lieinvention
森の中に、魔法使いが『噓屋』を開いている。嘘を本当にしてくれる店らしい。淡雪の中、僕は鹿の子斑の小屋を訪れた。
「確かに受け取ったよ」
黒いローブをまとった魔法使いの男は、依頼料の先払いを命じてきた。学生の僕にとっては信じられないくらい高い依頼料だけど、これから叶えてもらうことに比べたら安いのかもしれない。
「では、その通知を貸してくれ」
僕はかしこまった封筒を差し出す。差出人は野村音楽大学。中身の紙には僕の名前と、ピアノ科一般入試・不合格の文字。僕が依頼したのは、幼なじみに言った「絶対この大学に合格するよ」を本当にすること。魔法使いはそれをさらっと確認すると、僕を疑うようにじっと顔を見つめてきた。
「なぜ落ちた?」
魔法使いは通知書を机に置く。
「実技の点が足りなくて……」
「そうか。まあ、実技は運の面もあるだろうが。――ウオハモ・ナムカ」
魔法使いが不思議な呪文を唱えると、彼の背後に、彼のローブと同じ色のアップライトピアノが現れた。そして、僕の両手首に青い光の粒の輪がかかる。ホタルイカみたいで、きれいだけど気味が悪い。
「君の体に少し細工をした。体力的な問題なく、丸一日でも一週間徹夜してでも練習を続けることができるはずだ」
「え? どういう……」
「実態とかけ離れすぎた願いは魔法でも叶えられない。今から練習して、せめて補欠合格並みの実力にはなってもらう。この通知書と大学の帳簿を改ざんするのはその後だ」
魔法使いに脅されるように、僕はピアノの前に座らされる。
「試験で弾いた曲を全部今から弾いてみなさい」
試験以来弾いていない曲たちをどぎまぎしながら弾いた。どれも人に聴かせていい状態ではなくて、ピアノの黒塗りに映る魔法使いの表情が恐ろしい。「汚い音を聴かせるな!」とナイフを投げてきそうな顔だ。僕の心につられて指が、そして音まで震えだす。魔法使いの顔はもっと険しくなる。この世の終わりだ……
「試験が終わったからといって全く弾かなくなるのは良くない。せっかく練習したんだから、腕を保つ努力をしなさい」
「はい、すみません……」
「それは本題でないが、そうだな……特にバッハがひどい。何も分かっていないだろう」
返す言葉もない。バッハは苦手だ。
魔法使いはぱっと、楽譜を出した。バッハの〝インベンション〟で、僕が今弾いた〝平均律〟より初心者向けの曲だ。
「まずはこれから始めてみろ」
僕は畏縮して、いや、これ以上のことができないから、機械的に楽譜をなぞっていく。バッハの曲は平均律でもインベンションでも、違う旋律が重なっているのが難しい。右手である旋律を弾きながら、左手で違う旋律を弾いて、あるいはそれに加えて第三の旋律を右手と左手でお手玉のように分担して弾くこともある。けど僕にそんな器用な意識配分はできない。そういうめんどくさい伴奏だと思ってやり過ごすしか……
「諦めるな」
魔法使いが横から叱咤した。
「左手に全く意識がいっていない。君の左手が何を奏でようとしているのかくらい把握しろ」
魔法使いはピアノ講師のようなことを言う。そういえばなんで魔法使いがピアノなんか……
「安心しろ。素人感覚で言っているんじゃない。魔法は音楽、音楽は魔法だ。君の演奏次第で同じ場所にいる人間を不快にも夢見心地にもできる。魔法と同じだろう? だから魔法使いは音楽の練習もする」
――「いっちゃんの手、魔法みたい! 本当に天使が歌ってるみたい!」
魔法使いの言葉から、小さい頃の幼なじみの言葉が思い出される。ブルクミュラーの簡単な曲に幼なじみは驚いて喜んでくれて、もっと彼の笑顔が見たいと思った。
僕は合格に焦りすぎて、こんなに大事なきっかけを、僕の音楽を忘れてしまっていた。
「……分かる気がします」
「なら、今自分が何を弾いていて、人に何を聴かせているのか、責任を持ちなさい」
幼なじみが今の音を聴いたら何て言うかな。多分、「すごいね」とは言ってくれる。でもそれじゃだめだ。もっと楽しんでほしい。もっと感動してほしい。そうだ、そのために大学に行くんだ!
もう一度鍵盤に指を置く。楽譜を見る。左手の旋律を心の中で歌いながら、右手の旋律も聴きながら。繰り返すうちに、月と星が語り合っているような世界が聴こえた。本物のインベンションが、好きだった音楽が叶い始めた。
初回のピアノの授業、僕はピアノの前に座る。
今日の課題にされていた曲はバッハではない。けど、意識の仕方は同じ。魔法使いの言った通り、聴く人のことを思って、自分の演奏に責任を持つこと。この曲はモーツァルトのソナタだから、軽やかな気持ちで聴いてほしい。幼なじみと追いかけた蝶みたいな……
「蝶が舞っているような演奏でしたね。モーツァルトらしさがあって私は好きですよ」
先生の笑顔で、魔法使いに十日間閉じ込められてやった練習が、正しかったと認められた気がした。嘘だった合格と僕の音楽が叶っていた。