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ひねくれエルフと嘘つき少女 上

「もう……助からないでしょう」

 欠けた月が暗い夜空に浮かぶ真夜中のこと。闇を受け入れるように広がる広大な森林の中に、一つの小さな里があった。背の低い木造の家屋が密集するその里では、夜半の頃合いということもあり、既にほとんどの家が灯りを消している。

 しかし、皆が寝静まるこの暗闇の中で、一軒の建物だけがほのかな灯りを襖の奥に灯していた。周囲の家々よりも一回り大きいその屋敷の中では、一人の命を左右する治療が今も行われている。灯りの照らす部屋の中央には布団が敷かれ、その中では青白い顔をした男が浅い呼吸をしているのがあった。彼の意識はもう残っていない。布団の脇に座る医者らしき老人はその男の容態を確認すると、大きくため息をつく。

「どうしても無理なのか。息を吹き返すようなことは……」

「この男は我が屋敷に長年仕えてきてくれたのだ。私達にできることなら何でもする。手段はもう何一つ残っていないのか?」

 治療が行われているその部屋には、渦中にある病人と医者の他に、一組の夫婦が同席していた。二人は医者の判断が頭で確実に理解できているにも関わらず、その事実を再度確認する。だが、やはり現実は変わらない。医者は夫婦の方に向き直ると、畳に額が触れるほど深々と頭を下げた。

「申し訳ありません。シュウ様、ユリ様。私の持っている医術、そしてこの里にある医術では、この病は完治できません。彼は数日この状態のまま気力を失い続け……その後、眠るように死に至るでしょう」

「馬鹿な……こんな、ことが。アラヤ……」

 シュウと呼ばれた男は、突き付けられた現実に耐えきれないのか、膝の上で固く拳を握る。布団の中で生死の境をさまようアラヤという男と親しい間柄にあったのか、シュウは彼の青白い顔を見るたびに歯を食いしばる。こうして夫が自分の無力を恨む隣で、ユリという女性は頭を下ろしたままの医者にもう大丈夫だと示し、首を横に振った。

「致し方のないことだ、謝らなくてもいい。病に抗い続けることはできない。これも……一つの自然の循環だ。その時が来れば手厚く葬るとしよう。シュウ」

 ユリは顔を俯けて感情を抑えつけているシュウの肩に手を置き、立ち上がった。気持ちの整理を一足早くつけた彼女は、アラヤの治療をしていた医者の労を労い、その老人に帰るよう促した。

 だが、その時だ。部屋の外の廊下から、間隔の短い足音が近づいてくる。中の三人が顔を上げた次の瞬間、彼らの視線が集まる襖が勢いよく両側に開かれた。

 そこには、一人の少年が立っていた。浅葱色の着物に身を包む彼は、小さく体を震わせながら陰鬱としていた部屋の中に声を張る。

「アラヤおじさんを助ける手段なら、あるよ」

 少年は横たわっているアラヤに目をやりながら、シュウとユリにそう告げる。彼は一つの命が失われそうになっているこの状況の中で、可能な限り空気に飲まれないように踏ん張りながらそこに立っていた。

 しかし、少年の言葉を聞いた後の夫婦の表情は、彼が期待していたようなものではなかった。二人が少年に向けた感情は、決して希望の類ではない。シュウは少年の顔を一目見ると再び目線を畳に戻して黙り込み、ユリは眉を寄せて少年に歩み寄った。

「リュウ……言ってみろ。お前の言う手段とは、一体なんだ?」

「母上。そっ、それは……いつも、言ってることだけど……」

 苛立ち、怒り、ユリの表情は正しくそれだった。彼女は自らの感情を顔のしわに深く刻み込み、自分の息子を見下ろす。実の母親の高圧的な態度に、リュウは思わずこの場から逃げ出したいと心からそう思ったが、自分を奮い立たせて思いとどまる。そして、自分の胸の中にあるアラヤを救う手段について、拳を握り締めながらハッキリと口にした。

「外の人に助けてもらえばいい。近くの街にでも行けば、おじさんの病気を知ってる人がいるかもしれない。だからそれで……」

 一切迷いのないリュウの言葉、しかし、それは最後まで続かなかった。彼が言い終わる前に、ユリが息子の頬を平手で打ったのだ。一切の遠慮なく行われたそれは、軽い少年の体を吹き飛ばし、襖を巻き込んでリュウの体を外の廊下に叩き出す。

「いつまでそんな愚かなことを言っているのだ!! 外の人間と交流を持ってはならぬ。これが私達エルフの里の掟だと何度言えば分かる!」

 痛みにうめくリュウの背に、ユリは畳みかけるように怒声を張り上げる。彼女は修羅のような剣幕で息子を見下ろすと、彼に向かってもう一度手を振り上げた。だが、ユリのその暴挙を夫であるシュウが言葉で止める。

「やめてくれ、ユリ。そんなことしなくていいだろ」

「シュウ、だが……」

「リュウはアラヤや俺達のために言ってくれてるんだ。それを忘れちゃいけないだろう」

 言葉で妻の暴走を止めるシュウ。彼は、今この間にも命を失い続けているアラヤを濁った眼で見つめたまま、リュウに自分の立場を告げる。

「だけど、リュウ。普段から言ってるがそれはできない。外の街に一時的に寄る程度なら構わない。だが、人間達に助けを求めるなんて言語道断だ。そんなことはできない」

「……どうして」

 体にかぶさっていた襖を脇にどけると、リュウはよろめきながら立ち上がった。額からは血が流れている。彼は一度殴られて恐怖や緊張が取り払われたのか、今度は怒りと共に声を発する。

「父上、外の人達に助けを借りるのがそんなに怖いの? 母上もそうだ。二人はアラヤおじさんが死んじゃうことより、外の人達に助けを求めることの方が怖いんだ、そうだろ!?」

「いい加減にしろ!!」

 リュウの挑発ともとれる言葉を受けたユリは、自分の感情に抗うことなく身を任せ、リュウの襟首を掴む。彼女はそのまま息子の体を引き上げると、自分より一回りも小さい彼の体を壁に押し付け、怒りに震える声を絞り出した。

「薄汚れた人間の力を借りて助かるくらいなら、死んだ方がマシだ。それが私達エルフの掟であり、誇りなのだ。リュウ、お前は何度言ったらそれが分かる?」

「……そんな掟、クソ食らえだ。僕は一人で行く」

 リュウは自分の体を押さえる母の腕から逃れようと、歯を食いしばってもがく。だが、ユリの着物からのぞく細い腕には、外見からは想像もできないほど強い力が込められていた。彼女はリュウが暴れるのを押さえながら、屋敷の外に向けて声を張る。

「誰かいないか!」

 宵闇にユリの声が響くと、灯りの消えていた屋敷の別の部屋から従者の女達が風のように現れる。彼女達は部屋のすぐ横につながる廊下に膝をつくと、ユリやその夫のシュウに頭を下げた。

「ユリ様、何かございましたか?」

「リュウを離れ座敷に閉じ込めろ。どんな言い分も聞くな」

 ユリは力で押さえつけたままのリュウを数名の従者に渡し、その処遇を伝える。彼女の言葉を受けた従者達は一瞬の戸惑いと共に顔を見合わせたが、すぐにユリの指示通りリュウを取り押さえる。似たようなことがこれまでもあったのか、彼女達の迷いもすぐに消え失せた。

だが、幾本もの腕に動きを封じられたリュウは、それでも自分の目的を揺らがせることなく、声を張り続けた。

「離せッ! おじさんは……このままじゃ死んじゃうんだぞ!? こんなことで諦めるべきじゃないんだ!!」

「若様、ここは友人が病床に臥せっているお父様の気持ちを考えて、言う通りになさってください。お母様のお叱りを何度受けるつもりですか」

「くっ……関係ない。こんなの、絶対に間違ってる!! 父上、母上っ!!」

 リュウは自分の意思を曲げず、声を上げることをやめなかった。しかし、相手が耳を塞いでしまえば、その努力も無意味だ。リュウは従者達に自由を封じられながら、次第に離れていく父の顔を目に映ず。シュウは、未だに命の灯の消えかけた友人の横に座っている。だが、その両目はリュウに向けられていた。友人の避けられない死を前にして濁ったその目には、どうしてか、一筋の光があった。リュウはそれをしかと目にしながらも、それが何を意味するものなのか、最後まで理解することはかなわなかった。

 星の光も届かない、凍て刺す冬の夜のことだった。


※ ※ ※


 二日後の深夜、アラヤは息を引き取った。結局、家族の諍いが起こったあの日の夜から、彼が目を覚ますことは一切なかった。

 その次の朝、エルフの里にはしんしんと雪が降り積もった。屋敷では従者の内の何人かが外の道や屋根の雪かきを行っている。彼らの頬は赤く、吐く息は雪のように白い。

 そんな中、一人のエルフの少女が屋敷の離れに向かっていた。暖房のない木造の廊下をとたとたと走る彼女は、離れ座敷に辿り着くと、襖の前で正座をしてから中の人物にも聞こえるように大きい声を上げる。

「失礼します、若様」

「……リュウでいいって言ってるでしょ」

「え、いやそれは……はい、リュウ様。開けていいですか?」

「様なんてつけなくていいって……。うん、どうぞ」

 屋敷の従者らしき少女は中にいるリュウに許可をもらうと、静かに襖を開き、正座のまま体を部屋の中に滑り込ませた。離れ座敷で胡坐をかいていたリュウは、自分と同い年程度の少女がそのように仰々しく振舞っているのを見ると、小さく笑みを浮かべる。

「そんなに礼儀正しくする必要ないよ、ミズハ。口うるさい母上の前ならともかくさ」

「うっ、そうは言いますけど……うっかりシュウ様やユリ様の前で、礼儀を欠いてしまったらどうするんですか。こうやっていつも気を張っておくことで、いらぬ間違いを防げるんです」

「そう。はぁ……僕の前でくらい、緩くいてほしいけど」

 リュウは腰を曲げて自分の膝に肘を置き、そのまま頬杖をつく。離れに数日間閉じ込められているにしては、いやに気の抜けた空気だ。彼はこうされるのに随分と慣れているらしい。

だが、リラックスした様子の彼とは反し、外からやってきた従者のミズハは重々しい表情でいた。

「その、リュウ様。お知らせしなくてはいけないことがあります」

「アラヤおじさんが、死んじゃったの?」

「えっ……ご存じだったんですか?」

「君の沈んだ顔を見れば嫌でも察するよ。それに、そのくらいの命だって聞いてたから」

 ミズハの報告を、リュウは分かっていたと一蹴する。しかし、その顔には誰の目から見ても明らかなほどの失意があった。ミズハは虚空を見つめてため息をつくリュウを目にすると、あえて彼の心には触れず、淡々と里で起きていることについての報告を続けた。

「昨日の夜のことだったそうです。私はその場にいませんでしたが、眠るように息を引き取られたと聞いています。やはり、病に抵抗する術はなかったようで……」

「…………うん」

「アラヤさんは里長であるシュウ様の補佐でしたから、葬儀は手厚く行われるそうです。今日の昼頃から始まるようで……既に準備をしている方々がいます。この葬儀にはリュウ様も参加するように、とユリ様は言っていました。外出許可もおりてます」

 ミズハの説明の最中、リュウはただただ黙って彼女の話を聞いていた。相槌すらほとんどない中、ミズハはリュウのいない間に里で起こったこと、そして彼が今求められていることを語り終え、小さく息をつく。そうして彼女が伏せていた目を上げてみれば、リュウは小刻みに貧乏ゆすりをしながら手の指を忙しなく動かしていた。

「どうかされましたか、リュウ様?」

「いや、別に。僕はその葬儀に参加する権利はない。もっと言ったら、母上も父上もそうだ」

「……? それは一体、どういうことで……」

 気だるげな様子でリュウが呟いた言葉に、ミズハは首を傾げる。だが、リュウが彼女の疑問を解くことはなかった。彼はおもむろに立ち上がると、外出に備えて体を軽く動かしながら、キョトンとした顔のミズハに頼みをする。

「僕の刀を持ってきてくれない? できればすぐがいいな」

「……えっ? 刀ですか? なんで今?」

「別に特別なことじゃないよ。いつもの朝の鍛錬さ。しばらく空けることになるから、父上と母上には、外出許可が出た瞬間にドラ馬鹿息子が家出したって言っといてよ」

「いやっ……えっ、アラヤさんの葬儀はどうされるんです?」

 勝手な言葉を並べて屋敷を飛び出そうとするリュウに、ミズハは思わず問いを投げかける。すると、彼は力のこもっていない笑みを浮かべ、ポツリと落とすように呟いた。

「僕がそれに相応しくなれた時に、墓参りに行くよ」


※※ ※


 静謐な森の中、まるで小動物達の団欒のために森そのものが両手を広げたかのような、ぽっかりと開けた場所があった。草花は一面の雪の下に埋もれ、葉を落とした木々は銀色の雪化粧をこさえている。それらは雲の奥に輝く陽の光を受け、淡く神秘的に輝いていた。

 だが、その空間の中心にいるリュウは、その美しい光景に全く目をやっていない。彼はその手に持った刀を振るい、空を打っていた。鞘に納めたまま振るわれる刀は、リュウの剣の技を帯びるたび、耳の奥に重く響く音を奏でる。雪が静かに降りそそぐ中で、彼は自分と刀に向き合う鍛錬をただただ続けていた。踏み込むごとに雪解け水が足袋に染み込み、凍てつく空気が手指に牙を立てる。銀の雪よりも白い吐息が、絶えずリュウの口から漏れ出ていた。

「……綺麗」

 ふいに、声が響いた。リュウは自分のものではない声を耳にすると、刀を振るう動きを止め、咄嗟にその声のした方向へと顔を向ける。

 そこには、一人の人間の少女が立っていた。透明感のある金髪を腰の辺りまで伸ばし、雪に溶け込むような白の暖かそうな服を身に纏っている。吹けばふわりと飛んでしまいそうな花のように儚い雰囲気の彼女は、リュウと目が合うと柔らかく微笑んだ。

「すごく綺麗な場所だね。雪が降ってるからかな。……ううん、きっと春も夏も、化粧を変えて別の美しさを持つんだろうね」

「……君は誰?」

 少女が自分に酔うような言葉を並べるのに構わず、リュウは無機質な問いを投げる。その無粋な態度を前にした少女は一瞬目を丸くすると、フッと笑って答えた。

「私はリアっていうの。あなたの名前は?」

「……リュウ」

「そう、リュウ。……私、エルフって初めて見た。本当に耳の先が尖ってるんだね」

 リアと名乗った少女は白く積もった雪にブーツで足跡を残しながら、息を乱しているリュウに歩み寄る。彼女はそのまま、自身にとっては未知であるエルフ特有の尖った耳に手を伸ばそうとした。しかし、リュウはその手が自分に触れるより前にそれを払う。

「触らないでよ」

「あは、つれないなぁ」

 拒絶されたリアは、わざとらしく笑って一歩下がる。手を払われたというのに、そこまで気にしてもいないようだ。リアのその掴みどころのない様子を目にしたリュウは、そのフワフワとした雰囲気に自然と興味を覚えていった。

「君は……どうしてここに来たの? 僕はほぼ毎日ここに来てるけど、君を見たのは初めてだ」

「別に。何かしてたわけじゃないよ。散歩してたら、たまたま綺麗な場所を見つけたってだけ」

「……そう。近くの街から来たってことか」

 リュウは里の外の人間に出会うという珍しい出来事を前に、ある種の軽い緊張状態にあった。彼は自覚なしにリアの一挙手一投足を観察し、彼女から一切目を離せずにいた。言葉が途切れて数秒の内はそれに気付かれずにいたが、ふと、リアが顔を上げる。二人の視線がかち合った。

「なに、ジッと見ちゃって」

「いっ……いや、別に。何でもないよ」

「そう? ふふ……誤魔化すのが下手なんだね、リュウは」

 ちょっとした弱みを握ったリアは、軽い足取りと共にリュウに歩み寄る。そして、寒さのせいか、それとも気恥ずかしさのせいか、頬をほのかに赤らめるリュウの顔を見上げた。

 その時だ。リアは単なる好奇心からのぞきこんだリュウの額に、傷があることに気付く。

「そのおでこの傷、どうしたの? 見た感じ、最近できた風に見えるけど」

「え、こっ……これは、その……」

 リアに後ろめたく思う事情などないのに、リュウは反射的に母からの暴行のことを隠した。

「転んだんだよ。それで、頭をぶつけちゃって……」

「……ふぅん」

 顔を逸らしながら返事を返すリュウを、リアは目を細めて見つめた。二人の間に冬の風が吹き抜ける。降りしきる雪を乱すそれがおさまると、リアはリュウの額にある赤一文字の切り傷を目の端に置きながら、かぶっていた帽子を脱ぐ。

「そういう傷がある時には、あんまり雨とか雪の下に来ない方が良いよ」

「……どうして?」

「傷から悪いものが入っちゃうでしょ。悪化すると、傷がずっと残っちゃう。ほら」

 リアは首を傾げたままのリュウの頭に、自分がかぶっていた帽子をちょこんと乗せる。モコモコのファーがついた帽子が頭に乗っかると、雪の中でずっと鍛錬をしていたリュウの頭をぬくい温度が包み込んだ。突然のことに、リュウはパチパチと目をしばたたく。その間抜けな顔を見たリアは小さくふふっと笑うと、軽やかな足取りで一つ距離を取った。そのどこまでも余裕なリアの表情を前に、リュウはからかわれたように感じて思わず頬を膨らませる。だが、それでも頭を覆う確かな温度が消えることはなかった。

「あ、ありがとう。でも、なんでこんなことを……」

「気になっちゃうんだ、そういうの。私、街で医者をしてるから」

「医者? 君が……本当かい?」

 自分と同じような年齢の少女が医者をしているという事実が信じられず、リュウは即刻聞き返した。だが、真面目に問い返した彼に返ってきたのは、舌を出して笑みを浮かべるリアの顔だった。

「嘘だよ」

「…………」

 薄らと分かっていたことではあったが、リアの虚言を一瞬でも信じてしまったリュウは、ムスッと顔を歪ませてそっぽを向く。そのいい反応を見たリアは、お腹を抱えて元気そうな笑い声をあげる。

「あはっ、あははは! 今の顔、すっごく面白かった。額縁に入れて飾っときたいくらい間抜けな顔だったよ。……ふ、くく」

「……帰る」

 顔を赤くして笑い続けるリアを冷ややかな目で睨むと、リュウはすぐに彼女に背を向けた。純粋な気持ちを弄ばれた少年の心を取り戻すのは難しい。リュウ自身も、どれだけ制止されたところで絶対に自分の足取りを止める気はなかった。

だが、リアは離れていく彼の背を呼び止めるのではなく、ただ言葉を投げかけた。

「私、これから毎日ここに来るね。この場所がどんなふうに変わっていくのか見たいし、なんだか面白そうな人と会えたから」

 一瞬、リュウは足を止めかけた。しかし、ここで振り返ったらまた笑われると考えた彼は、意を決して里へ向かう足をそのまま動かし続ける。そんな彼の背を、リアは見えなくなるまで見送るのだった。


※※ ※


 エルフの里に戻ったリュウは、その足で再び離れ座敷に戻り、一人の時間を取っていた。道中、里の者達が暗い着物を身に纏って列をなしているのを見たが、彼はその集団に見つからないように屋敷に戻るのだった。

 リュウが座敷で黙々と過ごし始めてから数時間後。自室でもない場所で時間を潰すのが限界に達してきたその頃、部屋の外から不規則な足音が聞こえてくる。何人かが合わせて自分のいる部屋に向かってきているのだろうと察したリュウは、気持ちを整えるために大きく息をつく。

 足音はリュウの予想通り、離れ座敷の前で止まった。その次の瞬間、ミズハの時とは違い、襖が何の報せもなく開かれる。外の廊下に立っていたのは、シュウとユリだった。あの夜以来の両親との再会を前に、リュウは思わず居直る。

「リュウ、何故アラヤの葬式に顔を出さなかった」

 家族三人が集まると、最初に口を開いたのはユリだった。彼女はあの夜と同じような怒りの表情を浮かべ、部屋の中央に座っているリュウを見下ろす。こうして母から圧をかけられるのは何も初めてのことではなかったが、慣れるかと言われればそうでもない。リュウは吹雪よりも立ち向かい難い親の怒りを前に、自分の考えを明確に示す。

「僕にはその権利がないから」

「権利? どういうことだ、一体何が言いたい?」

「僕はおじさんの命を助けるための努力ができなかった。だから、あの人の死を悼む権利なんてない。命を全力で助けようとして初めて、その命が失われた時、悲しむ権利が生まれるんだ」

 リュウは正座で座ったまま、ユリの顔を見上げる。彼の目には、親族に向けるものとは思えない、敵意に近い感情が含まれていた。

「母上にも父上にも、そんなことをする権利はないと思うよ」

「…………お前」

 いつまでも態度を改めないリュウを前に、ユリは手を振り上げた。リュウは幾度となく繰り返されてきたそれに、今一度耐えようと目を閉じる。

 だが、待てどもリュウの体に痛みが襲ってくることはなかった。恐る恐る目を開けてみれば、シュウがユリの振り上げられた手を押さえ、彼女を止めていた。

「やめてくれ、ユリ。今日は俺から話しておくよ」

「シュウ。だが……」

「頼む。俺とリュウに、二人で話をさせてくれ」

「……はぁ、分かった」

 リュウの考えを直接的な力で改めさせようとしていたユリは、夫の制止を受けてその手を下ろす。そして、彼女は息子であるリュウに一瞥だけ残すと、シュウの言葉に応じて部屋を後にするのだった。

 妻の姿を見えなくなるまで見送ったシュウは、息子と二人きりであることを確実にするように、部屋の襖を静かに閉め切る。そして、彼はリュウの正面に腰を下ろした。

「子供の頃から変わらないな、リュウ。ユリに叩かれるのは何回目だ」

「……さあ。ザッと十回はいってるんじゃない?」

「はぁ……もうそんなか。譲れないのか、お前自身の考えは」

 胡坐で座ったシュウを前にすると、リュウの緊張は幾分か緩まる。母であるユリと顔を合わせている時とは明確に違う。リュウは正座を崩して足を楽にすると、大きくため息をついて自分の気持ちを父親に吐露する。

「当然だよ。外の人間と関わっちゃいけないなんて、意味が分からない。技術だってなんだって、外の人間達の方がずっと進んでいるのに……。今回のことだって、もし外から医者を連れてくることができていれば……」

「アラヤは助かった、か?」

「……断言はできないよ。でも、その可能性を試さないなんて、絶対に間違ってる。父さんだって、親友だったアラヤおじさんが死ぬより、必要かどうかも分からない掟を破った方がよかったって思うでしょ?」

 リュウは身を乗り出してシュウに問いかける。彼の意思は、どれだけ痛い思いをしても、他人の死を経ても、変わることはないようだった。そんな固い志を前にしたシュウは、妻のようにそれを正面から打ち砕くことはせず、その固まった思考を柔軟にするように言葉を選ぶ。

「リュウ。俺達エルフが人間達にどう思われているか……分かってるか?」

「……それは」

「数いる亜人の中でも、エルフは特に差別されている。理不尽な要求や労働を強いられる同胞も少なくない。俺達が街を歩いているだけで石を投げられることだってある。周りはそれを止めないし、誰も助けてくれない。……俺達は、そういう風に生まれついたんだ」

「……でも、それはそういう奴らもいるってだけでしょ? 皆が同じってわけじゃ……」

 シュウの言葉を、リュウは受け入れることができなかった。リアの存在、その直近の記憶だけでも、彼はそれを否定できるつもりでいた。しかし、シュウは首を横に振る。

「確かにその通りだ。だが、俺達と手を取り合ってくれる人間をどう探す? どうやって他人の悪意を察する? それに答えが出ない以上、俺達が外の街やコミュニティに入り込むのには、絶対に危険が伴ってくる」

「それは、分かってる。だけど、それを言い続けていたら……何も」

 父親の理路整然とした言葉に、リュウはどう返していいのか分からなくなった。彼は自分の足元に目を向け、拳を握った。それを一歩引いた場所で冷静に俯瞰していたシュウは、息子の小さい肩に手を置き、彼の考えに寄り添う。

「リュウの言う通り、うまくやればアラヤが助かっていた可能性があるのは間違いないと俺も思う。だけどその反面、外に医者を探しに行った誰かが怪我をすることもある。それは、俺でもリュウでも変わらない。あの時、ユリ……母さんはお前を守ろうとしたんだ。分かるな?」

「…………」

「アラヤの病気は急なことだった。細かいところの擦り合わせについては、仕方のないことだったんだ。この話はこれくらいにしよう。俺も、アラヤが死んで……はぁ、疲れたからな」

 リュウは父の言葉を耳にすると、それに抗するでもなく、ただ顔を上げて相手の目を見た。その瞬間、リュウはハッとする。彼の目から見た父の顔は、普段見るそれより何年も老けて見えたのだ。親友に先立たれ、妻と子が長年の仇のように睨み合っていれば、その心労も当然だろう。父のその顔を見たリュウは、どんな言葉を口にすればいいか分からず、ただうなだれた。

 座敷には沈黙が流れる。シュウはそれが数十秒と続く前に立ち上がった。

「ユリにはもう少し寛容になるよう言っておく。どう見てもやり過ぎだからな。それと、やっぱりアラヤの墓参りはちゃんとしておけよ。気持ちに整理がついたらでいいから」

「……うん」

 シュウは座敷を後にしようと、襖を開く。外の冷え込んだ空気が部屋に入ってくるのと同時に、シュウは後ろのリュウを振り返った。自分の考えに答えを出せずにいる彼は、冬の冷気によってか、身を小さく固めていた。息子のその様子を目にしたシュウは、父親として何か言葉を残すべきか迷う。だが、風が止むのと同時に、彼は口を閉ざしたまま静かに襖を閉じるのだった。


※ ※ ※


 エルフの里で葬式が行われてから、三日後。里や屋敷がいつも通りの日常を取り戻す中で、リュウはリアと会ったあの場所で毎日刀の鍛錬を積んでいた。日課ということもあったが、あれから彼は普段よりもいくらか長くその鍛錬の時間を取っていた。気持ちの整理のためか、あるいは別の何かを期待しているのだろうか。

 だが、初めて会ったあの日以降、リアがあの場所に来ることはなかった。降りしきる雪が止み、陽の光が木々の枝にのしかかる銀雪を溶かし始める頃合いになっても、彼女が姿を現すことはなかった。三日の間にも変化が点々と起こるこの場所で、リュウは変わらず毎日鍛錬に打ち込んでいた。彼の複雑な心境とは裏腹に、その日は快晴だった。彼は少しの期待感と、それ以上に膨らむ苛立ちを糧に刀を振るう。

 だが、リュウがその日の鍛錬を中ほどまで終えた、その時のことだった。

「や、三日ぶりだね」

 リュウが鞘に収めたままの刀を振るっている後ろから、聞き覚えのある声がする。振り返ると、そこには前と変わらない儚げな空気を纏う少女、リアが立っていた。彼女は笑顔で手を振りながらリュウに歩み寄る。が、リュウはそれに応じず、刀を腰の帯に戻しながら一歩引いた。

「毎日来るって言ってなかった?」

 ふくれっ面で文句を口にするリュウ。その顔を見たリアは、口の端を釣りあげて笑う。

「ああ、あれ嘘」

「…………はっ?」

「普通に考えて、毎日のように予定空いてるとは限らないでしょ? 私みたいなかわいい子ならなおさら、ね。なに、心配で毎日来てほしかった? 寂しかった?」

 リアはわざとらしく煽るような口調を続けながら、ぴょんぴょんとリュウの周りを跳ねて彼の顔をのぞき見る。それに対し、リュウは顔が赤くなるのを無理矢理に咳払いをして誤魔化す。

「ゴホン……別に。毎日来るって言ってたから、何かあったのかと思ってただけだよ」

「心配してくれてたのは本当なんだ?」

「違う、してない。僕がしてたのは君の心配じゃなくて帽子の心配だよ」

 言いながら、リュウは腰に提げていた巾着の中からいつかの帽子を取り出す。そして、自分の周りを蝶のように飛び回るリアにそれを押し付けた。

「あ、そう。……ふふ、じゃあそういうことにしておこうか」

 リアはリュウの手から帽子を受け取ると、それを自分の頭に戻して微笑む。彼女の笑顔はまるで新雪が折り重なった綿雪のように柔らかい。それを前にしたリュウは否定を重ねることを諦め、頭を抱えてため息をついた。

「はぁ……何が面白くてそんな噓ばっか言うんだよ」

「ん~、なんでだろうね。趣味みたいなものかな?」

「嘘をつくのが趣味って、それ人として終わってない? そもそも嘘自体が悪いことだし」

「あは、言うね。でも……」

 リアはその白い顔に笑みを保ったまま、リュウの言葉を真っ向から否定する。

「嘘が人を助けることも、いっぱいあるよ。それに、私は嘘が悪いことだとは思わない」

 気恥ずかしさから顔を背けていたリュウは、その言葉を聞くと改めてリアの方へ目を向ける。彼女はいつもと変わらない笑みをたたえてはいたが、その目には真っ直ぐな光があった。自分の言葉を信じ切っている者の目だ。それを見たリュウは、その意を汲んだ上で否定を返す。

「どうかな。他人とは基本的に誠実に向き合うべきだと、僕は思うよ。それに、表面上の取り繕いだけで人が助かるような状況なら、別の手段でもその人は助かってるんじゃない?」

「……んふ~、なんだかムキになってない? 私がリュウのこと、巧みな嘘で惑わしちゃったからかな。ちょっとした言葉遊び? みたいなものだから、あんまり本気にならないで~」

「言葉遊びって……はぁ」

 議論について深堀する気でいたリュウは、リアに話し合いをかわされると、またムスッとした表情を浮かべる。頬を膨らませる彼を見ると、リアはまた嬉しそうに笑った。

 冬が終わりゆく時節。森の憩い場の雪化粧は落ちかけ、緑が地面に少しずつ顔を出していた。

「君に聞きたいことがある」

 雪を踏みしめながら辺りの景色を楽しんでいたリアに、リュウが声をかける。リアが足を止めて顔を上げると、リュウは腹の中に答えの出ない疑問を飼っているかのような、不安と苛立ちの混じった表情をしていた。リアは彼の纏う空気を目にすると、静かにその隣へ歩み寄る。

「どうかしたの。なんだか深刻な悩みって感じがするね」

「うん、まあ。……君は、僕みたいなエルフをどう思ってる?」

 リュウの口にした質問は、以前のシュウの言葉を確認するようなものだった。彼は自分の中では答えが出せなかった問いを、唯一の人間の知人であるリアに求める。

「急に変なこと聞くね。じゃあ逆に、リュウの目から見た時、私はどう思ってるように見える?」

「……そうだな。そんなことには微塵も興味がない、そう考えてるんじゃない?」

「ん~、大正解。エルフとか人間とか、亜人がどうこう……私は気にしたことないよ」

 リアは何ということもなさそうに、つらつらと答えを返す。そんな彼女に、リュウは怪訝の視線を向けた。

「一応聞くけど、嘘じゃないよね?」

「えっ……私がこんな下らないことで嘘つくと思うの?」

「今までの嘘も全部下らないことだったじゃないか」

「ひどいこと言うなぁ。私がリュウに嘘ついてからかうときは、それで面白いと思えそうなときだけだよ」

「……僕は全然面白くなかったけどね」

「なら、からかい返してみればいいのに。きっと面白いよ」

 リュウは不愉快そうに口をとがらせてリアのこれまでの行動を刺すが、彼女が反省しそうな気配は一切ない。どころか、今のリュウの反応すら面白がって、クスクスと小さく笑うほどだ。彼女のこの性分はずっと消えないのだろう。しかし、リアはその小悪魔のような態度をずっと続けることはなく、リュウの悩みに話を戻すと、再び真剣な表情を浮かべる。

「私はそういうのを基準に人のことを見ないけど、逆に言えば、そういうのでしか他人を量れないって人もいる。言っちゃえば、その人次第のことだからさ。あんまり深く考えたところで、何か変わるわけではないと思うよ?」

「そういうものかな。僕は実際に外の街に出て、人間や他の亜人に会ったってことがほとんどないから、里で言われてるようなことがよく分からないんだ」

「ふ~ん……。リュウみたいなエルフって、こういう森の中で暮らしてるのが普通なんだっけ」

「うん。僕が暮らしてる里は、この場所の結構近くにあるよ。他のエルフ達も、人間達が暮らしている街からは距離を取った場所で生活してるんじゃないかな」

 リュウはそれとなくエルフの里の方に目をやりながら答える。彼の視線を、リアもそれとなく追っていた。そのまま彼女はリュウの隣に立つと、彼の横顔を見上げる。三日前ほどではないが、その表情には疲れがあった。

「ねぇ、リュウ」

「ん、どうし……た、の?」

 リアはリュウの名を呼ぶと、自分の方に振り返ってくる彼の両手を取った。薄い和装だけで冬の冷気が覆う森に出ていた彼の指先は、氷のように冷たい。リアはその手を自分の両手で覆うと、顔を赤くしてどぎまぎとしているリュウを見上げ、羽毛のような軽い声で彼の心に触れる。

「何かショックなことがあったのかもしれないけど、無理はしないで。悩みを無理にすぐ解決しようとしても、うまくいかないだろうから。時間が解決してくれるなんて無責任なことは言わないけど、焦ったところで問題が早くなくなるわけじゃない。そうでしょ?」

「えぁ……う、うん」

「……よし。それじゃ、また明日ね」

 少しの間だけ二人の手の平の温度を共有すると、リアは手を離し、少し早足でリュウから離れる。彼女はこの憩いの場を後にする直前、一度だけリュウのことを振り返ると、まるで春の柔らかい日差しのような笑みで笑いかけるのだった。

 一人取り残されたリュウは、自分の手に残るリアの体温を忘れられず、ただただ呆けた顔をしていた。

「明日……か」

 冬の森の中に、へにゃりとした頼りない少年の声が響く。


※※ ※


 二週間後。あれから里では大きな問題が発生することもなく、それにより、リュウとユリの確執が表に出るような機会は少なかった。父親であるシュウもあえて二人の間の険悪に触れることはなく、エルフの里、及び里長の屋敷では表向きの平穏が保たれていた。しかし、問題が根本から解決したというわけではなく、未だにリュウとユリは顔を合わせるたびに形式上の会話しかせず、シュウがそれに頭を悩ませているというのが現状だ。

反面、リュウとリアは毎日のようにあの憩い場で顔を合わせ、日ごとにとりとめのない会話を交わしていた。春の気配が森に訪れ、降り積もっていた雪が水となって流れていく時期になると、二人の関係もほとんど緊張のないものになっていく。

今日も、リュウは刀の鍛錬という理由と共に例の場所に訪れていた。彼が一人で鞘に納めたままの刀を振るっていると、ほどなくしてリアがやってくる。彼女はリュウの鍛錬を邪魔しないように手近な切り株に腰かけると、頬杖をついてリュウと彼が手に持つ刀に目をやる。

「毎日そんな風に修行してるけど、よく飽きないね。何か理由があったりするの?」

「ん……強くなるため、とか言ったりすればかっこいいのかな。でも、別にたいそうな理由があってやってるわけじゃないよ」

 リアの言葉を受けると、リュウは刀を帯に戻して息をつく。鍛錬で乱れた呼吸を軽く整えると、彼はリアに刀が見えやすいように帯をずらした。

「単純な話で、体を動かすのが好きなんだ。蹴鞠とかは得意じゃなくて、こういう武道が僕の性に合ってるってだけだよ」

「けまり……って何?」

「え、知らないの? ほら、球を蹴って遊ぶやつだよ。地面についちゃ駄目っていうあれ」

「えっと……う~ん、サッカーとは違うの?」

「サッカーって何?」

 暮らしている環境が違うからか、リュウとリアの話には妙な食い違いが出てくる。それぞれの疑問を解消するためにお互いが首を傾げて質問するが、答えは出ない。だが、そんな風に話が空中分解しても、二人の間の空気が濁ることはなかった。

「あは、なんだかリュウのいる里って変な遊びしてるんだね。蹴鞠だっけ、聞いたことないよ」

「僕の方からすると、リアの言ってたサッカーってやつも大分変に聞こえるよ。まあ森に閉じこもってる僕らの方が、余所から見ると変なんだろうけど」

 言いながら、リュウはリアの隣に腰を下ろす。日ごとに彼の刀の鍛錬の時間は短くなり、リアとの会話に集中する時間が増えていた。そんなことには二人共気付いていない。

 リュウが隣にやってくると、リアはそれとなく横にずれて彼のスペースをつくった。その時、彼女はこれまであまり注意を向けていなかったリュウの刀を目に留める。鍛錬と言って振り回しているのを毎日のように見ていたが、思えば街では見かけないそれに彼女はこれまで意識を向けていなかった。リアは未知への興味が湧くと、それを隠すことなくすぐに口にする。

「それ、カタナって言うんだっけ? 街では見たことないなぁ」

「そうなんだ。てっきり持ってない方が少数なんだと思ってたよ」

「いや普通は武器持って出歩いたりしないから。というかエルフって皆そうなの?」

「皆が刀を持ってるってわけじゃないけど、薙刀とか、弓とか……一家に一つはあると思うよ」

「……思ったよりずっと物騒なんだね、エルフって」

 普段は一方的にからかいを仕掛ける側のリアが、今回は少し引いた目線をリュウに向ける。だが、リュウの方は自分の言葉の何がリアをそうさせたのか、まったく分かっていないようだった。そんな鈍感な彼に対し、リアは問いを重ねる。

「その刀の中身ってどんな風になってるの? よければ見せてよ」

「えっ? ん、ん~……」

 リアの要求は至ってシンプルなものだったが、何故かリュウは答えを渋る。彼はリアからあからさまに視線をそらすと、帯に提げている刀の鍔に指を這わせたり、柄を撫でたりと妙に忙しなくなる。何か誤魔化そうとしているのだろうが、あまりにもお粗末なそれにリアは思わず眉を寄せる。

「どうかしたの? 何か見せられない理由があるんだったら、別に無理にとは言わないけど」

「んっ、いや別にそういうわけじゃ……う~ん。まあいっか、いいよ」

 リアの単刀直入な言葉を受けてか、リュウは頷いて立ち上がる。彼は万が一にもリアに刃が当たらないように切り株から距離を取ると、腰を屈め、左手を鞘に置いた。右手は流れるように柄を軽く握る。そして次の瞬間、リュウは体の捻りを解くのと同時に刀を鞘から引き抜いた。金属と木材の擦れる小さい音を立てながら、リュウの手にした刀がその刃を露にした。傷や汚れの一切ない白銀の刃が、陽の光を受けて薄い輝きを放つ。

「……綺麗だね。とても人を傷つけるための道具には見えないよ」

「僕もそう思う。……そもそも、里の掟じゃ滅多なことがない限り、刀を抜いちゃいけないことになってるしね」

「……っていうと?」

 光を帯びる白刃に目を奪われていたリアは、リュウの唐突な言葉に首を傾げた。疑問を投げかけられたリュウは、抜き身の刀の輝きを目に映しながら、そこに含まれる意味について語る。

「刀は人の心。いたずらに人に見せるべきものじゃない……っていうのが掟でね。同じように、人を切って血に汚れていたら、それがそのまま自分自身の心の汚れっていう風に捉える考え方なんだ」

「へぇ、なるほど。それじゃあリュウは、今私にありのままの心を見せてくれたってこと?」

 真面目な空気から一転、リアは悪戯心のこもった目でリュウの顔を見上げた。しかし、刀を持ったままのリュウは、彼女が想定していたような反応はしなかった。彼は人を映す水面のような白刃を見つめると、静かに息を一つ落として語る。

「僕はそんなに掟を重視してないけど、まあそんなところだよ。無暗に人に見せるものじゃない、とは言ったけど……リア、君になら見せてもいいと思ったから」

「……あ、そう。それはまたどうして?」

「君は、僕にとって初めての友達なんだ」

 リュウは刀から目を外し、リアに真っ直ぐ視線を向ける。曇りのない愚直な眼差しを受けたリアは、突然の告白に面食らっているようだった。しかし、リュウの言葉を否定するような表情は一切ない。彼女は驚きの波が落ち着くと、またいつもの笑みをたたえる表情に戻ってリュウの言葉を掘り下げる。

「初めての友達、か。私でよかったの?」

「良い悪いの話じゃないでしょ、これは。僕、里では里長の息子っていうちょっとした立場だから、付き合いを抜きにして心の底から友達って思える人が初めてで……リアがそれだったんだ。初めて会ったときは変な子だなって思ったけど、今は……」

「んふ~、気恥ずかしい言葉をどんどん並べるね」

 掘り下げたら掘り下げたで素直な言葉をぶつけられたリアは、リュウの語りを止めてわざとらしくニヤニヤと笑う。その笑みには、普段の愉快を根っことするそれとはまた違う感情が含まれていた。刀を鞘に納めるリュウは、それに気付かない。

だが、白銀の刃が黒漆の鞘に仕舞い込まれるのを見ると、リアは何気なく、自分も同じようにした方がいいかと考えた。

「私も同じように思ってるよ」

「えっ?」

 切り株から腰を離すと、リアは花のように軽やかな足取りでリュウのもとに歩み寄る。そして、ほのかに頬を赤くしながら自分の気持ちを告げた。

「私もこれまであんまり友達とかできたことなかったから。こんな風に話せる相手ができて、すごく嬉しい」

「……そう。それじゃあ、これからもずっと一緒にいられるといいね」

「……っ!? あ、ん、んぅ~……」

 リュウは満開の花のように純粋な笑みを浮かべる。刀が心と言っていた割には、鞘に隠した後も自分の心を包み隠す気はないようだった。彼の純粋無垢なその笑顔を前にしたリアは、彼の発した言葉も相まって、胸の内の気恥ずかしさを抑えることができなくなった。彼女は顔が赤くなるのを手で無理矢理隠しながら、揺れる声でリュウに言葉を返す。

「よくまあそんな……。恥知らずだね、リュウは」

「えっ、そんな風に言われることしたかな?」

「したよ、たくさんした。はぁ……今日はもう帰るから、また今度ね」

 リュウの朴念仁ぶりにお手上げのリアは、今日はこれ以上まともに話せなさそうだと感じると、すぐに撤退を選ぶ。彼は憩いの場から早足で離れていくリアの小さな背を、ちょこんと首を傾げながら見送るのだった。


※※ ※


 リアとの別れがいつもより早めに訪れたのを受け、リュウも彼女と同じように自分の住まいへと戻る。森を抜けて里に入り、慣れ親しんだ屋敷に入ると、彼は空いた時間をどう潰そうかと考えながら、とりあえず自室に向かおうとした。

「ん、あれは……?」

 だが、その道中の廊下にて、リュウは気になるものを目に留めて歩を止める。彼が目を付けたのは、屋敷の従者であるミズハだった。ただ彼女を見かけるだけなら珍しくもないことだったが、この時の彼女は何か妙なものを手に持っていた。彼女が抱えていたのは、里の中ではあまり見ることのないカラフルな薄い本だ。しかも、ミズハはそれを持ったまま人の少ない離れの方へと走っていく。そんな奇妙なものを見つけたリュウは、好奇心の赴くまま、彼女の後についていくのだった。

 ミズハが足を止めたのは、以前にリュウが閉じ込められていた離れ座敷だった。滅多に人が訪れないそこに辿り着くと、ミズハは本を胸に抱えて部屋の中に入ろうとした。その直前で、リュウは彼女の背に声をかける。

「ミズハ、何してるの?」

「ひぃッ!? ……び、びっくりしました。リュウ様でしたか」

 ミズハは予想外の来客に飛び跳ねると、その正体を確認してやっとホッと息をつく。

「驚かせないでくださいよぅ……。それで、日課の鍛錬はもう終わったんですか?」

「うん。それよりミズハ、その後生大事に抱えてる本は一体何?」

 リュウはミズハと共に離れ座敷に入ると、襖を閉じ切って例の本について聞く。問いを投げられたミズハは、抱えていたそれを床に座るリュウの前に置き、自分もその隣に正座で座った。

「その……ユリ様には、絶対言わないって約束してくれますか?」

「母上の名前が出るってことは、外のもの?」

「いや、まあ……そうなんですけど」

「言わないよ。僕は元々、外のことには興味津々な方だし」

 ミズハの恐れを拭うように、リュウは笑顔を浮かべる。その笑みには気遣い以上の好奇心が含まれていた。ミズハは自分の主でもあるリュウのそれに応じ、手元の本を改めて示す。

「これは雑誌というものらしいです」

「ざっし?」

「はい。ついさっき森を散歩していたら、街の近くで捨てられているのを見つけたんですよ。時期が時期なので汚れているかと思いましたが、そんなに時間が経ってなかったようで……」

 説明しながら、ミズハは雑誌の状態を確認する。雪が解けて足元が悪くなる時期に捨てられたにしては、そこまで水や泥に汚れてはいない。リュウはミズハが差し出すその雑誌を目にすると、表紙の時点から釘付けになった。

「なんか、絵にしてはすごい綺麗だね。人がそのままそこにいるみたいだ」

「写真というやつだと思います。原理とかは全然分からないんですけど、目の前の光景をそのまま紙に映せるらしいですよ」

「すご……。でも、なんでこの雑誌ってやつの中の人達は、こんなよく分からない格好してるんだろう」

「分かりません。目線の先に話し相手がいたりするんでしょうか?」

 リュウとミズハは身を乗り出して雑誌の中身を見ていく。恐らくは撮影した者達もそういう風に見られるとは思っていなかっただろう観点で、二人は雑誌を読み進めていった。

「うわ、この人の服穴だらけだよ。外の人達も貧困に苦しむことがあるんだ……」

「なんでお腹だけ出してるんでしょうね、この服」

「左右で形が違う服って不便じゃないのかな」

 二人が興味と好奇心の赴くままにペラペラとページをめくっていると、粗くではあるが、すぐに雑誌一枚を読み切ってしまう。リュウは雑誌から得た外の知識をまとめるために腕を組み、ミズハは雑誌の気になる個所を読み直したりしていた。

「ファッション、いわゆるオシャレというものに関するものだそうですが……私達にはまだ早いのかもしれませんね」

「うん。でももし外の世界と交流を持つとなったら、こういうことも理解していかないといけないんだろうな」

 雑誌のページをめくっては首を傾げたり目を輝かせたりしているミズハを見て、リュウは真剣に里の未来について考える。この雑誌をつくった者達も、まさか自分達のファッション誌が若者に展望について考えるきっかけを与えるなどとは思っていなかっただろう。リュウは腕を組んで首を傾げ、こんこんと思考を続ける。

 一方、ミズハは単なる好奇心で雑誌のあちこちに目をやっていた。里暮らしの彼女にとって、雑誌で紹介されている服装は奇抜に映るのだろうが、それでも内心では綺麗と思う気持ちもあったのだろう。ミズハはしばらく雑誌に釘付けにされていた。リュウはそんな彼女を目にすると、その拍子にちょっとした疑問を思い出す。

「ミズハ、君こんなもの拾ってきて大丈夫かい? 家の人に怒られたりしない?」

「え? ああそれは……まあ見つからないので大丈夫ですよ。これまでも何度か拾ってきたものを隠してたりしたので、多分問題ないかと」

「ふ~ん……。外の世界に対する恐怖とかはないの?」

 リュウは淡々と語るミズハに違和感を覚え、疑問をすぐに口にした。すると、ミズハは雑誌を一度閉じ、眉間にしわを寄せて渋い表情で答える。

「なんて言いますか……私も含め、里の人達もそこまで外を毛嫌いしてるわけじゃないですよ。もちろん掟や歴史なんかもありますから、全くというわけではないですけど。屋敷の中だとユリ様が厳しいので、そういったことは言えないですが……」

「母上か……」

「はい。あのお方の外の人間達に対する憎悪は、並外れていますから……単純に、その姿勢が合理的というのもあるんでしょうが」

 ミズハの言葉を通して、リュウは母親であるユリの顔を思い浮かべる。掟や差別という理由もあるが、彼女のそれはミズハの言うように常軌を逸している。反面、父のシュウは中間的な考えではいるが、概ねユリの考えに同意しているようだった。彼らに自分から外に出ようという意思は全くない。先日の一件を思い返すと、リュウは改めて自分の考えを明確にする。

「……僕はやっぱり、外の世界とは積極的に向き合うべきだと思うよ」

「え、そうですか? 私は波風立たない方がいいと思ってるんですが……」

「考えてもみなよ。こんな本一つ取っても、僕達には分からないことがいっぱいあるんだ。そういう未知をどんどん埋めていけば、色々生活も便利になって、あの時みたいなこともなくなる。これまでただ見ていることしかできなかった病人を助けることだってできるかもしれないし、一か月かかってた作業を一週間で終わらせたりすることもできるかもしれないんだ。怖がってずっと動かないんじゃ、なにも進歩しないよ。それに……外の人間とだって、絶対に仲良くなれるはずなんだ」

 リュウは腹の中に溜まっていた両親に反抗する考えを吐き出し、同時に自分が向くべき道を定める。彼にとって、リアとの関係は考えの支柱にもなり得るほど大きなものだったらしい。両親の言葉に真っ向から抗する考えを固めた彼には、不安や焦燥はあれど、後ろめたさは微塵もなかった。

「ん~。私には難しくてよく分からないんで、頑張ってください。私もどっちかっていうとリュウ様よりな考えだと思うんで、応援してますよ」

 リュウの自分自身に対する宣言を脇で聞いていたミズハは、雑誌を片手に抱えながら呑気に手を振って鼓舞の言葉を口にする。リュウは彼女の気の抜けた調子を目にすると、大きくため息をついて雑な礼を投げるのだった。

「頼もしくはないけど、一応ありがと」


※ ※ ※


 翌日、リュウは自分からシュウとユリに声をかけ、三人で朝食をとろうと提案した。二人は最初、一体どういう風の吹き回しかと我が子を疑ったが、息子の提案を捨て置くことはなかった。二人はリュウの誘いを受け、屋敷の広間にて家族三人が膝を突き合わせることとなる。

 雪解けの季節の朝。太陽の光を鈍色の雲が覆い隠す、曇りの日だった。リュウ、シュウ、ユリの親子三人が一堂に会する広間には灯りが灯っておらず、中には雲と襖越しの陽光が淡く満ちるのみだ。そして、親子の表情もまた晴れやかなものではなかった。特に、リュウとユリは先日の一件からほとんど顔を合わせず、言葉のやり取りも最低限しか行っていなかったために、部屋の空気はほとんど死臭と変わらないほどであった。

「しばらくぶりだな、三人で一緒に食事するの。前は確か……何かの行事の時だったか」

 妻と息子からは話しにくかろうと判断したシュウは、可能な限り元気な声で家族の空気を取り持とうとする。だが、二人は彼の心労に報いることはなく、黙ったままだ。呼び出した本人であるリュウも、自分の頭の中で考えを整理しているのか、口を堅く閉ざしている。ユリも、息子に誘われた以上は彼の話を待つという姿勢で目をつむったままだ。

「……父上、母上」

 前触れもなく、リュウが口を開く。彼が声を上げるのと呼応するように、ユリも静かに目を開いた。

「なんだ。外の世界がどうのという話ならば、意見を変えるつもりはない」

「つもりはなくても聞いてもらうよ。僕の意見だって、あれから一切変わってないから」

 腕を組んで圧を発するユリに対し、リュウも正面から向かい合う。その一触即発の空気のただ中に置かれたシュウは、この話し合いがなるたけ苛烈なものにならないよう、両者の表情に意識を向けた。

「何度も言っているが、外の者達と交流を持つなど絶対に許されない。私達が連絡を取り合うのはまた別のエルフの里や集落のみだ」

「別に僕は、外の誰も彼もと仲よくしようって言ってるわけじゃない。前のこともそうだけど、可能性を捨てたくないんだ。外の医術や技術ならできたかもしれないってことを、諦めたくはない」

「その情報や技術とやらはどう手に入れる? 私達があちらに赴くか、人間をこちらに招くか……大まかにこの二つになるな。だが、どちらも大きな危険を伴う」

 リュウの言葉と提案に、ユリは冷静に言葉を返していく。逼迫した状態ではないからか、彼女も立ち上がって手を振り上げるような様子はなかった。それを見たシュウは軽く安堵の息をつき、母と子の対話を最も近い場所から見守る。

「どっちだっていい。けど、どちらも一切しないって選択をしてる今の状況は絶対に間違ってる。このままじゃ、僕らは外の世界に置いていかれる一方だ」

「私達と彼らは何も競い合っているわけではないぞ。技術の有利不利は私達が問題にすることではない。それに、私とシュウが皆に徹底しているのは不干渉だ。彼らに目を付けられないよう、完全に気配を消すこと。それが私達エルフの、弱者として取るべき最良の手だ」

「そういう選択を取らざるを得なくなってるってこと自体が、もう既に変な事なんだよ。僕達が受けてるっていう差別だって、ずっと外の世界と関わってないから進んでしまったものじゃないの? 僕達はそもそも敵視されないように努力するべきなんだ」

「私達が努力する? それは到底無理な話だ。私達の同胞がこれまでどれほど奴らに苦しめられてきたか。直近でも、数年前に別のエルフの里が人間達に襲撃を受け、壊滅した。そんな者達と、手を取り合うことはできない。うまくいく確証も、今の状況を維持し続けるリスクもないのに、そんな努力をする必要はない」

「理解し合えない相手と手を取り合おうって言ってるわけじゃない……そう言ったはずだよ」

 人間の誰も彼もと仲よくするという理想論ではない。リュウはそれを強調し、ユリの言葉を挫こうとする。だが、ユリもまたその程度の小手先で折れるほど、弱い考えを持っているわけではなかった。

「その理解し合えない相手が、どれだけいると思っている?」

「……どういうこと?」

「人間の数は軽く見積もってもエルフの数万倍はいる。他の亜人も含めれば、その差はもっと歴然となるだろう。その大規模な集団の中で、私達エルフを敵視する者が一割いたとしたら? それだけでも、十二分に私達を滅ぼしうる勢力になる」

「…………」

「どれだけ耳を塞ごうとも、私達を敵視する者達はいる。技術を共有する、手を取り合う。考えは結構だが、その過程でどれだけ私達が傷を負う? どれだけの者が命を落とす? 労して手に入れた宝が救ってくれる命の量は、それを手に入れるまでに失った命の量に見合うのか? どれだけ戦争や正面衝突を避けたとしても、こぼれ落ちる命の数は計り知れない」

 重い問いの数々が、リュウの背にのしかかる。次第に彼は言葉を返せなくなった。彼の目はいつの間にか展望を眺めるものではなく、失った、失うかもしれないものを数える目に変わっていた。うなだれる彼に、ずっと前から彼と同じその目でいたユリが、言葉を重ねる。

「我々エルフは命を重んじる。それを賭けるような選択をすることはできない。元より、私達の命を尊重しない連中と理解し合えるはずもない」

 ユリの言葉を最後に、家族が一堂に会するその部屋には沈黙が広がった。ユリは長話を終えて小さく息を吐くと、目の前の膳の茶を口に含む。彼女の言葉に、自分が見ていなかった多くの可能性を目の当たりにしたリュウは、両の手を軋む音が鳴るほどに強く握りしめていた。一歩引いた立ち位置で討論を俯瞰していたシュウは、二人の表情を静かに見比べても眉を寄せるだけで、口を開くことはなかった。親子の席は、他に類を見ないほど重い沈黙を迎える。

 泥沼を船で進むかのような時間が、数秒過ぎ去る。その静寂の中、リュウが唐突に立ち上がった。彼は自分の目の前に置かれた膳に一切手を付けることなく席を立つと、そのまま両親に背を向けた。シュウもユリも、その背中を追うことはしない。そんな二人に対してか、あるいは自分に対してか、リュウはポツリと呟く。

「手を取り合えるかどうかなんて、自分でやってみなきゃ分からない……」

 息子の言葉に耳をそばだてていたユリは、リュウのその言葉を聞くと眉間にしわを寄せる。自暴自棄にも見える彼の言葉を耳にした瞬間、彼女は立ち上がり、リュウを振り返った。

「どういうつもりだ、リュウ!」

 だが、ユリの反応は一歩遅かった。彼女が手を伸ばして制止するよりも前に、リュウは襖を開け放ち、冷気覆う外へと飛び出していた。息子の勝手な行動を押さえることができなかったユリは、そのままリュウの後を追おうとする。だが、彼女のその肩に背後から手が置かれた。

「行かせてやろう」

「シュウ、だが……!」

 夫に行く手を遮られ、ユリは声を荒げる。しかし、シュウの方は至って冷静にリュウが消えた方を見据えていた。

「あの子は外の友人に会いに行ったんだろう」

「友人、だと? 一体いつから……ゴホッ、ゴホ……」

「……ユリ、大丈夫か?」

「私のことはいい! リュウが既に外の街に行っていたとでも言うのか? 知っていたなら何故止めなかった!?」

 興奮を抑えられない様子でユリは叫び声をあげる。つい先ほどまで静寂が満ち満ちていた部屋に、一触即発の緊張が走る。だが、シュウはその空気の源泉たるユリに相対しながら、一切動揺していない。彼はユリに歩み寄って彼女の体を気遣いながら、自分の考えを語る。

「リュウはまだ人間の街に入ったことはない。森の中で偶然知り合った子と、少し仲を深めている程度だ。止めるほどのことじゃない」

「だが、それをきっかけにあの子が外に出たらどうする!? 傷を負い、心を踏みにじられるかもしれないんだぞ!!」

「ああ、そうかもしれないな」

「分かっているならどうして放置したんだ。なんで……!?」

 ユリは絞り出すような声でシュウの行動を問い詰める。彼女は震える手でシュウの胸にしがみつきながら、自分の絶望を表にする。彼女の外の世界と人間への恐怖は、それほどまでに強いものらしい。妻の豹変を前にしたシュウは、彼女の両肩を優しく抱き留めながら、リュウのこれからについて語る。

「俺達は過保護すぎた。あいつを守ろうとして、選択肢を与えることを忘れてたんだ。意見とか考えどうこうは置いておいて、リュウはまだ十四だ。子供なんだ。子供の考えを、過去と現実の重さで捻じ曲げるのは……多分、間違ってる」

「与えた選択肢の先で、あの子が傷つくとしてもか……? それに、私は絶対に外の連中を受け入れないぞ。それはシュウも一緒だろう?」

「ああ。でも、それは俺達の選択だ。リュウの選択は、また別なんだよ」

 涙を浮かべてリュウのこの先を憂えるユリに、シュウは優しく言葉をかける。父と母はそれぞれ目指す方向は違えど、息子の将来を切実に心配していた。たった今友のもとに走るリュウは、二人の親心を知らない。


※※ ※


 曇り空の下、森の憩い場ではリアが一人で切り株に座っていた。彼女は足をプラプラと遊ばせながら、まだ肌寒さの残っている空気に耐える。その理由はもちろん、心を許せる相手に会って一日を鮮やかに彩るためだ。

 だが、その日はいつもと違った。普段リアより早くこの場に来ているはずのリュウが、まだ顔を見せていなかったのだ。刀の鍛錬をしている彼に、からかいの言葉をかけながら切り株に腰を下ろすのが日課となっていたリアは、一人で少し不満そうに頬を膨らませていた。

 そんな時だ。憩いの場に冷たさを纏った風が吹く。顔が冷えるのを嫌がってリアがモコモコの襟に顎をうずめると、彼女の視界に見慣れた和装の少年が映り込む。リュウが遅れてやってきたのを見ると、リアはすぐに切り株から腰を離して立ち上がった。

「今日は遅かったね、リュウ」

「……うん」

 リュウはリアの言葉に間を置いて返事をすると、何のきっかけもなくため息をついた。彼の顔には、明らかな疲労とストレスがあった。軽く寄った眉に、浅く刻まれた額のしわ。一文字に結ばれた口からは、たまにため息が出てくるのみ。明らかに普段とは調子の違うリュウを前にしたリアは、言葉を曲げることなく、率直に問う。

「何かあった? 気分悪そうだけど」

「別に、特段変わったことがあったわけじゃないよ」

「ふ~ん……」

 リアの問いに当たり障りのない言葉を返しながら、リュウは切り株に座る。彼はそのまま、だらけるでもなく俯いて何事かに一人で思考を回し始めた。リアはそのリュウの心ここにあらずの行動を前にすると、彼と初めて会った時のことを思い返す。今のリュウの表情は、あの時のそれとよく似ていた。

「なんだか今のリュウを見てると、私達が初めて会った時のことを思い出すよ」

「……どういうこと?」

「どう考えても何かありましたって顔してるのに、自分の中で問答を続けてずぅっと黙ってる。不機嫌な時って、リュウはそうなるんだね。話してくれれば、相談乗るけど?」

 リアは雪の降りしきる中で刀を振り回していたリュウの姿を思い出し、それを今の彼と重ねる。形は多少違っても、リュウの心が迷っているのは確かだ。リアは彼に手を差し伸べようと、その悩みの共有を促す。

しかし、リュウは首を横に振った。

「リアに話すようなことじゃないよ。だから気にしなくて大丈夫」

「…………」

 あまりにも簡単に、リュウはリアの厚意を突っぱねる。彼は一度だけ彼女に視線をやると、そのまま俯いてまた自分と向き合い始めた。リアはリュウのその自己中心的な態度を前にすると、思わず顔をしかめて心の中で舌打ちをする。自分からこの場に来ておいてどういうつもりだ、話すつもりがないならもっと不機嫌を隠す努力をしろ、そんな言葉がリアの頭をよぎるが、彼女は笑顔でそれを呑み込む。

だが、リアがリュウの口から悩みを引きずり出すのを諦めることはなかった。

「あの日の傷、殴られてできたものでしょ?」

「……え?」

 リュウは全く予想もしていなかったところからの衝撃に、叩かれたかのような勢いで顔を上げる。彼の目線の先には、真っ直ぐと自分に向かって視線を投げてくるリアが立っていた。彼女のその曲がったところのない実直な目を前にすると、リュウは思わず顔を横に背けてしまう。だが、それで言葉を止めるリアではなかった。

「分かるよ、それくらい。あの日に言った、私が医者っていうのは嘘だけど……実際は、私のお父さんが医者なの。で、今のリュウもあの時のリュウも、同じことが原因で悩んでる。今の君には傷がついてないけど……私の言ってること、間違ってるかな?」

「…………」

 リアの言葉は概ね的を射ていた。リュウは彼女の観察眼と結論まで辿り着く思考の早さに目を見はる。そして、少し自分の中で考える時間を取ると、観念したかのように肩をすくめる。

「そんなことまで分かるものなんだ。君の言う通りだよ」

「うん。ちなみに今のは嘘ね」

「そう…………はっ?」

 リュウは無垢な相槌を打った後で、ハッとしてリアの言葉を聞き返す。彼女の顔を見てみれば、そこにはわざとらしい満面の笑みがあった。リアはその笑顔のまま、口をあんぐりと開けているリュウに構わず、淡々と言葉を重ねていく。

「お父さんが医者なのは本当だけど、傷を見て原因が分かるほど私は詳しくないよ。それに、あの時のはもう何日か経った後の状態だったし、そんなの見ただけで傷の理由が分かるわけないでしょ? ああでも、今のでリュウの悩みについては軽く分かったよ。最初も今も話したがらないってことは、う~ん……あの傷は家族とか近しい人につけられたってことかな? それなら話がしにくいのも納得……」

 リュウはリアの言葉を最後まで聞くことはなく、立ち上がった。そしてそのまま、憩い場に背を向ける。彼は自分でも知らぬ間に求めていた慰めに裏切られ、その事実に絶望していた。自分の考えを家族に否定された後、すぐにこの場所に足を向けたのは何故か。自分の考えと向き合うためなら一人自室にこもればいいものを、他人がいると分かっている空間に来たのは何故か。それは彼が、心の内で信頼できる友人の助けを求めていたからだ。

 しかし、その場に待っていたのは裏切りだった。その表面的な事実に打ちのめされたリュウは、心を許していたはずの友人に背を向け、歩き出す。彼は一刻も早くこの場から逃げ出したかったのだ。

「謝らないよ、絶対にね」

 リュウの歩を止めたのは、彼が背を向けたはずのリアだった。彼女は震えるリュウの背に、今度は微塵の嘘もない本音をぶつける。

「嘘を言ったこと、悪いなんて全然思ってない。さっきのはリュウのためだから」

「……僕のため? 僕を騙して言いたくないことを無理矢理引き出すのが? どういう冗談?」

 リュウはリアの方を振り返ると、上ずった声でいくつもの問いを重ねる。怒りと疑問に満ちた、今にも崩れそうな声だ。反面、リアの言葉は実直なものだった。伝えたいことも、乗せたい気持ちも、何もかもがハッキリとした言葉を、リアはリュウに差し出す。

「私はリュウがそうやって悩んでるのを、何も知らないまま解決できるようなすごい人じゃないの。だから強引に聞き出した。リュウが何に悩んでて、何にムカついてて、私にどうしてほしいのかを知るために」

「リアに助けてほしいなんて……思ってない」

「そう? でも私はリュウを助けたいよ。だって、私とリュウはお互い初めての友達でしょ? それに、これからもずっと一緒にいる……そのためには、お互いの悩みの一つや二つ、隠したままじゃいられないんじゃない?」

「……それ、は」

 つい昨日、リュウ自身が口にした言葉。それをそのまま返されたリュウは、胸にズキンと痛みが走るのを感じて顔を上げた。彼の視線の先では、リアが花のように柔らかい笑みを浮かべていた。彼女はいつもと変わらないその笑顔と共に、手を差し伸べている。いつも嘘をつく癖にこういう時だけは真っ直ぐなリアを前に、リュウは正面から向き合うことができず、手で顔を隠しながらポツポツと言葉を返した。

「本当に……リア、君にはかなわないよ」

「当たり前でしょ? 隠し事ができない正直者は嘘吐きに勝てないの。さ、話してみて」

 リュウの心の向きを変えることに成功したリアは、切り株に腰を下ろし、自分の隣をトントンと指で示す。彼女の誘いを受けたリュウは、花を見つけた蜂がその花びらに吸い込まれるように、リアの隣に座るのだった。

 森の木々にのしかかっていた白い雪は、今はもうどこにもない。


※※ ※


 家族との考えの相違、母との確執、リュウはそれら自分の悩みの種について、そのすべてをリアに打ち明けた。長いこと自分では解決できずにいたそれら問題を他人に共有したリュウは、今まで誰にも口にしたことのなかった愚痴をリアに漏らす。

「絶対におかしいと思うでしょ? 僕達だって外の世界に出て、いろいろなことを知る機会を得るべきなんだ。それを、手を取り合えないとか、危険だからって言い続けていたら何も変わらない。命が失われるっていうけど、そもそもそれは可能性の話であってさあ。できることが増えるっていうのは確実な事なんだよ? それだったら……」

 一度切り口を作ると、リュウの言葉は止まらなかった。それまで自分のことについては固く口を閉ざしていたのが嘘のように、母を前にしていた時とは違う考えなしの言葉まで並べ始める。そんなリュウの話から要点を拾い集め、彼の悩みと考えを大まかに把握したリアは、滝のように押し寄せる言葉の間を縫って声を上げる。

「要するに、外との行き来をお父さんとお母さんに認めてもらいたい……ってことだよね?」

「あ、うん。そういうこと」

「なるほどね。う~ん……私もリュウが暮らしてるっていうエルフの里のことはよく知らないから、どの程度変わるかは分からないしなぁ」

 リアは自分の常識としている街並みと、話にあったリュウの里の暮らしぶりを頭で比較する。だが、これまでリュウ自身が自分や里の暮らしの話を避けてきたこともあって、その実際の生活感を事細かに想像することはできなかった。

「やっぱり、僕は里に引きこもり続けるのはやめるべきだと思うんだ」

 リアが口を閉ざして頭を回していると、隣のリュウが静かに声を発する。先ほどまでの毒を吐き出す口調とは違う、真剣な口ぶりだ。彼は一つ息をついて両手の指を組むと、その上に額を乗せて淡々と語る。

「これまで死んでいった多くの里の人達。さっき話したアラヤって人を含めて、その全員が外の技術で助かるなんて言わない。けど、絶対に変わることだってあるはずなんだ。助かればそれが一番だし、そうでなくとも猶予をつくれたり、病気の進みを抑えることだってできるかもしれない。そういう可能性があるのに、こうして目と耳を塞ぎ続けて希望に踏み込まないのは……見殺しなんて言うつもりはないけど、すごく、こう……」

「不健全?」

「うん、そう感じるんだ」

 リアに言葉のピースをはめてもらったリュウは、顔を上げて頷く。だが、彼の隣で話を聞いていたリアは、ただその主張に頷くのみではなかった。彼女は横に座るリュウから視線を外すと、自分が普段暮らしている街の方へと目を向ける。

「医者の娘としての意見だけど、医術って点だけで言うなら……外と交流を持ったところで、そこまで変わることはないんじゃないかな」

「……えっ、そうなの?」

「うん。これは外じゃ常識だけど、人間と亜人の使う薬や手術は違うの。まるっきり全部が違うってわけじゃないけど、そもそも体のつくりが違うから、そういうのも変わってくる。人間が人間のためにする医術は発展してるけど、亜人のは遅れてるっていうのが現状。それに、エルフはほとんど街でも見かけないから、診察とか手術の数がそもそも少ないし……。進展があるのは間違いないと思うけど、大躍進とまではいかないんじゃないかな」

「……そういう、ものなんだ」

「うん、まあお父さんは人間相手も亜人相手もできるけどね」

 リアの口から客観的事実を告げられたリュウは、どう言葉を返していいか分からず、適当な言葉を口にして俯いた。彼が考えてきたような未来は、現実からすると冷たくあしらわれる程度のものだった。無知から生まれた夢を砕かれたリュウは、口を貝のように固く閉ざす。

 だが、彼の隣のリアは全く下を向いていなかった。彼女は再び、リュウに希望を与える。

「でも、それは医術だけの話。それ以外のところはすごく沢山の恩恵を受けられると思うよ」

「それ、本当? 気をつかってるとかじゃ、なくて?」

「流石に疑いすぎだよ、リュウ。例えば農業。雑に話を聞いた感じじゃあさ、リュウのいる里って全部手作業で畑をいじったり、狩りとかしてるんでしょ?」

「まあ、そうだけど……外では違うの?」

「もう全然違う! 季節に左右されないように一年中同じ野菜を育てることだってできるし、作業の手間だって機械を使って手作業よりも全然楽になってる。私は農家と知り合いじゃないからその辺詳しくないけど……お店に行って、野菜や果物がないなんてことはほとんどないよ」

「そんなになの? 今年は大丈夫だったけど、冬の時季は食料に困ることもあるのに……」

「農業だけじゃないよ。命を救うって観点で言うなら、自然災害への対策だって進んでる。地震とか台風とか、実際に来るより前に予測できるの」

「み、未来予知ってこと? 全然想像つかないな……」

 リュウはリアの口から紡がれる外の世界に目を白黒させる。驚きの連続で、想像を繋げる思考すら間に合っていないようだった。しかし、そこには確かな期待と好奇心のきらめきが満ちている。そんな彼を前にして、リアも言葉をどんどんとつなげていくことに楽しさを感じていた。教えることと学ぶこと、行為自体は真反対だったが、二人の意思はほとんど同じ気持ちに満ちていた。

「……実際、僕達はその恩恵をもらえるのかな」

 だが、前触れなくリュウの心に暗雲が差す。ふと、彼の頭の中に母の言葉がよぎったのだ。膨らむ期待を前にして忘れていた、脆い足場。彼は不安の風に揺られ、表情を曇らせた。そんな頼りない顔のリュウを目にすると、リアは口元に小さな笑みを浮かべて立ち上がる。そのまま、彼女は憩いの場の真ん中に立つと、ふわりと髪を揺らしてリュウの方を振り返った。

「もう嘘はいいよ、リュウ」

「……え、嘘? 僕、嘘なんて言ってないけど」

 リアの唐突な言葉に、リュウは訳も分からず釈明する。だが、リアは自分の言葉に一切の疑いも向けず、真っ直ぐにリュウを見つめて彼の心のほつれに触れた。

「事情とか、実際はどうとか、そういうこんがらがったしがらみは置いておいて、リュウの本心を聞かせてほしいの」

「僕の本心? でも、僕は……」

「人は誰しも、自分に多かれ少なかれ嘘をついて生きてる。意識的か無意識的かは人それぞれだけどね。でも、ずっと自分に嘘をついてると、少しずつ自分がすり減っていく。だから……」

 リアはリュウの手を取って、立ち上がらせた。そして、彼の手を優しく包み込んで言う。

「友達の……私の前では、本当のリュウを見せてほしい。君のしたいこと、手伝ってあげられるかもしれないから」

「……リア」

 リアはリュウの手を離し、一歩二歩と少し距離を取った。憩いの場に沈黙が広がる。心地いい静寂だ。その中で、リアは吹けば飛びそうな笑顔を浮かべている。

春を前にした森の匂いをそよ風が運ぶ。リュウは自分と友の息遣いしか耳に入らないこの空間で、焦ることなく、悠然と自分に向き合った。それから彼が自分自身の答えに至るまでの時間は、その欲求が彼を悩ませていた時間よりもずっと短かった。

「……僕は、外に行ってみたい。ずっと里の中にいて知らなかったことを、自分で見たり、聞いたりしたい。里の他の人達の話でしか聞けなかった全部を、自分で行って確かめたいんだ。だって、僕は一度も里を……森を出たことがないから。何を判断するにしたって、自分で見て、体験してからにしたい」

 リュウは自覚していなかった自分の欲求に直に触れ、それを包み隠すことなく吐露した。彼に思いのままをぶつけられたリアは、もうそれを疑うことはなかった。リアは微笑みを浮かべたままリュウに歩み寄ると、もう一度手を差し出す。

「じゃあ、私が連れて行ってあげる」

「えっ、そんな急に?」

「……え何? 逆に今の流れで断るの? 思い立ったが吉日って言うし、今日でしょ、今日!」

 繕いに覆われていた自分の欲求を自覚したのはいいものの、リュウは未だに迷わず前へ進めるほどの自信がなかった。そんな彼の手をリアは問答無用で掴む。そして、自分達が普段暮らしている街の方へと、リュウのことをずいずいと引っ張っていった。

「ちょっと待って、流石に心の準備が……って、聞いてるの、リア!?」

「う~ん、一応エルフの耳は隠しといた方がいいかな。お父さんの服持ってくるから、街の近くに着いたら少し待ってて」

「……うぅ、強引すぎる」

 嘆きながらも、リュウの歩はしっかりとリアの後についていた。半ば引きずられるようにして歩く彼は、その最中、自身を心からの願いまで導いてくれたリアの背を見つめる。彼一人では、万が一自分の本当にしたいことを自覚したとしても、踏み出す勇気を持てなかっただろう。リュウにとって、その願いのために一緒に歩いてくれるリアの存在は、心強いという一言では言い表せないかけがえのないものになっていた。リュウは自分を引っ張る彼女の小さな背を見ると、繋いだ手に自然と強い力を込める。リアがそれに文句をつけることはなかった。


※ ※ ※


「うわ……ぁ……すごい」

 リアに連れられて彼女の住む街に足を踏み入れたリュウの頭は、その瞬間からしばらく驚愕に満ちる。彼にとって、外の街は未知に埋め尽くされた異世界のように映っていた。凹凸の少ない素材でできた建物、平らに舗装された道、そこらを走る鉄の箱。それら全ての名前すら分からないリュウは、あらん限り目を見開き、その一瞬一瞬で少しでも多くの情報を頭に叩き込もうとしていた。開いた口が塞がらないというのは、正に今の彼の表情のことを言うのだろう。

「この街は他の都市と比べて亜人の数も多いから、初めて来る場所としてはベストかもね」

 頭に流れ込んでくる情報を処理しきれずに棒立ちしているリュウの横には、街の空気に随分と慣れた様子のリアが立っている。彼女はすぐ傍で阿保面を晒しているリュウを見ると、周囲からくっきりと浮いた彼の様子に思わず顔をしかめた。

「にしても……エルフの耳を隠すためとはいえ、お父さんの服はちょっとブカブカすぎたかな。フードもちょっと目立つし……」

 リアが見ていたのは、リュウの驚きようではなく彼の外見だった。リュウは今、エルフの里でいつも着ている和装の上に、サイズの合っていない冬用のコートを羽織るという異質な服装をしていた。その上、フードで頭を隠しているというおまけつきだ。思い立ったその日に急場でこしらえたもののため、多少の粗は仕方ないが、リアはそのチグハグ感に小さく唸り声をあげる。これからそんな彼の隣でしばらく過ごすことを思うと、彼女の気苦労も仕方のないものだろう。

「はぁ……もう少しまともな感じになると思ってたんだけどなぁ」

「ね、ねえ見てよリア! いろんな人が、亜人もいっぱい歩いてる! 全身毛むくじゃらの人も、腰の辺りから羽が生えてる人もいるよ……!」

 リアの心配など気にも留めず、リュウは色めき立った声を上げる。彼は街並みの次に、そこらを歩く人々に目を向けていた。彼の言葉通り、歩道を歩く人々の様相はほとんど一貫性がない。リュウが口にしたような亜人以外にも、爬虫類のような鱗に手足を覆われた者や、大きな筆のように見える獣の尻尾を生やした亜人も往来を闊歩していた。最も数が多いのは人間だと一目で分かる程度の割合ではあったが、彼らの数は他全ての亜人に対して五分といったところだろう。

「さっきも言ったけど、この街は亜人の数が多いの。まあ、その分人間と亜人の間での問題は起きやすいんだけどね……」

「そうなんだ。うわ、頭の上に猫の耳が生えてる人も……!」

「リュウ……私の話聞いてる? あんまり騒ぎすぎないで。小競り合いになるかもしれないんだから」

 リアは言いながら自分の口に人差し指を当て、リュウに静かにするよう伝える。それを見ると、直前までそこらを通る人々に輝く目を向けていたリュウも、声の音量を一つ落とす。

「わ、分かったよ。それにしても、本当に分からないことだらけだ。その辺を歩いてる人達も、建物から道まで何もかも……」

「ふぅん、ほんとに一切外に出たことなかったんだ。あ、道を歩くときは一段低い黒いところには入らないようにしてね。あの道は車が通るから」

「くるま……あの、ぐわんぐわん鳴らしながら走ってるヤツね。分かった」

 リアはそれとなく車道側に立って、連れにもしものことがないようにと気を配る。リュウはそんな彼女の配慮など知らず、というより知ることもできず、周囲の目につくもの全てに興味を向けていた。リアは、そうやって隣ではしゃぐリュウの様子を見ると、彼を外に連れ出して正解だとこの時点で確信し、笑みを浮かべた。

 が、彼女のその笑顔はすぐに曇ることになる。それは、同行する友人の純真無垢な無知故に起こった。

「あっ、ねえリア。あれ見てよ」

「ん、どうしたの?」

「ほらあれ……。無料案内所だって。行ってみようよ!」

「……ッ!!?」

 リュウが満面の笑みで指し示したのは、情熱的な桃色の光を帯びる看板だった。内側から光を発して注目を集めるその看板は、通常夜の時間に意識されるものではあったが、真っ昼間の今でも嫌に目につく。リアはその看板を目にすると、思わず顔を赤らめて目を伏せた。その無料案内所という言葉が示す内容を知っていれば当然の反応だろう。しかし、彼女の隣のリュウはその空気を一切察せない。どころか、気遣いのつもりでリアの手を引こうとし始める。

「僕は外のお金を持ってないからリアのお世話になるし……できるだけ安めに済ませたいと思ってるんだ。だから行って……」

「だっ、ダメッ!」

「……え、なんで? 無料だしお得なんじゃ……」

「ダメなものはダメなの! ほらこっち。私が案内するんだから、他のものによそ見してないで私についてきて」

 リアは繋いだ手を強く引き、無料案内所をはじめとしたピンクや紫の装飾が占拠する通りからリュウを遠ざける。説明を求められたところでどう返していいかも分からない彼女は、とりあえず厄介事から離れるべきと判断した。外に慣れておらず、言葉を字面でしか判断できないリュウは、リアの行動にただただ首を傾げるのだった。


※※ ※


 淫猥な通りから足早に離れ、リアが最初に向かった先はファストフード店だ。彼女は自動ドアに興奮して店の入り口で飛び跳ねるリュウの服の裾を引っ張ると、手近な椅子に無理矢理に座らせた。リュウは名残惜しそうに開閉する透明な扉を見ていたが、彼の興味が尽きるまで出入り口に立たせていたら周囲の迷惑になる。リアはリュウに席でジッとしているようにと言いつけると、自分は注文と商品の受け取りに向かった。

「お客様、商品の準備ができました」

「あ、はい。ありがとうございます」

 幸い客の入りは少なく、二人分の食べ物はすぐに出来上がった。リアはトレーに乗せられた二人分のバーガーにポテト、ドリンクを持つと、リュウの待っている席に向かう。自分の事ではなかったが、友人が食事における全くの新体験に出会うというのを前に、リアは少しワクワクしながらテーブルに戻った。

 だが、連れの待っている席に戻った瞬間、リアは思わず顔をしかめた。彼女はトレーを手に持ったまま、目の前の光景に唖然として固まってしまう。

「何……してるの?」

「あ、おかえり。何って……この椅子すごいんだよ!? 里じゃあこういう椅子なんて見たことなかったから珍しくってさぁ~」

 リュウは自分の座っている椅子をクルクルと回転させ、あちらこちらと体を振り回しながらリアを待っていた。床に固定されているタイプの回転椅子で遊ぶのが余程楽しいのか、彼はリアが戻ってきても床を蹴ることをやめず、笑顔で彼女を迎える。周囲の数少ない客や店員達は、リュウの奇抜な格好も相まって、その滑稽な姿を見て薄ら笑う。それを耳にしたリアは、顔を薄ら赤くしてトレーをテーブルに置き、グルグルと回転しているリュウの肩を押さえた。

「あんまりはしゃぎすぎないで。人目についちゃうでしょ?」

「えっ、ああ……ご、ごめん」

「謝らなくても大丈夫、知らないものはしょうがないから。……はい、こっちがリュウの分」

 リアはリュウの向かいに腰を下ろすと、トレーに乗せていたバーガーとドリンクを一つずつ彼の前に差し出す。そしてそのまま、商品と一緒に付属されていたウェットティッシュの袋を開き、リュウに手渡した。

「はい、これで手を拭いてね。ハンバーガーと、そっちのドリンクがリュウの。で、真ん中に広げてるポテトは好きに食べていいよ」

「手で食べるの? 箸とかじゃなくって?」

「うん、こういう食べ物はね。手の汚れが気になるようだったら、そこにある紙ナプキンは使うの自由だから好きに取っちゃっていいよ」

 リアはリュウが未知に惑わされ過ぎないよう、逐一指で示して説明する。リュウは彼女のそれを、コクコクと頭を縦に振りながら聞いていた。

「ドリンクは……そうだな。蓋開けちゃうから、そのまま飲んで」

「何か違う飲み方があったりするの?」

「ん、まあ……この細長いストローっていうので吸って飲むのが普通だけど」

「リアはそうするんだよね。じゃあ僕も同じがいいな」

「え……ふふ、分かった」

 リアはリュウの分も手早くストローを差し、彼に差し出す。汗をかいた紙の容器が残す水滴を紙ナプキンで拭うと、テーブルの上がようやく整った。食卓を軽く見回して問題がないか確認すると、リアはリュウにも分かりやすく両手を合わせる。

「それじゃあ……いただきます」

「い、いただきます」

 リアは食事開始の音頭を取ると、早速テーブル中央に広げたポテトに手を伸ばす。彼女は黄金色の細長いそれを指でつまんで、半分ほどまで口に含んだ。彼女の正面に座るリュウはというと、リアのその所作全てを確認してから、自分も同じように長めのポテトを半分くらいまで食べる。

「……おいしい」

 たった一口目で、リュウは自分が今まで触れたことのない味に舌が喜んでいるのを感じる。ジャガイモを揚げて塩で味付けしただけの、街に暮らす人々にとってはいつでも隣にある味だったが、リュウにとっては新天地だった。彼はその一口目を大事に咀嚼して味わうと、今度は次々にポテトを口の中に放り込み始める。

「これほんと……すごいおいしいね! どれだけでも入る気がするよ!」

「……ちょっと、好きに食べていいとは言ったけど、あんまり食べ過ぎないでよ? 私の分もあるんだから、半分くらいは残しといてね」

「むぐ、んっ……うんふぁかった」

 先ほどまでおっかなびっくりで食事を進めようとしていたのが嘘のように、リュウはポテトを一気に頬張っていた。多量のポテトに圧されている舌で間抜けな言葉を返されると、リアは呆れ笑いで肩を揺らす。

「ほんと、さっきまでいろんなことにビビってたのが嘘みたいだね」

 リアはそう言いながら、今度は紙に包まれたハンバーガーに手を付ける。彼女のそれを見ると、直前までポテトに夢中になっていたリュウはピタリと動きを止め、リアの後に続くかのように自分の分のハンバーガーに目を向けた。彼は先ほどまでと同じようにリアの一挙手一投足を見つつで作業を進める。そして、まるで宝箱を開くかのように手元のハンバーガーの包みを開封し、期待に満ち溢れた輝く目を中のものに向けた。

「……ん、何これ?」

 だが、ハンバーガーを見たリュウの反応は、ポテトを口にした時のそれとは大きく違った。彼は肉とチーズを二枚のパンで挟み込んだ物体を前にすると、訝しげにリアに問う。

「えっと、リア。これはどういう食べ物なの?」

「ん、ああ……見ての通り、お肉とチーズをパンで挟んだものだけど」

「えっと……ちーず、ぱん?」

「……あ~、その辺も分からないのか。えっとね、リュウの里にも伝わる言い方をすると……お米とお米で味が濃いおかずを挟んだ食べ物、ってとこかな? なんか違う気もするけど」

「ほ、ほぉ……なるほど」

 的を射ているのか射ていないのかよく分からない表現だが、知識のないリュウにはそれすらも認識できない。彼は念のため向かいのリアが一口食べたのを確認してから、恐る恐る自分も一口目を口に含んだ。

「はむっ、んぐ……」

「どう、おいしい?」

 リアはハンバーガーを片手にリュウの反応を探る。彼女の視線を受けると、リュウは少しの間口内で未知の料理を味わう。その後、喉を鳴らしてハンバーガーを呑み込んだ彼は、リアの問いに頷きはするものの、依然として疑問の混ざった目をハンバーガーに向けた。

「おいしいよ。おいしいんだけど……この黄色いヤツの味が濃い気がするんだよなぁ。なんだか独特な匂いもするし」

「あ~、もしかして乳製品自体ないのかな? それでいったらパティの牛肉も食べたことなさそうだけど」

「うん、この肉も多分初めて食べる味かな……。鹿とか熊に比べると臭みがなくておいしいよ」

「ふむ……本当にずっと里にこもってたんだね」

 外に来てから初めての食事でここまでのカルチャーショックをリュウに与えると思っていなかったリアは、自分と彼の育ちの違いについて改めて思いを馳せる。そんなリアの思いをよそに、リュウはハンバーガーを口に放り込んでは手元のそれとポテトを見比べ、好奇心と食欲を同時に満たしていた。彼の顔には、玩具を前にした子供のような笑みが常にあった。

「ねえリュウ、こっち見て」

「……む?」

 ハンバーガーを咥えたままのリュウが呼ばれたままに顔を上げると、カシャッという電子音が響く。彼のことを呼んだリアの手には、リュウにとっては見慣れない薄い箱型の機械、携帯が握られていた。リュウはそれを見ると、口の中のものを呑み込んでから問う。

「それって何?」

「携帯ね。で、今のは写真を撮ったの。ほら見て」

「ん? ……これって、もしかしてたった今の僕とリア?」

 リアが差し出した携帯の画面には、間抜けな面をしてハンバーガーを頬張るリュウと、その横で呆れ笑いを浮かべるリアがいた。

「お、おぉ……すごい。これって写真だよね。本当に目の前の光景をそのまま映せるんだ」

「知ってたんだ。なら話は早いね」

 リアは携帯を引っ込めて懐にしまうと、ポテトを一気に三本口に咥えて笑顔を浮かべる。

「今日行くところ、まるっきり全部写真に収めて、この一日を大切な思い出にしよ!」

「……うん!」

 リュウはリアの言葉に勢いよく首を縦に振ると、負けじと残りのハンバーガーを口に詰め込み、親指をビシッと立てるのだった。


※※ ※


 腹ごしらえが終わると、リアはリュウの手を引いて最寄りのゲームセンターに入る。店に入った当初、大音量の店内BGMと、ゲームに向かい合う者達が奏でるガチャガチャという雑音に、リュウは目を白黒させていた。そんな彼を、リアは人の少なめなレトロゲームエリアまで連れてくる。

そして、二人が挑むのは古典的且つシンプルなシューティングゲームだ。ゲーム云々についての説明を雑に済ませたリアは、まずは手本を示そうと筐体に小銭を入れてレバーを握る。

「よぉく見ててね。このゲームは上下にしか動かないヤツだから、リュウにとっても分かりやすいと思う」

「お、おぉ……まあ、頑張って」

 ゲームというものの意義、必要性などをまだあまり理解できていないリュウは、腰を入れて筐体に向かい合うリアに生温かい応援を送る。その熱烈とは言えない声援を受けたリアは、とにもかくにも自分のプレイで全てを理解させようと気合を入れた。

 だが、その素晴らしい志も虚しく、リアは全部で8ステージある内の1ステージ目、しかもボスに辿り着けないまま撃沈してしまう。戦闘機を模したゲームの自機が、敵のビームに当たって無残に散っていく映像が画面に流れた。早々にミスをしてしまったリアは、ガックリと肩を落として弱々しい声を漏らす。

「あ、あう……ぁ。どうして……」

「ふ~ん、そういう感じか。リア、次は僕にもやらせてよ」

 言葉でゲームの説明を軽く受けたリュウは、実際のプレイを目にして意欲が湧いたのか、すぐ脇の同種の筐体の前に立つ。それを見たグロッキー状態のリアは、重い体を持ち上げてゲーム機に小銭を投入する。

「言っておくけど、結構難しいからね。ゲーム初めてのリュウには無理なんじゃないかな」

「どうかな、それはやってみないと……」

 物々しい効果音と共に始まるゲームを前に、リュウは身構える。彼はリアがしていたようにレバーを握り、画面右側からやってくる数々の敵機に攻撃をヒットさせていく。どうやらゲームの操作方法自体はリアから見て学べたようだ。

しかし、プレイスキルが一定のラインを満たしている反面、リュウはプレイ中に妙な挙動を繰り返していた。

「ねえ……その、なんでそんなにそわそわしてるの?」

「え、いや……体が勝手に」

 リュウはレバーを上に倒すたびに前のめりになり、下に倒すたびに頭を仰け反らせていた。ゲームに初めて触れた人特有の、ゲーム内と体の動きが同期してしまうアレだ。彼はプレイ中のゲームには本来存在しない左右への体の振りまで繰り返しながら、それでもプレイを続行する。ゲーム画面だけを見れば、彼のプレイはまともだった。

「お、おっ、お……うぉっ、あぶっ……」

「……は、入り込んでるね」

「そう……だね、ひゅっ……」

 弾幕が自機をかすめるたびに変な声を上げながらも、リュウはゲームを順調に進めていく。そして向かい合うは、1ステージ目のボス。いつの間にかリアよりも先に進んでいた。初プレイどころかゲームにこれまで触れたことのなかったリュウにやすやすと記録を抜かれると、途中まで彼のプレイを面白がっていたリアの顔が曇り始める。

「え、これもしかして……え、もしかするの?」

「よっ、ほっ……これで、よしッ!」

 リアの不安通り、リュウは1ステージ目のボスを倒し、見事初プレイにしてステージクリアを達成する。そして、リュウがレバーから手を離して拳を握るのと呼応するように、画面には金色の称賛の字幕が下りてきた。昔風の手が込んでいない演出だったが、リュウの心はそれを目にして色めき立つ。

「やったよ、リア! 初めてにしては結構うまかったんじゃない?」

「……そうだね」

「え、えと……リア?」

 生まれ持った才能のみで完全に打ち負かされたリアは、ムスッと顔を膨らませてリュウの成功に白い目を向けていた。彼女のその嫉妬と苛立ちが混ざった目線を受けたリュウは、背中に冬の風が通り抜けたように感じ、反射的にゲームの方へと向き直る。

「攻撃ボタン、もう一回押したら次のステージ進めるよ」

「ああ、うん……ありがと」

 明らかに不機嫌そうな表情だったリアだが、最低限のガイドは務める。そんな彼女の冷たい視線を受けながらも、リュウは好奇心と新しいプレイ体験のためにゲームを進めるのだった。

 結局、リュウは初プレイで4ステージのボスまでゲームを進めることに成功した。その後にリアが汚名返上のために何度かゲームのレバーを握るも、彼女は全て1ステージ目で撃沈。ゲームセンターでの写真は、へそを曲げるリアと、その機嫌を直そうとぎこちない笑みを浮かべたリュウが、二人揃って筐体を背にしたものとなった。


※※ ※


 二人はゲームセンターを後にすると、その足で街をぷらぷらと歩き回っていた。リアが自信をもって紹介する名物や、リュウが目を引かれた妙なものなど、二人は様々なものに触れながら街を縦横無尽に渡り歩く。ツブツブのアイスをカップいっぱいにしきつめたディッピンドッツ、盛るという行為をよく知らないまま撮ったプリクラ、二人並んで足をバタバタと動かしたスワンボートなど、二人の記憶を詰める写真はどんどん枚数を増していく。街歩きの最中、ギラギラと輝く光に誘われてリュウがパチンコ店に入りそうになった時はリアが必死に止めたが、他に問題らしい問題は起きなかった。

 時刻は四時を過ぎた頃。冬終わりの時節ということもあり、空が赤みを帯び始めてくる少し早めな黄昏の時間、リュウとリアは並んで街を歩いていた。暖かいオレンジの日差しと共に、心地いい疲労感が二人の体を包む。

「ふわ……ぁ。私、こんな遊び歩いたの初めてかも」

「んぅ……僕にとっては全部が新しいものだったしなぁ。それにしても、本当に外にはなんだってあるんだね。写真だって、こんな簡単に作られてるなんて思いもしなかったよ」

 リュウは懐から三十枚ほどにもなる写真の束を取り出し、宝物でも見るような目をそれらに向けた。それらの写真は、リュウとリアのこの日一日の思い出を写したもの。いい時間になってきた頃合いを見計らって、リアが印刷して渡してくれたのだ。リュウはその一枚一枚を丁寧にめくりながら、大切な記憶の一瞬一瞬を脳裏に思い浮かべる。リアはというと、幸せそうな表情で写真を両手に持つ隣のリュウを見て、彼女も同じように微笑んだ。

「リュウが喜んでくれたならよかったよ」

「……うん、ありがとう。今日は本当に楽しかった」

 リュウは思い出のこもった写真をまとめて懐に仕舞い込み、もう何度目かも分からない外の知識についての質問をリアに投げかける。

「そういえば、この写真って今は僕の手元にあるけど、リアの分はもう一度別で撮らなくてよかったの? 僕の分しかないってことになるんじゃ……」

「大丈夫だよ。データはこっちの携帯の中に入ってるから、私はいつでも見られるの」

「でーたが、残ってる……?」

「ん~そうだな。印鑑とかハンコと似た感じ。この携帯が手元にあれば、印鑑を押した時と同じようにいつでも写真を増やせる。写真自体もいつでも見られるしね」

「へぇ~。すごい便利なものなんだね、それ。見た感じ、別のことも色々できるっぽいし」

 幾度となく繰り返した他愛ない会話を交わしながら、二人は赤い夕陽の差す街を歩いていく。

 こうして、二人がいつもの森の憩い場に戻ろうとしていた、その時だ。突然、リアがピタリと足を止める。リュウは二歩三歩と余計に進んでから連れ合いが立ち止まったことに気付き、彼女の方を振り返る。

「どうしたの?」

「…………」

 リュウの問いに、リアは口を閉ざしたまま答えない。彼女は通りのある一点を見つめたまま、石像のように固まっていた。リアの目はリュウがこれまでに見たことがないほど吊り上がり、眉間には深いしわが刻まれている。体の脇に置かれた手は、固く拳が握られていた。その並々ならぬ様子のリアを目にしたリュウは、自然に彼女の視線を追って同じものを見ようとした。

 二人の歩いていた歩道から車道を挟んだ向こう側。そこには、マスクやフードで顔を隠した三人組が、歩道を通りがかった亜人の少女を全員で押さえつけ、路地裏に引きずり込んでいくのがあった。猫のような耳を持つ少女は悲鳴を上げて助けを求めようとしていたが、口に布を当てられ、そのまま路地裏の暗い影へと溶け込んでいく。

「なっ……!?」

 眼前で行われた明らかな犯罪行為に、リュウは怒りを覚えるより先に驚愕で目を見開いた。里では一度も見たことのなかった人攫いという行為とその悪意を前に、彼は一瞬身を固めてしまう。だが、彼が正気に戻るのは早かった。人攫い達が建物の陰にその姿を消すと、リュウは隣のリアの手を掴んだ。

「助けに行こう!」

 余計な言葉を一切口にせず、リュウは駆け出そうとした。だが、彼はすぐに自分の手に重みを感じ、足を止める。反射的に後ろを振り返ると、その重みの原因はリアだった。

「……リア?」

「リュウ、この街ではああいうことがよく起きるの」

「えっ……」

 リアはリュウが手を引こうとするのには応じず、その場から一歩も踏み出そうとしなかった。彼女は依然として人攫い達が消えた路地裏の方を憎々しげに睨みながら、淡々と語る。

「人間と亜人が一緒に暮らしてる弊害だよ。お互いがよからぬ考えを持ってて、こんなことが起こらない日はないの」

「リア、色々教えてくれるのは嬉しいけど、今はとにかく……!」

「私達とは関係のない、赤の他人だよ。それでも助けるの?」

 問答無用で走り出そうとしたリュウの手を、今度はリアが引き留める。彼女は怒りをその目に携えながらも、それを行動に移そうとはしていなかった。彼女は呼吸を失って深い水底に沈んでいくような、低い諦めの声でリュウの思いを止めようとする。

「この街の誰もが分かってて止めないの。私もそう。みんな、自分に嘘をついて、誤魔化して、自分には関係ないからって見て見ぬふりをしてる。警察でさえそうなの。だから、こんな時に私達が頑張る必要もない。こんな無駄なことをするのはやめよ」

 リアは両目を閉じ、いくつもの何かを捨て去るように深いため息をついた。そして、リュウと繋いだ手を放そうとする。

 しかし、リュウは彼女の手を離さなかった。どころか、彼はより強くその手に力を込めた。

「僕は自分に嘘をつかない。少なくとも、自分で自分を騙すようなことはしたくない」

 繕いの影に覆われていたリュウは、真っ直ぐな目でリアのことを見つめた。オレンジと赤の光が、二人の立つ通りに差し込んでいる。リュウはその日差しを背に受けながら、自分の隠すところのない本心をリアに伝えた。

「リアにも同じようにいてほしいんだ。僕に何度嘘をついたっていいから、自分だけは騙さないでほしい」

「っ……」

 リアの手が震える。恐れのためか、不安のためか、それとも後ろめたさのためか。その一切の背景を知らなかったリュウだが、彼はリアの手を離すことだけは絶対にしなかった。

 雲間からのぞく陽の光が二人を照らす。その間に影が差し込むことはなった。リアはほんの少しだけ自分の中で逡巡の時間を取ると、すぐにリュウの顔を見上げる。そこには、嘘の色も孤独による不安もなかった。

「行こう。今なら後を追える」

「……うん!」

 二人は顔を見合わせて頷き合うと、人攫い達が消えていった路地裏の闇へと駆け出すのだった。


※※ ※


 路地裏に入ったリアは、迷いなくアスファルトの上を駆けて人攫い達の後を追う。既に彼らの後ろ姿を捉えることができないほど時間を空けてしまっていたが、リュウを先導するリアは確信を持って蜘蛛の巣のように四方に伸びる道を進んでいた。街の影を覆うように粗雑に散らばったゴミや異臭を避けながら、二人は走り続ける。

 五分程度経った頃、追跡と先導のために前を走っていたリアが足を止める。リュウも彼女の停止に合わせて立ち止まった。

「あいつらはここに入っていったみたい」

 二人が見上げた先にあったのは、管理の行き届いていない巨大な倉庫だった。長らく人の手に触れていないのか、外壁に施されていただろう塗装はほとんど剥がれ落ち、全体的に錆の茶色に蝕まれていた。夕暮れを過ぎた時間ということもあり、その倉庫の纏う空気は薄暗く、見る者の心に警戒を差し込む様相を醸し出していた。

「ここで間違いないの?」

「うん。ここに来るまでの道にもハッキリ痕跡が残ってたし、入り口にも出入りの形跡がある」

「すごい……よく分かるね。僕も森の中なら獣とか人の足跡を追えるけど、こういう街の中じゃさっぱりだよ」

 件の倉庫までほとんど道を間違えることもなく最短距離を選択したリアに、リュウは尊敬の眼差しを向ける。ただ、リアの反応はそこまでよくはなく、彼女は称賛の言葉を軽く横に流した。

「別に大したことじゃないよ。あいつらが不用心だったってだけ。さ、早く入り口を探そう」

 リアは短く言葉を返すと、口に人差し指を当てて示しながら倉庫の壁まで歩み寄る。リュウもその後に続き、壁に張り付いた。そこから、二人は物音を可能な限り消し去りながら倉庫の四方の捜索を進めていく。敵が薄壁一枚の向こう側にいる状況ですり足を続けるという行為は、まだ子供の二人の心身に深い緊張を与える。

「おい、ちゃんと血液検査はしとけよ。種族はちゃんと割り出しておけ」

 突如、二人が壁に沿って周囲に目を通していると、倉庫の中からくぐもった男の声がする。急なことにリュウは体を大きく震わせるが、先を歩いていたリアがたちすくむ彼の肩に手を置く。彼女はそのままリュウの肩を優しく二度叩き、落ち着くようにと言葉なしで伝える。口を固く閉ざしたまま頷くリアを前にしたリュウは、一度深く息を吸い、それをゆっくりと吐き出すことで最低限の平常心を取り戻す。

「亜人も人間も、残らずだ。種族を誤魔化されてこいつらの売り値が変わるなんて御免だからな。中には思わぬボーナスもあったりするから、雑にやるんじゃねえぞ」

 長く放置されてガタがきているらしい倉庫の薄壁は、中の男の声をカットすることなく筒抜けにしていた。内容を聞くに、人攫い達の目的は人身売買にあるようだ。その言葉を耳にしたリュウの心には、この日ばかりは無縁になるだろうと考えていた怒りがふつふつと湧き上がってくる。彼は無意識に帯に差している刀に震える手を置いていた。

 そんな時だ。倉庫の周囲を探索してから二つ目の角に差し掛かった時、先を歩くリアが左手を上げて足を止めた。彼女はリュウを連れて来た道を少し戻ると、音量を落として声を発する。

「あっちに出入り口がある。けど、見張りが一人。パッと見た感じでは武器を持ってなさそうだったけど、懐に小さい刃物を隠し持ってるかもしれない」

「見張り……。そいつ、強そうだった?」

 リュウは眉を寄せた真面目そうな顔で変なことを聞く。突拍子もないことを問われたリアは、目を丸くしながらも頭をひねって自分なりの感想を伝える。

「た、多分だけど……そうでもなさそう、かな。小太りで、いかにも下っ端って感じ」

「それなら、僕が片付けられるかもしれない」

「……ちょっと待って、まさか戦うつもり?」

 リュウは帯から刀を鞘ごと抜き放ち、修行中に見せたような空気を纏う。このまま見つからないように事を進めるつもりだったリアは、彼のその血気盛んな様子を前に戸惑いを見せた。

「平気なの? 確かに毎日毎日よく稽古なんかしてるなとは思ってたけど……本当に大丈夫?」

「うん。これでも腕には自信があるんだ。里の中では上から三番目に強いって言われてる」

「里で三番目……それがどのくらいか、私にはちょっと想像がつかないんだけど」

 ローカル臭のするよく分からない尺度に頭を抱えたリアは、自分で考えるのを諦めると、判断をリュウに委ねることにして問いを重ねる。

「大人の人を気絶させることってできる?」

「できるよ。里の試合では相手が降参するか気絶するまでやるし、僕は大人も相手してたから」

「……そう。それなら、音を出さずに一人、片付けることはできる?」

「それは……やってみなきゃ分からない。でも多分、できると思う」

 刀を右手に持ったリュウの目は自信に満ち溢れていた。質問自体には現実的な範囲で答えていたが、不安を感じている様子などは微塵もない。彼の目の真っ直ぐさを見たリアは、その嘘偽りのない自信に応じ、頭の中で計画を立ててそれをリュウと共有する。

「それじゃあリュウ、倉庫の入り口にいる見張りをやっつけて。音を出さないよう、静かにね。その最中、もし相手に大きな声や物音を出されたら、倒せたか倒せなかったかに関わらず、私と一緒に遠くに逃げる。もし倉庫の中の連中にバレるような物音を出さずに倒せたなら……私に作戦がある。攫われた人が何人でも助けられるような、秘策がね」

 リュウの自信に呼応するように、リアも言葉一つ一つに確信を持って語る。彼女の提案した要件を頭に入れたリュウは、体をいつでも動かせるように備えて頷いた。

「分かった。きっとうまくやるよ」

「……オーケー。じゃ、信じてるから」

 リアはリュウに向けてウインクをすると、一歩下がって後ろに控える。彼女の期待を受けたリュウは、刀を握る右手に再び力を込め、まずは倉庫の角から相手の様子を探る。リアの言葉通り、倉庫の出入り口前には一人の人間の男が立っていた。人攫いという犯罪行為に携わっているにも関わらず、彼は呑気に欠伸をしている。

 だが、その平穏も長くは続かない。リュウはその男の緊張感のない所作に隙を見出すと、地面を力の限り蹴って角を飛び出した。角から見張りの男まで約15メートル。リュウはその距離を一気に詰めようと、一呼吸も置かずに駆ける。見張りが外敵の存在に気付いたのは、既にリュウが刀を振り上げた後だった。

「なん、おまっ……!?」

 男は咄嗟に身構え、同時に仲間に危険を知らせるために声を張り上げようとした。だが、どちらも同時にやろうとしたのが仇となる。リュウの刀は、見張りの男が態勢を整えるよりずっと早く、彼の無防備な首を打ち据えた。鞘から抜いていないとはいえ、それはれっきとした重みを持つ鈍器。リュウの鋭い腕力を乗せたそれは、鈍い音を立てて男の意識を刈り取った。一瞬にして気を失った男は、膝から先に地面につくということも忘れ、頭から地面に崩れ落ちそうになる。リュウは余計な音が出ないようにそれを支え、すぐに男の体をリアが控えている物陰まで運んだ。

「流石、毎日修行してるだけのことはあるね」

「ふふ、そうでしょ? 今の動きは僕の里に伝わる納め刀の型、その応用だよ」

「はいはい、今はどうでもいいから」

 功を上げて胸を張るリュウの言葉を流し、リアは気絶した男の懐をまさぐる。彼女はそこからナイフや携帯といった役に立ちそうなものを軒並み探し出すと、それを見つける度に己の懐に突っ込んでいった。リュウはリアのその行動を見ると、達成感を忘れて思わず引いてしまう。

「え、リア……流石にそれはちょっと」

「いや別に金目のものを探してるわけじゃないから。作戦に必要なの」

「えぇ、それってどんな策なの? 本当にうまくいく?」

 リュウは訝しげに目を細めてリアを見る。疑いを向けられたリアは、小さく唸り声をあげながら頭の中で軽いシミュレーションを繰り返し、苦笑いを浮かべた。

「五分の賭けってところかな」


※※ ※


 倉庫の中には、最低限の照明だけが点灯する薄暗い空気が漂っていた。壁のあちこちにある細かい穴からは、既に光を失いかけた日差しだけが差し込む。清掃の行き届いていない床には、ハッキリとした明かりがなくとも目に見える埃が絨毯のように広がり、倉庫内に最悪の空気を作り出す一因となっていた。

 中には十人強の人相の悪い男達がたむろしている。そして、彼らが集会場所にしているすぐ傍には、拘束された若い男女が五人寄せ集められていた。人間と亜人の入り混じった彼らは、それぞれ手足を縄で縛られ、声も出せないように布を噛まされている。だが、その感情はクシャクシャに歪んだ顔から一目で理解できる。人攫いと思しき男達は、被害者達が恐怖で震えているのには一切目を向けず、各々の成果を下卑た笑いと共に語り合っていた。

「今月分はうまく集められたな」

「今日の張り込みはダルかったぜ。人通りのないタイミングを見計らってよぉ……」

「でもまあ、結局うまくいったじゃねえか。サツに捕まる奴も出なかったから上々だぜ」

 人攫いの男達は全員、自分達の行為を後ろめたくは思っていないようだった。悪意に満ちた、というより悪意に慣れ過ぎた彼らは、助けを求めて震える被害者達にほとんど興味も向けず、自分達の愉悦に酔い続けるのだった。

 だが、そんな倉庫の淀んだ空気を変えるきっかけが、前触れなく外部から聞こえてくる。

「警部、聞こえますか? 私です、アリーです」

 若い女性の声。そして、警部という言葉。倉庫の中にいた人攫い達の間に一斉に緊張が走る。その中でも頭目らしき顔に傷のある長身の男は、いち早く状況の変化に反応し、部下に小声で迅速に指示を飛ばす。

「声を出させんな、押さえろ」

 頭目の指示に従い、男達は無防備な被害者達の首元に刃物を当て、一切の物音を出させないように抵抗を封じる。そうして中の状況が漏れない環境がつくりだされると、頭目をはじめ、人攫い達、そして被害者達までもが外から聞こえてくる声に神経をとがらせる。倉庫内の全員の意思に応じるように、電話をしているらしき外の人物は再び話し始めた。

「つい先ほど、一人の亜人の少女から妙な通報を受けまして……はい。姉が知らない人達に連れていかれた、という風に言っていたんです。待ち合わせ場所で合流するときに姉が連れていかれる現場を見た……と、その子はそう言っていました」

 外の人物の言葉を聞いた瞬間、頭目は先ほど自慢げに今日の成果を語っていた部下を睨む。目で人を殺すことが可能ならば、その部下は死んでいただろう。しくじりを犯した彼は口を閉ざしたまましきりに頭を下げて謝る。だが、頭目は既に彼から興味を失い、絶えず外から聞こえてくる声に意識を向けていた。

「その子が最後に姉を見たという場所を中心に監視カメラで捜査を進めていたのですが、どうにも怪しい場所を見つけたんです。はい、治安の悪い例の区画にある倉庫なんですが……恐らく警部が以前から追っていた誘拐グループが関わっていると考えられます。刃物を持っていた見張りを一人無力化したのですが……」

 しばらく一定の声色で話していた外の人物の口調に変化が訪れる。電話の相手にまくしたてられているのか、焦りに揺れた言葉を断続的に上げ始めた。

「え、あ、はい……え、危ない? わ、分かりました。すぐに離れます。証拠になりそうなもの……ええ、見張りの携帯を押さえました。……うぇ、五分で応援、近場で待機してろ……はい、分かりました!」

 声はひと際大きくなった後でピタリと止まってしまう。その代わりに、倉庫の外からは一人分の足音が駆け足で離れていくのが聞こえた。それを耳にした人攫い達の一人が、ナイフを手にして立ち上がる。口封じのために離れる前に身柄を押さえようという魂胆だろう。だが、彼の動きを頭目が声を上げて止める。

「やめろ、無駄だ」

「頭目、ですが……」

「間抜けが。ポリ公の携帯は常に位置情報を警察内部に共有してる。今殺したら場所も誤魔化せねえで余計に証拠を残すことになるだろうが」

 頭目の男は部下を諫めると、その場にいる全員に号令をかける。

「お前ら、この場所捨てて俺達は逃げるぞ」

「では、この売り物はどうします?」

「構ってる暇あんのか? 五分で警察が来るんだぞ。チッ……何か妙な電話ではあったが、警戒するに越したことはない」

 頭目は部下に被害者達を放置するように告げ、一刻も早くこの場から離れようと歩き出す。そんな彼の行く先を、部下の一人が遮った。つい先ほど、失態を犯したという一人の男だ。彼は頭目の前に進み出ると、びっしりと汗ばんだ顔を下げる。

「きょ、今日のしきりは俺でした。あの……ほ、本当にすみませんでしたッ!!」

「どけ」

 頭目は自分の前を遮った男の肩を乱雑に押し退け、そのまま出口へと向かう。そして、彼は逃げること以外の一切に意識を向けず、倉庫の錆びた扉を押し開く。

 外はもう夜を迎えていた。空は陽が落ちた直後の青みがかった色に染まっている。だが、そんなものに目を向けている余裕など今の人攫い達にはなかった。彼らは倉庫を飛び出すと、すぐに出入り口の目の前で気を失っている見張りの男を見つける。

「と、頭目……さっきの女の言ってたことは本当みたいです! 見張りがやられてますよ!」

 頭目の後ろに控える部下の一人が弱々しい声を張り上げる。彼の一声は人攫い達全員に不安を波紋のように広げた。

しかし、彼らの先陣を切る頭目はその空気に流されずに膝をつき、地面で気を失っている見張りの状態を冷静に確認する。

「首にアザ、これが気絶の原因か? ポリ公の仕事にしては荒い……やはり何か」

 見張りがやられた原因をすぐに見抜いた頭目だったが、彼の脳裏に揺らめくのはただの疑心。目の前の情報だけではその違和感を確信にまで至らせることができなかった。

「こいつ、携帯を持ってません。やっぱりさっきの話は本当ですよ! 早く逃げましょう!」

「……そうだな」

 頭目と並んで気絶した見張りの体を探っていた部下が、確信に満ちた声を張り上げる。その言葉を受けた頭目は、眉間に深くしわを刻みながらも頷き、人攫い達を先導して倉庫を後にする。夜の闇と路地裏の影が、彼らの足跡を覆い隠した。倉庫に残されたのは、彼らに自由を奪われた被害者達のみだ。彼らは自力で脱出を試みることはできず、ただ塞がった口で声を張り上げることしかできなかった。そうしている内に、人攫い達が消えてから数十秒の時が経過する。陽が落ちた後の倉庫はより一層暗さを増し、残された者達の心を暗雲で包んだ。

 だが、そんな時だ。閉め切られた倉庫の入り口の扉が、前兆なく外から開かれる。夜の青白い光が中に差し込み、被害者達が顔を上げた。彼らが一斉に目を向けた先には、少年と少女が一人ずつ立っている。二人は倉庫内の状況を把握すると、顔を見合わせて頷き合った。

「リュウは外で見張ってて」

「分かった」

 刀を片手に携えるリュウは外で周囲を警戒し、リアは彼を残して倉庫の中に入っていく。どう見ても警察の類ではなさそうな二人の子供の登場に、自由を奪われたままの者達は心の中で首を傾げる。だが、リアは彼らの表情になどは目を向けず、懐からナイフを取り出し、淡々と彼らの手足の拘束を解いていく。

「あ、ありがとう……君は?」

「お礼はいいから、それよりも早く逃げて!」

 一番に解放された亜人の青年がリアに礼を言うが、彼女はそれを遮って声を張った。彼女は他の者達の拘束にも手を伸ばしながら、手短に彼らに状況を伝える。

「大通り、多くの人の目につく場所ならあいつらも手を出せないから、早く!」

「で、でも……警察がもうすぐ来てくれるんじゃ?」

「あれは私のハッタリ。あいつらを一時的にでもここから離れさせるためのね。だから警察は来ない」

「……っ!」

 リアの言葉に、被害者達の表情が一気にこわばる。公権力が実際に動いていないのだとしたら、彼らの安全はまだ全く保障されていないも同然だ。リアは説明を終えると同時に五人全員の縄を切り終え、立ち上がった彼らの背を声で押した。

「あいつらが戻ってくるかもしれない。だから行って!」

 彼女の号令を耳にすると、囚われていた者達は戸惑いを表情に浮かべながら、見えない糸に引っ張られるように倉庫を後にする。途中、外で見張りをしていたリュウとも顔を合わせるが、彼らは礼よりも自分の身の安全を優先し、リアの言葉通り人のいる通りを目指すのだった。

 彼らを目の端で見送ると、リアは引き続き倉庫を捜索する。取りこぼしがいる可能性もあったが、いつ人攫い達が戻ってくるか分からない以上、長い時間をかけるわけにはいかない。彼女は携帯のライト機能を使って倉庫を軽く見回すと、すぐに外で待つリュウのもとに駆け寄った。

「これでもう全員大丈夫。私達も逃げよう」

「うん、何も起こらなくてよかった」

 二人は合流すると互いに何の問題もないことを確認し合い、その後すぐに駆け出して危険地帯を抜けようとする。

 だが、彼らが並んで倉庫を背にしたその時だ。街の暗部がもたらす影が、二人の背に伸びる。

「頭目が言ってた通りじゃねえか」

 倉庫前の路地に、一人の男の声が響き渡った。リュウとリアは自分達以外の声を耳にすると反射的に背後を振り返り、声の主を視界に入れる。二人の後ろには、刃物やバットといった雑多な得物を手に持つ三人の男達がいた。彼らは自分達よりも一回りは小さい二人の少年少女を目にすると、その全員がいやらしい笑みを浮かべる。口角を吊り上げて目元を歪ませるその表情は、リュウとリアの背筋に不快な悪寒を走らせる。

「警察が来るって場所を見張っとけなんて言うから、変になっちまったのかと思ったが……。ハッタリだった時の保険だったわけか。さっきのはお嬢ちゃんの演技か?」

 男達は揃ってリュウとリアににじり寄り、二人の身柄を押さえようと得物を構える。平気で人攫いをするような連中だ。今更子供に暴力を振るうことなどためらいはしないだろう。彼らの目にはそれほどの狂気が宿っていた。

「待って」

 しかし、男達が歩き出したその次の瞬間、リアが声を上げる。彼女は冷静さを保った平坦な口調で言葉を並べつつ、見張りの男から奪った携帯を取り出して人攫い達に示した。

「この携帯、さっきの話を聞いてたなら、誰のものか分かるよね」

「あぁ? ……そこの馬鹿が持ってたやつか」

「そう。警察に渡ったらあなた達に不利になるだろう証拠……これをあなた達に渡してあげる。だから、ここは見逃してくれない?」

 リアは携帯を差し出して男達の足を止める。彼女の提案に、三人は顔を見合わせて各々の判断を擦り合わせようとした。

 だがその次の瞬間、リアは手に持っていたその携帯を、あらん限りの力で上空に投げ飛ばす。携帯は男達の頭上に舞い上がった。この一瞬の間、場にいるリア以外の全員がその携帯に意識を奪われる。

「走って!」

 リアの声が路地に響き渡ると同時に、リュウの手が強く引かれる。急激な状況の変化に判断機能が麻痺していたリュウだが、リアに手を引かれるとすぐに自分がするべきことを思い出し、彼女に続いてこの場を飛び出した。向かうのは、路地の影から離れた大通り。

 二人は倉庫に至るまでの道を今度は逆に走っていた。夜の暗闇に加え、外界の光を遮る背の高い建物群のせいで足元が覚束ない。大小多数のゴミが散乱する路地裏と合わさり、それは二人の体力を余計に削ってくる。先にガタが来たのはリアだ。何度か角を曲がったタイミングから、彼女の息は荒く熱を帯びるようになり、足を前に運ぶ速度も遅くなってくる。それに気付いたリュウは、一瞬だけ振り向いて彼女の腕を握り、暗い路地裏を共に駆けた。

「待ちやがれッ!!」

 背後から男達の怒声が近付いてくる。リアが口八丁でつくりだした数瞬のアドバンテージが、子供と大人という体格差によって詰められ始めていた。男達の声を耳にした二人は、より早く駆けようと必死に体を前に前にと倒す。

「はぁっ……はっ……くっ……!」

 だが、安全圏に入るよりも前に、リアの体に限界が訪れる。リュウは自分の手が引く彼女の腕が重くなるのと同時にそれを感じた。何度もずり落ちそうになるのを握り直してなんとかここまで繋いできたが、これ以上は無茶だ。振り返ると、リアの顔は夜の闇の中でも分かるほど上気して赤くなり、白い首筋には汗が浮かんでいた。彼女の限界を改めて目で見て感じ取ると、リュウは振り返って足を止め、リアを自分の背後に置く。

「はぁッ……な、何してるの!?」

「僕が奴らを片付ける。三人なら、多分一気にかかられても大丈夫だ」

 痛む胸を押さえて声を絞り出したリアに、リュウは背を向けたまま、刀を帯から抜き放って答える。それと同時に、一つ前に曲がった角から男達が現れた。

「先に行って。すぐに追いつく」

 敵を前にすると、リュウは黒い鞘に覆われたままの刀を構え、臨戦態勢を整える。地面にしかと両足をついて構える彼の背には、頑としてここを譲らないという意志が滲み出ていた。リュウのその闘気を前にすると、リアは彼の決意を揺るがしかねない言葉を必死に飲み込み、健闘を祈る言葉を残す。

「……絶対に勝って、無事に追いついて」

 リアはか細い声でそう残すと、足手まといにならないように先を行く。リュウはそれを見送ることはせず、彼女との約束を果たすことに全ての意識を割き、人攫いの三人と向かい合った。二人を追っていた男達は、ここまでの追跡によって乱れた息を整えながらリュウに歩み寄る。

「はぁ……チッ、手間取らせやがって。女の子を先に行かせて、白馬の王子様のつもりか?」

「……白馬の王子様ってなんだ?」

「は……?」

「まあ細かいことはどうでもいい。もう始めてもいいのか?」

 リュウは好奇心や余計な感情の一切を抑え、刀を右手に構える。その姿は、十代半ばの少年とは到底思えない圧を伴っていた。一定に保たれた吐息、微動だにしない体幹とそれに連なる手足、凍て刺す吹雪のような眼光、そのどれもが熟練の剣士を思わせる。子供が脅威を前にして持ち合わせるべき恐れや怯えを一切拭い去ったリュウを前に、男達は腹の奥から声を張り上げてそれぞれの得物をふりかざす。

「ガキが、舐めてんじゃねえぞッ!」

 先頭のナイフを持った男がいち早くリュウに接近し、凶器を構える。だが、彼が得物に力を加えるよりも前に、リュウの刀が男の足を横から打った。致命的とまではいかないものの、態勢を崩すに足る威力のそれを受けた男は、体に乗った勢いのまま前方に倒れそうになる。リュウはそれを見逃さず、刀を持ち直し、鞘に覆われたその先端を男の腹に突き立てた。

「ごっ……ぁ!」

 自分の体の重みとリュウの腕力を刀の先端から受けた男は、口から唾液を漏らしながらその場に倒れ伏す。

 リュウが一人目を倒すと、その後ろの陰から二人目の男がバットを横なぎに振るってくる。躊躇なく振るわれたそれは、耳の奥に響くような空を切る音を立てた。しかし、その一撃がリュウを捉えることはない。彼は自分の頭めがけて向かってくるバットを後ろに引いて避けると、刀の先端を持ち、二人目の男の首に鍔を引っかけてそのまま地面に引きずり下ろす。杖術のように刀を振るって男を転ばせると、リュウはそのまま男の後頭部を踏みつけ、その意識を奪う。

「て、テメェ……何者だ!?」

 先に仕掛けた二人が瞬く間に倒されたのを見て、三人目の男は刃物を前に構えたまま後退する。リュウは完全に腰が引いてしまっている様子の彼も逃がすまいと距離を詰めた。

「お、お前、まさかエルフか?」

「……ん?」

 男の突然の言葉に違和感を覚えたリュウは、何気なく自分の頭に手をやった。どうやら先ほどのやり取りでフードが頭から外れてしまっていたらしい。

だが、こんなことに構っている必要はない。リュウは自分の仕事を最後までやり遂げようと、腰を落として刀を再度構え直す。

「お前らみたいな畜生が……人間様の邪魔をするんじゃねえッ!!」

 最後の一人は、やぶれかぶれになりながら手に持った刃物でリュウを突き刺そうと向かってくる。だが、その直線的な動きでリュウを捉えられるわけもない。彼は冷静に敵の動きを見切り、攻撃を回避した後で隙の生まれた首筋に刀で一撃を加える。もろにリュウの打撃を受けた男は、肉を詰めた袋が地面に落ちるかのように、どしゃりと地面に倒れ伏した。

「……ふぅ。早くリアのところに行こう」

 追手の三人を片付けたリュウは、一つ息をついて刀を帯に戻す。彼は勝利の余韻に浸ることなく、フードをかぶり直しながらリアの向かっていった方へと再び駆け出すのだった。


※※ ※


 夜になって花開く街中で、リアは一人、友の来訪を待っていた。通りの街灯は全て暖色の光を発し、その下で歩く人々の笑顔を照らしている。友人や恋人と連れ合う者もいれば、黒いスーツを身に纏って家へ急ぐ者など、様々な人々が街を満たしていた。大通りに面する華美な光を放つ飲食店に吸い込まれたり、無機質な白の明かりが点灯する地下への入り口に沈んでいったり、彼らの行く先はどれ一つとして一致していなかった。そんな喧騒の中で一人、リアはベンチに座って目の前の路地をジッと見つめている。

 彼女がそうし始めて、おおよそ十分程度が経過した時だ。一寸先も見えない路地の闇の中から、軽い足音が聞こえてくる。リアがその音を耳にして期待感と共に立ち上がると、彼女のそれに応じるように、路地の先の角からリュウが現れた。

「リア!」

「……リュウ」

 リュウは煌びやかな街の中に友人を見つけると、闇の中から飛び出して彼女の方に駆け寄る。彼の顔には、夜の街に負けないくらいの輝かしい笑顔があった。

だが、リュウを迎えるリアの表情には一切の笑みがない。彼女はリュウが自分のもとに戻ってくると、即座に彼の両手を掴み、彼の体の具合を事細かに確認しながら問いを投げる。

「何もされてない? 怪我は? 本当に無事に帰ってきたんだよね?」

「り、リア……大げさだよ。余裕だったくらいさ。君に無茶させるよりも、もう少し早く戦うって選択をとるべきだったと思うくらいだよ。だからそんな……」

「心配した」

 自分の功を早口に自慢するリュウの言葉の隙間で、リアがポツリと呟く。彼女の一言を耳にすると、リュウは続けて言葉を発することができなくなった。その時になってようやく、自分の手を握るリアの手が震えていることに気が付く。

「……大丈夫。僕はここにいるし、絶対に離れない。だから安心して」

 リュウはリアの震える両手を優しく包み込み、そのぬくもりを共有する。冬の過ぎ去った時期、極寒というわけではなかったが、肌寒い空気の中で二人の少年少女がよりどころとするには十分なぬくもりがそこにはあった。

 二人が小さい手を集めてから、しばらく。リアは心の不安を払拭しきったのか、手を離してリュウの顔を見上げる。彼女の顔には、いつもの柔らかい笑みが戻っていた。

「リュウも気のきいたことが言えるようになったんだね」

「まるで気がきかなかった時があったみたいな言い方だね、それ」

「んふふ~……あったよ」

「え」

 リュウは突然の不意打ちに目を丸くして真顔になる。そんな彼の表情の急変を見たリアは、高らかに笑い声を上げながら歩き始めた。リュウは眉を寄せてご機嫌な彼女についていく。

「それにしても、計画がうまくいって本当によかったよ。私もリュウも、失うものがなくて本当に安心した」

「それは……そうだね。最初に君の策を聞いた時は、本当にうまくいくのか半信半疑だったけど。警察ってヤツの声真似、君の声そのまんまだったし」

「別にあれは私の声色を誤魔化す目的じゃないから。あいつらを倉庫から一瞬でも離すことができればそれでよかった。いい感じに嘘を信じるような演出もできたけど、流石に少しは疑われてたね。……それより、私が心配だったのは、説明したルートをリュウが覚えてたかどうかだよ。案内がなくても大丈夫か、本当に不安だった」

「あ、あはは……まあこうして無事に帰ってこられたんだから、全然問題なかったじゃん」

 今回の一件を振り返りながら、リュウとリアは夜の街を二人並んで一緒に歩く。絢爛な街の雰囲気の中にいながら、二人は二人だけの空気を保っていた。彼らの間の絆は、華美な街の中でも、静謐が包む森の中でも、ほんの少しの変化もない。それがどれほどすごいことなのか、他に多くの交流を持っているわけでもない二人は全く気付かなかった。

 星空の中央では、いつの間にか月が輝いている。朝の曇り空が嘘のようだ。リュウとリアの長い一日は、ようやく終わりを迎えようとしている。二人が最後に訪れたのは、周囲の建物に比べて若干古風に見える赤い三角屋根の施設だ。その建物は大きく、横幅は小規模なコンビニの二つ分ほどはあり、窓を見ると三階まであるようだった。

「ここは……?」

「私の家。孤児院だよ。今はほとんど私とお父さんしかいないんだけどね」

「孤児、院……」

 リュウはリアの言葉を耳にして、改めて目の前の建物を見上げる。孤児院、そしてそこでリアが暮らしているということを知ると、彼には眼前のそれが直前までとは違って見えた。彼の顔には意図せず同情と憐れみが浮かぶ。だが、リュウのその険しい表情を見たリアは、深刻な様子など一切なさそうに小さく笑って空気を軽くしようとする。

「私は自分を不幸だなんて思ってないから、そんな顔しなくていいよ。リュウ」

「……でも」

「確かに私にも、自分を不幸な奴だって思う時期はあったけど……少なくとも今は違う。傘を差しだしてくれる人に出会えたし、それに……」

 リアはリュウの手に自分の手を重ね合わせ、その指をなぞった。

「頼りになる、かけがえのない友達にも出会えたからね」

 吹けば崩れてしまいそうな笑みを浮かべたリアは、一瞬だけ触れたリュウからするりと手を離すと、彼に背を向けて孤児院に向かった。そして、彼女は透き通った声でリュウに語り掛ける。

「今日という宝物みたいな一日を、忘れられる日にしよう」

「……どういうこと?」

「大切な人と一緒に新しいものに触れて、楽しんで、少し勇気を持ってみたりして……。そんな日がこれからたくさん続いて、もうどの思い出がいつのものか分からなくなっちゃうまで、ずっと……。んふふ……恥ずかしいから、これ以上は言わせないで」

 振り返ったリアは、いつもの彼女らしくない薄ら赤く染まった顔で照れ笑いを浮かべる。リュウは友人であるはずのリアがそんな顔をしているのを前にして、同じように顔を真っ赤に染めてしまう。

しかし、彼は緊張でプルプルと唇を震わせながらも、言うべきことはちゃんと口にする。

「うっ、うん、僕も同じように思ってる。だから……!」

「……ん?」

「リアがどうしようもなくなって、誰かに助けを求めたいときは……僕を頼ってほしい。絶対に助ける。どんなことがあっても。今日、リアが僕にしてくれたように」

 体の横でギュッと拳を握り締めながら、リュウは自分の思いの全てを口にする。彼の意志の発露はリアの心のずっと奥の方に響き、そこから沸き上がった感情は、その一切が隠されないまま彼女の顔に映し出された。

「ありがとう。本当にうれしい」

 二人が視線を繋ぎ合わせる時間はほんのわずかだった。

「それじゃあ、また明日」

「あ……うん、また明日」

 リアは改めてリュウに背を向けた。暗い夜空に映える金の長い髪が揺れ、彼女の後に続く。リュウはリアの背が孤児院の扉に消えて見えなくなるまで、ずっと、その背を見送るのだった。


※※ ※


 夜を迎えた人々が夕食の後片付けに勤しむような時分。リュウは一人、街を抜けて夜の森を歩いていた。波乱に溢れていながら、それでいて興奮に満ちた一日を堪能した彼は、その熱に完全にのぼせ上っていた。悉くが新体験に感じた街歩き、手に汗握る救出劇、そして何よりそれらの貴重な経験をリアと共にできたというのが、彼の気分を有頂天に舞い上がらせていた。冬終わりの肌寒い風を受けても赤熱したそれは止まらない。リュウは森の中で誰も見ていないのをいいことに、リアを背にして戦ったワンシーンを思い返してポーズを取ったり、口から変な擬音を出しながら刀をブンブンと振るっていた。

 そんな浮かれ切ったリュウが向かっていたのは、あの森の憩い場だ。エルフの里に帰る道中ということもあったが、何よりそこは、今日というかけがえのない一日が始まった場所。最高の形で一日を結ぶためにも、彼の足は自然とそこに向かっていた。

 夜闇に包まれた中でも、森を歩き慣れたリュウは迷うことなくいつもの場所に着実に近づいていた。だが、あともう少しで憩いの場に辿り着くというその直前、彼は森に流れる空気に違和感を覚えて足を止める。

(人の気配……?)

 森に慣れていない者なら一寸先すら見えない闇の中、リュウは自分以外の何者かの気配を感じ取る。興奮が冷めていないある種のゾーン状態の彼は、その鋭敏な感覚で気配の出所すら掴んでしまう。その気配は、あの憩い場から発せられていた。普通なら誰もいないはずの夜の森の中に、自分以外の何者かがいる。

だが、リュウはその事実に一切怯えない。恐れない。楽しすぎる一日のせいでテンションの歯車がおかしくなった彼は、危険の可能性がある場所に寧ろ自分から早足で向かっていく。後先考えないで進んでいく彼は、すぐにいつもの憩い場に辿り着いた。

「……遅かったな、リュウ」

 あの場所にいたのは、シュウだった。彼は半分駆け足でやってきたリュウに奇異なものを見つめる目線を向けながらも、息子の帰りを迎え入れる。

 だが、対するリュウはというと、自分の父親の顔を見た瞬間に一気に顔をしかめた。有頂天の熱は一瞬にして冷やされ、横槍を入れられたかのような気分になった彼は、口をとがらせながらそっぽを向く。

「なんで父さんがここにいるんだよ」

「この場所をリュウに教えたのは俺だろう。父親から教わった場所を逢瀬の場所に選ぶなんて、お前も随分と度胸があるんだな」

「おっ、逢瀬って……ちがっ、そんなんじゃ……ん?」

 リュウは顔を真っ赤に染めた後で、すぐに冷静になる。自分とリアの出会いは、里の者達には一切口外していないはず。リュウはその事実を思い出すと、疑いの目をシュウに向けた。

「まさか……リアのこと、知ってたの?」

「ああ。二週間近く前からな」

「……ほとんど最初からじゃん。どうして言ってくれなかったの?」

「言っても何も変わらないからな。俺が止めたところで、リュウはあの子に会いに行くことを途中でやめたりはしなかっただろ? その顔を見るに、今ならなおさら止まらないだろうな」

「……最悪。本当に最悪だよ」

 まだ興奮と恥ずかしさの火照りが残るリュウの顔を見て、シュウはいやらしく笑う。父の歪んだ目を前に、何もかもを見透かされているように感じたリュウは、顔を手で抑えて悶々としたため息をついた。息子のお手上げのポーズを前に、シュウは喉の奥で笑いながら話を変える。

「なあ、リュウ。久しぶりに、俺と軽く試合でもしないか」

「……は? え、急にどうしたの? なんでいきなり?」

 突拍子もないことを言う父に、リュウは目を丸くして問いを重ねる。突然のこと過ぎて、彼の顔に張り付いていた紅潮もどこかに飛んでいった。そして、提案を受けたリュウが改めてシュウのことを観察すると、彼は珍しく腰に刀を帯びていた。シュウは息子の驚愕に染まった顔を前にしながら、腰の刀に手を置いて口元に笑みを浮かべる。

「息子の刀がどれほど上達したのか、久しぶりに見たくってな。それに、俺自身の腕も落ちていないか確認したい。ここ一年近く、お前とユリの仲が特に悪くなってからというもの……二人共相手してくれなくなったからな。もしかしたら、俺とリュウの実力がひっくり返ってるなんてこともあるかもしれないぞ」

「……はぁ、よく言うよ。棒振りでは誰にも負けたことないくせに」

「ははは! まあいいだろ。俺もリュウも、体を動かすのは嫌いじゃないんだから」

 リュウが白い目を向けてくるのを豪快に笑い飛ばし、シュウは帯から刀を抜いて右手に構える。鳥達も寝静まるような静かな夜なのに、彼だけはさんさんと輝く太陽の下にいるかのようだ。いつになく元気な父の姿を前にしたリュウは、家族の期待を裏切るのも悪いかと思い、同じように刀を構える。

 先に動いたのはリュウだ。彼は地面を蹴って距離を一息で詰めると、容赦なく父親の頭に向かって縦の大振りを食らわせようとする。シュウはそれを避けようとはせず、刀の腹で息子の渾身の一撃を受けた。硬い木と木のぶつかり合う鈍い音が、夜の森に響き渡る。シュウは自分の腕に流れる重い衝撃に思わず目を見開いた。

 しかし、リュウは父親の驚愕に付き合うことはしない。彼は威力を殺された刀を手元に引き戻すと、今度は一気に攻撃のラインを下げ、足元への横薙ぎを繰り出す。コンマ一秒の間もなく重ねられた追撃だったが、それが父に届くことはなかった。シュウは高速で下段に振るわれるリュウの刀を夜の暗闇の中でハッキリと捉え、その加速が最高速度に至る前に足で上から押さえつける。

「っ……!」

 武器を半ば取り上げられたような状況に陥ったリュウだが、彼は即座に次の判断を下す。シュウの足に押さえつけられた己の刀を、そのままあらん限りの力で押し上げたのだ。瞬間、シュウの体をほんの少しの浮力が襲う。彼の体はバランスを取ろうと反射的に一歩後退した。その隙をリュウは見逃さない。

(入るッ!)

 確信と共にリュウは刀を突き出す。並みの人間には目で追うことすらかなわないような速度で、リュウの刀は一方向に打ち出された。

 だが、彼の刀は父に届かない。シュウは態勢を崩している状況にも関わらず、向かってくる攻撃の軌道をいとも簡単に自身の刀で弾いた。一点に力を集中させる刺突は、方向を横にずらされることに弱い。リュウの攻撃は完全に見切られていた。

「まずっ!?」

 避けられることを考慮していなかった一撃が躱されると、リュウは反撃が来ることを予測して咄嗟に防御姿勢を取ろうとする。彼の想定は正しかった。シュウはリュウの渾身の一撃を回避すると、そのまま躊躇いなく隙を晒す息子の腹に蹴りを食らわせる。

「うぐっ……!」

 衝撃が来るのと同時に一瞬呼吸を忘れたリュウは、踏ん張って威力を殺すこともできずに背後の木まで吹っ飛ぶ。正面と背面からの二重のダメージがリュウの意識を刈り取りに来たが、彼はその手前で歯を食いしばって踏みとどまった。地面に引っ張られる体を何とか持ち直すと、リュウは木に背を預けながら前を向いて次の攻撃に備えようとする。

 だが、彼の眼前では既にシュウが刀を構えていた。彼は目いっぱい引いた刀を目にもとまらぬ速さで横一文字に振るう。リュウは迫りくる父の刀を目にした時、一瞬、自分が本当に頭蓋を砕かれて死ぬのではないかと錯覚し、身を急速に縮めた。

しかし結局、シュウの攻撃はリュウの背後の木を強く打つのみだった。彼の刀による打撃はその木に深いひびを入れ、全体を大きく揺らす。根っこに暮らしていた小動物達は皆総出で地震でも起きたのかと地面に顔を出し、あちこちに避難していった。

「……決着だな」

 ここまでのやり取りを経ても平生の呼吸を全く崩さないシュウは、静かに腰の帯に刀を戻す。反面、リュウは父の足元でぐっしょりと汗で濡れた体を震わせていた。

「……く、クソ。いつまで経っても性格悪いまんまだね。父さんは……」

 先の一撃に対する恐怖と緊張が拭い切れていない彼は、手に持った刀を杖のようにして立ち上がろうとする。シュウはそんな息子の腕をむんずと掴み、引き上げた。

「そういうお前の腕は随分と上がったように見える。一つ一つの動きに迷いがない。まあ、その代わり足元が疎かではあるがな」

「……あっそ。ちなみに父さんの方は前より腕が落ちたように見えたよ。一年前なら、今の僕でももっと早くやられてただろうね」

「おい、負けたくせに生意気なこと言うなよ」

「ふん、本当のことだから」

 他愛ない言葉のやり取りを交わしながら、親子は並んで立つ。二人はそのまま、何も言わずとも同じタイミングで里の方へと歩き出した。

「随分とスッキリした顔だな、リュウ。あの子と過ごす時間はそんなに楽しかったか?」

「え、ん……まあ、そうだね」

「……そうか。それで、実際に外に行ってみて……どうだった」

 夜の森の中を、エルフの親子は緩やかに歩く。この暗い森の中には、彼ら二人を焦らせるものなど一つもなかった。人の営む街から離れ、改めて故郷の森の匂いを肺に満たしていたリュウは、一切のしがらみを置き去りにした素顔で父の問いに答える。

「里ではできない色々なことをして、色々なものを食べて……本当に楽しかった。一歩間違えれば僕もリアも危なくなるような冒険もしたけど、それもかけがえのない経験だと思ってる」

「……一応聞くが、怪我はしてないよな? 何より、あの子に怪我はさせてないな?」

「してないし、させるわけないでしょ」

「ふう……よかった。その冒険ってのは具体的に何をしたんだ?」

「悪党に攫われてた人達を助けたんだ。捕まってた人達の中には人間も亜人もいたよ。危ないところだったけど。リアの機転と僕の実力に連中は敵わなかった!」

「……そうか。良いことばかりじゃなかった中で、あの子となんとかうまくやってきたんだな」

 息子の一日限りの冒険譚を、シュウは星空を見上げて過去に思いを馳せながら聞く。自分やユリの考えを形作った辛い過去とは異なる、煌びやかなリュウの体験。それを受け入れるべきか、シュウは迷っていた。自分が受け入れたところで妻はどう思うか。息子と考えを合わせられるのか。刀を持つ手がぶれるように、シュウの心は行く先を見失っていた。

「聞きたいだろうから先に言っておくけど」

 闇に包まれる森を歩いていたシュウの隣で、リュウがふと口を開く。彼の言葉に迷いらしき揺れはなかった。

「僕の考えは朝の時から変わってない。僕たちはやっぱり、外と交流を持つべきだと思う」

 リュウは自分達親子が意識的に話題に挙げなかった件について、あえて自分から触れていく。彼の突然の言葉に不意を突かれたシュウは、思わずその場で立ち止まってしまう。父が足を止めると、息子は二歩三歩先の土を踏みしめてから足を止め、後ろを振り返った。

「でも、僕は僕達エルフが受ける差別を実際に見てきたわけじゃない。外の技術を全部知ったわけでもない。だから、もっと自分の考えに自信が持てるように、時間と機会が欲しいんだ。そうすれば、歩むことをしなくなってしまった母さんを……いつか説得できると思う」

 リュウの目には、夜の闇の中でも褪せることのない決意があった。その決意の固さは、両親に背を向けて逃げ出した時のそれとは全く異質のものだ。リュウの意志の変化を明確に目で感じ取ると、シュウは脱力した笑いを吐き出し、息子の成長に複雑な感情を向ける。

「はは……はぁ。見違えたな、リュウ。今朝とは別人みたいだ」

「僕が自分で変わったんじゃない。リアが、僕に変わるきっかけを与えてくれたんだ」

 リュウは父に胸を張ってそう伝えると、暗闇に包まれる森の中を再び歩き始めた。目の前すら覚束ない闇の中でも、彼は明確な自信を持って一歩一歩を踏みしめていくのだった。

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