんだぞ、なんでそんな遠慮ないんだ!?」

「黙れバカ親がッ!! いっつも仕返しされないと思って僕をおちょくって……今日こそぶっ飛ばしてやる!!」

 リュウはどうやら墓地の参道から屋敷に来るまでの間、ずっとシュウのことを追いかけまわしていたらしい。彼は荒くなった呼吸を整えながら、先に広間に突っ込んだシュウに追撃を加えようと、その手の刀を振り上げる。

 だが、彼の刀が父親を捉えることはなかった。

「二人共、何をしてるんですか?」

 刀が空を斬ったのは、シュウが攻撃を避けたからでも、リュウがミスをしたからでもない。静かな怒りを滲ませるミズハの声が広間に響いたためだ。親子の耳にその声が届くと、二人は身を固まらせ、互いに顔を見合わせる。二人の反応は正に、教師に悪戯が見つかった時の悪ガキ達のようだった。

「この襖……誰が張り直すと思ってるんです?」

 ミズハはリュウ達の派手な登場によって無残に散った足元の襖を示し、二人に白けた目線をぶつけた。彼女の目に宿る静かな怒りを前にした親子は、お互いに罪を擦り付けようと高速で口を回し始める。

「すまない、ミズハ。だが、俺もリュウにいきなり襲われて何が何だか分からなかったんだ」

「はっ、はぁッ!? 父さんがあんなふざけたこと言うからだろ! いつもことあるごとに馬鹿にしてきて……」

「ちょっとしたじゃれあいみたいなものだろう。そんな取り立てて文句を言うことでは……」

 リュウとシュウは、このまま放置していたら数十分は文句を言い合うんじゃないかと思うほど、互いに責任を投げつけ合っていた。そんな状況を見かねたミズハは、ため息をついた後で二人を一喝する。

「どっちもどっちです! 一時間は正座で反省してください!!」

「は、はい……」

「……僕は悪くないのに。連帯責任って絶対おかしいよ。ていうか大体……」

「リュウ様?」

「うっ……ご、ごめん」

 ミズハが声を上げると、親子は彼女の言葉通りに足を折りたたんでその場に正座する。リュウはその後も目を下に向けてブツブツと文句を言っていたが、ミズハの憎しみのこもった一瞥によって黙らされる。

「くっ、ふふ……」

 従者が自分の仕えている親子を正座させるという奇妙な場面を前に、リアは吹き出して笑い声を上げる。家族や親しい友人が今までいなかった彼女にとっては、リュウ達にとっての日常がまぶしく映ったのだろう。

一瞬の沈黙の後、この場にいた全員がリアの笑い声に引き寄せられ、直前までの遺恨を忘れて笑みを浮かべる。以前まで殺伐とした空気が満ちていたとは思えない柔らかい空気が、屋敷の広間には広がった。

「リュウ、少しいいか」

 そのまま少しの時間が過ぎ去ると、しばらく口を閉ざしていたユリが声を上げる。名を呼ばれたリュウが顔を上げると、彼女は立ち上がって廊下の方へと歩き出し、息子に手を差し伸べていた。

「二人で話がしたい」

「……分かった」

 久方ぶりの母親からの誘いにリュウは目をしばたたく。ただ、驚きこそしたものの、彼はその提案にすぐ頷き、立ち上がって母の隣に向かう。その場にいた他の者達は、母子の間にある繋がりやしがらみに思いを向け、黙ったまま二人の背を見送るのだった。


※※ ※


「この一か月は、私にとってもリュウにとっても重要な出来事が多かったな」

「うん、本当に」

 リュウとユリは屋敷の縁側を並んで歩く。もう満開の時期だ。森の中のエルフの里にいれば、どこでも春の緑をその目に収めることができる。二人はゆっくりと足を前に運びながら、春の陽光が差し込む屋敷の中を、言葉のやりとりのためだけに歩き続けた。

「先に言っておこう。アラヤの件の時、殴ってしまってすまない」

「いいよ。母さんにとっては外に行くって提案すること自体、火とか刃物で遊んでるように映ってたんでしょ。実際その後、僕も怪我したわけだし」

「それは結果論だ。そうならなかった場合もある。それに以前までも……」

「だから、いいって。僕の方も意固地になってたから。そぐわない場所でもああいう提案をしてたし……どっちもどっちだったと思うよ」

 二人の会話は結論に辿り着くまで何度か曲がりくねる。価値観や思考の相違が互いの言葉を煙に巻くようだったが、二人は歩くのを止めない。

「母さんが言ってたことは本当だった。外には悪い奴らがいて、そいつらは人間かどうかなんて構わず好きなように振る舞う。今回の件は母さんが恐れていたような大事にはならなかったけど、そういう可能性だってあった」

「確かに、その可能性は私達が外に出る以上は常に付きまとう。だが、お前が外で得てきたのは、そういう危惧や不安だけではないだろう」

「……うん。新しいこと、見たことないものがいっぱいで、ものすごく楽しかった。それもこれも、リアに出会えたことから全部始まったんだ」

 リュウは声を弾ませながら、リアに出会ってからのことを思い返す。最悪な気分だったときに彼女に出会い、雪の下で友情を育み、外に連れ出してもらった時のことまで。その全てが、リュウにとってかけがえのない思い出になっていた。

「僕が変えられないと思っていた全部を、リアが変えてくれた。父さんの思いも、母さんの思いも、僕自身のことも。初めての外は楽しくて新鮮なことばかりだったけど、きっとそれは、リアが隣に居てくれたからこそだと思う」

「リュウの中で、彼女は随分と大切な存在になったんだな」

「あ、えっと……もしかして今、すごく恥ずかしいことを言ってた……かな?」

「ああ。赤裸々という言葉がピッタリなほどに」

 ユリのストレートな言葉を受けると、リュウは顔を赤く染めてため息をつく。親族の前だからという気の緩みが、心の締まりをなくさせているのだろうか。リュウは自然と緩む口を押さえながら、怯える小動物のような高いうめき声を上げる。

 だが、ユリが息子のことをリアの件でいじることはなかった。彼女は広間の方へと戻り始めていた足を止め、外に目を向ける。

「これから多くのことが変わっていく。これは避けられない未来だ」

 母の足が止まっていたことに気付いたリュウは、遅れて彼女のことを振り返る。ユリは、屋敷から見える里の景色を見下ろしていた。街では見ることのできない、緑の木々に覆われた里。人の往来によって踏みならされた自然の道が家々を繋ぎ、そこを行くエルフ達は行き交う相手に声を掛け合っている。閉じた里だからこその居心地の良さが、二人の眼下には広がっていた。ユリは自分とシュウが守ってきたその景色を目にしながら、息子に語り掛ける。

「私達の行く先には多くの困難と、リュウが経験したような煌びやかな体験が待っている。変化とはそのどちらも伴うものだ。だがその両方が、この里の景色を変え得る。最も重要なのは、その時、ここに暮らす私達が笑えているかどうかだ」

「母さん……」

「どうやら私は、不変にこだわり過ぎていたらしい。久しぶりに笑って気付いた。ここ最近はずっとしかめ面をしていたな。これでは、里の平穏を守っているとは言えないだろうに」

 ユリは見下ろしていた里から目線を外し、隣のリュウを見た。彼女はしばらく息子に見せていなかった笑みを浮かべると、その本心を偽りなく告げる。

「ありがとう、リュウ。命を助けてくれたこと、そして私に変わる機会をくれたこと。親として、人として感謝している」

「……うん」

 母から子への純粋な感謝。それを受けたリュウは、ユリと同じように微笑んで小さく頷き、短い言葉で返すのだった。そうして、二人はそれ以上の言葉を積み重ねることはなく、再び歩き始める。

 数分後、緩やかな沈黙と共に並んで歩いていたリュウとユリは、いつの間にか先ほどまでいた広間に戻ってきていた。破られた襖をくぐって中に入ると、そこには畳の上で正座をしているシュウと、その傍で散らばった襖を片付けているミズハがいた。

「あれ、リアは?」

 開口一番、リュウはリアの所在を問う。彼の問いを受けたミズハは首を振って外を示した。

「待ってる、だそうですよ。どこでとは言ってませんでしたが……」

「あぁ、大丈夫。じゃあ僕、行ってくるね」

「ちょっと待ってください!」

「うっ……」

 最低限の言葉だけを投げてその場を後にしようとしたリュウの背に、ミズハの声がかかる。恐る恐るリュウが振り返って見てみれば、彼女はまだ襖の件で眉間にしわを寄せていた。

しかし、二人の目線が合わさった瞬間、ミズハの怒りは何故かすぐに解けた。彼女は肩をすくめてやれやれとため息をつくと、行ってよしと手を振って示す。

「はぁ……本当は反省してもらいたいところですが、今回だけ特別ですよ」

「本当? へへ、じゃあお言葉に甘えて」

 リュウは自分を阻むものがないと知ると、さっさと走り出そうとした。だが、その背にもう一度声がかかる。

「行ってらっしゃい」

 リアの元へ急ごうとしていたリュウは、その言葉を聞くとすぐに足を止めて振り返る。彼の後ろでは、シュウとユリが手を振っていた。なんてことのない、子の外出を親が見送っているというだけのこと。

「行ってくる」

 リュウは胸に大きく空気を吸い込んで、両親の見送りに返事をする。そして、彼は春の満開の日差しが差す中、森の憩い場へと元気に駆け出すのだった。


※ ※ ※


 爛漫な森の中、まるでそこで出会う二人のためだけに森そのものが両手を広げたかのような、ぽっかりと開けた場所があった。そこでは草花が緑に萌える絨毯となり、蕾を芽吹かせた木々はそれぞれが華やかな化粧をこさえている。それらは青空に輝く陽の光を受け、快活に、のびのびと輝いていた。

 その空間の中心にいるリアは、その美しい光景を両の目に焼き付けていた。銀の雪化粧を纏っている時とは全く違うそれらを、彼女は思い出の一つとして脳裏に刻み込む。

「綺麗だね」

 ふいに、声が響いた。聞き慣れたその声を耳にすると、リアはその場にあるどんな花よりも輝かしい笑顔を浮かべて、声のした方向へと顔を向ける。

「リュウ」

「リアの言った通り、雪が降ってなくても別の美しさがある。今まであまり景色を見る習慣はなかったから、これも君に教えてもらったことの一つだね」

 ここに来るまで走ってきたのか、リュウはほんの少し頬を赤くし、肩を小さく上下させている。活力に満ちる若木のような彼は、リアを目にすると彼女に駆け寄った。

「待った?」

「んふ~、ちょっとね。でもいいよ。ユリさんとつもる話があったのは分かるし」

 まるでそうあるのが当然かのように、二人は一つの切り株に肩を寄せて座る。それでも、ほんのちょっとの気恥ずかしさから、二人は互いにほんの少しだけ距離を取った。

「最初にリアに会った時のこと、よく覚えてる。あの日は寒かったね」

「うん。あんな日に外で刀振り回してるんだもん。最初はちょっと変な人かなって思ったよ」

「それはリアだって同じでしょ? あんな寒い日にこんな場所に来るなんて」

 二人は最初の思い出を振り返りながら、当時の光景と今目の前にある光景を見比べる。あの時はこうして隣に座って談笑するなど、どちらも思っていなかっただろう。

「あれは……街でエルフの里が森にあるって噂を聞いたから、気になって見に来たの。一応、家族がエルフだったってこともあるしね」

「そうだったんだ。僕は……今振り返ると、少しヤバいことしてたな。里全体でやってた葬式から抜け出してここに来た」

「えぇ、何それ? 結構無茶なことしてたんだね」

 リアは切り株から下ろした足をプラプラと前後に揺らしながら、隣の表情をチラリと横目でうかがう。ちょうどその時、リュウも同じことをしていた。二人の視線が繋がる。バレないように表情を確認しようという行為がお互いに筒抜けになったと分かった瞬間、二人は揃って目を伏せ、両者とも不自然に高い声を上げた。

「どっ、どうしたのっ?」

「りりっ、リアの方こそ……」

 視線が合わさるなど今まで何度もあったはずなのに、今日のそれは二人の心臓に早鐘を打つよう急かしてきた。互いに雑な言葉を投げ合い、胸の疼きが治まるまでの時間稼ぎをする。

そんな中で、先にまともな言葉を発したのはリアだった。

「私、ここでリュウに出会えて本当によかった」

 一言発すると、彼女はそのまませきをきったように語り出す。

「これまでずっと辛い思いをしてきたのは、これからの日々のためだったんだって思えるほど、最近はずっと楽しいの。それに、自分に誇りを持てるようになった。リュウがあの時、私の話を聞いて、受け入れてくれたから」

 リアは憩い場の中央に目を向けながら、真剣な表情で自分の気持ちを告げた。偽りも強がりも繕いもない、そのままの感謝。リアからその言葉を手渡されたリュウは、彼も同じように応じる。

「先に助けられたのは僕だよ。自分の気持ちに嘘をついてたのを、リアが引っ張り上げてくれた。新しい経験とか、外に連れ出してくれたとか、そういうことじゃなくて……もっと根本的な部分から助けられてたんだ。リアがいてくれて、本当によかったと思ってる」

 リュウは膝の上で拳を固く握りしめながら自分の思いを吐露する。そして彼は、その勢いのまま、もう一歩先へと踏み出そうとした。

「だから、リア。君が……君も同じように思ってるのなら、前にも、言ったことだけど……」

「うっ、うん……」

「何十年も、一緒に……あの、だからっ……ずっと一緒に……ぐっ、うぅ」

 一歩踏み出そう、そう決意したリュウは、その直後に二の足を踏んでいた。土壇場で言えたセリフならば口にできるだろうと思っていたのに、舌が麻痺したかのようになってうまく言えない。必死に続きの言葉を紡ごうと思っても、未熟な子供らしい羞恥心が邪魔をして、リュウの顔を赤く染め上げるだけだ。彼はその内、自分が情けなくなって、真っ赤に熟れた顔を下に向けてしまう。

 その隣で、リアはリュウが勇気を振り絞る様をずっと見ていた。涙すら流しそうになっているリュウの横顔を目にすると、直前までのぼせていたリアの頭が少しだけ冴える。その瞬間、彼女はリュウと同じように歩を進める決意をした。

「リュウ、こっち向いて」

「なっ、なに?」

 リュウは気恥ずかしさを抱えながらも、リアの言葉に応じて顔を上げる。

その時だ。彼の唇に、柔らかくて、少しの潤いを伴ったものが触れた。リュウの視界は、目をギュッとつむったリアの顔に覆いつくされる。その瞬間に全てを理解したリュウの心臓の鼓動は、先ほどまでとは比較にならないほど早くなる。脳を鮮烈な幸福感が満たすのと同時に、身がよじれるような恥ずかしさが彼の体を襲う。だが、ここで引けば互いの勇気と好意に泥を塗るのと同じこと。リュウは心の推進力に従って、リアの肩を抱き寄せる。小さく震える彼女が、その抱擁を拒むことはなかった。二人の思いはここに結ばれる。

 花々が芽吹く春真っ盛りのこと。命を揺り起こすような暖かく優しい風が、ひねくれエルフと嘘つき少女の間を吹き抜けるのだった。

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