殺戮者
2035年2月16日。この日の午前は平穏であった。新潟県立親不知高校は偏差値も高く東京大学を筆頭に多くの国立大学の合格実績を毎年安定的に出す高校である。そんな高校を赤い旅団というテロ集団が標的にした。午後1時23分五限目の授業が始まり少ししたときAK47の銃声を鳴らして学校に突撃。56人の赤い旅団の構成員が県立親不知高校を占領した。彼らは生徒243人と教師27人を人質に立てこもりをした。機動隊は学校の周りを包囲して赤い旅団と交渉をしながら潜入の機会を伺っていた。2日後に機動隊が学校内に潜入を行い戦闘が発生。赤い旅団の構成員のうち23人が死亡、32人を捕らえた。教師は全員解放されて、生徒もほとんど全員が解放された。しかし、一人の女子生徒は最後の一人となったテロリストの人質にとられて、そのテロリストに連れられて消息不明となった。それから2日後の午後6時。最後の赤い旅団のメンバーにして、その最高指導者である赤松球一(本名:赤村顕治)の潜伏先が判明し、彼の最後の砦を包囲した。彼は誘拐した女子生徒の喜多村智子を人質に取り、タクシー車を要求した。赤井はAK47を喜多村に向けながら何を思ったのだろうか・・・
なぜ私はここに立っているのだろうか。なぜ私は機動隊の前で銃を持ち、その銃を若干18にも満たぬ女子高校生に向けているのだろうか。なぜ私は学校を占領したのだろうか。なぜ私は18にも満たぬ少女を誘拐して雪の降る北陸の廃墟にいるのだろうか。あの青空の下はとても美しい。しかし、私はあの青空の下に行くことはできない。この少女を人質に取ったのだから。何人もの人間を殺したのだから。私は警察を、分派を、同志を、そして一般人を殺した。私はそれを革命のための致し方ない犠牲としか考えてこなかった。私はついさっきまでこの革命に大義があると考えていた。しかし、暴力を行使したその瞬間に全ての大義は無意味になる。大義というものは暴力と共にあることはできない。殊に合法なる政府の打倒はあらゆる歴史を持ち出しても許容はされない。
現在は多種多様なテロ組織がある中でそのほとんどが自身の理想を実現することは無い。それは彼らが合法な政府に対して違法な暴力を用いて覆そうとしているからだ。革命は暴力では達成されない。ベトナムの革命が成功したのはゴ=ディン=ジェム親米政権が不当に仏教を弾圧するような違法な政権であり、米国の違法なる暴力で北ベトナムを破壊しようとしたからに他ならない。また、敵が違法な政権であれど、違法な暴力を用いれば革命の大義はすぐに腐敗して、革命は失敗する。フランス革命時のロベスピエールなどはまさにそれに当てはまる。彼ら山岳派は革命を合法的に進めるジロンド派率いる立法議会を8月10日事件で打ち倒し政治的暴力を用いて政治ー即ちテロルーを進めた。彼らは違法に暴力を利用したが故にテルミドール9日のクーデターでロベスピエールは失脚し、処刑された。結局のところ政治的暴力を用いた瞬間にそれはテロルとなり、最終的に失敗する。これは歴史を鑑みて思案した私の結論である。この歴史的な運動を鑑みれば私もまた鎮圧される運命にあるのだろう。
なるほど。だから私はこうして死ぬ運命にあるのだろう。前方の狙撃手のスコープが陽光に反射して見えた。距離は1kmは離れているのかもしれない。遠くの団地の屋上から狙撃手は私を狙っていた。時間がない。私がここに立つ理由を知ることなく死ぬのは嫌だ。もっと私のことを、私自身の行動を見返さなければ。
私は東京の下町の一角で生まれた。2008年10月25日のことだった。父は下請け工場の社長であった。母は父の会社の発注先の工場で勤務していた。家は狭く、工場の機械の音がうるさかったが住めば都というように5歳になると何も感じなくなっていた。工場の音は私にとって当然のものになっていた。父と母はどちらも教養に優れていた。何かを聞けば絶対に答えを言ってくれた。植物が緑色の理由を、空が青い理由を。哲学も歴史も教えてくれた。多くの事は学校ではなく父と母から教わった。そんな博学の父と母。二人は愛し合っていた。プライベートな時間は片時も二人は離れることは無かった。週末にはドライブにも行った。父と母、そして私。この三人は仲良し家族というべきものであった。そんな日常が崩壊したのは私が小学4年生の時だった。
母親の勤務していた工場で爆発事故が起こった。母は爆発事故に巻き込まれて死亡した。爆発事故の原因は杜撰な設備管理にあった。この杜撰な設備管理により設備が不調を起こして爆発した。父は母が死んだことに深く落ち込んだ。父は会社に謝罪と賠償を求めたが、形だけの謝罪と500万程度のお金以外は何もなかった。そして、発注先の会社は父の工場との契約を解消した。父の工場は立ち行かなくなり、遂には父の工場は倒産した。
暫く父は酒におぼれた。私はあの時の父に前のように話そうとしたら殴られた。父が私を殴ったのはあれが初めてだった。その暗黒期の中で父は自身の本棚から『資本論』を読み直した。父は資本論を読むのは初めてではなかった。ただ、前まではただの教養でしかなかった。しかし、今は彼はマルクス主義に強い共感を覚えながら読んでいった。一週間後には父は共産主義者になっていた。父が共産主義者になると父は私にマルクス経済学を教えた。父はマルクス主義を教えてからは何も教えなくなった。語学も、数学も、天文も、地質も、生物も、化学も、物理も。歴史も、法学も、経済学も、哲学も、文学も。そして、人間の持つ要素の中で最も重要で最も尊い愛さえも教えなくなっていた。彼の最後の授業もマルクス経済学だった。それは私が小学六年生の2月の事だった。父は翌日、コロナ禍の中家を出発した。それ以来、家に帰ることは無かった。
一日が経つころに警察から電話がきた。警察官は私に衝撃的なことを言った。父は母が勤めていた会社の本社をAK47で占領し、社長を殺したということを告げた。慌ててニュースを見ると母が勤めていた会社の本社に赤旗が翻っていた。私はニュース映像を見ながら父を心の中で賞賛した。父は母のための復讐と共産主義という理想の実現の為にその身を捧げたのだ。私は父の革命への献身を賞賛した。その刹那、狙撃手の銃声がテレビから聞こえた。しばらく経つと「赤村敬一死亡」と書かれたテロップが映し出された。父の死を私は悼んだ。
私はそれ以来施設で育った。周囲の大人は私を白い目で見た。テロリストの一人息子として私を避け、遠くで嘲笑っていた。私の同級生は私に石を投げつけてきた。マスコミはカメラを向けた。これらによって、父が私に与えたマルクス主義は強固なものになった。もしも彼らが私に対していじめを行わなければ、私はここに立たずに済んだのかもしれない。
私は孤独にマルクスの『資本論』、『共産党宣言』といった名著を読んでいった。私の尊敬する人物は同志赤村敬一とスパルタクス団を率いたローザ・ルクセンブルク女史であった。そして私のジャケットには内ポケットに共産党宣言を忍ばせていた。私は孤独の中で民主主義的共産主義国家を夢想した。私にとってこれは女の裸体よりも美しい理想であり、その実現こそが私のエロースであった。これの樹立の為に私は生きているのだと信じた。
大学生になり、マルクス経済学を専攻した。私は大学に通うたびに私の共産主義思想は強くなっていった。その大学では共産主義の同志が沢山いた。また、もともと共産主義者ではない他の学部の人間にも共産主義を布教した。そして、その大学で共産党に入党し、得た67人の同志と細胞を設立した(共産党は「支部」と言っていたが私は頑なに細胞と言っていた。)。私は細胞を設立した時にこのように演説した。「諸君!私の両親は資本主義体制の中で、資本主義に取りつかれた資本家と警察によって殺された。しかし、私は両親を殺した彼らを憎みはしない。私が憎むのは資本主義体制である。私は彼らを殺しても何の意味もないことを知っている。私たちがしなければならないことはあらゆる方策論を以てして日本を革命することに他ならない。故に立法大学細胞を設立し、日本革命の実現を行うことを誓う。」
私の演説のあと、67人の同志の拍手が部屋中に鳴り響いていたことを今でも覚えている。あの拍手と共に私は完全に生まれ変わった。私は孤独でマルクス経済学を学び、孤独で共産主義世界を夢想するという人生から、数多の同志を率いる共産主義の指導者になったのだ。それ以来、私は青春とこの身とを革命に捧げることになった。
私は立法大学細胞の構成員に多くの事を教えた。下部構造と上部構造の関係。マルクス史観を教え、必ず共産主義社会が実現されるということ。そして、プロレタリア革命の必要性。これらの考えは立法大学細胞の思想の根本を支持するようになった。私たちは『資本論』や『共産党宣言』、『経済学入門』の輪読会を行った。そして、輪読会で読んだ本の思想の研究も行い、立法大学細胞の思想の強化をして、革命の土台作りとしてそれを位置付けた。
また、共産主義的研究ばかりを行っていたわけではなく、共産主義的実践にも力を入れていた。選挙戦の時には選挙区の共産党候補の選挙活動の手伝いをした。同志たちには共産主義革命の民主主義的プロセスの重要性を訴え、同志の士気を高めた。春には細胞の勢力拡大のみならず、革命同志を増やすために共産主義を分かりやすく解説する小冊子を街で配布した。デモなども盛んに参加した。三里塚での闘争においては逮捕者も出たが、それでもめげずに闘争を敢行した。
私が大学4期生になるまでの間は、このように我ら立法大学細胞は政治参加から闘争まで共産主義国家樹立のための行動を行った。しかし、共産党本部は三里塚闘争において共産党の分派とも共闘し、一つの目的の為に軌を一にしたことで「極左冒険主義者と手を組むというありえない行為」として批判された。さらにローザ・ルクセンブルク女史の研究において、ルクセンブルク主義を肯定したということが共産党から非難された。最終的に立法大学細胞のメンバー全員を除名処分に下した。私はここで共産党本部の言うことに従えばいずれ共産主義国家が樹立されると考えていた。共産党が前衛党として革命を主導して、最終的に民主主義的プロセスを経て共産主義国家が実現されると信仰していた。しかし、それはあり得ないことに気付いた。
そもそも、選挙を経て建設された社会主義国家でさえチリのアジェンデ政権以外はその例を知らない。それに、そのアジェンデ政権でさえもアメリカと手を組んだピノチェトの軍事クーデターで失脚し、新自由主義政策が実行された。この先例を鑑みれば選挙により建設される社会主義国家をもし建設出来たとしても、アメリカ帝国主義の魔の手にその選挙結果は簒奪されてしまうであろう。それはチリクーデターを見れば明白である。そうであるならば、軟弱な共産党を離脱して、武装闘争を通じた流血をも厭わぬ暴力革命の下でアメリカ帝国主義の魔の手を日本から徹底的に追い出して日本社会主義国家を、共産主義国家を建設すべきではないかと考えた。
ただ、いきなり暴力革命を遂行しようとしても失敗することは目に見えている。暴力革命はある程度の支持を基盤にして達成しうるものであるからだ。ルクセンブルク女史も暴力革命を主張しつつも議会の重要性も主張していた。故に支持を伸ばすためには民主主義制度を利用するほかなかった。そこで、立法大学細胞を政党として独立させた。党名はロシア革命期のエスエル党からとって社会革命党とした。社会革命党を結党する際、立法大学のアジトに集まり当時の立法大学細胞のメンバーで党規やテーゼを確立した。党規は民主的な党内制度の拡充などが規定された。そして、表のテーゼの方は「基本的に民主主義の下で民主的共産主義国家を設立する」と規定したが、裏のテーゼは「民主主義的プロセスを活用しつつ最終的に暴力革命を経てアメリカ帝国主義の魔の手を日本から叩き出し、民主的共産主義国家の設立を行う」と規定した。党規とテーゼを確立した後に大声で「赤旗の歌」を歌った。その歌声は日本の伽藍にまで届きそうなほどに高く響いていた。
社会革命党を設立後、杉並区長選挙や三鷹市長選挙や八王子市長選挙などの東京都西部の市区長選挙に立候補した。結果は杉並区長選挙以外はすべて敗退した。ここで、杉並区を中心に細胞(社会革命党支部)を設立していった。立法大学細胞は社会革命党脳細胞(社会革命党本部)となり、東京都西部各地にある社会革命党細胞を指導した。また、共産党と違い各細胞の横のつながりも活発に行われあらゆる共産主義思想が芽生え、それらを研究し、議論された。社会革命党では弁証法的な思想の発展が活発に行われた。これは民主的共産主義―私の理想―に近づいているということであった。私はこのような理性的共産主義思想の発展は旧来の中央集権的な権威主義的共産主義組織から脱していくことができると思った。東京都西部でかなりの広がりを見せ、東京都西部では多くの市議会選挙でも社会革命党が圧勝するようになっていった。この辺ではさらに共産主義思想を市民にも啓蒙していき、東京都西部では小さなオフィスや町工場、農場などありとあらゆる所で我が党の細胞が設立された。学生運動を経験した老人層から意識の高い若者層、他にも主婦層などが主な支持層だった。一部の地域では公民会に細胞が設立され、地域一体で社会革命党を支持するところも出てきた。
このように、民主的プロセスによる革命を進めながらも武力革命の準備も怠ることは無かった。社会革命党の選挙活動の裏で革命中核自衛隊や山村赤色工作隊という武力組織を裏で設立した。この組織は後の赤い旅団に直接的に繋がることになる。革命中核自衛隊は都市部で、山村赤色工作隊は農村部で活動をすることになる。革命中核自衛隊は様々な左派の政治運動に参加し、山村赤色工作隊は農村部で共産主義思想の普及にまい進した。しかし、上記二つの組織は武器の調達や製造技術の研究などの本格的な武装蜂起を進めることになった。日曜日にはこの二つの組織は奥多摩の山間部で革命の訓練を欠かすことは無かった。
私は大学を卒業して政治闘争に明け暮れ、いつしか25歳になった。25歳になり遂にあきる野市長選挙で勝利してあきる野市長となった。そして、党勢の方も順調に拡大していった。党員数は3767人にまで伸び、武装組織の方も1062人となった。
この頃からだった。武装革命のプランを立案する必要性に駆られるようになったのは。武装革命という4文字は正義に満ち溢れた甘美なる言葉だ。しかし、結局のところそれはテロに過ぎず、政治上の暴力がいかなる理由があろうとも支持がなされないことは自明であった。この当たり前で至極当然の理を、頭を少し働かせば分かることに気付かなかったがために無駄に時間を使い、無駄な血を流し、無駄な屍を築いたのだろう。しかし、今思えば「民主主義的プロセスを活用しつつ最終的に暴力革命を経てアメリカ帝国主義の魔の手を日本から叩き出し、民主的共産主義国家の設立を行う」という裏のテーゼの下で共産党から分離した時からこれに気付くのは不可能に近かった。この標語ー暴力革命の宣言ーは言わばメタンフェタミンであったのだ。この劇薬の快楽により我々は酔いしれてしまったのだ。この異様な状況の中で誰が言い出せようか。誰が気づけようか。暴力革命が決して成功しないことを。
革命というメタンフェタミンの快楽に酔いしれながら我々は語り合った。どのように革命を起こすかを。どのように日本国におけるアメリカ帝国主義の魔の手を解体しようかを。沖縄での武装蜂起。これは在日米軍によりすぐに解体される。これは自明のことだ。弱小の1大隊も満たせぬ軍団が沖縄にいる在日米軍を追放できないのは小学生でもわかる。というか自衛隊が出動すればすぐに全滅だ。故に証拠を残さずに民間人を狙い、民間人を虐殺するという狂気の行動でのみ全滅をされずに暴力革命を持続させることができるだろう。武装組織である革命中核自衛隊と山村赤色工作隊は統合して「赤い旅団」という組織を作り「ヴ=ポジェムリエ(地下へ)」を標語の下、本格的な暴力革命への準備を開始した。
地下活動の初めに出来る限りの暴力革命に関する資料を集めた。共産党が51年綱領を採択していた時の『球根栽培法』や『新しいビタミン療剤』、反日東アジア武装解放戦線の『腹黒時計』といった文章をネットなどで検索した。この作業は特に難しい。爆弾の作り方や暴力革命の方法論を書いている本であるため普通の本屋ではまず置いていない。しかし、人脈を駆使してそれらを日本全土を隈なく探して、持てる最大の暴力革命の資料を集めることに成功した。その後、多くの資料の内容を現在でも通じるように改良、添削を行った。あの時は幹部を結集して18時間ものあいだ狭い部屋で会議をした。昼食の時でさえも「暴力革命において必要な条項はどれか」ということを話した。殊に最後の1時間は革命の理由の内容にも議論が起こり、そもそも暴力革命に反対して、民主主義的プロセスのみでの共産主義国家の建設を訴える派閥もあった。最後の10分には派閥の長である中江秋水は狭い部屋の中で大演説をした。
「この暴力革命はコストや労力のみならず、多くの尊い命さえも奪ってしまう。60年以上前の学生運動時代には多くの共産党から分かれた多くの分派が発生し、その多くは暴力革命、いやテロリズムを展開した。彼らは過激な教条主義に陥り遂には味方さえも殺すという狂気に包まれた。これは彼らが特別だったわけではない。彼らは『革命』という麻薬に依存してしまい、その禁断症状で狂気に陥り、死人が出るまでの総括を行い、意味のない大量殺戮を行った。彼らの先例を見ればわかるはずだ。『革命』は資本主義体制を殺すのではなく一般人を殺し、遂には我らを殺すのである。共産主義に奉じるものも、そうでないものも全てを殺すのだ。そうなる前に踏みとどまらなくてはならない。『革命』という名の麻薬を摂取していない今ならまだ間に合う。純正なる人間でなくてはならないのだ。我らは日本唯一の純正なる共産主義政党であり、民主主義的な政党でなくてはならない。」
この大演説を終えた後、私は静かにこう言った。
「この政党は民主主義的共産主義を作ろうとはしているが、暴力革命を用いたものでなくてはならない。そうでなければアメリカ帝国主義の魔の手を追い出すことはできない。」
「あなたは根本的な間違いをしている。民主主義的プロセスのみでこれを建国しなければ民主主義的共産主義国家の建設は不可能だ。もし、暴力革命で共産主義国家の建設を行えば多くの反共主義の民意を無視することになる。反共主義は我らの敵とはいえ、彼らを無視するならばその時点で民主主義的共産主義国家の理想に矛盾を孕むこととなる。『アメリカ帝国主義の魔の手を』とあなたはよく叫ぶが、それはあなたが共産主義がこの国でメジャーなイデオロギーであると思いたいという欲求の見せる仮初めの虚構に過ぎない。」大声で中江は私を非難した。彼の支持者の若干7名は拍手を送った。
私はその時どんな顔をしていただろうか。自分は知らず知らずのうちに『革命』という麻薬に手を染めて、遂には依存症になってしまったということに気付いたのだろうか。いやそんなことはない。ただ私は怒りで手を震えさせた。そして、震えた声で中江派の総括を言い渡した。私の派閥で大柄な男が中江派を取り押さえた。彼らはロープで縛られ、口元にはガムテープを貼られた。この状況で暴力革命の方針を一気に決定し、これらの資料を結集し、暴力革命の具体的な計画が書かれた『湖沼におけるクロロフィルα検査法』を作成して、旅団の構成員分の冊数を印刷し始めた。
印刷機の音が部屋中に響く中で中江一派を奥多摩の山に運んだ。抵抗する彼らの服を剥いだ。裸の彼らにシャベルを渡して、穴を掘るように告げた。しかし、命令を下した瞬間に、中江派の女が裸で脱走を行う。しかし、私はロシア経由で得たトカレフを彼女の足に向けて発砲した。彼女はバランスを崩し横転する。私はシャベルを拾い、彼女に近づく。彼女は青ざめながら、自分を殺さんとするシャベルを見た。その瞬間に中江はシャベルを持ち私に向かい突貫をした。私はトカレフで彼の脳天を撃ち抜いた。その後に私は逃亡女の腹部にシャベルを突き刺す。そして、青ざめたまま彼女は死んだ。他の者はこの見世物を見て戦慄し、恐る恐る穴を掘り始めた。
暫くするとちょうどいい大きさの穴ができた。私は彼らを穴の前に立たせた。そして、トカレフに銃弾があるのを確認して、彼らに向かって一人ずつ射殺した。全員が穴に向かって倒れると中江と逃亡女の骸を穴に投げ入れて、灯油をかけた。そして、最後にマッチを穴の中に入れた。すぐさま分派の死骸は燃え始めて灰になった。骨も砕いてから穴を元に戻した。墓標も何も立てずにその場を去り、車で東京の都市部に戻る。
ここで私は大義名分と実態に矛盾があることをこの手で証明をしてしまったのであった。
私はアジトに戻り印刷された『湖沼におけるクロロフィルα検査法』をカバンに詰めて赤い旅団員に配布した。旅団員たちは最初は暴力革命を本当に行うということに衝撃を隠せなかったが、私が共産主義国家の建設のためには暴力革命を行わなければならないということを熱弁して彼らを扇動した。また、党員にも遠回しに暴力革命の実施を伝えていった。暴力革命を実施するということに気付いた党員の反応は様々だった。私の思想に元から気付いていた人は歓声と共に私のもとを訪ねて革命の具体的な計画を聞き、中には赤い旅団への入隊を希望する者もいた。
次に武器の安定的な調達であった。既に幹部と一部の旅団構成員にはすでにトカレフが支給されていたが本格的な革命を前により多くの武器をそろえる必要がある。私はスラブ圏内で同時革命を企むスラブ共産赤色同盟と関係を築いた。この組織の長であるウラジミール・プレハーノフはルクセンブルク女史に大きな影響を受けていたこともあり、赤い旅団と良好な関係を結ぶことに成功した。この組織はシベリアやウクライナ、白ロシア地域に支配地域を持っており、大きな武器工場も持っていた。そこから安定して武器、爆弾、弾薬などを貰えることになった。他にも中東のテロ組織などからも旧式の武器をもらい受けることに成功した。ここまでくればあとは実行だけだ。革命に思考を毒された我々はそのように思ったのだった。
2034年8月2日。夏休みの小学生が親と共に上野動物園に来ていた。パンダを求めて多くの人が山手線と京浜東北線から降りてくる。あの陰惨な事件が起こるとも知らず。上野博物館では印象派展が開催されていた。これを目当てにした青年が彼女を連れて降りてくる。上野駅で待ち合わせるカップル。余暇を持てあます人々よ。そこを早く離れよ。夏の暑さに倒れないようにとお茶を渡す母親。我先にとお目当ての動物園へと駆ける子供たち。そこには多くの人がいた。午前10時25分。天気は快晴。お出かけ日和の夏休み。青春を駆ける青少年。あの日一番ホームで炸裂した爆弾は全てを奪ってしまった。ホームは赤い地で染まり、2両の電車は横転。どちらの車内も多くのけが人や死傷者がでた。上野駅のプラットホームからは子の惨状を前に嗚咽する者や既に息絶えた恋人に話しかける者、我が子の亡骸を抱きかかえる者がいた。駅員は耳を裂くような爆発音を聞きつけてプラットホームに降りてくる。赤い水たまりでいっぱいのプラットホームの異様さに戦慄して足を動かすことさえもできなかった・・・
このテロは成功した。当時、この革命の成功を密かに祝った。多くの人が死亡したことはとても悲しい事であるはずだが、革命に陶酔した私たちはそこで人が死んだことを途轍もなくどうでもいいことのように思えた。中江派の殺害からもう既に取り返しのつかないところに来ていたわけだが、ここで我々はさらにその先へと進んだのであった。人間をやめていた我々はこのテロで命の大切さを完全に忘れたのだった。
この後も八王子、青梅、千葉、武蔵小杉など関東県内各地で爆破テロを実行した。日本は前年に改正された緊急事態条項を発動した。機動隊は街で日夜活動を開始し、市民たちも多くが機動隊に事態の終結を期待した。これにより夜間に工作を行うことは不可能になった。目立つ行動も難しい。ただ、ここまでの行動をとるということはそれなりに不安を抱いたはずだ。故にこれを耐久し続ければ機動隊に失望するはずで、そのタイミングに赤い旅団が名乗り上げれば革命運動に参加するはずだと本気で考えた。そんな夢物語は阿保らしいというのに。
機動隊の活動も迅速であった。緊急事態条項発動から2週間後には武器庫の一つが発見された。これはかなりまずい。こう考えて幹部を結集した。もう本格的な武装蜂起以外に道はない。そう主張したのは党内きっての過激派。徳田亮吉であった。会議は3時間にも及び、最終的に徳田らが主導して1週間後に杉並区で一斉蜂起することになった。
1週間後の11月4日。奇跡的に設置できた爆弾が荻窪駅で爆発した。荻窪駅での爆発を合図にトラックから赤い旅団員23名が駅に突撃し、駅を占拠した。他の部隊は駅周辺部の占領を試み自衛隊と衝突。質でも量でも負ける赤い旅団員であったが、巡回をしていた機動隊は無差別に発砲することもできないために撤退をしていった。結果、63人の旅団員を失いながらも杉並区を占領した。占領地域と外を隔てる鉄条網を設置した。そして、ここに武蔵コミューンを立ち上げた。テレビでは市長を複数名出した社会革命党が起こしたテロ事件としてセンセーショナルに報道された。我々は多くの市民を人質に現政府の解体を要求した。また、我々の支配に反発した地区内の民衆もいたが我々は容赦もなく殺害した。フェンス外に出ようとした市民にも発砲をした。これらの殺害を撮った写真は我々の狂気を伝える一枚として有名になった。
2か月間ものあいだコミューンを占領した。コミューン内は内紛と虐殺の嵐となった。市民は我々に反対するデモを実施した。保守から革新、民族派から共産主義者まで多くの人が一体になってデモ活動を実施。それらを射撃したのは徳田らであった。彼ら党員の中で命を最も軽視していた。彼らは奪った命は革命さえすればチャラになると考えていた。市民の処刑を指導したのも徳田亮吉だった。彼は赤い旅団に反対した者や悪口を言った者を捕らえてロープで窒息死させ、街灯上につるし上げていった。彼はその手で殺害していたが、彼は一切顔を暗くすることは無かった。むしろ革命の為に素晴らしい仕事をしていると処刑人という狂気の役職を誇っていたことは鮮やかに覚えている。
工場の指導をしたのは党内きっての残虐さを持つ紺野義道であった。彼は杉並区内の全ての農園と工場に紺野の部隊を配置して、各農園・工場にノルマを課した。工場の場合は資本家も労働者として働かせ、それを拒否した人間は惨殺をした。またノルマを満たせなかった工場と農園の労働者を鞭で叩き、口答えした労働者は強制連行した後に徳田亮吉に引き渡した。(因みに引き渡された労働者は翌日に街灯上に吊るしあげられていた。頭は悲惨なほどに穴だらけになっていた。)
こんな所業は産業革命期のロンドンの資本家でさえしなかっただろう。ここで共産主義という信念は死亡したのだ。レーニンやスターリンの圧政の時と同じように。人は権力を握るとその権力に溺れ当初の信念は簡単に崩落する。このことを私はその手で経験した。私は権力に溺れ、あれほど憎んでいた資本家よりも下劣な存在になった。ここに私の信念は矛盾を抱え死亡したのだった。
しかし、我々の支配が2ヶ月になった1月4日に機動隊がフェンスを越えて杉並コミューンに侵入。旅団員との戦闘が立て続けに起こったものの、機動隊は旅団員に勝利して区域を解放した。多くが死傷するか捕虜となり無事に荻窪駅に退却できた敗残兵は123名であった。彼らと幹部61名はトラックに乗り、フェンスを突き破り北に逃亡した。因みに紺野義道と徳田亮吉は反コミューン組織の杉並パルチザンによりリンチされ、街灯上に吊るしあげられた。紺野と徳田は石や靴をパルチザンに投げつけられていた。パルチザンは大声で杉並の解放を祝い、街中に掲げられていた赤旗を破り、焼却した。
トラックは都内を走行して発砲する機動隊や制圧のために出動した自衛隊を轢きながら北を目指した。途中の検問所は猛スピードで突破し、自衛隊が銃を構えて待機をしていれば荷台から撃ち返し、川越、鴻巣、舘林、宇都宮といった途中の大きな町には繁華街に発砲をしながら遂に勿来を通過した。勿来を通過すると阿武隈高地へと潜伏しようと西に進路を変更して、山岳地帯に進んだ。すると追手もなくなり、ようやく休息できるようになった。撤退についても13名が死亡。そのうち5名は幹部であった。固く冷えた屍を赤旗に包み火葬をした。火をつけてから大声で赤旗の歌を歌った。そして、葬式を終えるとトラックに乗り戦士の墓を後にした。
阿武隈高地の山岳を転々としながら身分を隠しながら様々な集落に身を置くことにした。ナロードニキ運動を参考に共産主義思想を農民に布教した。彼らの変装のレベルも高く、ほとんどの集落で彼らの身柄がわれることはなく、滞在期間中は農民たちの手伝いをして、その給与の代わりに野菜を貰った。しかし、結局のところ農民は彼らを危険な人たちと考え、長続きはしなかった。
その後、赤い旅団はほとぼりが冷めると新潟県に移動して、新潟市に進入。その後、新潟駅で銃を乱射し、出雲崎、柏崎、を経て遂に高田に着いた。ここで高田出身の北川一輝は「私には土地勘がある」と私に言い、一つの作戦を私に語った。それは関川より西側を防衛ラインに利用できるように高田を丸ごと占領する案であった。これを実行して一時は高田を占領した。しかし、こちらも杉並の時の失敗を繰り返し、多くが逮捕され、残りは57人の敗残兵のみであった。そして装備も雑多なレジスタンスのようなものだ。狭かったトラックの荷台もゆとりが生まれ少しは寝転ぶことはできるようになった。だが、あれほど仲の良かった同胞を失った悲しみは寝転がろうとする私を静止させた。トラックの荷台の暗さと同じぐらいに静まり返った空気の中、一人一人目を見ようとせずにいた。そんな中、生き残った北川は「もう、玉砕覚悟で私の母校を襲撃するしかない」と言った。一同は旅団を壊滅状態に追いやった彼を睨んだ。そんな中、女の旅団員が北川を殴って言った。
「あんたがカッコつけて高田を占領しようとかいったからだめになったんじゃない。というかあんたが私をこんな集団に勧誘したのが間違えだったのよ。」
そう言った彼女は北川からトカレフを奪い、
「私はこの手で何人殺したんだろう。こんな人を殺し続けているのに未だ正義を貫いていると思っているあなた達はいったい何者?あなた達、いや私も含めてだけど、どうして大量虐殺という大罪を犯しても生きていけるの?」
その声はトラックの荷台に響き渡った。私たちは彼女に注目した。そして、彼女は銃口を自分の頭に向けた。引き金を引き、銃声がトラックの荷台に響いた。耳をつんざくような破裂音がしたあとに彼女の方を見ると、彼女は赤い血を流して死んでいた。彼女は恐怖に満ちた顔も安堵の顔もしていなかった。彼女はただ、絶望に打ちひしがれ、後悔をしている顔をしていた。私はそこまで分かった。彼女の死顔からそこまで分かった。しかし、私には分からなかったのだ。彼女が何に後悔しているのかを。
結局、北川の案が採用された。夜に自殺をした女は我々により親不知海岸に投げ捨てられた。女の死体が日本海に入水すると荒波は彼女の死体を鋭い岩肌に押し当てて死体をボロボロにした。その後、後方に聳える山に籠もって一夜を過ごす。
一夜が明けて、目を覚まし起きると決意の朝はもうそこまでやって来た。夜よりも寒く、空は暗く、風は痛いほどに激しかった。時間が経つと陽光は山岳から突き刺し、あたりを明るく、暖かくしていく。あの太陽が空を明るくし、気温を暖かくしたのだ。しかし、私の罪を鑑みるとあの太陽から私は遠く離れたところにある。このことは自明であった。私はあの太陽の下を永遠に歩けない。そのことは自明であるはずなのに未だに革命を成し遂げればあの空の下を自由に歩けると思っていた。
朝飯に高田で強奪した食料から食パンを一枚食べた。私は食べ終えると最終計画の新潟県立親不知高校襲撃作戦を説明した。そして、最後に私は大きな声でこの革命の意義とその目的。そして、この作戦の心意気を語った。
「私は日本に共産主義国家を築くべく、日本において革命のための攻撃を行った。しかし、その多くが失敗した。それは我々に革命的精神が足りなかったからに他ならない。我々が我々の進むべき道筋を信仰してこなかったからに他ならない。故にこの暴力革命による共産主義国家の建設とその理想が正しき平和を打ち立てるということを信じる必要がある。そうすれば今度の作戦もうまくいく。そして、この作戦の意義をしっかり理解してもらうためにもう一度話す。我々が武器を持って立ち上がり、日本全土を駆け巡り、野で里で山で攻勢をし続けてきたのは我々が日本国家を打ち破り、労働者のための共産主義国家の建設を行うためである。その共産主義国家は全世界のどの国よりも自由で、どの国よりも民主的で、どの国よりも平等であるのだ。我々はその理想郷ユートピアのために革命を成し遂げる必要がある。そのために我々は死すまで赤旗を守り抜く必要がある。」
ああなんと威勢のいい言葉だろうか。ああなんとこの理想の汚い現実を包み隠しているのだろうか。「全世界のどの国よりも自由で、どの国よりも民主的で、どの国よりも平等である」などと言っているが、あの杉並コミューンはどうだったか?中江派の粛清はどうだったか?幹部党員の自宅は豪邸ではなかったのか?この政党の全ての行為に自由も民主主義もあったものではない。ここまでその理想は既に息絶えたということは明らかなのに、どうしてそんなことを豪語できるのだろうか。大勢の血で汚れた我々の手で成し得るのは決して桃源郷などではない。我々が成し得るのはディストピアだ。
私はそんな常識も分からずに親不知高校へとトラックと共に侵入した。玄関にトラックをぶつけてドアを潰し、AK47を持った旅団員が荷台から次々と降りて学校へ向かう。旅団員が各教室を占拠している中、私と北川は校長室に入った。私と北川は校長に銃を突き付けて言った。
「我々赤い旅団がこの学校を占拠した。誰か一人でも帰ったらこの学校の人間を全員殺す。しかし、今この学校にいる人間が大人しくすれば何もしない。因みに今お前が俺たちを攻撃すればお前とこの学校の人間を一人殺す。」
「我々は抵抗できない。だが、君たちは何のためにここまで多くの人間を殺戮することができたのだ?どうして君たちはこの学校を襲い、罪のない生徒に恐怖を与えるようなことができるのだ?」校長からは重くて、筋の通った言葉が放たれた。
「それは民主的な共産主義国家の建設の為だ。」
そうして、私は校長に社会革命党の結成理由から暴力革命の意義までを説明した。すると校長は
「そんなものの為に貴様らは人を散々殺しまわり、それを正当なものだとみなしていたのか。貴様らは罪のない一般市民を虐殺し、思想が食い違うものは皆殺しにしてきたのか。そんな狂気に満ちた者が国家を変えられるわけがない。命を大切にしないものが人の上に立てるわけがない。そんなことも分からずに政治に関わろうとすることが愚かしい。例え貴様らの理想が成し得てもそれはすぐに崩落する。それは貴様らが命を粗雑に扱ったからに他ならない。」
と説教をし始めた。私はかっとなってAK47を校長の喉元に突きつける。
「いいか校長。貴様の生殺与奪の権は私が握っている。故に貴様は私を否定してはならない。大事な人質だから今回は見逃してやるが次は無い。あと、今から放送室に連れていけ。抵抗したら生徒とお前を殺す。」私が校長にAK47で脅していると。
「分かった。放送室まで案内しよう。抵抗もしない。しかし、貴様らの革命は成功しないことは伝えておく。」
校長はそう言って立ち上がり、私と北川を放送室まで案内した。無線からの連絡で殆どの教室を制圧することに成功したようだ。職員室ではさすまたで抵抗した教職員もいたらしいが、AK47で殺害したそうだ。放送室に着くと私は全学生に向けてこう言った。
「私は赤い旅団最高指導者の赤松球一である。私はマイクの向こうにいる諸君に告げる。我々、赤い旅団は新潟県立親不知高校を占領した。我々はこの校舎からの逃亡と旅団員に対する攻撃をしない限りは諸君らに暴力を行使することは決してしない。しかし、これらを行った者に対しては厳重に処罰を行う。また、この占領を解放するには以下の要求が達成された場合のみである。一つ目に牢獄に閉じ込められた旅団員の解放。二つ目に現政権による新自由主義的政策及び緊急事態条項の見直し。これらが達成されるまでの間は何人たりともこの校舎を出ることを禁ずる。また、この要求は既にインターネット上に公開されている。食料についてはトラックの荷台にあるインスタント麺を支給する。」
そう言い切ると私は放送室の放送を切った。
「では北川。校長を見張っていろ。私は高3の教室を見てくる。」
そう言って私は階段を上がる。そして、3年A組の教室に入る。中はいきなり高校をテロリストに襲撃されて、占領されるという前代未聞の状況に驚いてパニックになっていた。ある生徒は泣くのをやめず、また別の生徒は途轍もなく大きな声で叫んでいた。僅か10名しかいない教室の声量とは到底思えなかった。担任の先生も銃をもつテロリストを恐れて一向に話すことさえしなかった。そのような中に一人だけ平然としている女子生徒がいた。私はその生徒が妙に気になった。私は学校の外にいる機動隊の行動を教室から見ていたが、その女子生徒が何故か気になっていた。
その後、他の教室も回って、状況確認をしたが、あれほどまでに冷静な人間はいなかった。他の教室もまた教師と生徒の両方は恐ろしい事態に騒いでいた。全ての教室を見た後に私は玄関の上にある職員室の窓から、集結する自衛隊や警察を見る。彼らはメガホンで人質の解放を要求した。私はAK47を自衛隊と警察に向けて発砲し、彼らを一時的に退却させた。暇だったので学校にあったテレビでニュースを見る。すると、全国ニュースでこの攻撃についての報道があった。政府は「テロ行為に対しては如何なる交渉もしない」という見解から、我々の要求を受け入れないと発表した。さらに、「我々はあらゆる手段を検討している。最悪の場合は実弾を使った実力行使も厭わない。」と付け加えた。しかし、私はこの時点で何人もの人間を殺している。さらに言えば、自衛隊との戦闘も経験している。だからか私はこのニュースを聞いて臆することは無かった。むしろ、革命の途上で死ぬ決意をより固めたのであった。他の旅団員もAK47と共に革命の為に死ぬ決意をしていたのであった。私は決意の中で今宵の空を見上げる。すると、おびただしい数の星々の中で月が輝いていた。ただ、その満月は白い輝きをしていなかった。その月は赤かった。赤い月が夜空に輝いていた。私は自動小銃を握りしめてその月を力強く睨んでいた。
翌日、私は高校を飛ぶマスコミのヘリの音で目を覚ました。パタパタと飛ぶそのヘリに対して、私は屋上に行き、大きめの紙に「出ていけ!」と書いた。それでも撮影を続けるためAK47で威嚇射撃をした。あとで知った話になるのだが、その射撃で偶然にもカメラマンに命中し、病院に搬送されたものの死亡したそうだ。
「君たち。今日のニュースを見たかね。今朝君たちがヘリコプターに向けて発砲した銃弾がヘリの中にいた記者に当たって死んだ。君たちは人を殺害したのだ。君たちは殺人をしたという事実に対してどのように思っているのだ?私には到底分からない。ただ、君たちはこれが始めてって訳ではではないだろう?君たちは内ゲバに始まり、上野駅でのテロに始まり、杉並区の占領、高田での武装蜂起。これらによって大勢の人を殺して回ったことを忘れたとは言わせない。君たちはどうしてあれほどまで平然と人を殺せるのか。私にはどうしても分からない。もしかして君たちは人を殺したということに対して何も思わないのか?そうであるならば君たちはもう既に人間でない。」
昼頃にカップ麺を啜っていると警察の長に見える齢六十程の男が拡声器を使って我々に問いかけた。しかし、我々はその言葉を無視した。我々はその言葉で自分を顧みることは無かった。我々はただ、その響き渡る声がいたずらに遠くに行く様を感じるだけだった。なぜ我々はあの警官のスピーチに何も思うことは無かったのだろうか。それは明白だ。我々は「革命」という薬物に手を染めていたために健全な精神が根底から破壊されていたのであった。そして、我々は殺人を日常的に繰り返すあまり、いつしか殺人が普遍的な事象のように感じてしまったのだった。殺人という人間の禁忌を恐れる正常な魂が消えていたのであった。そう。我々は人間をやめている。故に命とか死とかに対して重要な価値を見出さなくなった。我々は大量殺人鬼の思考をするようになった。我々は真っ当な人間とは違う思考回路を持つようになったのだ。それはあらゆる思考に何よりも先に革命というものが先行するようになった。革命の成功とは我々にとって命よりも大事なものであった。故に人を殺しても、それを咎められても何も思わないのだ。
私はカップ麺を食べ終えるとAK47を持ちながら3年A組のクラスに入った。教室の中に入ると生徒たちは一言も話さないように机に目線を落としていた。誰も話そうとしていなかった。担任の教師に至っては泣きそうなのを我慢してでも沈黙を守ろうとしていた。私はしばらくの間教壇に丸椅子を置いて空席の目立つ教室を見下ろす。泣きそうにしている教師に聞くと大学受験などで学校に来ていない生徒が多いようだ。その沈黙に私は飽き飽きし始めて教室を出ようと一人の女子生徒が私に向かってきっぱりと言った。
「あなたはどうして無関係な人を殺したのですか。そして、あなたはどうして人を殺したのにそこまで堂々としていられるのですか。それがどうもよく分かりません。」
私はその少女の一声が警察の長のような齢六十程の男の声よりも芯が通っていて、胸を突き刺すようであった。私はこの異様な空気感の中で、いつ殺されるかも分からないようなこの空間で勇気を振り絞ってまで言った少女の言葉は後方の殺されるリスクが低い中で部下を駒にしながら言う彼の言葉よりも覚悟と正義があった。そして、その覚悟と正義が私の中の人間として残っていた部分を蘇らせた。しかし、私はその人間部分を抑圧して答えた。化け物の私ー私の本性ーは仮初めの答えを言う。
「それは革命のためだ。革命を成し遂げれば共産主義国家の建設が実施されて全人民が救済されるのだ。それは死んだ人間も同じだ。死んだ人間も革命により共産主義国家が建設されて全人民が救済されたら死んだことは意味のある死になる。」
私の仮面はつらつらとそう言う。しかし、革命という薬物を摂取した人間の本性はこの発言にはないのだ。この革命という薬物を摂取した者は基本的に「人を殺す快楽」を永久的に求めさまようのではないだろうか。少なくとも私はそうであった。
「少なくとも死んだ人の中に革命を望まない人もいるだろうにどうしてきっぱりと彼らの死が革命で償えるというのですか。」少女はまたも私に問いかける。私にとって嫌なことを何の惜しげもなく。
私はもう一度教団の上にある丸椅子に腰かける。凛々しい少女の方に目を向けて答えようとする。しかし、私は眼前にいる年下の少女の発言に対する反論ができなかった。私は少し天井を見上げながら考える。少女に対する反論を。彼女の問いかけに対する答えを。そうやって私が悩んでいる中で
「なにも浮かばないのですね。貴方は死んだ人のことを思ってやることさえできていないではありませんか。それなのに貴方はテロの犠牲を無理やり正当化してテロを『革命』の旗印の下で行い続けてきた。その『革命』の大義を考えることもなく。そんな不誠実な運動が成功するはずありません。」と少女は私を断罪した。
私はこの少女の断罪を否定できないままに時間は流れ、居心地が悪くなり、私は遂に教室を出た。恐らく私の人生であそこまで恥ずかしい思いをした日は無かっただろう。そして、目の前で自身のイデオロギーの中核を非難され、断罪されたことは無かった。いや実際には中江秋水君が私を堂々と非難していた。彼の言ったとおりに私は「革命」という麻薬に溺れて、大量に人を殺した。私がもし彼の非難を受け入れて、自己批判を行えば大量虐殺を行わなかったかもしれない。しかし、私は自身のみが正当なる共産主義であり、他の言っていることをすべて修正主義、アナキズム、リバタリアン、新自由主義、右翼、資本主義、第五列、ブルジョワ、プチブル、ルンペンプロレタリアートらの虚言に過ぎないと考え、私の派閥以外の発言は全て間違っているとして一切受け入れてこなかった。その不寛容こそが我々に殺戮を教唆したのかもしれない。
私はむしゃくしゃしたままカップ麺を食べて床に就いた。しかし、寝ようとしてもあの少女の声がした。私の理論を徹底的に否定したあの少女の声がした。私にとって絶対的な正義である「革命」を否定して、さらにはそこに大義さえもないと言い放ったあの言葉が頭の中で再生され続ける。ああなんと苛立たしいことだったろうか。私は結局4時間しか眠れなかった。
苛立たしい中無理やり目を閉じて眠った。そのためか私は悪夢を見た。私はその夢の中で私が殺した人たちに咎められた。死者たちはゾンビのように私を掴んだ。逃げようとしても決して死者たちは手を離すことは無かった。死者たちから放たれる罵倒はとてもとても聞くに堪えないものだった。頭に風穴があいた自害した女が、左胸から血を流し続ける中江派の異端どもが、血だらけの子供たちが、それを抱く悲しき親たちが私に迫っていく。その空間は暗く、されど地平線の先にまで広がっていて、床は血で染まっている。嘆きの声はこの広大で殺風景な空間を覆いつくしていた。
この嘆きの声に苦しくなり、起きるとまだ朝の4時であった。私はもう一度寝ようとするも決して寝付くことは無かった。あの悪夢で私を掴んでいた死者たちの感触が消えなかった。私はあの恐怖を忘れられなかった。私は暁が明けていく空を見た。薄暗い東雲の空も明るくなり、いつしか朝になった。陽光は少しずつ街を照らす。ただ、私はあの町の下を歩けないのだろう。私はふいに窓に手を当てる。だが、私は太陽の温もりを感じることはできなかった。
あの遥か彼方の町々を見ながらカップ麺を食べて、時間を潰していた。カップ麺を食べ終えるとテレビを見て時間をいたずらに浪費した。お昼を越えてそろそろ16時に近くなっていた。外の騒々しさが弱くうなっていることに気付き、校門の方を見る。校門前にいた機動隊の群衆はいつもより妙に数が少ない。奇妙に思いながら時計を見た。時計はそろそろ午後4時をさそうとしていた。そんな時だった。玄関の方から銃声がした。その次は裏口から。銃声は廊下に響き渡り、徐々に教室へと近づいていく。私が唖然としているとメールが送信された。そこには「機動隊が高校の解放作戦を実行」というだけのものだった。私は急いでAK47と銃弾を持って玄関の方に向かった。しかし、機動隊の装備は我ら赤い旅団のものとは格段に違う。雑多な敗残兵如きにしっかりとした組織の装備が敵うはずもない。機動隊は20式小銃で応戦して少しずつ前進し、最終的に高校3年の教室を解放し始めた。私が最奥のA組の教室の前に来た時には、機動隊はA組にまで来ていた。機動隊がA組の教室内に侵入すると担任の教師が多くの学生を避難させた。機動隊は20式小銃を私に向けて私をけん制する。私はこのままでは殺されると思い、逃げ遅れた女子生徒を人質にとり、
「機動隊の諸君。私をここまで追い詰めたのは凄いことだ。そして、私の生殺与奪の権は諸君が握っている。しかし、そこの少女の生殺与奪の権は私が握っている。さらに、諸君が私を殺す時、この少女もまた死ななければならない。私のみをその小銃で撃てるかな。」少女の首を腕から離れないようにしながら、もう片方の手でトカレフの銃口を少女の頭に向けて言う。いつでも私があの少女を殺すことができるようにしながら。
すると、私の背の方に扉があるのに気づいた。ここから逃げ出せるだろうか。力いっぱいに扉を蹴り古びた階段を伝って下に下る。上から待機していた機動隊員をトカレフで撃ち殺し、そこを突破した。たまたま近くにあった、教職員のものであろう自家用車のカギを窓を割って開錠して、人質をその車に乗せて、この高校を発車した。
窓の外では機動隊やマスコミが高校の周囲を覆いつくしていた。国道8号線で市振を越えて、黒部川の扇状地に着くころには追跡を振りほどくのに成功していたようだ。もう少し進もうと国道8号線を西に進み、富山市街にある廃墟ビルに入る。中は電気などがなければ何も見えなかった。ラジオを流すとこの事件のことでマスコミは持ちきりであった。テレビでは高校の解放と少女の誘拐の話題で持ちきりであった。占領下から解放された生徒たちは安心したような声で「明日からの学校が楽しみです」というようなことを言っていた。この高校の解放が祝われつつも、未だに解放されずに凶悪なテロリストに誘拐された人がいるとマスコミは報道した。マスコミはこの少女の無事を祈る旨を言ってニュースを終えた。
私は最後の砦さえも失った。それは私はこの革命に失敗したということである。人質のままになっているあの女子生徒は平然としていた。私の「革命」を否定した時と同じように。初めてこの教室に来た時のように。気味が悪くなって持っていた縄で拘束をした。その刹那の事だった。
「まだテロをし続けるのですか。」
平然と落ち着いたまま、女子生徒は私に聞いてきた。ここまで肝が据わっている人間はそういない。銃を持ったテロリストと一対一で同じ車にいるという恐ろしい状況でここまで冷静でいられる人間などいる訳がない。しかし、この女子生徒は殺されるかもしれない状況で平然とこのようなことを聞いてきたのだ。私はこの女子生徒が尋常ならざる人間であるように思えてきた。
「そうだ。私の命が続く限り、野で里で山で『革命』を行う。」
私は少女の声につられて言った。すると少女は笑い始めた。その笑い方は嘲笑というよりも失笑であった。女子生徒の笑い声はとても大きく、車中に響き渡った。
「『革命』とは大層なものですね。どこまで道理を外すのですか。人を殺して、殺してもまだ足りないのですか。これまで殺戮をしてもまだあらゆる場所で『革命』を行うなんて大それたこと言えますね。」
私はあの否定に対する反論をできないままでいたことを思い出す。私はまだこの「革命」の正当性を持っていないことに、暴力を自身の正義の為に利用することを正当化できていなかったという現実を思い出した。私はこれまでの人生を振り返る。
もし母が死んでいなかったら。もし父が怒りで自身を滅ぼさなければ。もし父の死後も私を「テロリストの息子」ではなく「私」として見ていてくれたら。いや、そうして自分の責任を他人に擦り付けても意味はない。もし革命運動を起こそうとしなければ。もし他人の意見を聞いていれば。もし私に尊大な正義感を持っていなければ。私は大量殺戮をすることは無かったのかもしれない。しかし、私はこの罪を残りの短い人生の中で償い、苦しみながら死なねばならぬのだろうか。
私は逃げてきた現実に、気づきながらも無視しつづけてきた現実に向き合うことにした。ただ、この現実に向き合うことは辛い事。そして、その道の最後に訪れるべきものは苦しみの中で死に絶えること。この大きな壁のように横たわる現実を前に言葉をこぼした。
「私は何をしていたのだろうか。私はどうしてここまで重い罪を犯したんだろうか。私にはこの罪を償えることはできるのだろうか。」
まるで教室にいる少女に語り掛けるように、或いはあの少女に許しをこいねがうように言った。慰めを求める権利など持っていないのに。どれだけ金を積んでも、どれだけ懺悔しても、そして命さえも捧げても、メシアでさえも決して許してはくれないというのに。
「それは神様も、仏様も決して許してくれないような大罪だから私には到底分からない。だけど、この罪の苦しみから逃げるために死ぬなんてことはおぞましい行為によって殺された人たちにとっては到底許さないでしょうね。」そう言って一度少女は呼吸を整えた。そして、こう言った。
「でもあなたが反省しているならあなたの横にいることはできる。だけど反省するのはあなた一人。だけど苦しまずに死ぬのだけは決して許されないと思う。」そう言い終えると窓の外に向かって小さな声で「私はあなたに殺されていないし、殺された人の遺族じゃないから分からないけど。」と付け加えるように言った。ここまでの大量虐殺を犯してしまった私をなぜかあの少女は擁護したのだった。
それからというもの、私は窓の外に映る街並みを見て泣きそうになるのを我慢していた。私はここで学校を占拠していた時の、街並みを見るときに感じていた妙な疎外感の正体をここで知ることになった。その疎外感はあの街が、いや社会全般が私のテロ行為の為に私を排斥したのだ。それは当然のことである。もし、自身が正しいと思っていたとしても根本的な過ちをしてしまった者は決して許されないのである。私はその現実が非現実なもののようにも感じていた。自身が社会全般から排斥されたという想像もできない状況になったことに圧倒された。私を圧倒した非現実を前に無気力になって遂になって私は遠くを虚ろな目で呆然としていた。そして、ウトウトし始めて、遂には眠りに落ちてしまった。
夢の中で私は一人で暗闇の中、永遠と血塗られた手を見ていた。その夢ではテロの末に息絶えた死者たちが体を掴んだり、罵倒することは無かった。ただ一人で永遠に静まっているような暗い空間の中にいた。血を見て私の行為を永久的に後悔し続ける。人の言葉は何も聞こえないし、物音ひとつしない。私が少し小さな声で何かを言えばその声はずっと反響し続ける。私はその孤独の中でただただ、罰を受け続ける。手にしみついた血を見るたびに自身の自我が崩壊するような感覚に陥る。血で塗られた手以外の場所は全てが暗かった。足も、自身の体も見えない。ただ、赤い手だけが見える。手には何も載っていないはずなのに重さを感じる。この重さは何の重さだろうか。自分の殺した命の価値か。それとも、私の罪が生み出した人々の悲しさか。私には分からない。この重さのみを感じているといつの間にか私と暗闇を隔てる壁が無くなっているように感じる。ひたすらに私の肉体が暗闇に溶け出るような感覚に陥る。感情が少しづつ溶け出ていく。ああ、私は思想も、思考も、何も残せずに惨めに一人で消えていくのか。ただ、あそこまでの虐殺をした人間に対する罰としては幾分甘いように思える。虚無の中で自身が虚無になる。そろそろ、周りの暗闇と完全に同化しそうになる。
その刹那の事だった。夢の暗闇は崩壊して、光が差し込む。光が辺り一面を覆いつくすと私は目を覚ました。朝だ。太陽は昇り、空は青くなる。目前にはあの少女がいた。この少女はどうして拘束されているのに、その主犯に穏やかな笑顔を見せているのだろうか。「おはよう」と私は言ってから起き上がり、窓の外を見た。空き家の外にコンビニが一軒ある。手元の金額を考えると暫くは滞在できそうだ。しかし、この顔は知られている。ただ、車内に残っていたサングラスとマスクがあった。これを使えば恐らく私が犯人だと悟られることはないだろう。ひとまず朝ごはんを買わないといけない。
「今から朝飯買いに行くけどどうする。」
私は人質に対して、まるで同居人に話すように言った。少女は「メロンパンとカヌレ買ってきて」とこれまた友達に言うように言ってきた。私はその後コンビニで二人分のお茶と自分用にカレーパンと少女に頼まれたものと加えて昼ご飯用のカップ麺を買った。ここで空き家に戻ろうと思ったが、あの少女の制服は冬服とはいえ冬の北陸のボロイ空き家で過ごすには心もとないように思った。そこで、近くのアパレル店で服を買ってから、拠点に戻った。拠点に戻ると「それじゃ、寒いだろ」と言って少女に服を渡した。少女は「拘束、ほどいてくれないと着れない」とテロリストに対する態度とは思えないほど堂々としながら私に言った。私は拘束をほどいた。少女が服を着替えると少女は「拘束はしないのですか」と聞いてきた。「もう大丈夫かな。もう僕は君に迷惑を掛けられないから。」そう言って少女の部屋から出て、ご飯を食べる。その後はラジオから流れるニュースを聞きながら今後の予定について計画した。そうこうしているうちに時間は昼過ぎになり、腹も減ってきた。カップ麺を食べようとしたが、思えばコンセントがない。ポットもない。一応少女がいるのか見た方がいいだろう。恐らくは逃げたはずだが。そう思い扉を開けると未だに少女はいた。逃げるそぶりも見せずにそこにいた。私は驚いて暫く少女を見つめていた。私は咄嗟に
「どうして逃げなかったんだ?」と言った。私は開いた口を塞ぐことができず、阿呆な顔でも晒していただろう。少女の方は少し考えてから言った。
「なんとなく・・・ですね」
「なんとなく」と「ですね」の間は何かを言おうとしていたのか不自然な空白があった。しかし、私は特に気にすることはなかった。
不審な男と横にいる女子高校生。なにか不釣り合いだ。この不均衡がために不審がられるのではないかと内心ひやひやしながらコンビニに辿り着いた。追加でお茶を二本買い、レジに通した後、イートインスペースで湯を沸かしてカップ麺を食べた。マスクを取ってる間にばれるのではないかと内心ひやひやしていたがなんとか警察に捕まることも、私が先日世間を騒がした大量殺戮魔だと勘繰られることもなかった。
アジトに帰り、また暇を適当につぶす。少女の方は適当に買い与えた本を読んでいる。私は御守りにしていた資本論とローザ・ルクセンブルク女史の本の数々を七輪で燃やした。私はもうこの本は要らないし、この思想も捨て去りたかったのだった。七輪で焼いた後、灰はビル内に撒いて自分の思想の残骸が落ちる様を見つめた。そして、窓の外の往来の中に公安などがいないかを確認しながら一日、日が沈むのを退屈に待っていた。
あの娘はなぜか拠点を脱走することもなくただ本を読んでいた。本は島木健作の『赤蛙』だった。私も本を読んで時間を潰そうと思い外套に帽子を被り、サングラスとマスクをして本屋に行った。あの娘が読んでいた『赤蛙』となんとなく本棚で目立っていたジョルジュ・バタイユの『呪われた部分』を買いアジトに戻る。アジトに戻り短編の 『赤蛙』を読んだ後、『呪われた部分』を読む。全般的に経済を捕らえて、「蕩尽」という概念を基に独自の経済学を立てた本である。新しい思想を。共産主義のオルタナティブを。求めるように私はこの本のページをめくっていく。
いつしか日は暮れてランプの明かりを頼りに本を読み、すべて読み終えたのは9時頃であった。空は黒一色で覆われて、飲み屋街から駅へと向かうサラリーマンも多くなっていった。飯にでも行こうと思い、あの娘のもとに行く。彼女は天井のシミでも数えて退屈しのぎをしていた。なぜ彼女が脱走交番にでも逃げ込まないのかが甚だ疑問ではあったがその疑問を堪えて、彼女に「レストランでも行かないか」と言った。
富山というと田舎のようなイメージを持つが人口は40万とそれ程な規模である。特に駅前ならば特にビル群が林立している。富山駅自体も新幹線と旧北陸本線と地鉄が乗り入れており、北陸有数のターミナル駅である。駅のすぐそばにはショッピングモールもあり、利便性という点で見ればかなり高いのだろう。人も夜になっても飲み会から帰るよいどれ達も多くいた。私は人がそろそろ帰るころであろうかショッピングモールの中に入り、手ごろな価格で食べられるお店を探した。するとちょうど北陸で有名なラーメンチェーンがあった。少女がそのラーメン屋に指をさして「あそこ行きたい」と言ってきた。丁寧語で話していた彼女がいきなりため口で話してきたことに驚きながらもその衝動を堪えて手持ちの金を考慮してその案に乗ることにした。
ラーメンをすすって会計を済ましてショッピングモールを出ると時刻は10時を回っていた。帰途に就く飲んだくれもめっきり減って夜の静かな街を歩いていく。街灯は道と共にずっと一定の間隔をあけて立っている。道は遥か向こうまで続いている。繁華街の方に抜けると多くの店の明かりが消灯していて、人ももう殆どいなかった。雪もパラパラと降り始めて寒さも強くなっていく。夜が近づいていく。少女は遂に寒さに耐えかねて私の手を握り、彼女は自身の手を温めようとしていた。まるで恋人のように私の手を握りながら、ボロボロの廃墟ビルに戻ってきた。
帰ると私は寝ようとすぐさま床に寝転がった。そして、私が目を閉じて寝ようとしたその刹那の事だった。あの少女は私の唇に接吻をした。私は驚いて目を開けて咄嗟に
「なにをしてるんだ!」
と大きな声で少女に言った。少女は私に
「あなたが孤独に見えたから」
それだけを私に告げてもう一度少女は深く私に接吻をした。そのままに彼女は服を脱いでゆく。私は
「ふざけているのか。なぜ服を脱ぐ。」
私は動転しながら少女に言った。少女は
「孤独は辛い。だからあなたのような罪にまみれた人であっても人はみんな誰かと繋がっている。それを感じていてほしい。」と言った。そして、裸のまま彼女は私に接吻した。
私も訳も分からぬまま、つられるように服を脱いで今度は彼女に接吻した。嗚呼あのとろけあうような快楽を。生まれて初めての感覚を。あの少女に体を預け、自身の体をそのつながりの中に捧げるあの感覚を感じていた。この夜半であの少女と強いつながりを持ったのである。運命的な強靭な縁をあの少女と結んだのである。私はあの夜半であの少女と共に快楽のコミュニケーションを果たしたのであった。
あの激しい夜半のあと私とあの少女は深く眠った。夢の中はいつもよりも穏やかだった。懐かしい夢であった。夢の中には父と母がいた。子供のころたくさん聞いた工場の作業音。それが止んで帰宅する父と母。私は読んでいた図鑑を閉じて「おかえり」と父と母に告げる。父と母「ただいま」と言った。父と母が風呂から上がると父は私と一緒に図鑑を見た。ミジンコの細かい違いを父は一生懸命に解説していた。懐かしい思い出だ。父の細かなミジンコの解説を聞いていると台所の方からカレーの匂いが漂っていた。「ご飯できたよー」と母の声が台所から聞こえてくる。「顯治。行くぞ」と父がいう。私は図鑑を閉じて父についていく。椅子に座ると母がカレーを持ってくる。金曜日は母のカレーだった。家族三人で「いただきます」と言ってカレーを自分の皿に盛りつけて食べる。「顕治。お前のカレー多いぞ」と父は言い、「ちょっとくらいいいじゃん」と言う私。母は「今は食べ盛りなんですよ」と父に応える。その後、学校であったことや欲しい本の話をした。食べ終えるとビールを飲んで顔を赤くした父はソファーで横になり、そのままぐっすり眠った。母は「まったく。敬一ったらだらしない。」と言いながら父にブランケットを掛けた。「父さんいびきデカいね」と笑いそうになりながら私が言って母は「いつもはシャキッとしてるのにね」と言いながら小さく笑った。暫く母と談笑していると父は起きて「おはよー。もう朝?」などと寝ぼけたことを言った。母は「まだ9時よ」と父に答えると、父は眠そうな声で「ありがと」と言った。そして寝ぼけた声で「顕治、アイス食べるか?」と聞いてきた。「ミルクバー食べたい」というと父はミルクバーとスイカバーを冷蔵庫から取り出して私にミルクバーを渡してからスイカバーを食べる。口にはアイス冷たい感覚と共に甘さが口いっぱいに広がった。アイスを食べて歯磨きをして、父と母は「おやすみ」と言って寝室へ行く。私はウトウトして遂に眠った。
こんな穏やかな夢から覚めたのは廃屋の中だった。寂しい廃屋の中。未だに私についてくる少女が横で大声で私に向かって何か「起きろ」と言っている様だった。だんだん意識がはっきりしていくと突然大声で「いいかげん起きなさい!もう朝だよ」と途轍もない声が耳の中に響き渡った。私は耳をふさいで右に左に体を回転させてから少女に「声を出しすぎだ」と大きな声で言った。
コンビニでゆで卵とペットボトルのお茶を二本買い、廃ビルに戻り、少女と共に質素な朝飯を食べる。卵の殻をどれだけ綺麗に向けるのかとかそんなことを話しながら時間が過ぎていく。昼になる直前、私は遂に少女に聞いた。
「昨日、なんで俺を誘ったんだ」
と再度言った。どうしてもあの夜半の答えでは納得できなかった。もっと何かあるのではないか。そう思ってしまう。それとも体を重ねることに意味を見出そうとするのは大事な青春の全てを革命という甘美な麻薬の為に使いつくしてしまった私の童貞的根性からでしかないのだろうか。体の交わりは結局普遍的なものに過ぎないのだろうか。そんなことを発言した後に思案してしまうのは私が童貞だったからなのかもしれない。そして、彼女も
「夜に言ったじゃん」
とだけしか言わなかった。実際に他人の為に体を捧げることはできるのだろうか。昨日付いた床の血の汚れを見ながら思った。朝食を終えると夕刻まで少女と共に話をした。今までの来歴、趣味、昔に見た景色。少女がこれらを語るのを聞いて自分はどこまで矮小な世界で生きてきたのか。どこまで歪んだ色眼鏡で世界を見てきたが。そんなことを突き付けられたように感じたのであった。
夕刻の6時頃だっただろうか。外が騒がしくなり、ふと窓から外を見ると機動隊が遂に私のアジトを発見し、周囲を取り囲んでいた。機動隊の装備はかなり強固であった。ここからの逃走は不可能だ。前回はまるで神のような第三者が私に導きを与えたかのような都合の良さがあったが、そんなもの今は存在しない。神は「ここで死ね」と仰せ給うているようだ。私は持っているトカレフに弾を入れた。すると少女はどこからか来て、トカレフを奪い、
「今から死のうとしたんでしょ」と言った。
「ああ、そうだ。私は死なないといかん。私が死んでこそ狂乱オルギアは全滅して、この事件は収束することになる。それは偏に私が罪のない人間を次々に殺したからだ。」
「そうだね。だけど、今しようとしてることは殉死でしょ。自殺をすることで少しだけでも世間からの評価を維持しようとしている。そんなことあなたには許されない。あなたは最後まで道を外れたまま死なないといけない。」少女はそこで一息つけて
「私を人質にしてまた逃げようとしなさい。」そう少女は私に言ったのだった。
そうか。私は死のうとしているのだ。少女は私を正当な方法で死なせようとしているのだ。私は冷酷非道な殺人鬼として、卑劣な犯罪者として死ななければならない。私は逃げも隠れもしない。ここで私は狙撃手に殺されるのだ。ここから先の自分を想像することもできない。ただ、私の罪は無間地獄に落ちようとも私の罪と釣り合うことは無い。この罪を人間は贖うことは最早できないのだろう。あの空を。恒久的に届かないあの大空を眺めた。最後の娑婆の景色もこれで終わりだ。私は多くの罪と共に地の底へと落ちていくのだ。地獄で何が待っているのかなぞ想像もつかない。あと数分で訪れる死の感覚も分からない。この正義に酔った狂気の殺戮の終点を私は見ながら天を仰ぐ。夕焼けが落ちていく。目前の狙撃手に目をやった。狙撃手は引き金に手をやる。スコープを覗き、遂にその引き金を引いた。
狙撃手の金村雄一が引き金を引くとL96A1から銃弾が飛び出た。その弾は真っ直ぐに飛んでいき、男の頭を貫通した。男の血は頭の前後から飛び出ていく。男は倒れて、赤松球一と名乗った男、赤村顕治はその人生に幕を下ろした。喜多村は目前で人の死を見た。返り血を浴び、服は赤い血で汚れた。呆然としたまま喜多村は夕日を眺めた。金村は赤松を射殺し、上司に仕事の終了を伝えた。L96A1のライフルをしまいながら、夕日を眺めた。15年前の初仕事のことを思い出していた。今回の対象の父親はこの”初仕事”で殺した男の息子だった。金村はこの因縁をどのように思いながら夕日を見ていたのだろうか。